【書籍化】残影の英雄 ~俺が死んだらみんな曇るとか聞いてない~ 作:龍川芥/タツガワアクタ
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『7番。余計なことをしてはいけないよ』
ずっと、その言葉が頭を回っていた。
『余計なことを考えてはいけない。自分で判断してはいけない。そうすれば間違いはないんだから』
声の主は「学園長」と呼ばれるひと。わたしの新しいおとうさま。
そんなひとの言葉が――何度も繰り返された忠告が、わたしの耳の中に住み着いて。
『おまえは命令を聞くだけでいいんだよ。言われた通り、我々が指定した相手を殺せばいい』
優しい声ではなかったと思う。柔らかい口調だったけど、心の籠っていない伽藍洞の声。
それは家畜に柵から出るなと教え込むような。道具に語り掛けるような。
明確にあちらとこちらを隔てる、声。
『それがおまえの存在意義なんだよ、7番。おまえは国家の為、我々の為、悪を排除し続けなければならないんだ。だって……そうでないおまえなど、存在してはいけないのだから』
けれど、それがわたしの全てだった。
その番号が、命令が、わたしに与えられる唯一のものだったから。
空っぽのわたしは、それを失いたくなかったから。
――地獄の門を、この手で開けて。
そうやってわたしは生きてきた。
言われるがまま、死体の山を積み重ね。
死体の山を踏み越えて、命じられるまま次へ、次へ。
罪には罰を。
生には死を。
悪なる者には地獄の裁きを。
ああ、死よ、死よ。
罪あるものに死よあれかし――それがあなたの望みならば。
ああ、罪よ、罪よ。
たとえあなたに穢されようとも、わたしはあなたに死を送ろう。
わたしは死神、死の御使い。
罪人の命を啜ってこそ、わたしはわたしを赦される。
そうやって、血に塗れて生きて……。
気付いたときには、わたしの周りには誰も居なかった。
恐れられ、忌まれ、嫌われ、憎まれ、睨まれ、侮られ、蔑まれ、遠ざけられ、無視され。
あらゆる手段で、わたしは否定されていた。
ちゃんと言われた通りにしていたはずなのに。
どうして。
苦しいよ。寂しいよ。
誰か、わたしに触れて――。
ああ、きっとそれがいけないのだ。余計なことを考えたから駄目なのだ。
もっと、言われた通りに殺して。
もっと、それ以外を全て棄てて。
わたしはもっと、許されるわたしにならなければ。
どんどんと孤立は深まっているけれど。どんどんと溝は幅を広げているけれど。
誰もわたしが此処に居ることを赦さないけれど。
それはまだ足りないからだ。だからもっと、もっと余分を棄てて――。
ああ。
だから、こんな風に。
「……っ」
どたん、と。廊下で転んだって、何も思ってはいけない。置いておいた白杖を失くしたとか、それが誰かの仕業かもだとか、そんなことは考えてはいけない。
痛くても、胸が苦しくても、
わたしは言われたことだけをやればいいんだから。そうじゃないわたしは、存在してちゃいけないんだから……。
けれどその日は疲れていたのか。それとも打ち所が悪かったのか。
胸の辺りが酷く痛んで、中々うまく立ち上がれなくて……。
「――おい。大丈夫か?」
そんな、声が。
声が降った。
低い――鈍く光る綺麗な鋼を連想させる、そんな男のひとの声だった。
いつもと違ったのは……その声が余りにも、余りにも近くから聴こえたことで。
わたしはたっぷり10秒は硬直して、やっとのことで恐る恐る返す。
「……わ、たし?」
「おまえ以外の誰が居るんだよ……立てるか?」
声は、何でもないように。
そうやって、わたしの目の前に手が差し出される。
上を向いた、ゆるく開かれた手のひら。
加害の為の拳ではない。被害を恐れる構えでもない。わたしを貶める後ろ指でもない。
ただ、わたしを支えるために在る、手のひら。
けれどそんな手のひらを前にして、わたしはぴくりとも動けなかった。
だって、わたしは『余計なことをしてはいけない』から。
