【書籍化】残影の英雄 ~俺が死んだらみんな曇るとか聞いてない~ 作:龍川芥/タツガワアクタ
ザアザアと。
ブラウン管に砂嵐が張り付くように、延々と風が吹いている。
―――俺は、黒い嵐だった。
怪物が唸るような音を立てて、自分の名前すら忘れて、俺は目に付く全てに噛み付いている。
影の巨人。獣と病と死霊の群れ。
俺はそんな嵐の王であり、黒い嵐そのものであり、吹き荒れる嵐の奴隷だった。
だってそこに『制御』なんて概念はない。
俺の感情に呼応して嵐が荒れ狂っているのか、嵐に引っ張られるように俺も荒れ狂っているのか、もう判別なんて付いていない。
ただ、どうにもならない怒りだけが確かで。
『
怒りは炎。
吐き出さなければ己が焼かれる。
怒りは泥。
掻き出さない限り延々と溺れる。
怒りとは、荒れ狂う黒い嵐。
そんなものを静かに抱えて突っ立っていられるほど、人間というのは強くない。
事実、俺のそれは発狂だった。
狂わない為に狂っていた。
我が身可愛さで怒りを発露し、自分を守るため外に怒りを押し付けて。
そんなのは誰も幸せにしないのに。
ただ、耐えきれなくて暴れていた。
『
そんな狂気の果てに、ふと気付いた。
ザアザアと。
止まない風の黒い音は、魔物が泣く
そんな風音に、劈くような雷鳴が混ざる。
その度に脳髄が爆発する。
煩わしくて、苛立たしくて、消えてしまえと叫ぶ、叫ぶ。
分かっている。このままでは取り返しのつかないことになることくらい。
殺す、なんて。そんなのあいつだって望まない。培った良識が赦さない。
ああ、駄目だ。どんな理屈も、もう俺を納得させられない。
俺ですら俺を止められない。
いいや、そもそも。
俺はずっと、自分の痛みを無視できない、そんな弱い人間だった。
「死ね。死ねよ。死んでくれ。もう耐えられない。だから、死ね。全部、全部」
たぶん、俺がしていることは、頭を石に打ち付けるのとあんまり変わらない。
違うのは、被害を受けるのは俺だけじゃ済まないということくらい。
ああ、早く雷の音を止めないと。
聴こえる耳を引き千切らないと。
苦しみを生み出すこの頭を、いますぐ両手で圧し潰さないと。
狂う、狂う、狂い死ぬ。
燃えて溺れて内から弾ける。
そうやって、本当に取り返しのつかない一線を踏み越える直前で。
――――――白い星がひとつ、俺に向かって落ちて来て。
「―――ぁ」
ちかちかと、弱弱しくも叱るような光に手が止まる。
立ち止まって、思い
そうして、嵐に遭った船乗りが、幽かに見えた北極星を目指すように。
俺はあたたかいその星に、必死になって手を伸ばして―――。
「――――――」
気付いた時には、黒い嵐は収まっていた。
風音も雷鳴もない。
ただ、周囲に見える爪痕だけが、過ぎ去った暴威を物語っている。
捲れた屋根、飛んでいった瓦。
獣が暴れ回った後みたいなアスファルト。
揃いも揃って半ばで圧し折れた電柱と。
ひっくり返って、雨の中ちろちろと燃える黒焦げの車。
いつの間にか現実の街。
いつの間にか壊れた街。
そんな
隻腕で、
「っ。はっ、はっ―――」
俺の体は、悪夢から目覚めたばかりのように、ひどく激しく息切れしている。
疲労なのか腕が震え、膝も笑って。
体が重くて重くて、この雨にすら押し潰されそうだ。
それでも……気絶した眼前の女よりは、俺の方が百倍は生きていた。
「…………」
金髪の、雷に変化する女。
ナナ子を殺した学園の追手。
あれだけ強かった、怖かった異能者が、今は俺の腕の先でぐったりと気絶中。
近くには黒いほうの女も倒れている。
どちらもぴくりとも動かない。どこかで見たような光景で、なんだか頭が痛くなる。
ああ、そのふたつの"虫の息”を握り潰すのは簡単だ。
今なら確実に、容易に、一息の間に殺せるだろう。
死ね、死ねと呪詛が漏れる。
その言葉だけが反響する。
そして。
ずしゃり。
女の体が、濡れた路面に落ちた。
……いいや。
女の体を、俺は力なく取り落とした。
「―――は」
今なら殺せる?
