君のための幻想郷   作:倭人

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間章 白澤−1

 薄明かりの夕暮れ、深い山奥の小径にて、一匹の妖獣は独り呟いた。

 

「我ながら情けない……」

 

 その瞳は、足元に突き刺さる一筋の鏃(やじり)に静かなる憂いを映し出す。

 獣が掛かったのは、機槍(ふむはなち)と呼ばれる罠だった。これは獣が踏むと作動する仕掛け矢のことだ。しかも、ただの機槍ではない。矢先には退魔の呪詛を秘めた紐が繋げられており、それが根をしっかりと固定する木の蔓と連なっていた。

 どう考えても、尋常な猟師の手によるものではない。普通の獣が通る道に、猟師が呪物など仕掛けるはずがなく、異国から迷い込んできた修行僧が施したものだろうことは容易に推察できた。

 

「自力で鏃を抜くのは無理、か。退魔の呪詛で紐も噛み千切れない。仕方ない……仕掛けた修行僧の呪いが弱まるまで、ここで眠ろう。ざっと30年か」

 

 そう考えた獣は、身を丁寧に丸め、眠りの淵へと意識を沈めた。

 どうせ30年も100年も獣にとっては大して変わらない。時間とは浪費するためにあるのだと、まるで古木のような考えすら持っている。普通の獣であれば、軽く一度は寿命を迎えそうな歳月だとしても、妖獣である彼女には一笑に付す程度の価値しかなかった。

 だから瞼を閉じ意識を底へと沈めた。草花の匂いを丁寧に嗅ぎ分けながら、微風に体毛が吹かれ時を待つ。

 

 しかし、その静寂を打ち破るかの如く、安眠を邪魔する来客が現れた。

 

「あれ、大丈夫? どうかした?」

 

 その声に反応し、特に重たくない瞼を持ち上げてみる。獣の視界に映り込んだのは黒髪の少女だった。それも歳は10かそこらの幼い少女。淡い藍色の着流しをしたその娘は、獣を心配するように覗き込んでいた。

 獣の胸中に、嘆息と共に冷めた思念が駆け巡る。

 

(人間か。私がこのような小娘の前に現れることになるなんて、世も末ね)

 

 獣は身動き一つせず、少女を凝視する。

 頼むから、そのまま何処かへと行ってくれ。という切実な願いを込めながら。

 けれど獣の願いは少女の良いように解釈されてしまったみたいである。見つめ合うこと数瞬の後、少女は獣の足に機槍の鏃が付き刺さっていることに気がついた。気がついてしまった。

 

「罠に掛かったのか!? 待ってろ、いま抜いてやる!」

 

 血の気を引かせたその瞳に、幼き情熱が宿るのを獣は見た。

 少女は、急いで獣に駆け寄ると足の鏃をどうにかするべく奮起し始めた。

 持っていた道具はなし。刃物でもなければ、たかだか小娘の力と技巧で肉を穿った鏃を抜くことなどできはしない。だと言うのに少女は、枯れ枝のように小さな手で獣のあちこちを触診し、額には大粒の汗まで垂らしていた。

 獣は呆れたような視線で少女を見下ろす。

 

(何を必死に。私を助けてなんの益があると言うんだ。人間は本当に分からない)

「待ってろ。今外してやるからな!」

 

 けれど獣のそんな感情とは相反して、少女は根気よく鏃の摘出に励み続ける。

 最初は好きにさせておこう、などと甘い考えを持っていた獣すら、目障りだと感じるほど、少女は少女なりの頑張りを見せいてた。

 いい加減、煩わしく感じた獣は、くわっと目を開け、なるだけ低い唸り声を放つ。

 

「やめろ、小娘。この私に下等生物である人間如きが触れるでないわっ」

「……」

 

 絶句。まさに絶句である。きゅっと締まった喉に、目を皿にする少女。口をぱくぱくと餌を求める川魚のような形相で獣を見つめていた。

 

(ふん、どうよ? 驚いたでしょう。白い獅子が急に喋ったのだ。それ、早く何処かへ行ってしまえ)

 

 そんな少女を肴にして、獣は腹の内で笑った。人間のように目尻に作った皺は、この獣の意地悪さを物語っているようにも思える。

 罠に掛かり少しだけ苛立ちを募らせていものの、この少女の反応を見れただけで胸が透くような思いであった。腕というものが存在していれば、それこそばったばったと掌を打ち鳴らす具合には満足げである。

 だがしかし、獣の悦楽も長くはもたなかった。

 

「…………すごいな、お前! お喋りができるのか!」

 

 なぜかって?

