【書籍化】残影の英雄 ~俺が死んだらみんな曇るとか聞いてない~ 作:龍川芥/タツガワアクタ
「改めて、僕は
「朽無キョウカです。医院の内科担当。よろしくね、ふたりとも?」
ナナ子が目覚めてから―――尤も数分と経たず眠ったのだが―――更に一晩が開けた、12月27日。
医院を開くまえの早朝を使って、俺たちは初めて四人揃って顔を合わせていた。
朽無医院は二階建ての診療所で、一階の約四分の一と二階の半分が夫妻の生活スペースになっている。
今回はその一階の居間、普段食事に使っているらしい四人掛けのテーブルに座り、揃って顔を突き合わせているという状況。
俺とナナ子が廊下側、朽無夫妻がキッチン側だ。
朽無夫妻……メイスケさんとキョウカさんの自己紹介を受けて、俺は頭を下げ名乗りを返す。
「……改めて、
横に
が。
「ん……しちもんじ、なな
彼女―――漆門寺ナナの名乗りには、何故か余計な一文字がくっついていた。
「……オイ? おまえソレ……」
「わたしは、ななこ、です」
あくまでそう固持するナナ子。
心なしか自慢げに胸を張っている気さえするが……おまえね、それはあくまで渾名であってだな、
「ふむ、ナナコちゃんか。いい名前じゃないか」
「……うん。きに、いってる」
……。
「はぁ……ま、おまえがいいならいいけどさ」
しっかし、軽い気持ちで口走ったものが定着するのは、何というか、妙に後ろめたく感じてしまう。
そうだ。
そういえば、前にもこんなことがあったような―――。
……いや、今は考え事をしている場合じゃない。
逸れかけた意識を戻し、俺は今目の前に居る医者夫婦に向き直る。
「……それより、明らかにしておきたいことがひとつあるんですが」
「うん、なんだい?」
ニコニコと相好を崩さない夫妻へ、俺は核心に切り込む気持ちで。
「どうしてあなたたちは、俺たちを助けてくれたんですか?」
そう、尋ねた。
これだけはなあなあで済ませられない、最大の疑問だったから。
だが……夫妻は揃ってキョトンとした顔をして。
「? 『助けてくれ』って言ったのは君じゃないか」
「ええ、そう記憶してますよ?」
心底不思議そうに目を合わせる夫妻。
「……いや。例えそうだとして、どう考えたって頷くメリットが無いでしょう。俺たちに報酬を支払う能力なんてありませんし……もし何か要求があるなら、早めに教えてくれませんか」
そうだ。
こればかりはハッキリさせなければならない。
なにせ俺たち国防三校からの脱走者を匿うのは違法で、俺もナナ子も現在無一文であり、その上『異能者』というバケモノときた。
正直に言って朽無夫妻の側に受け入れるメリットは無いハズだ。
もしあるとすれば、それは、大抵が後ろ暗い―――。
場合によってはナナ子を退席させる覚悟の質問。
それに、夫妻を代表してメイスケさんが答える。
「メリット、か。それなら特大のがひとつあるよ」
「……それは?」
促せば、夫妻は示し合せたかのようににっこりと微笑んで。
「子供が二人、笑顔になる」
「――――――」
そう何でもないように口にしたものだから、身構えていたのに絶句せざるを得なかった。
真偽を考える前に思考が空白になってしまうほどの衝撃。
それをなんとか数秒で持ち直して、俺は殆ど未加工の思考を口に出す。
「……いや。冗談、でしょう」
「いいや、本気も本気さ。困っている人に手を差し伸べるのはそんなにおかしい事かな。
……ああ大丈夫、言いたいことはだいたい分かっているとも。法に触れるって言うんだろぅ?」
……問題の重大さを理解してないふうでもない。
嘘を吐いている気配も感じない。
なのに、彼らはそれこそ冗談のように軽やかに笑う。
「でもそれってさ、見つかれば、の話だろう?」
「そうそう。お上にバレなきゃいいのよね?」
「……な」
夫婦そろって能天気なのか……!? なんて言葉が出かけて、なんとか喉に押し込んだ。
