君のための幻想郷   作:倭人

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第二章 迷いの竹林 (4)

 

 瞬間——茅葺き屋根が吹き飛んだ。決して強度が低いわけでもない屋根が、だ。

 唯一、動いたのは八雲だった。

 当然のなりゆきかもしれない。体を見せて欲しいなどとと言われ憤怒に駆られた慧音とでは、そもそも競争相手にもならない。

 持っていた竹簡を手放して、慧音の頭を抱え、伏せる。そこまでしたのち、大きな風穴が空いた茅葺き屋根の上空から、何かが落とされた。

 ――木である……それも人の胴回りは優に超す大木。

 暗がりから現れた巨大な木々が部屋に入り込めば、その重みで床が揺れた。木々が落ちる音は、まるで雷鳴が爆発するような轟音である。密室の中には逃げ場などなく、木の影が迫りくるにつれ、八雲と慧音は身を縮める他なかった。

 そうして音がやみ、地の揺れも収まった頃。何が起きたのかを考える前に、破壊の残痕だけが結果として目に入る。あっという間の、まさに驚嘆の声を出す暇などない天災だった。

 八雲は現状を把握するためにも部屋を見渡す。まず視界に飛び込んできたのは、屋根を吹き飛ばし、降ってきた大木。何か鋭利な刃物で切断されたかのように(いや、断面が綺麗すぎるため、きっと刃物の類ではない)樹齢を知らせる木目がこちらを覗いている。直感が知らせた。これは人間の域をはみ出た者の仕業だと。

 唖然としていれば、有無を言わさず第二波が襲いかかってくる。やはりこれも大木だ。どれも木目が明澄に視界で捉えられるほど、見事な手並みで切断されている。根本から薄い紙でも差し入れられたかの如く、断面が崩れていない。直感は確信へと変わり、八雲は無意識下で固唾を飲んだ。

 だからと言って、身体への命令を疎かにしているわけではない。脳が思考放棄をしている現状でも、多くの遍歴を重ねてきた八雲の体だけは正直に動いてくれる。降り注ぐ樹木の位置を一つ残さず瞳で捉え続け、安全地帯へと勝手に這いずる。その際、当然だが慧音を抱き抱えることも忘れない。自分だけが助かろうなどという薄情者の考えは、八雲には最初から存在していなかった。

 

「ふぅ……なんとか収まったな。怪我はないか?」

 

 第二波がおさまれば、竪穴住居の中は小さな林と化していた。投擲してきた人物も全ての落下地点までは計算していなかったらしく、樹木の半数以上は、地面に届くことも無く何処かしこに引っかかっている。もし、規則正しいマス目で落とされていたのならば、今頃八雲たちに逃げ場はなかっただろう。それこそ、一本重さ266貫以上の大木に押し潰され、五臓六腑を地べたへとぶち撒けていたに違いない。

 二人があり得たかもしれない未来を想像し、顔を青ざめさせるのに時間は掛からなかった。

 

「……まさか、あいつが」

 

 慧音が意味深に呟く。

 ここで言う「あいつが」、というのが何を指しているかなど、一々説明されなくとも分かる。

 人智を超えた天災。

 そんなものを起こせる奴など、この地に一柱しかいない。八雲はまだ邂逅を果たしていない神の凄まじさを体感し、沸々と笑いがこみ上げてくるのを感じた。

 

「随分、手荒な挨拶だったな。おかげで死にかけたぞ、ははは!」

「こんな状況で吹き出す奴があるか!」

「す、すまん、あまりに破竹の勢いだったものだから、つい、ふふ」

 

 堪えきれず、八雲は吹き出してしまう。ある一定以上の緊張状態が続いて、頭が馬鹿になったのである。現代の言葉を用いて説明するのであれば、アドレナリンが絶え間なく分泌されたおかげで、八雲は一種の興奮状態に陥ったのである。

 隣で見ていた慧音が、「うわー」と僅かに一歩引いてしまうには十分であった。

 

「あああああ、もう! 分かってるのか、地主(とこぬし)が来たんだぞ!」

「言われなくても分かってるさ。なるほど、これは一筋縄ではいかなさそうな相手だ」

「ああ、だから早く逃げようって、何してる!?」

 