それを破れば、わたしは今よりもっと、赦されないわたしになってしまうはずだから……。
「……」
「ったく」
ああ、何も言えず動けないわたしを見て、そのひとは悪態と溜息を吐いて。
ぐい、と。
そうやって、わたしの手を掴んで立ち上がらせた。
「ぇ――」
触れた手と手。大きい手。
伝わる、ちょっと強引な力。
予想外の体温の熱に、わたしは自分が立ち上がったことさえ忘れて。
「ど、どう、して? わたしが、こわくない、の?」
そう、問う。
みんなわたしを遠ざけたのに。殺されてしまうと距離を置いたのに。なんでこのひとは、自分からわたしに触れられるのか……。
そう問うて、けれどすぐに後悔した。
ああ、またやってしまった。余計なことを口にしてしまった。
だってわたしが話しかければ、相手が誰であろうと、罵声が返ってくるに決まって――。
「なんだよ。おまえ、目に付く人間を片っ端から殺す
低い声に平然と問い返されて、わたしは心底びっくりした。
それは罵声が飛んでこなかったから、だけじゃない。
だって、確かにわたしはそのひとの言う通りに周囲から噂されていたけれど……真正面からその真偽を問われたことなど、これが初めてだったから。
そう、わたしは遠巻きに噂され勝手に詰られるばかりで、弁解の余地を与えられたことなんて、ただの一度も……。
だからなのかもしれない。何も考えず、反射的に首を横に振ったのは。
「……ち、がう」
「なら問題は無いだろ。というか、何もない場所で転ぶようなすっとろい奴の、いったい何を怖がれってんだよ」
ぶっきらぼうに言って、そのひとはわたしの手を放した。
「ぁ……」
放れて、既にその体温が名残惜しくなっている自分が居ることに困惑して。
けれどそのひとは、幸か不幸か、そんなわたしの混乱には気付く気配もなく。
「片目だけの視界が不都合なら、杖でも人でも頼ればいい。すっ転ぶたび律儀に損するより、転ばぬ先の杖を持ち続ける方がいくらかマシ……ああ、くそ。説教とは、我ながら
そこまでを言い切って、そのひとはわたしに背を向ける。
ただわたしを立ち上がらせただけで、まだ何の利益も得ていないハズなのに、もう用は済んだと言わんばかりに去っていく。
朧げな視界に映るその背が、わたしから離れて……するとわたしの胸の辺りに、強烈な渇きみたいなものが発生して。
「、ま……っ!」
「?」
思わず喉から飛び出したのは声にならない声だったけど、「呼び止められた」と理解してくれたのか、そのひとは離れていく歩を止めてこちらを振り向く。何の用だ、と言いたげに。
けれど。彼が抱いただろう疑問符の最低百倍のそれが、わたしの中でぐるぐると回っていた。
何故。
どうしてわたしは、咄嗟にそのひとを呼び止めたのだろうか。そんなこと、誰にも命じられてはいないのに。
何故、こんな『余計なこと』をしてしまったのか。
そして……どうして余計なことだと分かっていながら、わたしの体は、口は、夢の中に居るみたいにふわふわと勝手に動くのか。
そうやって、ほとんど思考もできないままに。
わたしは、そのひとに尋ねた。
「な、まえ……」
「名前? 俺の?」
こくり、頷く。
舌は縺れてうまく言葉を出せなかったから。それが、今はひどく恥ずかしかったから。
ああ、でも。名を知られるだけで不幸になる、殺されると噂されているわたしだ。そんなわたしが名を訊いて、もしかしたら怒らせてしまったかもしれない。無言で立ち去るくらいならまだよくて、今度こそ罵声を浴びせられるかもしれない。そうなったら、悪いのはやっぱり余計なことをしたわたし……。
俯くわたしの中に生まれる黒いもの。
それが全身に広がっていく……それよりも先に、そんな流れを断ち切るように。
実にあっさりと、そのひとは言った。
「
「かげ、みや……」
「ああ。じゃあな、
ああ、反芻する暇も与えてくれず、そのひとは――『かげみや』は今度こそ去っていく。
けれどわたしは呼び止めなかった。追い縋ることもしなかった。
