【書籍化】残影の英雄 ~俺が死んだらみんな曇るとか聞いてない~ 作:龍川芥/タツガワアクタ
全てが終わった春の朝。
わたしは長い眠りから目を覚ました。
病室で目覚めた日のことを、今でも鮮明に憶えている。
重たい瞼越しに夜明けを感じて、気だるい朝を受け入れるみたいに目を開けて。
眩しい部屋をぼんやりと眺めていたら、ずてん、なんて派手にひっくり返ったお医者さんが居たんだもの。
そのひとは幽霊でも見るみたいに口をぱくぱくさせて、でもすぐにとても嬉しそうな顔になって、泣きながらわたしの手を握ってくれた。
それでわたしも、やっと「目が覚めた」って感じがしたの。
本当に……ただ暗闇を漂うような、孤独な眠りは終わったのだと。
お医者さんとその奥さん―――奥さんもお医者さんなんだけど―――は、わたしに色々と説明をしてくれた。
わたしが一年近く『眠り姫』をやっていたこと。
ここが夫婦経営の診療所であるということ。
わたしの右目は永遠に失われ、現代の医療では治せなかったということ。
そして、二人がお医者さんであると同時に、わたしの保護者であるということ。
うん。要するにお医者さん夫婦は、わたしの主治医であると同時に、身寄りのないわたしを引き取ってくれた里親でもあるらしい。なんでも「目覚める兆候がないから引き取った」のだとか。詳しい事情は分からないけど、ふつう逆ではなかろうか?
まあそんな疑問は、二人の人柄の前では些細な事というか。
くちなし、という新しい苗字は響きがよくて、わたしも凄く気に入った。
ともかく、わたしの目覚めはそのように。
今思い出しても、最初の二週間が一番大変だったというか。
体力はないし体は重いし、流動食も満足に喉を通らないどころか、息をするのも苦しい始末。片目の視界は距離感が掴めずしょっちゅうものをひっくり返すし、毎度新鮮に恥ずかしいし。生きるというのはかくも大変なものなのか、と夢の中に逃げ込みたくなる毎日。
そんなとき、密かに励みになっていたのが自分の髪。
何の変哲のない
長く眠っていたせいなのか何だか妙に安心して、こんなに髪も元気なんだから持ち主のわたしも頑張らないと、なんて上向きの気分になれた。
うん、きっと。
わたしはたぶん、生きているだけで無条件に嬉しかったのだ。
そんな
わたしの生活は、一年も眠り姫をやっていたのが嘘のように、いたって順風満帆。
というか普通すぎて困るくらい。
転入した学校で、実感はないけど来年に待ち構えているとかいう
先生やお母さんの評価では、「理解は悪くないがいかんせん基礎が足りなすぎる」、だとか。かわりに変なところで知識はあって―――なぜか医学書の内容を暗唱できたり、とか―――そのお陰で二人みたいなお医者さんになる夢をギリギリ諦めなくて済んでたり。
あとは案外簡単に友達が出来て。一週間でショッピングとか行く仲になって。
お父さんもお母さんも文句ナシってくらい優しいし。
そうそう、最近は料理に挑戦中。勉強しろって怒られるけど、なんだかんだ見守ってくれる辺り、わたしにはシェフの才能もアリと見た。
まあそんなこんなで、わたしは楽しく十五歳の春をやっているのでした。
青春といえば青春のような。
実は裏で世界を守る魔法の戦士だったりとか、謎のイケメン転校生がやってきたりとか……そういうスペシャルなのは影も形もないけれど、今の暮らしも悪くないと充分胸を張って言えるレベル。
ほんと、冗談でも右目を落っことした程度で不幸ぶるなんて出来ないというか。
幸運なことに、目覚めてからこっち会う人みんな優しくて、毎日笑顔が絶えないのです。
ただ……ひとつだけ問題があるとすれば、そう。
―――わたしには記憶がない。
たぶん五歳くらいから今の今まで、思い出がまるっと抜け落ちている。
要するに、記憶喪失、というやつだ。
雪原を歩いていて、ふと振り返ってみたら足跡がなかったみたいな、そんな感覚。
知識だけは残っているので、意外にもあんまり不都合はないのだけど……あるはずのものがないというのは少しだけ物寂しくて、不安になる。
というか純粋に気になってしまう。
例えば、わたしから十年と右目を奪った犯人さんは、一体どこの誰なのでしょう、とか。
別に恨みもつらみもないが、本棚に一巻と三巻しかなかったら、どうしても二巻が欲しくなるのが人情というものなのです。
うん。何か、とても辛い出来事があったのは憶えている。
非業。喪失。後悔。放浪。
だから、知らない人がお父さんとお母さんになっていることは受け入れられた。
でも……確かわたし、どこか大きな施設に預けられていたんじゃなかったっけ?
どうもこの記憶の混乱は、わたしが昏睡していたことと関係があるらしい。
まあお父さんの口ぶりからして、どうも普通なら死んでいたっぽいし。目が覚めたのは奇跡だという話だし。
だからこうして生き返れただけでもラッキーと思って、片目と記憶を取りこぼした程度で済んでよかったと喜ぶべきなのだろうけれど。
とはいえそうは言っても、気になるものは気になるというか。
失くした記憶のことを考えると、どうにも胸がざわつく感じがして、いてもたってもいられなくなるというか……。
イメージはそう、厳重に鍵のかかった宝箱が近いかも。
中にどんな宝物が入っているのか気になるのに、わたしの手元に鍵はなくて。
勿体ないから棄てることもできなくて。
だから。
教室で友達と推しのインフルエンサーがどうのという話をしているときも。
進学先をどうするか、あーでもないこーでもないと頭を悩ませている時も。
しまいには少し前の、お母さんの誕生日会でさえ。
延々と気が散ってしまう。
箱の中身が何なのか、無性に気になってしまうのだ。
―――とはいえ、それもこの瞬間までのこと。
いつの間にかあった問題というのは、いつの間にか解決するもので。
その日。
わたしはふと気になって、自室の窓のカーテンを開けた。
具体的に何かがあった訳じゃない。
満月もなんちゃら流星群の日もとっくに通り過ぎていて、その日でさえ夜空に興味なんてなかったのに、その日はやけに気になって。
ああ、いつだって運命は―――出逢いと別れはそのように。
窓の外には白い月。
満ちている日は鏡を思わせるその星は、今は全く別の印象を
―――とくん。
どうしてか胸が高鳴って……その一拍で、わたしは全てを理解した。
何かを思い出したわけじゃない。
だって
でも、だからこそ分かったのだ。
この欠落の名前が。
開けずとも捨てられない宝箱の中身が。
だって……誰にも触れられたくない大切な思い出なんて、この世にたったひとつだけ。
「そう。
胸を満たす、痛いくらいに爽やかな残滓に目を細める。
過ぎ去った夢の名残。
最期まで掴んで離さなかった彼女の希望。
もう思い出すことは出来ないけれど、確かにわたしを形作っている、影。
居なくなった誰かを探すように、窓を開けて夜空を見上げた。
空の真ん中には欠けた月。
綺麗だなぁ、と一度だけ、懐かしむように呟いて。
そうして、少女の初恋は終わりを告げた。
十年ぶりに夢から覚めて、十年の欠落だけが残ったけれど……。
この
心の底から確信できる、本当にあたたかな