 少女が目を輝かせ、そう言ったからだ。

 

「――――はあ?」 

 

 思わず獣から素っ頓狂な声が出た。

 元来、人間に恐れられること、崇められることはあれど、このような年相応の笑みを漏らされたことはない。ましてや、貧弱である人間ごときに褒められるなど、獣の生においては微塵も考え付かなかった出来事だった。

 そんな獣を尻目に、少女は興奮冷めやらぬ様相で捲し立てるように続ける。

 

「えっと、お前は牛の物の怪か?いやもしかして異国からきたという羊の物の怪?それとも白狼の物の怪か?あーもうどれでもいいな!わたしはこう見えて物の怪が大好きなんだ!すごい!本当にこんな不思議な物の怪がいるんだな、すごい、本当にすごい!」

「ええい、落ち着け! 鬱陶しい!」

 

 片手の指で数えていた少女は、怒鳴った獣に向かって笑い、そのまま抱きつく。

 対して獣の思考は停止したままだ。獣の算段では、正体を告げた瞬間、少女が絹を裂くような叫び声と共に山を駆け降りる。そういうものだった。

 なのに、どうしてこのような事になったのか。思い返してみても自身の非が見つからない。どころか、間違えていないはずなのに、望まぬ結果が舞い降りてきたことに一種の悍ましさすら感じてしまう。

 

「おぉー意外と柔らかい毛だな」

「――――はっ。貴様、抱きつくな! 私が何者か分かっていないのか!?」

「あ。そう言えば鏃が刺さってたんだった……痛いよね、ごめん」

「いや、そういう意味ではなくだな!」

 

 はぁ、疲れる。

 獣は離れた少女を見ながら、正直な感想を吐露した。

 

「そうだ、お前の名は? 名はなんと言うんだ!?」

 

 それでも少女の好奇心が止まることはない。と言うよりかは、獣がうんざりとしているのすら、目に映っていないようだった。

 自分の思ったことに愚直な人間なのだろう。齢10かそこらの少女に、ここまで振り回される己に、獣はとうとう不甲斐なさすら感じてしまう。

 

(……なんなの、こいつ。馴れ馴れしい。適当に答えて、さっさと追っ払おうか)

 

 通常の手段では追い返せないと悟った獣は、転がっていた薄っ平らな木の皮を拾う。それに爪を立て、端正な文字を彫り、ほらっと少女に差し出した。

 もちろん、この時代の識字率など高が知れている。文字が読めるものは貴族や役所仕事をしている高官。あとは経を読む坊主くらいだ。見窄らしい格好の少女は、このうちのどれにも当てはまらない。必然、文字が彫られた木の皮を持ち、少女は小首を傾げた。

 

「なんて読むの?」

「さぁね。誰かに聞いてきな。私から教える気はない」

「えぇー。意地悪だな」

 

 少女はその場で木の皮と睨めっこするも、一向に文字は読めない。睨んだだけで読めるのなら、この世の人間は誰も苦労していないだろう。

 これはいよいよ誰か大人に聞くしかないと、少女はそう聡ったらしく、肩を盛大に落とした。

 獣は自身の策が、上手く決まったことを確信した。

 

「わかった! 何て読むか里で聞いてくる!」

「そうしなさいな、そうしなさいな。そうして二度と戻ってくるな」

「むむぅ……明日、また来るからここで大人しく待ってるんだぞ! 怪我も深いんだからな!」

 

 そう言った少女は、木の皮を携えたまま走って茂みに隠れてしまった。

 獣は少女を追い払ったことで清々しい気持ちになるも、すぐ「明日もあの小娘に会うのか」とうんざりする。

 鏃さえ抜ければ、さっさとこの場から立ち去ってやるのに。

 獣は忌々しいこの状況を作り上げた機槍を見て、今気がついた。

 鏃が取れているのだ。

 足に深々と刺さっていた鏃が、ものの見事に体外へ摘出されている。

 獣は痛みに鈍かった。鏃に穿たれた時でさえ、蚊に刺されたくらいの違和感しかないくらい。それゆえ少女がいつ鏃を抜いたかなど、終ぞ気づけなかった。

 小娘が道具もなしにやり遂げた事実に獣は、目を丸くする。そして、あの少女が言っていたことを思い出す。

 

 ――大人しく待ってるんだぞ。

 

「ふん……」

 

 獣は鼻で笑った。誰が人間如きの言うことを聞くか、と。

 明日もあの小娘に会うことに嫌気がさしていた獣は、さっさと移動してしまおうと体を持ち上げる。

 しかし、変な倦怠感が身中を襲った。水が抜ける感覚とでも言えばいいだろうか。立ち上がろうとした足には力が入らず、それどころか妖術の類も使えそうにない。

 

(チッ、本当に面倒だな、呪具は)