―――見つからなければいい。
それを口にするのにどれほどの覚悟が居るのかは、能天気を装った笑顔からでも察する事が出来てしまったから。
「ま、暫くゆっくりしていきなさい。というか」
「悪いけれど、朽無医院の敷居を跨いだ以上、治療が完了するまでは出られないと思って頂戴ね?」
そう何でもないように微笑むことに、一体どれほどの勇気が要るのか、
実利は無い。
リスクは特大。
メリットは良心の充実のみ。
それでいい、と笑う夫妻は、ともすれば、俺が今まで見てきた中で最も“強い”人間だったのかもしれない。
今はその厚意に甘えるしか道がない立場の者として……最大限の感謝と敬意を以て、俺は深々と頭を下げた。
「……すみません、世話になります」
視界の端、ナナ子も俺を見習ってか「ぺこり」と頭を下げたのが分かる。
そうして、俺とナナ子は改めて朽無医院に受け入れられたのであった。
「じゃ、とりあえず食事にしよう。点滴だけじゃ身体機能が落ちる一方だし、ちゃんと栄養を経口摂取してもらうぞぅ?」
「それが終わったら本格的に診察再開ですね。二人とも、余りにも体に異常が多いんですもの。ふふ、久しぶりに腕が鳴るわ、鳴りまくるわ―――」
「―――ま、そんなの医学的にありえないんだけどね!」
わはは/うふふ、と揃って笑う朽無夫妻。
やっぱり持ちネタなんだ、ソレ……とは思いつつも、言葉にするのは我慢したのであった。
その朝食は、純粋に楽しかった。
俺はまだ利き腕を失ったことに慣れてなかったし、
ナナ子は弱視のせいで幼児と同じくらい食べるのが下手だったけれど。
朽無夫妻は箸の代わりにスプーンをくれたり、「子育て時代を思い出すなぁ」なんて言いながらナナ子の口に食事を運んでくれたりと、とても親切にしてくれて。
迷惑を掛けた上にこんなことを思って申し訳ないけれど……その時間は、本当に楽しかった。
メニューも味付けもありきたりだったのに、記憶にあるどんな料理よりも美味しくて、五臓六腑に染み入るようで。
ああ、きっとこれは
温かい食事も。
ぎこちない団欒も。
その、笑みを絶やさない優しさも。
油断すれば泣いてしまいそうなくらい、本当に嬉しかったのだ。
食後、始業直後。
「患者が来るまでは診察させてくれ」と言われ、俺とナナ子はそれぞれ夫妻の診療を受けていた。
一昨日は殆ど意識が無かったし、昨日は俺がナナ子から離れられなかったので、まだ調べたいことがいくつか残っているらしい。
「やっぱり患者さんは意識があるに越したことはないからねぇ……どう? ここは痛むかい?」
「いえ、大丈夫です」
「ふむふむ。あ、そうだ、エイトくんは採血とかして大丈夫な人?」
「……はい、勿論。今更その程度で音を上げるように見えますか、俺」
「いや、ごめんごめん。でも、いくら大怪我してるからって、痛みに鈍いのはどうかと思うよ? それも君の場合、意図的に鈍くあろうと努めているように見えるしさ……全く、十六歳の少年に強いていい覚悟じゃないよね、それ」
診察室にて、診察を受けながら会話する。
ナナ子も隣の部屋で朽無夫人に同じように見てもらっており、ときおりそちらの会話も聞こえてきた。
(……一応、医院は開けてるんだよな)
俺の中にある警戒は、壁の向こうのナナ子に異常がないかが二割、診察に対してが一割、そして医院に患者が訪れないかが七割といったところだ。
朽無医院があるのは、
県北にある『学院』よりは港町の側に近いが、危険な旧都に近いと言うこともあり過疎化が進んでおり、むしろ様々な施設が充実した『学院』から遠い事がデメリットになっている。
なにせ『学院』内にあるという大病院は、学園の『保健室』と同じく生徒以外の者も受け入れており、医者も設備も国内屈指だが……そのせいで
異常に育った巨木が周囲の木を栄養不足にするようなものだ。
確かに国防三校は国家を守る砦だが、そこに