教えてくれた『かげみや』という名前が、胸の中で熱の塊になってわたしの体を温めたから。
そのせいか、なんだかいつもより寂しくなくて。
『かげみや』という名前を知っているだけで、孤独がいくらか和らいだ気がして。
だからわたしは、ただその背中を見送った。
弱視でぼやけた世界の中、どんどんと離れていく背中は……けれど廊下の先に消えた後でさえ、不思議と近くに感じられた。
そんな出逢いの日から数日後。
星四級賞金首排除の任務を受けていたわたしは、出発当日になって、
それ自体はよくあることだ。わたしの任務に同行したひとは、ほとんど例外なく、次の任務について来てはくれない。わたしに何らかの罵声を浴びせて、わたしの下を去ってしまう。
だからその日は、このリストの中から穴埋め要員を決めろと言われて……。
そうやって、普段は一番上しか見ないリストの中に見つけたのだ。
わたしが唯一知っている、どこか温かいその名前を。
「……もう会うこともないだろう、と思ったんだがな」
そのひと――『かげみや』は、開口一番にそう言った。
低くぶっきらぼうな、綺麗で冷たい鋼の声。
ああ、やっぱり錯覚じゃなかった。
その丁寧さの欠片もない声には、けれど、他のひとの声に含まれている険のようなものがまるでなくて。
「それで? 学園最年少星五級の超天才異能者サマが、この
問われて……どくんと胸の中で音が鳴った。
なんだろう。声が、いつもより出しづらい。張りついた喉を何とか動かして、わたしは慣れない言葉を紡ぐ。
「い」
「い?」
「いっしょに、き、きて、ほしい」
なんとか言って。
断られたらどうしよう、なんて遅まきながら不安になって。
けれど、かげみやは頷いてくれた。わたしに着いて来てくれた。
わたしと一緒に廊下を歩いて。
わたしと一緒の車に乗って。
わたしと一緒の、任務へ。
それで、かげみやが標的を見つけて。
わたしが合流したときには、かげみやが危機に陥っていて。
それで――。
「〈
いつものように、地獄の門を。
罪に罰を。生に死を。
言われた通りに。わたしを許してもらうために。
――開く。
ぐしゃり、中身が零れた柘榴。
いつも通りの、終わりの風景。
もう喋る事もない罪人の前で、
赤く飾られた無惨なソレから目を逸らさぬまま、かげみやは言う。
「……ひとつ、良い事を教えてやる」
「……?」
「今回の件で分かっただろうが、俺は弱い。その上自分の事しか考えられない臆病者だ。俺とつるんだって、きっとおまえの為には……ああ、おまえら『天才』の為にはならねえよ」
婉曲な言い回しだったけど、かげみやが何を言いたいのかは何となく分かってしまった。
だって、わたしは今しがた、かげみやの前で異能を使った。
ひとを、殺した。
それもこの上なく惨たらしく。いつものように、残酷に。
そういうやり方しかできないから。
でも、こんなものを見てしまえば、かげみやだって。
いいや、きっと誰であろうと、わたしから離れようとするに決まって――。
「――だから。こんな任務じゃなくて、もっと軽い案件持って来い。寂しいとか、愚痴を言いたいとか……そういうのなら受けてやる」
――思わず、わたしは顔を上げた。
見上げたかげみやは、わたしと目を合わせないまま……けれど、その場に立ったまま。
そう言って、わたしの目の前に手を差し出してくれた。
「――」
「おい、どうした? 後は学園に帰るだけだろ」
「……こ、これ……て、にぎって、いい、の?」
「じゃなきゃ躓いて転ぶだろうが、おまえ。杖は車ン中だろ? 他人の世話になりたくないってんなら、次からはちゃんと忘れず持って来るんだな。……まあ、杖のこと忘れてたのは俺もだが」
言って、ん、と手を前へ。
「それに、案の定俺は役に立てなかったんだし。せめてこれくらいはさせろって話だ」
かげみやがそう言うのなら。
これは余計なことじゃないはずだから。
恐る恐る伸ばした手で、かげみやの手のひらを掴む。
――あったかい、ひとの熱。
じんわりと染み入るような、かげみやの体温。
