【書籍化】残影の英雄 ~俺が死んだらみんな曇るとか聞いてない~ 作:龍川芥/タツガワアクタ
嬉しいのでそのうち挿絵でも……まあ、上手く描けたらの話ですが。
ともかくご期待に応えられるよう頑張らせて頂きますので、どうか本作にお付き合いいただければ。
数日の観察を経て、私は『彼』についてそれなりの知見を得た。
ひとつ。彼の肉体には致命的な損傷の跡があり、それが瘴気によって修復されている。
されている、というのは言葉通りで、それは現在進行形なのだ。千切れた肉を半固体化した瘴気によって癒着させ、彼は命を長らえている。そう、まるで魔塵の肉で体を継ぎ接ぎにしたように。あるいはその皮膚の下を流れる血液すら、瘴気に取って代わられているのではないだろうか。
ふたつ。彼にはふたつの人格があり、時たまそれが切り替わる。
二重人格、というのだろう。普段は人間味を感じさせない、大人しいけれど底知れない人格。そして稀に『影宮エイト』らしき人格が顔を覗かせては、抑え込まれるように元に戻る。まるでジキル博士とハイド氏だね……尤も彼の場合、今やほとんど『ハイド氏』の方に乗っ取られてしまったようだけれど。
以上の二点から、私は彼について仮説を立てた。
彼は――『影宮エイト』は恐らく、瘴気によって操られている。
異能で、という訳ではない……いいや、広義の意味ではそう言えるのかもしれないけれど。
――
つまり魔塵とは、固体・気体の特性を状況によって加減できるのだ。
そんな魔塵がもしも、気体としての特性を強めたまま人体に侵入したら――。
人格や記憶・心などは、所詮脳で発生する電気信号の
そして酸素などの気体は、血液を通して全身に――当然脳にも運ばれている。
ならば瘴気そのものである魔塵にとって、他生物を操ることは決して不可能ではないのかもしれない……。
ああ、分かっているとも。
この仮説が正しければ、彼の正体は『魔塵』となる。
けれどそれが何だと言うのか。
彼が人を操る魔塵なら……私はそんな彼さえも操り、舞台の上で踊らせてみせよう。
何故なら私は『灰かぶり』。
ガラスの靴ひとつで王子の心と国を手に入れ、疎ましい継母たちを処刑させた女。
全てを操る素敵な魔法は、零時を過ぎてもこの手の中に――。
――夢から醒める、というのはこういうことを言うのだろう。
それは、東凶湾スラムから沖に出る最中の船上でのこと。
わたし――
それほどの衝撃。
この数ヶ月間の記憶が、粉々に砕け散るような。
ともすればわたしという人格を基底から破壊しかねない程の衝撃を、その何の変哲もない声は持っていたのだ。
「漆門寺、ナナ」
「かげ、みや――?」
それで。
たったそれだけで、
その姿を確かに実像として捉えて、目端は知らず涙さえ流した。
ああ、確かにわたしは夢を見ていた。
醒めない悪夢に囚われていた。
だけど現れたそのひとは、いつもわたしを悪夢の檻から救い出してくれるから。
ああ、よかった――そこに、いたんだ。
ふらり、『かげみや』の方へ近づく。
誘蛾灯に吸い寄せられる虫のような、本能的な動きだった。
足元がふわふわする。
全部の感覚がやけに遠い。
思考なんて一切が地平の彼方へ吹き飛んでいて。
ただあの温もりを得るために、わたしの体は勝手に動く。
触れたい。
触れてほしい。
声を聞きたい。
飢えにも似た感覚のまま、わたしはかげみやに手を伸ばして。
あ、れ?
