【書籍化】残影の英雄 ~俺が死んだらみんな曇るとか聞いてない~   作:龍川芥/タツガワアクタ

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<4> 5日目 こいにおちる

「かげみや。『新版・現代社会』、とって」

「お、おう」

 

 ベッド上に座ったナナ子にねだられ、部屋の本棚から指定の本を取り渡す。

 そんなやりとりが都度一時間ごとに繰り返されるのが、今や俺とナナ子の日常風景となっていた。

 

「ほい」

「あり、がと」

 

 座ったままで俺の手から本を受け取ったナナ子は、そのまま一も二もなく本を開く。

 体育座りのようにした膝で本を固定し、骨折した右腕を極力使わないよう左手一本で器用に(ページ)を捲っていく姿は、本を読む機能しかない機械(マシン)のようだ。

 ベッド脇には積み重なった既読の山。

 朽無(くちなし)夫人おさがりの眼鏡があるとはいえ、その読書ペースはちょっと尋常ではない。

 というかつい昨日まで絵本を読み聞かせられていた人間とは思えない。

 朽無医師の話では、なんでも昨日、俺の外出中にまず『国語辞典』を読破したらしい。そこから文章を読む目の動きに淀みが無くなったのだと。……本当に、おまえあのナナ子か? いったいどこから来るんだそのバイタリティは。

 

 俺が朽無医師から借りたノートパソコンで情報収集などしている間にまた一時間経ち……ナナ子はぱたん、と教科書(ほん)を閉じた。

 今回は高校レベルの教科書だった。

 そして彼女が次に望むのは……。

 

「かげみや。『ニュー人体解剖学』、とって」

「え? お、おう……」

 

 呼ばれ、勉強机から立ち上がって本棚に向かう。

 次に指定されたのは分厚い医学書。

 医学生の部屋(推定)に相応しい一冊だが……間違いなく大学レベルだぞ、多分。これを読むのか、本当に……?

 

 半信半疑で手渡すも、ナナ子の動きは今までと何も変わらない。

 本を開く手にも、(ページ)を捲る指にも、一切の迷いは見られない。

 

(あんなの読んだら、俺でも頭が痛くなると思うんだが……)

 

 試しに他の医学書―――こちらは神経科学の本だった―――を手に取って開いてみると、見開きだけで知らない単語のオンパレード。一目で嫌になって本を閉じる。

 ……振り向けば、真剣な目つきで医学書を読むナナ子の姿。

 もしかしなくても、あいつ、もう俺より頭よかったり……?

 

(……は、まさかな)

 

 そんな疑念を中々振り払えない一時間が終わり。

 ぱたん、と医学書を閉じる音が響く。

 さて、次は……。

 

「かげみや。『青空探検隊』、とって」

「おう、分かった」

 

 よかった。

 今度は部屋の主が幼少期に読んだらしい、子供向けの冒険小説だ。

 軽いペーパーバックを手渡せば、また同じように読み始めるナナ子。

 とはいえその表情に子供らしい弛みはなく、医学書を読んでいた時と同じ真剣さで視線は文字を追っている。

 

(ま、難しいのばっかリ読んで頭が疲れたんだろ)

 

 真っ当な中学生らしさに少し安心して、また一時間。

 ぱたん、小説が閉じられる音。

 次は……。

 

「かげみや。『愛欲のささやき』、とって」

「はいはい。こいつだな―――」

 

 もう慣れたことなので、俺は淀みなく指示通りの本を手に取ってナナ子に渡す―――。

 

「―――いや、ちょっと待った」

 

 だが、今回ばかりは手が止まった。

 なんだこの本は。

 タイトルと表紙からしてアレな雰囲気が駄々洩れというか、まかり間違っても中学生が読むもんじゃないというか。

 念の為あらすじを見る……うん、大人向け恋愛小説といえば聞こえはいいが、滅茶苦茶アダルトな内容だ、コレ。愛憎入り乱れるというか、セックスとか不倫とか山盛り出てくるタイプの本。クソッタレ、なんでこんなのが本棚にあるんだよ。

 

「―――うん、やっぱ駄目。こいつは流石に駄目だ、中学生には早い」

「……いいから、とっ、て」

「駄目だって言ってるだろ、教育に悪い……って、うわっと!?」

 

 悪影響を懸念して受け渡しを拒否する俺だったが……。

 ばしん、と。

 気付けばベッドからここまで歩いてきたナナ子が、俺の手の中から本をひったくっていた。

 そのまま定位置に戻るナナ子……いや、おまえ朝からずっとベッド上を動かなかったのに、そうまでしてアレを読みたかったのか……?