その体を巡る熱い血が、繋いだ手を通して流れ込んできたみたいに。
わたしの全身を熱が回って、回って……。
「あ、あり、がと」
「……へぇ。意外と律儀なのな、おまえ」
慣れない体温の熱さのせいか、なんだか上手く喋れない。
けれど不思議と辛くはなくて。むしろこの熱が嬉しくて。
そうやって、わたしはかげみやに連れられ歩き出す。
死んだ
命を奪ったわたしの体が、命の熱に癒される。
ひどい欺瞞だと分かっていながら、それでもわたしは、繋いだこの手を放せなかった。
また、ある日。
『次はもっと軽い案件持って来い』
「……俺は確かに
わたしの隣に座ったかげみやは、憮然とした声音でそう呟いた。
それは、任務に向かう途中の車内でのこと。
他の異能者のように機動力のないわたしは、いつも車で目的地に送迎されている。同行者の人数によって車のカタチも変わるけど……全部に共通しているのは、外から中を覗けないように窓ガラスが加工されていることと、わたしが座る後部座席と運転席の間が壁で隔てられていること。
今回はかげみやとふたりだから、車は普通の大きさとカタチのもの。かげみや曰く、このカタチはセダンと言うらしい。相当な高級車のくせに魔改造されてる、とも。
そんな車のシートの座り心地は、別段悪くないけれど。それでも自分の意志で外に出られない狭い空間は、まるで猛獣の檻みたいで。
そんな場所に、かげみやとふたり。
逃げ場のない後部座席でかげみやの憮然とした声を聞いて、わたしは何も言えなくなって縮こまった。
確かに、またかげみやを同行者に選んだのはわたし、だけど。
わたしは『余計なこと』はできない。許されていない。
つまり、任務もないのにかげみやに会いに行くことは、できない……。
だからこの任務中と、その行き帰りの車内だけが、わたしに赦された逢瀬の時間。
俯くわたしをどう捉えたか、かげみやの声は走行音と共に続く。
「オイ、聞いてるか
舌を噛んだのか、彼は悪態を吐いて何事かを考えだし。
そして、名案を思い付いたとばかりに声を上げる。
「じゃあ、『ナナ子』だ。それでいいか? ナナ子」
「なな、こ?」
「あだ名だよ、おまえの」
がたん、と。走る車が少しだけ揺れた。
ほんの少しの衝撃。それで、世界の全てが生まれ変わったみたいだった。
檻の車内すら、一面の花畑に見紛うほどの。
だって。
『7番』
『漆門寺ナナ』
それがわたしの名前。
無機質で、余分なものがない記号みたいな。
でもそれが、たった一音増えるだけで、まるで――。
「なんだよ、黙り込んじまって。気に入らないってんならやめるけど?」
「……うう、ん。うれ、しい。ひとのなまえ、みたいで……かげみやとおなじ、みたいで」
「?」
ななこ、ナナ子。
わたしの
ああ、声に形があったなら。わたしは間違いなく、その名前をぎゅっと抱きしめただろうに。
そんな日の任務もまた終わって。
今度も手を繋いで貰って。
けれど、でも。
どうしても分からないことがあった。
「……か、かげ、みや」
「ん?」
「かげみやは、ど、どうしてやさしくしてくれる、の?」
車が学園に向けて走り出して、暫くして。
わたしの中から疑問が溢れて、かげみやについ尋ねてしまった。
そうだ。
今回もかげみやは危険に晒された。かげみやは危険を嫌うのに。
なのに、そんな場所に連れ出したわたしに、かげみやは優しくしてくれる。
手を取ってくれる。新しい名前をくれる。
それが不思議で、気になって。
けれど、かげみやは呆れたように。
「優しいだぁ? 俺が? 莫迦だなおまえ、もしこんな俺が『優しい』ってんなら、猫も杓子も聖人サマだぜ」
「で、も……お、おしゃべりしてくれる、の……かげみや、だけ」
「……薄々思ってたけど。おまえ、ホントに友達居ねえのな」
……友達は、いない。
だけどそれも仕方ないことだ。
だって。
「わ、わたしは……ひとごろし、だから」
言って、体の芯がすぅと冷たくなるのが分かった。
さっきかげみやの手に貰った体温が、どこかに融けて消えていく。