例えば、「遠くの『学院』までいかないと病院がない」、といったふうに。
医療崩壊に喘ぐ郊外の街。
そこで朽無夫妻は、始まりの瘴気災害―――『東凶大瘴災』が収まった後、『学院』の誘いを振り切って故郷であるこの街に帰還し、逼迫する地域の医療を支えるため
正直、腑に落ちない話だ、と思った。
だって『学院』の誘いに乗る方が確実に実入りはいいだろうし、設備は最高峰でこんな
だからこの夫妻がに限って誘い拒むのは変だと、俺は何となく直感したのだ。
だが、そのことについてメイスケさんに尋ねても、
「いやあ、あんなところで働いたら、他人の命を救う前に自分の方が過労死しちゃうよ?」
なんてはぐらかされてしまったので、真相は分からないが。
ともかく、朽無医院は過疎化が進む小さな街にあり。
結果患者の絶対数が少なく、しばしば仕事の手が空くこともある。
そんな時間を利用して、俺とナナ子は追加の診察を受けている、という訳だ。
とはいえ……。
カラン、と。
思考を断ち切るように唐突に鳴る医院の扉。
「はーい、今行きます……エイトくん、ちょっと
「はい。ナナ子、行くぞ」
全く患者が訪れない訳ではないので、こうして診察が中断されるのも当然のことだ。
俺とナナ子は逃亡者。
できるだけ目撃されることは避けたい。
なので夫妻が本業に戻るときだけ二階に隠れ、患者が去ったら、
「おーい、終わったよー」
と呼ばれて一階の診察室に戻る、というのが一連の流れだった。
そんな感じで数時間。
診察が終わるまで何度か患者がやってきたが、そのたび見つからないよう二階に逃れ……そうして、昼前には診察は完了した。
すっかり見慣れた診察室。
複数のモニターに映し出されたレントゲン写真などの資料。
それらを元に、やはり訪れる患者の間隙を縫って、朽無医師は診断結果を伝えてくれる。
「えーっと、右眼球喪失、右腕は上腕半ばで欠損。頸部には一度切断された形跡、その他全身に裂傷痕……その全てが瘴気で応急処置されている。血管は繋がり、皮膚は癒着し、足りない部分は瘴気が物質化して補っている。血液にも瘴気が混じって、これは赤血球の役割を果たしているのかな? 正直に言って、これ常人なら三回は死んでるよ」
……うん。
我ながら、なぜ自分がまだ生きているのか分からない。
というか本当に生きているのか、正直に言って実感がない。
そんなバケモノめいた俺に、朽無さんは当たり前のように笑いかけてくれる。
「ホント、良く生きててくれたねぇ君。瘴気ってスゴイ。僕、ノーベル医学賞狙っちゃおうかなぁ!」
「……まあ、はい」
「いや冗談だよぅ? そもそもノーベル賞とかやってられるほど国際情勢は安定してないんだし。それが理由で拾った、とか勘違いして貰っちゃ困るよ僕。今のはただの軽口なワケでさ……いや実際のところ、口の重さってどうやったら量れるのかな?」
「……」
「ああもう、硬いねぇエイトくんは。そこは『舌と歯の重さを合計すればいいんじゃないですか』みたいな、すまし顔にピッタリのヘヴィーな
「……はあ。それは、すみませんでした……?」
よく分からないが、とりあえず頭を下げる。
治療してくれ、匿ってくれ、その上食事も御馳走になって……もう口ごたえする権利もない、と俺は完全に委縮していた。
本当に、返しきれないほどの、恩。
それがかえって反応を鈍らせる俺に対し、朽無さんはこれ見よがしに溜息を吐いた。
「……全く、君は重傷だな」
「それは、まあ……」
「違う。
ずびし、と医者の指が俺の
そのまま子供に説教をするように……いや、真実その通りに、彼は真剣な顔で言った。
「昨日も今朝も言おうか迷っていたけれど……。
誰かに助けられることを後ろめたく思うのはよくないよ。
ひとは、一人では生きられないのだから」
お互い様というやつさ、なんて締め括られた台詞。