 

「……はぁ。分かったよ。そんなに読みたいなら読めばいい」

 

 まあ、俺はあいつの親ってわけでもないし。

 あるいは親ではないからこそ、その手の中から本を奪うなんてこともできないわけで。

 

(しかし……あいつ、こんな強引な奴だったか……?)

 

 真剣な表情で愛憎ドロドロ小説を読み始めるナナ子の姿に首を傾げる。

 少なくとも、こんな風に人の言葉に逆らうなんて、以前までのナナ子からは想像もできなかった変化だ。

 

(ずっと同じ姿勢で本を読んでるように見えて、超スピードで成長してきてる……ってこと、なのかね)

 

 実際、俺もその成長を肌で感じ取ってはいた。

 だが……実際それは氷山の一角で、彼女の成長速度はちょっと次元が違っていたなんてことは、後になって初めて分かったことなのだけれど。

 

 

 そう。

 本当に―――ナナ子の成長速度は凄まじかった。

 一時間ごとに一冊の知識・語彙を余さず吸収している感覚。

 瞳が、仕草が、言動が、見る見るうちに理知の色を濃くしていく。

 まるで今までの時間を取り戻そうとしているような知識欲。

 喋り方こそつっかえがちなのは変わらないが、どんどんと中学生らしく―――いいや、それ以上になっていく。

 

 児童絵本。童話。大衆小説。教科書。参考書。医学書。新聞。漫画。ジャンルを問わない高速乱読。

 それ以外の時間はテレビに噛り付いている。

 彼女は本当に何でも読んだし何でも見た。

 生きるのに必要な時間以外、全てを情報収集(それ)に費やしていた。

 三日目の深夜から始まって四日目いっぱい、そして今日……。

 傍で見ている俺ですらまるで現実感がない異常成長。

 余りにも常識の埒外にある、星五異能者の人智超越。

 

 だから、凡人の俺には気付けなかった。

 無軌道に見えたナナ子の行為が、その実、たったひとつの目的の為の蓄積(どりょく)だったということも。

 その尋常ならざるペースで行われる知識の吸収が、今にも結実を迎えようとしていることも―――こんなにも傍で見ていたのに、俺はまるで気付けなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 ()()()()は、何の前触れもなく訪れた。

 

 時刻は冬の夕暮れが過ぎ、街がとっぷりと闇に覆われだした八時前。

 朽無邸では、もうすぐ夕食、という時間。

 

「……ふぅ」

 

 閉めっぱなしのカーテンの隙間から夜を感じてノートパソコンを閉じる。

 背筋を伸ばしながら室内を振り向いて見れば、数十分前に見たのと全く同じ位置・姿勢で黙々と本を読むナナ子の姿。

 

「…………」

 

 ぺらり、と(ページ)を捲る音だけが断続的に響く。

 ベッドに腰掛ける白い姿は、まるでそういう形の彫像のようだ。

 

(……そろそろかな)

 

 時計を確認……ナナ子が新たな本を手に取ってからだいたい一時間。

 彼女は本の分厚さや内容に関わらず、基本的に一時間を一冊の読破に使う。

 常識からすれば十分に『速読』と言えるスピードを、きっちりきっかり守っている。

 それが偶然なのか、それとも計算なのか。

 流し読みで内容を把握していないのか、それとも完全に理解できているのか。

 本人ならぬ俺には分からない。

 分かるのはただ、「もう少しで今の本を手に取って一時間なので、そろそろ読破の時間だろう」ということだけ。

 

「……ナナ子、それが終わったら一階に行こう。そろそろ飯の時間だ、料理や配膳を手伝わないと」

 