みんなわたしを怖いと言った。
なら、それはきっと正しいのだ。
みんなわたしを遠ざけた。
それもきっと当たり前のことだ。
だってわたしは「ひとごろし」。
地獄の門を開くことで、罪ある者に死を送る――それ以外のなんにもできない存在。
みんなのようには喋れない。楽しそうに笑うことも、踊ったり歌ったりすることもない。
わたしの声は
わたしの肌は
わたしの瞳は
だからわたしは「ひとごろし」。
地獄の鍵のほかに全てを持たぬ、みんな怯える真白の骸骨。
そんなわたしに、けれどかげみやだけは優しくしてくれる。
わたしの声を聞いてくれる。わたしの肌に触れてくれる。わたしの瞳から逃げないでくれる。
それは、どうして。
わたしには、かげみやに返せるものなど何もないのに……。
車内に沈黙が降りる。
わたしが口にした言葉が、空気を圧し潰さんばかりに重く車内に満ちていて。
――人殺し、か。
小さく含めるように呟いて、そしてかげみやは、沈黙を吸い込むように――。
「……
「ぇ――?」
歪む口元、自嘲の吐息。
ぱさり、揺れる前髪の隙間から、かげみやがわたしを見つめていた。
目が、合っていた。
お互いの瞳に、鏡みたいにお互いが映って。
「似たようなモンさ、おまえも俺も。犯罪者を力で裁くのも、救えた命を取りこぼす事も。いや、次の被害を防げるぶん、おまえのほうがまだ『正義』ってのに近そうだ」
ああ、わたしとかげみやは、いつの間に入れ替わってしまったのだろうか。
だって、おかしいではないか。そうでもなければ説明がつかない。
かげみやよりわたしの方が『正義』、だなんて。わたしがかげみやよりも『いいひと』みたい、なんて……そんなのあるハズがないのに。
あなたの声は
あなたの肌は
あなたの瞳は
だからあなたは、わたしなんかとはまるで違うのに。
「堂々としてろ、ナナ子。おまえは俺と違って、誰にもできないことをやってんだから」
じゃなきゃ俺の立つ瀬がないだろ、なんて、そのひとは冗談めかして言って。
――とくん、と。
胸の内で何かが鳴った。
ああ、これは心臓だ。ひとの胸にあるべきものだ。
それが、とくんと主張している。ここにあるよと鼓動している。
なんて、こと。
だって、わたしは今まで、自分の中には何もないと思っていた。
ガランドウの、人のカタチを真似ただけのナニカがわたしなのだと。
けれど……。
違った。わたしの中には心臓があった。
それを、かげみやが教えてくれた。
ああ、知ってしまったらもうどうしようもなくて。
「か、かげ、みや」
「?」
鳴りやまぬ心臓が、わたしの体を操るように。
鼓動を意志では止められないように、ついに抑えが利かなくなって。
わたしは。
「かげみや。わ、わたし、えらい?」
『余計なこと』が、口を衝く。
余りにも急に尋ねたものだから、さしものかげみやも目を見開いて。
でも、やっぱりかげみやは答えてくれた。
「……さあ。俺なんかよりはよっぽど偉い奴だと思うがね」
「じゃ、じゃあ……いい、こ?」
「ま、それもそうなんじゃねえの?」
「こ、こわく、ない……?」
「少なくとも、噂ほどおっかない奴じゃねえな、どうやら」
わたしの質問にきちんと取り合ってくれたかげみやの答えは、どれも少し遠回りで。
全部が凄く嬉しいのに、今のわたしはもっと欲しくて。
「わたし、は……」
そんなわたしの感情に、頭と口がついてこれなくて。
なのに、かげみやは察してくれたんだろう。先回りして、答えてくれる。
「おまえは
「そう。そう、なんだ……」
えへ、と口から変な音が漏れる。
それだけでも随分と無様で不気味だっただろうけど。
あろうことか、わたしの口から漏れたのはそれだけじゃなくて……。
「……ご、ごほう、び」
「は?」
「ごほうび、ほしい……」
ああ、これは完全に暴走だ。
わたしは暴走している。制御できない鼓動のままに、『余計なこと』を繰り返している。
けれど、でも、だって、どうしても。
わたしは今まで、何をしたって、御褒美なんて貰ったことなかったから……。