そこには穏やかながら強い信念、覚悟にも似た確信が宿っていた。
だが……この夫妻には口ごたえもできない、と思っていたハズの俺は、どうにも頷ききれなくて首を横に振った。
「……それなら余計駄目でしょう。俺とナナ子はあなたたちに何も返せない。迷惑を掛けるだけで、利益を生み出すことはできない。なら、それはお互い様じゃない……不義理で不健全な在り方だ」
左手を握る。
相方を失い、傷だらけで、その傷も瘴気で塞がれている隻腕。
まるで片刃の鋏のようだ。
致命的に欠けていて、暴力以外、何かの役に立ちそうもない。
さっき朽無さんは生きていることを喜んでくれたけど……この手を見ていると、こんな人間が生きていたってきっと邪魔になるだけだろうと、そう強く思わされる。
そんな手。
人でなしの手。
だから、俺は俯いたまま顔を上げられなくて……。
ばちん。
「―――あでっ!?」
額に走った白い痛みに、俺は思わず仰け反った。
視線が上がる。
今しがた俺の額にデコピンを炸裂させた壮年の医者と再び目が合う。
彼はまた溜息を吐いて、やれやれと肩をすくめて。
「―――あのねえ。利益とか迷惑とか、そんなことは子供が考える事じゃないよ。お互い様というのは、僕と君の間に適用される話じゃないんだから」
「……?」
俺と朽無さんの間に適用される話じゃ、ない……?
額を抑えて呆ける俺に、朽無さんは柔らかくもどこか怒ったような表情で説教を続けた。
「医者でも料理人でも総理大臣でも、誰だって子供のときはある。でも、将来が立派な人間だからって、子供のときから社会に貢献できるワケじゃない。それは分かるね?」
「……はい」
「なら、『子供を育てるのは損じゃないか、そんなことやめて今役に立つ大人だけで生きて行こう』……なんてのがどれだけ愚かなのかも分かってくれるよね」
……頷く。
頷くしかない、当たり前の内容。
それに満足したように笑顔を作って、医者は絵本でも読み聞かせるような声で。
「無力だった子供が立派に育ち、老いて死んだ大人の代わりに社会へ参加する。そうやって人類は発展してきた。後続に託せなければ今日の文明は無く、それが破綻すれば明日の国家は無い……なのに、どうして子供に冷たくできるというんだい?
情けは人の為ならず。他人に優しくするということは、自分が帰属する社会を強固にすること。回り回って自分の得になるのなら、余力で人くらい助けるべきだろぅ?
そもそも人間、常に誰かの恩恵を受けて生きているんだし―――家も料理もこの服も、他人の手が入ってないところなんて無いんだし―――他人に優しくする、なんて、文明人としての最低限の義務だよ」
……それは、確かにそうかもしれない。
けれど。
「……けれど、実際問題、俺たちは朽無さんに何も返せません」
そうだ。
それで言うならば、俺とナナ子は社会から外れた存在だ。
だから……俺たちを助けても、やはり、この人たちの得にはならない。
だから、その論では俺たちは救われない。救われてはならない。
だから―――。
「―――だから、そこが間違っているんだよ」
「え……?」
俯きかけていた顔を上げる。
俺を叱るその人は、信じられないくらい優しい顔で。
「僕から受けた恩を僕に返してどうするんだ。それでは輪は閉じてしまう。
いいかいエイトくん、僕は君に優しくしたいから君を助けたんじゃない。
僕はね、
そう、夢を語る少年のように笑ってみせた。
「君たちは今、きっと追い詰められていて、他人に優しくする余力がない。でも僕らが君たちを大丈夫にしてやれれば……君たちは余力を手に入れて、その余力で困っている誰かを助けられるようになる。そうやって誰かを助けたら、その誰かも余力を取り戻し、他の人に手を差し伸べるかもしれない。
そういう風にして、優しさがどこまでもどこまでも回っていけば……ホラ。僕から始まった優しさが、世界じゅうに広がったじゃない?