なんで腕を振り上げ、て。
「――〈
かげみやの声と一緒に。
黒い刃が、降って。
「え――」
ぐらん、と船が大きく揺れた。
足を滑らせ、甲板に転ぶ。
けれど、転んだ痛みなどまるで感じなかった。
じわり。
腕を掠めた黒い刃の痛みだけが、毒みたいにわたしの全身を蝕んでいたから。
「かげ、みや……?」
見上げる顔は、逆光で影になっているせいか、まるで表情が読み取れない。
何が起こったか分からなかった。
脳が理解を拒んでいた。
ずきずきと痛む腕の傷。
黒い刀を持ったかげみや。
そのふたつがまるで結びつかない。いや、結びつくことを拒否している。
だから、かげみやがもう一度黒刃を振り上げても、わたしは何の反応もできず、に――。
「うーん、これはちょっと予想外。てっきり天使様が無抵抗になるのは、君にエイトくんの片鱗を見てからだと思ったんだけれど……まあ、最近はめっきり
――誰か、かげみやじゃないひとの声がして。
ぴたり、掲げられた刃が止まった。
けれどわたしは動けない。わたしの思考は動かない。
「……これは、『恋』って表現もあながち誇張じゃなかったかな? 恋は盲目っていうし、ね。まあなんにせよ、『影宮エイト』クン。悪いけど、少し手加減してくれない? 折角苦労して整えた大舞台、もう少しじっくりと愉しませて欲しいな」
ぼーっ、と。船が海を進む音が聞こえる。そのせいなのか、女のひとの声はまるで頭に入ってこなくて。
ああ、けれど……その言葉を受けて、かげみやの口が動いたのだけは分かった。
かげみやの声が、言う。
「手加減? つまり、」
――あれ?
わたしの視界が高速でブレた。
がん、がんと連続して甲板に体をぶつけて、気付けば体は横倒しになっていた。
なんで、なにが。
「……っ、ぁ――?」
口から勝手に空気が出て、すると激しくお腹が痛んで。
それでやっと、自分が腹部を蹴られたのだと理解した。
「? ?」
なんで、だれが。
痛い。苦しい。
にも拘わらず……いいやだからこそなのか、わたしの目は勝手にかげみやを探して。
そして見た。
片足を持ち上げたまま立っている、そんなかげみやの姿を。
「こうか?」
「うんうん、イイ感じ♪」
「そうか。ではこのまま続けよう」
なにが、なにを。
倒れたまま起き上がれもせず痛みを堪えるだけのわたしに、かつり、かげみやが近付いて来る。
「ぁ。かげ、み――」
がん。
大きな音がして、わたしはまた船の上を転がった。
痛い。
今度は頭が、側頭部が痛い。
ぬるり、傷を押さえた手につく血の感触。
ぼたぼた、赤い血が甲板に落ちる。
「ぅ……」
蹴ら、れたんだ。
また。
そう理解するけれど、でも、そんなのおかしくて。
だって、わたしにそんなことができる場所には、かげみやしかいないのに……。
どん。
「あ、っ」
ごろんごろん、また甲板を転がる。
蹴られて、蹴られたボールみたいに、ごろん。
お腹を貫く激痛に呻いて。
でも、そんなの全部どうだってよかった。
だって、わたしは見てしまったから。
今わたしのことを蹴ったのは、それは間違い、なく――。
かげみや、が。
かげみや、に?
黒い目が。
片眼が潰れたそのひとが、転がるわたしをじっと見ていて。
「そうだ。ただ殴るだけじゃ
「分かった」
かげみやの、声。
かげみやがわたしの右の手首を掴んで持ち上げ、肘の辺りに足をかける。
ああ、そうされている間にも、わたしの頭の中は似たような疑問符でいっぱいだった。
どうして?
どうしてかげみやがわたしをたたくの?
どうしてあのひとのいうことをきいてるの?
どうして? どうして? どうして?
わたしだよ、ナナ子だよ。
わからないの? わかってるけど、わかったうえで?
それは、どうして?
かげみや、どうして?
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして――
みしり。
「ぃ――」
みしり、腕から出た音が体中に響いた。
かげみやがわたしの右腕を踏む足に力を込めたのだ。
痛い。怖い。
本能が「これ以上は危険だ」と警鐘を鳴らしている。
でも、だから……危険だから、どうすればいいの?