 声をかけ、俺も椅子から立ち上がる。

 俺は隻腕、ナナ子は右腕骨折。

 互いに片腕しか使えない俺たちは、二人揃ってようやく一人前だ。一人では大した戦力にならない。

 という訳でベッドに座ったナナ子の隣に移動し、自分も腰掛けて読書の終了を待つ。

 

 待つこと数分……ぱたん、とナナ子が本を閉じた。

 どうやら中断ではなく読了らしい。

 ベッドに置かれた本のタイトルは……『人生を成功に導く八つのこと』。いわゆるハウツー本というやつか……俺では絶対に手に取らないが、読む本を選ばぬナナ子からすれば充分に興味の範囲内のようだ。

 とはいえ、それももう読了(おわ)った話。

 

「よし、行くぞナナ子……」

 

 腰を浮かせる。

 隣の少女へ、立ち上がるための手を差し出す。

 普段ならすぐに掴み返してくる白い手は……けれど今回に限っては、微塵も動こうとはしなかった。

 

「ナナ子?」

 

 ナナ子の視線は俺を見てさえいない。

 眼鏡である程度視力を改善したはずの瞳は、(ぼう)と虚空を見つめるばかり。

 まるで目を開けたまま寝ているような、無反応。

 

 ―――後になって思えば。

 それはきっと、彼女が()()()()瞬間だったのだ。

 (さなぎ)を思わせる、外界に反応できぬ程の心象変容が、その身の内で起こっていたのだ。

 

  既に歯車(ちしき)は揃っていた。

  その回転(ちせい)も充分だった。

  ただ、噛み合っていないだけ。

  一秒前まで空回りを続けていたから、何も動いていないように見えただけ。

 

 それが、今。

 

「―――」

 

 すっく、と。

 白い化身は無言のまま、意を決したように立ち上がった。

 そのままスタスタと部屋の扉まで歩いて行って……ぴたり、と扉の前で立ち止まる。

 

「?」

 

 なぜ部屋から出ないのか。というかおまえがそこで止まっていると、俺も部屋から出れないのだが、その通せんぼは何なのか。

 

 そういう疑問を口にするより、ナナ子の次の行動のほうが早かった。

 彼女は扉の横、壁に取り付けられたスイッチに指をかけ。

 

  ―――ばちん、と。

  何かが嚙み合うような音がして、結実の瞬間(とき)は訪れた。

 

「おい?」

 

 電灯(あかり)が消える。

 途端、室内に雪崩れ込んでくる外界(まち)の夜。

 

 そうやって真っ暗になった部屋の中。

 闇に浮かぶような白い少女は、そのままこちらを振り向いて。

 

「―――かげみや」

「ん?」

「ちょっと、だけ、目をつむっ、て?」

「……?」

 

 ……さっきから、ナナ子の意図がまるで分からない。

 

(……まあ、付き合ってやるか)

 

 分からないなりに、俺は言う通りにして目を閉じた。

 

 視界は夜から完全な虚無に。

 黒く閉ざされた世界の中、音だけが外界の様子を伝えてくる。

 

 ことん、テーブルの上に小物が置かれる音。

 ぱちん、ボタンが外れる音。

 しゅる、しゅる、と衣擦れの音。

 ぱさ、と軽い物が床に落ちる音。

 

 ……なんだ、この音は。

 囁くように(かす)かな物音の連続。

 背骨を指でなぞられるようにこそばゆくて、不安にさせられて、とてもじゃないが黙って聞いていられない。

 

「……おい。一体何を……」

「もういい、よ」

 

 見計らったかのようなタイミング。

 俺は反射的に目を開けて―――。

 

 ぱさり、と音がした。

 それは少女が纏っていた最後の衣服が、重力に引かれ床に落ちる音だった。

 

 

 つまり、それは有り得ざる姿だった。

 眼帯も、眼鏡も、服も、下着も。

 ギプスこそ外していないものの、首から右腕を吊っていたベルトさえ外して。

 一糸纏わぬ。

 限りなく生まれたままの姿になった、漆門寺ナナが、そこに。

 

 

「な―――」

 

 眼前に立つ全く予想外の光景に―――ガツン、と。

 こめかみをぶん殴られたような衝撃を覚えて、俺は言葉を失った。

 驚きで絶句したのは一刹那だけ。

 その後の数秒の硬直は、臓腑を氷の塊で串刺されたに等しい苦悶の時間だった。

 