違う、おまえらに恨みはないんだ。
怒りはあるが、恨みはない。
だって俺が憎むべきは―――「死ね」と叫んでいた相手は。
「…………ああ。
愚かな自分自身、なんだから。
体を起こして、倒れた二人から視線を切る。
逃げるように背を向けて、俺はふらつく足で歩き出した。
「……」
ざあざあくらい雨の中。
ふらふらと、地上に落ちた白い星を探す。
雨のカーテンを何度も捲り、向こうに見えた朧気な白色を目指して歩を進める。
十秒の放浪。永遠の巡礼。
誘われるように、導かれるように、遥か辿り着いたその先で。
星は。
変わらない微笑のまま、静かに、とても静かに横たわっていた。
「ナナ子……」
ずしゃり、とその横に両膝を突く。
握った手は糸が切れた人形のように。
土砂降りに打たれていたせいか、彼女は雪のように冷たかった。
悲しいほどに、冷たかった。
「は。いったい、俺は……」
どこから間違えていたんだろう。
そんな疑問がいまさら湧いてくる。
もしも、に縋るためでなく。
ただ、罪の所在を明らかにするために。
最も明確な間違いは、異能者としての責任を放り出したことだった。
魔塵に操られていたとはいえ、この手で傷つけてしまったナナ子に償うために、彼女の願いを受け入れた。受け入れて、しまった。
それが全ての悲劇の始まりだった。
ああ、本当に……どうして俺は逃げたんだ。
どうして約束を守ろうとした。
……いや、全部言い訳で。
逃げたかったのは、俺だ。
責任から逃げたかった。
運命から逃げたかった。
だから、目の前の約束に逃げたんだ。
それを守るためだと言い訳して、他の全てを裏切り続けた。
これはつまり、その結果が追い付いてきただけだ。
だから、憎むべきは自分自身。
ナナ子が死んだのは―――きっと、間違いなく、俺のせいだ。
強く。
雪のように冷たい手を握る。
俺におまえを守り切れる力が、覚悟があれば。
俺がおまえの望みを否定して、共に学園に帰っていれば。
いいや、あるいは……そもそも、最初から出逢わなければ。
おまえはずっと死神のまま。
折れた翼で羽搏こうなんて思いもせずに。
いつか、もっとマシな
「……ごめん。ゴメンな」
―――ナナ子。
おまえを幸せにしてやりたかった。
俺自身の望みを投影していたんじゃない。
確かに、初めはそうだったかもしれないけれど。
俺は次第に心底から、この少女を全てのしがらみから解放してやりたくなった。
普通の女の子として、幸せになってほしかった。
いや、死神のままでも、真っ白なままでも構わなかった。
おまえが、歪な笑顔しか知らなかったおまえが、いつか本当に笑えたのなら。
俺はきっと、それだけで……。
でも。
その機会は、もう永遠に訪れない。
俺自身の愚かさが、間違いが、その可能性を摘み取った。
浅ましい自己保身が、愚かしい自己陶酔が、おまえの幸せを踏み躙った。
だから―――もしも、決して償えないとしても、償う意志があるのなら。
罪を抱えていく覚悟が、
死後におまえに顔向けできる自分で居たいという願いが、
自分を一生赦さない怒りが、この胸の中にあるのなら。
俺は―――二度と間違えてはいけない。
幸福も、生存も、何一つ願ってはならない。
俺は……俺の弱さの全てを捨てて。
俺が幸福になる
俺の笑顔は。
全部、ナナ子の隣に横たえて。
「―――もう逃げない。俺が生んだ悲劇、その全てに決着を着ける。地獄に堕ちるのは、その後だ」
決して離さぬよう、地の底の星を抱え上げる。
本当にゴメンな、ナナ子―――