お互い様っていうのはそういうこと。それは僕と君の間に適用される言葉じゃなくて、社会全体に適用される言葉なんだぜ」
つまり。
彼の言う『お互い様』とは、他者に見返りを求める事ではなく。
互いに助け合うということでもなく。
一方的な関係さえ―――最後まで助ける側と助けられる側のままだった関係さえも肯定する言葉なんだ。
たとえ自分は骨折り損のくたびれ儲けでも。
何一つ見返りがなかったとしても。
そうやって救った何者かが、いつか自分と同じように誰かを救うならそれでいい、と。
それは諦念と云うべきか、それとも無欲と云うべきなのか。
いいや、どちらも否だと医者の表情が語っている。
ああ、そうだ。
それはきっと……『
そう呼ぶべき、人間独自の
「分かったら
子供が子供らしく在れる社会を保つ―――それが僕ら大人が持つべき、最低限の
助けられることに前向きになるとはそういうことだよ、と。
顔色を窺ってばかりだった俺に、その人は丁寧に教えてくれた。
その行為は美徳ではなく、受けた厚意に泥を塗るのに等しい行いだということを。
だから、助けられる側も堂々としろと。
後ろめたく思うな、と。
そう、俺たちを助けてくれた人は俺を叱ってくれたのだ。
「それに、僕らは医者だよ? 君たちがどれだけ手がかかる患者だろうと、1%でも救える可能性があるのなら、絶対に手を放さない。食らい付いてでも助ける。
だから君は、僕たちに『助けられる』覚悟を持ってくれ。それさえあれば僕らは無敵だ。この世界の全てから、君たちを救ってみせるとも」
ああ―――分からない。
昨日見た、名医を確信させるその強い笑顔の源泉も。
断言した自信の出どころも。
異能者でもないのに、どうしてそんなに強く居られるのかも。
分からない。
分からないけれど……今はただ、感謝だけがあったから。
「……はい、肝に銘じます。まあ、その、ホントに内臓に書くワケじゃありませんが」
そうやって、今できる精一杯の返事をした。
まあ、我ながらどうかと思うくらいしょっぱいジョークだったけど。
思いっきり目を見開いて、その後「やればできるじゃないか」と笑ってくれた朽無さんのお陰で、何とか後悔するのだけは避けられたのだった。
診察も終わり二階に戻ろうとすると、ちょうどナナ子とかち合った。
「……ナナ子。そっちも終わったのか」
「う、ん。かげみや、も?」
「ああ。ま、『なんで生きてるのか分からないけど、生きてるんなら大丈夫なんだろう』、だってさ」
結論から言えば、俺の再診察は殆ど空振りみたいなものだった。
なにせ朽無さんは普通の医者。
『学院』の誘いを断った朽無さんが、瘴気や異能治療について無知なのは当然だ。
まあ、一応開いてる傷は無かったし……心臓は動いていることや、血も回ってれば消化などの代謝機能があるのも分かった。
少なくとも「死体が動いてるだけ」みたいな状態じゃないらしいので一安心というか、なんというか。
ナナ子のほうはどうだったのか……というのは何となく尋ねづらくて、とりあえず右の袖を掴ませて階段を上る。
本来なら手を握るところだが、俺は右腕がなく、ナナ子は右腕を骨折しているため、左手どうしではそれができないのだ。
なので垂れた袖を握らせ、それを杖代わりにしてもらって導く。
朽無医院二階、居住スペース。
上り切って一番最初に見える扉が、俺とナナ子にあてがわれた部屋の入口だ。
がちゃり、ノブを捻って中に入る。
「空き部屋だ、遠慮なく自由に使ってくれ」と言われたものの……。
「……どう見ても空き部屋じゃなくて、元・子供部屋、だよな」
スタンドライトの乗った勉強机にシングルベッド。
部屋の中心には勉強机とは別に、低いテーブルと小さなテレビ。
壁の本棚には本がぎっしりと詰まっており、有名大学の参考書や医学書などが多いことから、元の持ち主が医大生、あるいはそれを志す者だったことが窺い知れる。
カレンダーの日付は十年前。