分からない、
どこかの歯車が外れてしまったみたいに、わたしの思考は空回りするだけ。
「うふ。少し予想とは違ったけど……大枠は合っているし、これはこれで」
みしみしと大事なものが軋む異音の隙間から。
かげみやと誰かの声が聞こえる。
「これでいいのか? オマエの言う通りにしたが。これが協力ということか?」
「ああ、素晴らしいとも! さあ漆門寺ナナちゃん、君は今危機に瀕している。なのにどうして異能を、悪名高い〈
みしり。
女のひとの声にそう言われて、わたしは初めて
――地獄の門を、開く。
そんなの考えもしなかった。
だってそんなことをしてしまえば、かげみやが死んでしまうから。
死ぬ。
なんにも言わないカタマリになる。
それはだめだ。絶対だめだ。
それだけは、絶対に――。
「使えないんだろう? 君は『影宮エイト』が好きだから! 無垢なる愚かさで恋をしてしまったから! 絶対無敵の異能があるのに、されるがままになるしかない!」
ぎちり。腕の芯から鳴ってはいけない音がして。
恐ろしい予感が総身を包んで。
それで。
それでも、わたしは――。
――ぼきんっ。
「っ、ぅあ――……!?」
乾いた音がして、右腕に落ちた雷が肩を通って脳まで焼いた。
他の痛みを押しのけて叫ぶような、滅茶苦茶な痛み。
折れた、折られた……そう刻みこむように理解させてくる、痛み。
分かっては、いた。
腕が折れることを。かげみやに、折られることを。
けれど抵抗できなかったのは、地獄の門を出せなかったのは……かげみやはそんなことしない、なんて、そう信じていたからなのか。
いいや、違う。
だってわたしは、腕を折られた今だって……。
「ぁ――」
がしり、首を掴んで持ち上げられる。
目の前にはかげみやの顔。彼がどんな表情をしているのか、この姿勢ではよく見えない。
首を、片手で絞められる。
首が苦しい、息ができない、けれど。
わたしの体は動かなかった。抵抗する気力もなくて、折れた腕もそうでない腕も、だらんだらんと揺れていた。
ぎりぎりと、首にかげみやの指が喰い込んでいく。
痛い。苦しい。無抵抗のままでは、今度こそ取り返しのつかないことになると分かる。
そして……地獄の門を開けば、このガランドウの目でかげみやを見れば、それを覆せることも。
分かってしまう。頭を
その未来の先に、かげみやの死体が転がっていることも――。
だから、わたしは。
「……ご、ごめん、なさい」
地獄の門は、出せなかった。
代わりに、必死に許しを乞うた。
今何が起こってるとか、他にどうすればいいかとか、馬鹿なわたしにはまるで分からなくて。
でも、きっと悪いのはわたし、だから。
かげみやがわたしを叩くのは、わたしが何かをしてしまったのだと思ったから。
「かげ、みや……おこ、らせちゃって、ごめん、なさい」
そうだ、わたしがかげみやを怒らせたんだ。
わたしはいつも怒らせる。どんなひとにも嫌われる。それがついに、かげみやにも。
甘えて、間違えて、苛々させて……だからわたしは叩かれているんだ。
なら、わたしが悪いんだから……謝ら、ないと。
「い、いつも、わがまま、いって、ごめんなさい……っ」
ああ、思い返せばなんてひどい。
わたしはわたしの為に、かげみやにずっと迷惑をかけていた。
「わたしのわがまま、で……あぶないところに、つれて、いって、ごめんなさい」
かげみやは危ないのが嫌なのに。
わたしは自分のために、かげみやに危険な任務に付いて来てもらった。
「て、てを、つないでほしくて……う、うそをついて、ごめん、なさい」
あれもかげみやは嫌だったのかな。きっとそうだよ、最低のわたし。
ああ、ずっと言われていたのに。
余計なことはするなと。言われた事だけしていればいいと。
それなのに、その言いつけを破ったから……きっと、わたし、は。
「わ、わたし……かげみやのやくに、たて、なくて」
死ぬ。
そうだ。
かげみやは、死ぬのが嫌だって言ってたのに。
「あ、あの、とき……た、たすけれ、なくて……ごめん、なさい……っ」
あの時だって、わたしのせいで、かげみやは。