「な……な、んだ……そ、れ……?」

 

 声が震える。

 言葉が乱れる。

 衝撃の錯覚は、前触れのない脱衣ゆえのものではない。

 それだけなら、俺はきっと大声を上げて驚愕を表現できていた。

 そして当然ながら、外された眼帯の下にも衝撃に喘ぐ要素はない。

 その剥き出しの眼孔も、煙のように揺らめく『魔眼』も、俺は既に見慣れている。

 だから……目から入って俺の脳までを貫いた映像(モノ)は、それらとは全く別の、そこにあってはならないもので。

 

 ―――つまり。

    ソレは、無機質極まる傷痕だった。

 

 少女の裸身(からだ)、その左胸部から下腹部まで。

 体の右と左を繋ぐツギハギのように、複数の手術の痕が連なっている。

 薄闇に浮かぶ白い真実。

 剥き出しの肌を這う、百足(ムカデ)のような縫合痕。

 全く想像もしなかった……いつも見ていた白い姿の布一枚剥がした下にあった、(きず)

 

 今まで気配さえ見せなかったその傷を目の当たりにして。

 まるで見える外見(ところ)だけ繕った人形だ、と思って―――本当に、吐きそうになった。

 だってそうだろう。

 胸の中心からやや左を縦に。肋骨の終わりから斜め右に。鳩尾から臍を通って股下まで縦一閃。その他、体の表面にある計五本の縫い目(ライン)

 まるで容赦がない、女の肌に残る傷が本人にとって何なのかを微塵も理解していない傷を見れば、嫌でも分かる。分かってしまう。

 比喩でなく。

 その体に(メス)を入れた者達にとって、真実、彼女は人形だったのだ。

 人のカタチをした、人ではないモノとして扱われていたのだ。

 

(―――これを。こんなモノを、背負って―――)

 

 彼女(こいつ)は今まで生きてきたのか。

 その(からだ)を実験動物のように切り刻まれながら、それでもどこにも行けず、あの学園で過ごしていたのか。

 なのに俺は、そのことにまるで気付きもしないで―――!

 

 きっと場面が場面なら、俺の頭は沸騰していた。

 視界が怒りで真っ赤に染まって、ふざけんな、と叫んでいた。

 

 けれど―――その白が。

 傷痕の後に飛び込んできた視覚情報(えいぞう)が。

 薄闇に浮かぶ、(きよ)い月のような裸身が、俺の怒りさえ漂白した。

 

「――――――」

 

 それは、凹凸の少ない女の(つぼみ)と云うべきか。

 今にも折れそうな脆い首、骨の浮き出た鎖骨と(あばら)、見逃してしまいそうで確かな膨らみ。視界にチラつく長い白髪は、暗中にあって天の川(ミルキーウェイ)を思わせる。

 露わになった四肢の全容は、まるで白く染まった(くき)だ。(たお)やかというには肉付きが薄く、腰も腹も何もかも細く儚くて、見ているだけで不安になる。

 

 ―――大輪の美を運命付けられた、枯れかけの蕾。

 あるいは、人の手でその未来を散らされた花の死骸か。

 女性として未成熟、未完成な脆い裸身(カラダ)に唾を呑む。

 強烈な禁忌を間近で直視させられて、眩暈がする。

 

「……ねえ、かげみや。どう、かな。やっぱり、これじゃだめ、かな?」

 

 少女は上目遣いで尋ねてくる。

 不安げな仕草。

 全てを曝け出した幼い裸体は、その傷痕(ひみつ)不安(こころ)も、全てを余さず伝えてくる。

 

 白く、細く、痛ましい。

 たとえ彼女が成熟していても、俺はそこに魅力(エロス)ではなく恐怖(タナトス)を見出しただろう。

 月は月でも、これでは乾いて罅割れた海月(くらげ)だ。

 死と病を連想せずにはいられない彫像(いし)のような痩躯は、今にも途切れそうなか細い呼吸で、啜り泣くように命を(うた)っている。

 