 一頻り笑い終えた八雲が、徐に木々をよじ登り始める。木が乱雑に積み重なっているせいで、外が見えないとしても、下手をすれば顔を出したと同時、さっきと同じ量の樹木の雨(だんまく)が降り注ぐかもしれない。あまりに軽率すぎる行動だ。慧音は八雲の袴を掴み取り、木々の合間を足の踏み場にして引き摺り下ろした。

 

「何するんだ、慧音」

 

 足元を引っ張られたせいで落っこちた八雲が、憎々しげに言う。

 

「それはこっちの台詞だ! 下手に顔を出したりして、死にたいのか!?」

「あぁ、そういう……でも今は大丈夫さね。地主様の雰囲気はかなり遠くにある。それに、さっき上を見て知ったが、ここはどうやら牢獄らしい」

 

 ぐい、と八雲は上を指差す。

 八雲が上で見てきたのは、閉じた屋根の風穴だった。規則正しく高木を落とさなかったのは、きっとこれが狙いだったのだろう。

 なるほど、牢獄とは中々に的を得た表現だ。

 逃げ場のない閉鎖空間に押し留めることで、あちらは圧倒的優位に立つ。この時点から何をされようと、抜け出さない限り八雲たちに打つ手はない。

 慧音は八雲の言わんとしていることを理解し、頭を乱暴に掻いた。

 

「じゃあ、私達はここで彼奴に殺されるのを待つしかないのか!? 惨めに、指を咥えて!」

「前提が間違ってるな。そもそも相手が俺らを殺すと決まったわけでは無いぞ」

「殺されるさ! 相手はあの地主だぞ!」

 

 妙に断定的な言い方に八雲は違和感を覚えるも、今は聞き流す。

 

「だったら抜け出すかい? 折角、奴さんと会える機会と思わなくもないが」

「悠長なことをいってる場合か、抜け出せるのなら、今すぐ逃げるべきだ」

「ふむ……なら逃げるとするか」

 

 付いてこい、と八雲は簡素に言い、身を翻す。

 が、向かった方向はあろうにも先程とは真逆。上ではなく。

 

「そっちは住居の奥だぞ!?」

「いや、上は塞がれてるしな」

「〜〜〜〜っ! お前が抜け出すか、と聞いてきたんだろう!」

 

 頭に血が上った慧音は八雲へと這い寄った。

 怒り心頭に発する。

 もしこの時代に般若の面が存在していれば、八雲は真っ先に慧音の形相をそれに例えたに違いない。

 

「落ち着け、慧音。ここからはきちんと出れるさ」

 

 なにはともあれ、まずは慧音を宥めなくては話が進まない。今の慧音では、何を言っても聞く耳を持ってくれないだろう。幾度か深呼吸を促し平静に戻す。

 そうしてようやく、八雲は奥にある竈へ目を逸らした。

 

 

 

 

 

■ ■

 

 

 

 

 

 竈が竪穴住居に設置され始めたのは、大体6世紀頃からだと言われている。材質は石や粘土でできており、同時に住居内では台所と寝床の区分ができるようになった。

 竈はその特性上、火を扱う。現代人からすれば当たり前の話にはなるが、火を扱えば自然と煙は発生するものだ。煙が家屋に充満すれば、人間は当然ながら一酸化炭素中毒で死んでしまう。それを防ぐため、この時代の人間は竈の奥に煙道を作り、外へと煙を排出する仕組みにしていた。これは煙突などと同じである。

 八雲が実践したのは、この煙道を通り外へ出る戦法だった。

 当然、煙道は人が通るために設計されていない。雨などにより水が竈へ浸らないように設計されているため、そのじつ幅は細く、排出口付近では縦から横へと折れ曲がっているような形状をしている。

 そのため、八雲と慧音は穴を広げつつ、土と煤で着物を汚しながら外へと這い出てきた。

 

「ゲホっ、ゲホッ、なにかが口に入った」

 

 喉を押さえ咳き込む慧音。竈は山女を焼くため直近まで火を使っていたのだから灰は溜まっていたし、そもそも煙道自体が汚い。良からぬものを吸い込んだとしても、普通のことであった。