この部屋には長年使われていない雰囲気……というより、ともすれば『一度も使われたことがないのでは』、という妙な雰囲気を感じる。
書店のように綺麗にみっちりと纏まった本棚。
縛って纏められたままのノートの山に、どこにも見当たらない文房具。
年季の入った勉強机たちと、傷も汚れもまるでない壁のアンバランスさ。
そもそも部屋の大きさに対して家具が少なすぎるし、サイズも微妙に小さい気がする。
生活感がまるでない。
なのに、それにしては埃は少なく、掃除が行き届いている。
本当に、奇妙だ。
この部屋は自然に成立するモノではない、という確信がある。
そう、例えば……
「……もしかして、それが理由、なのか……?」
完全無欠と思われた善良な医者夫婦のウィークポイント。
俺たちのような厄ネタを愚かにも受け入れた理由。
この奇妙な子供部屋は、その秘部に繋がっている気がしてならない……。
「……いや、詮索はよそう。あの人たちの厚意に対して失礼だ」
他人のベッドに腰掛け、自分自身に言い聞かせるように、呟く。
それは迷いの表れだ。
本当は疑うべきかもしれない。
いや、自分たちの身の安全を第一に考えるのなら、当然そうするべきだろう。
だが……。
『絶対に救ってみせるとも』
その言葉が。
疑心も思案も抵抗も、全てを
高温に鉄が融解するようだ。
張りつめていたものが切れて、上手く結びなおせない。
カチ、カチ。
壁にかかった時計の秒針が、ゆっくりと時を刻んでいる。
こんなに時間とは優しかったか。
この部屋だけ、宇宙と切り離されたみたいだ。
「―――ごはん」
ふいに、俺の隣に座っていたナナ子が口を開いた。
「ごはん、あったかかった、ね」
「……そうだな」
その言葉で数時間前の朝食を思い出し、頷く。
あの胸を満たした温かさは、今でも冷めずに残っていたから。
「ふしぎ。わたし、つらくてもいいって、おもった、のに。かげみやといれる、なら、それでいいって……なのに、つらくない、ね」
「……ああ。不思議だな、ほんと」
ぎゅう、と繋いだ手の感触が強くなる。
昨日の一件から、ナナ子は暇があれば手を握ってくるようになった。
今だって、わざわざ俺の左手を引き寄せて、俺の膝の上で重ねている。
白く、冷たく、細い指。
幽霊みたいに儚くて、
骨のように不吉で、
百合の花めいて可憐な感触。
さらり、白い髪が俺の肩を、手の甲を擽る。
かつて彼女に抱いた恐怖は今や殆どが春の雪と消え。
ただ、余りにもか弱いその手の力に、俺は強く『約束』を意識する。
(追手は来てるんだろうか……いや、来てると想定すべきだ。ただの異能者ならともかくナナ子は星五、超
考えるべきことは山ほどある。
いつまでここに居るのか。
その後はどこを目指すのか。
だと、いうのに……。
(……今は、考えたくないな)
何かが。
今まであった何かが、俺の中から欠けている。
糸が切れた凧みたいに、思考は彼方を漂って戻ってこない。
カチ、カチ、カチ、カチ。
思考の為の隙間を埋めるような時計の音。
辛うじて意識を繋ぎ止める白い手の感触。
後ろめたい何かを誤魔化すように、俺はナナ子へ問いかける。
「そうだ、下の待合スペースに絵本があってさ。持って来て読んでやろうか? ……いや、そういえばおまえって中学生だったよな……なんか、つい忘れてた。テレビも好きに見て良いって。どうする?」
「……ううん。今は、もうちょっと、この、まま」
「……分かったよ」
そっと寄りかかってくる白い体。
余りにも軽い少女の体。
それは肉の無い骨のような。
百合だけで組まれた人形のような。
なら、それを動かず支える俺は、白い体の影だろうか。
それも今は悪くない。
ただこうして、何も考えずに居られるなら、それで……。
カチ、カチ、カチ、カチ。
穏やかに時間は過ぎていく。
やることもなく過ぎていく。
それだけで泣きたくなるくらい、今の俺は弱くて欠けていた。
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