 余りのことに感情が混乱したのだろう。

 訳もなく涙が出そうになって、それを堪えるために、俺はようやく反応らしい反応を喉から絞り出した。

 

「…………馬鹿、野郎。な、何してんだ、おまえ」

「なに、って……かげみやは言ってくれた、よね。どんなに醜い傷痕(わたし)も、だれかが愛してくれる、って。愛してもらえたら、救われる、って」

 

 裸の儘、白い少女は左手を使い己を撫でる。

 下腹から首元まで。

 細い指先が、肌を奔る傷痕をなぞっていく。

 見せつけるようだ、と思った。

 倒錯的で、挑発的で、悲劇的で、官能的で、どうしても目が離せなかった。

 

 そうして、指が辿り着いた先。

 添えられた手の横、俺の知らない大人びた表情(カオ)で。

 甘く、甘やかに甘えるように、僅かにその首を傾けて。

 

 

「――――――ねぇ、キス、して?

       わたし、それで充分だから」

 

 

 わたしを愛してくれ、と。

 白く、細く、痛ましい少女は、祈るように腕を開いた。

 そっと蕾が綻ぶような仕草。

 それは、今にも折れそうな百合に似て。

 触れたら致命的に崩れると分かっているのに、思わず抱き寄せてしまいたくなる、そんな中学生(おんな)の姿が、そこに。

 

「……」

 

 ごくり、と唾を呑む音が他人事のようだ。

 脳はもはや機能していない。

 一つ残った目だけが、故障したように固まって、ただ目の前の姿を頭一杯に詰め込んでくる。

 

 咲きかけの花。月の幽霊。薄闇の白い誘蛾灯。

 傷痕さえ今は蜜が(したた)るようだ。

 壊してくれ、と罅割れが誘う。

 散らしてくれ、と白い花は囁く。

 くらくらと、眩暈がする。

 きっと今なら、その心臓(むね)に刃を突き立てたって、少女は笑って受け入れる。

 

 その様があまりにも痛ましくて、痛々しくて。

 その姿を否定できるのなら、どんな間違いだって正しいと、そんな矛盾した考えさえ抱いてしまって……。

 

「―――っ」

 

 食いしばった歯。

 噛んだ下唇の痛みで、俺は僅かだけ正気を取り戻した。

 ナナ子には悪いけれど……取り戻して、しまった。

 

(ナナ子、おまえは……)

 

 ―――本当に、莫迦だ。

 愛されたいのも、赦されたいのも、きっと当たり前の事だけど。

 肯定(あい)して欲しいと他者(だれか)に願うことは、絶対に間違いではないけれど。

 でも、それは。

 ()()()()()()と言うのだけは。

 そんな泣きそうな顔で懇願する事ではなく、もっと幸せな顔の先にあるべきもので―――。

 

「おねがい、かげみや……」

 

 懇願は既に哀願へ。

 その目尻の潤いを前に、断るという選択肢はなかった。

 だから俺の抵抗は、()()()()()()()()()に集約された。

 刹那の逡巡。

 意を決し、少女の目尻に溜まったものに誘われるように歩み寄る。

 たった数歩の旅路。

 そののち。

 

「……仰せの儘に、お姫様」

 

 俺は、ナナ子の小さな手を取って跪き、その()()()に口づけを落とした。

 絵本の中の騎士のように。

 できるだけ優しく、けれど甘やかにはならぬよう一瞬だけ。

 

「―――誓うよ、ナナ子。今日から俺はおまえの騎士(ナイト)だ。おまえの剣として道を拓き、盾として万難を堰き止めよう。俺の戦う理由も、俺の死ぬ理由も……おまえが本当の意味で幸せになるまで、全部おまえの独り占めだ。

 ……それじゃ、駄目か?」

 

 我ながら、ごっこ遊びのような台詞。

 やっぱりメルヘンは柄じゃないが、今はこれで許してもらうしかない。

 

 見上げた顔は、薄闇でよく見えなかった。

 ただ、十秒と少しの沈黙のあと、ナナ子は言った。

 

「……にげた」

 

 ……いや、『逃げた』っておまえねえ。

 そりゃおまえが望んだのは別の部位(ばしょ)なんだろうけどさ。

 