 

「さて、ここからどうしたものか」

 

 八雲が腕を組んで思索する。

 

「里には流石に逃げ込めないぞ」

「だな。そんなことをすれば、十中八九、恐慌を引き起こす」

「言っておくが、あの地主とやり合うというのも無しだからな。なんせ相手は例え落ちたとしても地主——勝ち目なんて万に一つもない」

「分かっているさ。そもそも逃げると決めた時点で、戦うことなんて考えておらんよ」

 

 落ち着いた口調で、八雲は竪穴住居に突き刺さった樹木の大群を見る。上から見ただけでも本数にして七本。総重量に換算すれば、それこそ人など羽虫の如く踏み躙られる質量だった。それにしたって、ここまで過剰なのは如何なものであろうか。閉じ込めるにしたって、もっとやりようは沢山あったと思うのだが……慧音が言っていた通り、本当に殺すつもりだったのかもしれない。

 

「と、悠長に考える暇すらくれない! 気付かれた、第三波だ! 慧音、俺を信じて走れ!」

 

 八雲が言うや否や、遥か上空から燦々と輝く奇妙奇天烈な球状の妖光が見えた。

 それは恐怖も畏敬も荘厳も、何もかもを含蓄したような光。貝紫色と群青色の二種類の光が舞い踊り、ある意味では幾何学模様を作り上げていた。

 あの光の正体を八雲は知っている。

 神通力と通称されるものだ。

 現代で慣れ親しんだ言い方をするならば、霊力やら妖力、魔力と言ったところだろう。これらを厳密に使用するのであれば、対象によって呼び方に変える必要があるのだが、ここでは霊妙な力として「神通力」と統一させてもらう。そもそも、まだ妖怪という言葉自体が無い時代である。分け隔てようにも、前提となる分類が無いのだから致し方ない。

 閑話休題。

 八雲は神通力の恐ろしさを誰よりも理解していた。力の匙加減や攻撃を受ける者にもよるが、最悪あの光に触れた人間は体を比喩なく爆散させることになる。慌てふためいた様子で、八雲が踵を返せば、慧音もそれに倣って総身を反転させた。

 

「くっ、ええい! 八雲、お前を信じるぞ!」

 

 走りだし——四歩進んだところで妖光が竪穴住居にて着弾する。派手な爆風と、辺り数丈(時代にもよるが1丈3m程度)を巻き込んだ爆発が起こった。

 二人が死に物狂いで駆け抜けることを誓うのには、十二分な威力である。

 吹き立てられた突風を背中に受け、ただ我武者羅に腕を振っては疾走する。

「「うおおおおおお!!」」

 二人の雄叫びが炸裂音とともに響いた。

 

「ははは、何ていう量だ! こりゃ、正真正銘の化物だな!」

「黙って走れ、八雲! 追いつかれるぞ!」

「黙っていたって、追いつかれるときは追いつかれるさ!」

 

 左へ右へ、時には回転し、飛び跳ねる。飛来する妖光とまるで華麗な踊りを披露するように、八雲たちは滑稽な有様で転げようとも、立ち上がり足を動かし続けた。

 されども、生物というものには必ず限界がある。

 全力で走っていれば呼吸は乱れるし、心臓の鼓動がやけに煩くなって肺が悲鳴をあげる。額から滲み出る汗は、生命の危機を感じて、熱された肉体を冷やそうと奮起する。

 無限に走れる生命体などこの世にいない。いたとすれば、それは生命体ではなく違うナニカだ。生憎、ここで走っている者たちに、そのような存在はいなかった。

 

「はぁ、はぁ——八雲、このままでは————!」

「もうすぐだっ、だから足を緩めるな!」

「もうすぐって——……お前なにをっ」

 

 と、そこで慧音は気がついた。あの人里で暮らし始めて何百何十と見た行路である。なんなら、今日も同じ道筋を八雲と歩んだ記憶さえある。

 慧音にとって里周辺の地理情報とは、木々の本数から、草木の生え方まで把握するほど、精密に刻み込まれたものだった。目隠しされた状態で適当な位置に放り出されても、慧音にはさしたる問題がない。足の裏から伝わる土の感触と、鼻腔を通る植物の匂い。耳に入る鳥の囀りや、川のせせらぎなど聞こえれば、もう十中八九、住処へとその脚で帰還できる。