ああ、右目がわたしと同じになってて。右の腕もどこにもなくて。
それで……わたしのせいで、死んだのだ。
わたしが馬鹿で、愚図で、駄目で……殺す事しかできないのに、弱くて役立たずだったから。
だから、かげみやは――。
「ごめんなさい、ごめんなさい……ごめん、なさい……」
ぼろぼろと、涙が零れた。
それがかげみやの手を汚してしまったから、「泣いてごめんなさい」と言った。
悪いのはわたしなのに、泣いてしまってごめんなさい、と。
でも、首に食い込む指の力は変わらなくて。
だから、かげみやはそれだけ怒っているんだから、もっとごめんなさい、しな、いと……。
遠い。
遠くから、声が聴こえる。
「ふふ、あは――! これだよこれ! 私が夢想した
「言っていることがよく分からないが。『灰かぶり』、なぜこの『漆門寺ナナ』は抵抗しない? 影宮エイトの記憶によると、この固体は強力な力を持っている筈だが。推測するに、これが人間の協力の力なのか? あるいは人間の心の力なのか?」
「心――ふふ、その通りだよ。人の心は、人を強くも弱くもする。その複雑さが、見ていてとても面白いんだ」
ぎりぎり、首はずっと苦しいまま。
くらくら、視界はどんどんと黒に呑まれて。
「さあ、後は君の判断に任せるよ、天使を射止めた王子様。君が思う、君が導く最高のフィナーレを私に見せて欲しい! それさえも私の
「ふむ。よく分からない、が」
ぱっ、と手が離れた。
ごとんという音がした。
わたしは甲板の上に転がって、ごほごほと汚く咳き込んだ。
まだ、死んでいない。
でも起き上がれない。視界はほとんど真っ暗で、体に力が入らなくて、起き上がる気になんてなれなくて。
そうやって倒れたままのわたしを見て。
かげみやが、言う。
「この『漆門寺ナナ』は脅威だと、オレが得た感情が言っている。オマエの『協力』で無抵抗になっている今、確実に殺しておこう」
「漆門寺ナナ」――。
殺すという言葉より、そっちの方が辛かった。
自分が殺されるのだろうということくらいは、流石にもう分かっていたからだろうか。
けれど。
けれど、ああ、せめて最期の最後くらいは……。
「ナナ子」と。
そう呼んで欲しかった。
あの特別な名前で、あなたに呼んで欲しかった。
ぽろり、涙がまた溢れてくる。
ほんとうに、なんて馬鹿なんだろう。
そんなわたしの我儘が、かげみやを怒らせてしまったのかもしれないのに。
「〈
冷たく低い声が降る。
わたしが好きだった……ううん、今も好きなままの、声。
確かにぶっきらぼうだけど、どこか柔らかい気がして……。
あれ、なのにどうして。
今聴こえたのは……鉄のように冷たいだけの、声。
そこに、わたしが好きになった柔らかさはどこにもなくて。
そのことに今更気が付いて。
それでようやく、その可能性に思い至った。
「――ぁ。かげみや、じゃ、ないの……?」
ほんの僅かな、疑念。
いいや、そんなことはありえない。
だってこの『かげみや』は、声も、匂いも、瘴気も、紛れもなく彼本人で。
わたしがそれを間違えるはずなくて。
けれどわたしはこの人を、『かげみや』ではないかもしれないと感じてしまっている。
だって。
だって、かげみやは。
『――ナナ子』
わたしが
命令を伝えてくるだけの『
わたしを恐れ、人殺しと詰るみんなとは違うひと。
ああ、きっとわたしは信じたかった。
この世で誰に憎まれようと……かげみやだけは、わたしを傷つけることはない、なんて。
彼に折られた腕を押さえて、痛みと窒息で霞んだ視界で、まだそんな夢を見ていたのだ。
だから、刃を振り翳したかげみやを前に。
今際の際に零れた言葉は、「ごめんなさい」や「ゆるして」ではなく。
「
涙と血と泥に塗れながら、わたしは最後の力で手を伸ばす。
「たすけ、て。かげ、みや――」
なんて――なんて滑稽な、話。
最期に助けを求めたひとが、今わたしを殺そうとしているのと同じひとだなんて。
そんな
こんな甘い夢が、現実になるなどありえないのに――。
そうして、黒い刃は振り下ろされ。
重いものを断つ鈍い音が、船上の舞台に響き渡った。