「うるせえ、高二と中一だぞ。無茶言うな、絵面考えろ馬鹿。昨日の今日でコレって、年齢考えてもマセ過ぎだぞおまえ」

「む」

「そもそも、俺が他人の容姿にどうこう言うと思ってたのかよ? ホラ、俺なんかおまえと同じ片目に加えて、腕も一本無いんだぞ。醜いっつったら俺のがずっと重傷なんだから、他人の(キズ)にどうこう言うワケないっつーか―――」

 

 未だに動揺が抜けきらないのか、我知らず口数が多くなる。

 そんな俺に対し、ナナ子は白い目で。

 

「ね、え。それ、が、『おひめさま』への口のきき、かた?」

「うぐっ……」

 

 ……ごっこ遊びに等しいとはいえ、誓った手前でそう言われると弱い。

 諦めるために溜息ひとつ。

 ここは彼女が望むノリに合わせよう。

 

「―――どうか分かってくださいナナ子姫。姫が傷付くとか穢されるとか、俺はちょっと許容できないんです。なんでどうかその心身を守らせてくださいね、俺の姫様」

「……まあ、いい、でしょう。きゅうだいてん。でも、かげみや、は『ナナ子』って、よんで」

「はいはい、分かったよナナ子」

 

 ふぅ、何とか姫の機嫌は取れたようだ。

 そうやって一安心したのも束の間……ナナ子は、不意にぽつりと。

 

「……『俺のナナ子』って、よん、で」

「―――はい、調子に乗り過ぎですよオヒメサマ。さっさと服着ろ、じゃなきゃさっきの全部取り消すぞ」

「む……! おう、ぼう」

「横暴って、そりゃおまえの事だぜプリンセス。あんまし下々の者を虐めないように。あと今真冬だから、マジで今すぐ服を着ろ。風邪ひくぞ」

 

 わしわしと雑にその頭を撫で、裸んぼのナナ子をできるだけ見ないようにしながらその横をすり抜ける。

 

 そのまま部屋から廊下に出て……扉を閉めた瞬間、俺は膝から崩れ落ちた。

 実際には崩れ落ちそうになって、慌てて壁に体重を預けた。

 そして……抑えていた本音が爆発する。

 

(―――びっっっっっくりしたぁ……!)

 

 ばくばくと心臓が鳴っている。

 全身に響く爆音は、隠し通せたのが奇跡と思えるレベルだ。

 とはいえ、それも当然だろう。

 

(なんで急に脱いだ!? なんであんなこと言いやがった!? ヘンな本でも読んだんじゃなかろうな……あの恋愛小説か!? クソ、やっぱ渡すんじゃなかったか……!?)

 

 なにせ、ナナ子の行動には一切の前兆がなかった。

 寝耳に水どころか、急に枕が爆発したみたいなモノだ。

 俺の驚きようといえばちょっと類を見ないくらいで、部屋を出た今なお溢れんばかりの驚愕(なにが)困惑(なんで)が頭蓋を内より叩いている。

 そうやって壁にもたれかかり、何とか動揺を抑えていると……。

 

 がちゃり、と扉が開いた。

 中から現れたナナ子は、元通りに服を着ている。

 そんなナナ子と目が合って。

 

「……」

 

 ふい、と目を逸らされた。

 そのまま彼女は俺の前を通り過ぎ、すれ違いざまに、

 

「……さき、に、行ってる、から」

 

 とだけ言って、ててて、と小走りで階段を下りていった。

 呼び止める暇もない。

 その内心が全く想像できなくて、俺は思わず頭を押さえた。

 

「ったく。何考えてんだ、あいつ……?」

 

 さっきのはどこまで本気だったのか。

 いいや、傷痕を肯定(あい)したいのは偽らざる本音だとしても―――彼女が欲した愛とは、どこにカテゴライズされるものだったのか。

 

『ねえ。キス、して?』

 

 ……何となく、それ以上考えてはいけない気がしてかぶりを振った。

 回りかけた思考を打ち止め、階段を下りた白い背中の後を追う。

 

 

 階下に待つは優しい日常。

 その中で笑う少女の笑みが、今の俺には普段と違うものに見えて仕方なかった。

 

 

 

 




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