「まさか!」

 と、彼女の脳漿が、思考を八雲の思惑へ容易に到達させた。

 

 結論から言おう。

 

 八雲の狙いとは()()にあったのだ。昼間に川へ訪れた時から、ずっと考えていた作戦の一つだ。仮定していた日にちを大きく上回る速度で相手が接敵したため、八雲は早々に手札を切ることとなった。

 

 真正面に位置するは「迷いの竹林」。

 

 有象無象を迷い込ませ、多くの人間たちから禁忌とされる場所。未だ自力で出てこられた者はおらず、剽軽な白兎が自分の物として豪語する秘境である。

 八雲はあえてそこへ突っ込む気でいた。慧音も追随する。

 

「迷いの竹林——案外早く尋ねることになったな。とりあえず全力で駆け込め!」

「言われなくてもとっくに全力だ!」

 

 軽妙に掛け合いを続けながらも、八雲と慧音の足は一切止まらない。それどころか、張り切って足を一歩前へ出し、一刻でも早く竹林へと飛び込んでいく。あの迷いの竹林が、まさか最高の避難場所になろうなどとは、誰も考えつかなかった。

 

「よし、ここまで来ればっ!」

 

 慧音が叫ぶ。ほんの少しの気の緩みから、ここまで一度も止められなかった両脚が僅かに鈍った。

 

「な、この阿呆っ……!」

 

 咄嗟にそれを危険と感じた八雲は、慧音の腕を引っ張ろうとした。

 危機的状況は未だに続いている。気の緩みであろうが、溜まった疲労感が原因であろうが、ここで足を止めようとするのは命取りだ。

 その判断が正解だと言わんばかりに。

 数秒の後、慧音の背後から、妖光が暗澹たる竹林を照らした。

 

「痛っつぅ!!」

「慧音!」

 

 運が悪いことに着弾した余波が慧音を襲う。まるで、生理的嫌悪により払われた毛虫の如ごとく、空中へと放り出されれば、三回も地面で弾んだ。八雲が手を掴み取るよりも早く、慧音は神通力の類によってぶっ飛ばされたのだ。

 しかし、慧音の気が緩んでしまったのも無理はない。

 

 追ってくるなんて考え付かなかったのだ。

 

 ここは迷わしの竹林と呼ばれるほど危険な魔境。なんせ、ここを出るには、あの大国主が施した迷はし神をなんとかしなくてはらない。如何に地主とは言え、一度入ってしまえば、ここを出られなくなる可能性は十分あった。

 もしかして、ここのことを知らないのだろうか。それとも、知っていた上で大丈夫だと判断したのだろうか。どちらにせよ、一番最悪なのは後者である。

 

「くっ、もう追いついてきたのか!」

 

 八雲が何らかの気配を感じ、後方へ視線を投げた。言い方からして、八雲には地主がここまで襲ってくるという確信があったらしい。慧音が足を止めそうになった時も、いち早く忠告していた。

 ならば、八雲の思惑はここへ逃げ込み、相手を撒くことではない。

 慧音は瞬時にそれを理解し、立ち上がろうとするも、思わず「うぅ」と惨めな呻き声が漏れた。足を捻ったのだ。

 

「大丈夫か、慧音。大丈夫なら起き上がれ」

「さっきの呻き声を聞こえなかったのか、滅茶苦茶なことを言うな! それに、足が……!」

 

 八雲は慧音の足を見て、僅かに眉を釣り上げる。

 慧音は激しく地面へ打ち付けられていたし、何なら鳶みたく空中滑空もしていた。どこかを欠損していないだけ良かったほうだ。

 

「だったら俺に乗れっ」

 

 八雲の行動は早かった。慧音に背を向けて腰を降ろす。今も妖光があちこちで被弾していることを鑑みるに、悠長にしている場合じゃない。

 爆撃は未だ止まぬ。

 

「正気か!? それじゃ速力が落ちるだろ!」

「あんたこそ冷静に考えろ! 口振りからして、あんたと地主の間に何かあったことは分かっておる! 一緒に逃げると決めた時点で、仲間を見捨てる阿呆がおるか!!!」

 