「バカ、そういうのは俺じゃなくて親とかに……はぁ」
呆れた様子のかげみやは、途中で溜息を吐いて、言おうとしていた言葉を霧散させて。
ぴ、と。
かげみやは指を一本立てた。そして、言う。
「1回だ」
「?」
「今後1回だけ、おまえの『お願い』を聞いてやる。あくまで俺に出来る範囲で、だがな」
「お、ねがい……?」
「ああ」
そうやって、かげみやは立てた指を口元に持って行って。
秘密な、と言外に語りながら、彼は薄く薄く
「おまえが本当の意味で俺に頼ってきたとき――俺なんかに頼らざるを得なくなっちまったその時は。たとえ地獄の底だろうが、せいぜい着いて行ってやるさ」
――その時、わたしはかげみやを知った。
この朧げな視力でも、彼の笑顔の意味が分かってしまった。
ああ、このひとは……辛い時だけ笑うのだ。苦しさや恐怖を誤魔化すためだけに、その口元を歪めるのだ。
それを覚悟と言うのなら――なんて、悲しい。
さっきまでわたしの中にあった高揚と歓喜は、とっくに鎮火されていた。
このひとにこんな顔をさせてしまうなら、御褒美なんて、約束なんて要らなかったのに。
ああ、やっぱり、余計なことをしてはいけなかったのだ。
かげみやを傷つけることになるなら、わたしは何も望まなかったのに……。
それでも、一度受け取ったものは突き返せなくて。
わたしは貰った約束を、心臓の奥に仕舞い込んだ。
どうか使いませんようにと。もう二度と、かげみやに悲しい顔をさせませんように、と……そう、祈るように。
ぱちり、ぱちり、走馬灯。
右腕は折れて。意識は揺れて。痛いのに、苦しいのに、それも遠くて。
目の前には、かげみや。わたしを殺す、悪夢みたいな。
うん、やっぱり……これは悲劇、なんだろう。
おとうさまの言いつけの通りにしなかったから。
誰かの声が言ったみたいに間違えたから。
わたしは『余計なこと』をしてしまったから――そのせいで、
余計な感情を抱いたせいで、地獄の門を担う資格を失ったのだ。
かげみやがくれた体温を、名前を、心臓を棄てられなかったから。
そんな贅沢は赦されないのに、棄てることを拒み続けたから。
だから、死ぬのだ。
罪には罰をの言葉通りに。
■という罪によって、わたしは物言わぬ死体へ堕ちる。
ああ、ばかなわたし。ぐずでのろまで、ひとごろしのわたし。
よわい、いやしい、きらいなわたし。
ほんとうに、どうして。
この期に及んで、わたしの口は余計なことを――。
「
これは仕舞っておいたのに。
貰った心臓に鍵をかけて、その心臓さえ今の今まですっかり忘れて。
だから……こんな酷いお願いを、使うつもりはなかったのに。
「たすけ、て。かげ、みや――」
ああ、けれど。今ならば。
きっとかげみやは、悲しい顔で笑ってはくれない、よね。
さようなら、わたしの甘い夢。
さようなら、まちがいだらけのわたし。
悪夢の中で果てることこそ、こんなわたしには相応しい――。
そうして、黒い刃は振り下ろされ。
重いものを断つ鈍い音が、船上の舞台に響き渡った。
「……」
……。
…………。
痛みは、ない。
死、とは。こんなにも安らかなものなのか。
いいや、そんなはずはない。
ぼーっと、船を動かす汽笛。揺れる甲板、波の音、磯の匂い。
かげみやの、気配。
恐る恐る、目を開けて。
目が開くことに驚いて。
そうして、わたしは見た。
「ぇ……?」
黒い刃が。
甲板を切り裂いた刃が、わたしの首に届く直前で止まっている。
あと一息で、わたしを斬首できる刀。
それを握る
「――ああ、そんな約束もしたっけな」
声が。
声が、降った。
胸を打つような
「
ああ、あなたの瞳は
手にした刀を甲板から引き抜いて。
初めて会った時のように、すぐにわたしに背を向けて。
でも、寂しくないよ。
だって、あなたの名前はもう
「だがまあ、お陰で目が醒めた、ぜ。約束、だからな。地獄の底に堕ちるまで、せいぜい足掻かせて貰うとするさ……!」
わたしに全てをくれたそのひとが、わたしを庇う騎士みたいに立っていた。