 ええい、と渋る慧音を抱き上げ、八雲は力一杯走った。

 お人好しだ。胸焼けがするほどに。

 八雲という人間と仲良くなった者は、間違いなくこう蔑むだろう。

 そう、蔑むのだ。

 八雲の優しさは時に人を駄目にしてしまう。包容力とでも言えばいいのだろうか。頼りになる背中の大きさが計り知れない。欲すれば欲するほど、八雲は他人の意思など関係なく答えてしまう。底無し沼へと足を突っ込ませるかのように。今の状況だってまさにそれだろ。それが周囲の人間からすれば酷く恐ろしく映った。

 慧音は近くにあった八雲の肩に手を添え、胸に額を当てる。八雲はしっかり慧音が掴まったのを確認するなり、その健脚で走りを再開させた。

 

「聞いてくれ……私は彼奴から人里に関する歴史を食べた(隠した)

 

 歴史を食べる。これが彼女特有の能力。

 八雲は慧音の顔を覗こうとすることもなく、淡々と口を開いた。

 

「話すなら後にしてくれ、舌を噛むぞ」

 

 だが。

 

「いいや、聞け」

 

 ぴしゃりと慧音に返される。

 

「だからこそ、お前が来るまでの少しの間、奴は人里を襲わなかったし、関与もしてこなかった」

「……」

「私なら彼奴の動きを止めるだけでなく、この異変も解決させられる。元々、人間の出る幕じゃなかったんだ。落ちた地主と対峙するなど」

 

 まぁ、私の力もどうやら解かれたらしいが——。

 慧音が自嘲気味に笑うと、そこで八雲はようやく速度を落とした。駆け足から徒歩へ、徒歩から静止へ。八雲は完全に足を棒にすると慧音の顔を覗き込む。

 

「慧音……」

「みなまで言うな。私が奴と決着をもう一度つける。大丈夫、次は完全に食べてやるさ。だから――降ろせ」

 

 八雲はじーと慧音を見たまま、何も言わなかった。口は縫い付けられたように結ばれ、墨汁を垂らしたような瞳には、泣いているのか、笑っているのか分からない慧音の表情が映り込んでいる。

 

 暫くして。

 

 八雲は慧音を言われた通り降ろすと、手のひらを刀のように固めて慧音の頭を小突いた。

 現代で言うチョップである。そして。

 

「嫌だ」

「は……?」

 

 簡素に述べられた言葉は、されど、八雲の心情を総て形容しているように思えた。

 

「何を急に……そんな駄々を捏ねて——」

「駄々を捏ねているのはそっちだぞ、慧音。俺はあんたに肩を貸すと言ったはずだ」

「それはっ、肩を貸して欲しいなんて言ってないだろ!」

「胸に頭を埋めてきたじゃないか」

「いや、確かにしたが……でも別にここでそれを持ち出さなくても!」

 

 慧音が「分からず屋」と顔面を朱色に染め上げれば、八雲が臆面もなく笑い声を上げる。

 

「あのさ、慧音。俺はあんたの過去を何にも知らないが、あんたには感謝してるんだ」

「……」

「人里を守ってくれていたこと。今日ずっと案内してくれたこと。山女を食わせてくれたこと。あぁ、あとは一緒に笑ってくれたこととかな」

「そんなのっ、全部感謝されるほどのことじゃないだろ!」

 

 泣きそうな顔で言う慧音に、八雲は首を横に振る。

 

「人間は一人じゃ生きていけない。いや、人間だけじゃない、物の怪も、神様も、獣だってそうさ。誰だって一人で自己完結できない弱い生き物さね。

 

 だからこそ、伝えなきゃいけない。言葉は口にするためにあるんだ。相手へと届かせるためにあるんだ。

 

 ありがとう、慧音。里を守ってくれていて。

 ありがとう、こんな俺を助けてくれて。

 あんたは十分、良くやってくれた。

 だから次は、俺の番さね」

 

 そう言って八雲は身を反転させる。

 慧音の瞳には、ぼやけた男の背中だけが映った。

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