 

 結局、獣は大人しく再びその場に体を落ち着かせるほかなかった。

 この罠を仕掛けた人間を大変忌々しいと感じながら、ゆっくりと重くなった瞼を閉じる。暗くなった視界には、さっきまでいた少女の顔が浮かんできた。こいつも忌々しい。また明日も来るのかと想像しただけで、全身の体毛が逆立ってしまう。

 只あれでも獣にとっては貸のある少女だ。無下にはできないと。

 獣は来るであろう面倒な事案に頭を抱え、ゆっくりと眠りについた。

 

 

■ ■

 

 

 ――数日後。

 

「で、私はなぜこんな小娘と遊んでいるの」

 

 自身の体毛に埋もれる少女を見て、獣は思わず呟いた。

 その娘は、しばしば獣の体毛に顔を埋め、無邪気な笑みを浮かべる。

 

「それは私が今日も一日暇をしているからだな。シラサワも食べるか? さっきそこで採った木の実だ」

「要らない。というか腹を下すぞ、小娘」

「大丈夫だろ、多分」

 

 シラサワ、少女がそう呼ぶようになったのは、出会った次の日のことである。

 獣は自身の名前を聞かれた際、「白沢」と真面目に書いてあげた。どうせ読めるわけがないと思っていたからだ、こんな辺鄙な場所で、文字が読める者もいないだろうと油断していた。

 けれど実際は、文字を読める僧侶が少女の住む里に運よく滞在していたらしい。少女は「白沢」と彫られた文字を見せ、僧侶から「それはシラサワと読む」と教えられたそうだ。

 実際は「ハクタク」と読むのが正解なのだが、まぁその間違いを正してやるほど、この獣――もといシラサワは性格が良くない。故に、獣の名は暫定で「シラサワ」となったのである。

 

「というか、私の名前は慧音だぞ。けーいーねー。いい加減『あんた』とか『小娘』とかやめてくれ」

 

 こちらは少女――もとい慧音と名乗る女の子が拗ねたように、頬を膨らませた。

 ここ数日ですっかりと見慣れてしまった光景である。と言っても、こんな山の深い場所にはシラサワと慧音以外だれも来ないのだが。

 

「あんた親の手伝いとかしなくていいの?」

「また、あんたって…………はぁ、織物とかしなきゃいけないけど、私あれ嫌いなんだ」

「そんなので良いのか。人間は適当だな」

「良いだよ、それで。お母さんの手伝いは他でちゃんとしているし。農作業はお兄ちゃんがしている。私、家族も大好きだから、そこはしっかりとしているんだ」

「家族、ねぇ……」

 

 シラサワが天上に広がる青空を見つめながら呟いた。

 慧音はそれにめざとく反応する。慧音は好奇心が旺盛な娘だった。しかもそれが、シラサワの事となると途端に爆発してしまう。

 今回も彼女の知的探求心に触れたのか、体を持ち上げてシラサワの顔を覗き込んだ。

  

「シラサワに家族はいないのか?」

「知らないわね。少なくとも私は生まれた時から一匹よ。物の怪だと普通そうでしょ」

 

 シラサワは孤高の獣である。いつ産まれたのかも不明。どこから生じたのかも知らない。シラサワだけに関わらず、物の怪というのは総じてそのような漠然とした生き物が大半を占めている。 

 中でも瑞獣でもあるシラサワは、一匹で居ることを好むきらいがあった。賢いから群れを嫌い、個として有能であるがため他の妖獣からも一線を画されている。

 遠い昔の先祖は異国の帝に知識を授けたらしいが、弱くて群れるだけしか能のない人間らに施しを与えるなど、シラサワにはどうも理解できなかった。爪を立ててやれば赤子のようにに泣き出し、ちょっと声をそばだてて脅せば牛のように首を垂れる。

 弱いから群れ、群れるから脆い。

 シラサワにとっての人間とは、成長の兆しの見えない、醜い畜生と同等であったのだ。

 

「それは、辛いな」

 

 なのに。

 慧音はシラサワの体に頭を預けながら、そう呟いた。

 

「辛い……? あんた、私が辛いって言ったの?」

「ああ、家族がいない、一人と言うのは、辛いものだ」

 

 シラサワは沸騰しそうな思考を胸の内に隠しながら、自身の体毛に頭を埋める慧音を見た。

 同情された。見下していた人間に憐憫の情を向けられた。

 それは獣の矜持として許されないことであった。腹を掻きむしりたくなるほど、深い憤怒を抱いてしまうほどのことであった。

 もしこの獣に思考する能力が不足していたならば、今頃その研がれた爪で慧音の柔肌を引き裂いたかもしれない。奇跡的に溜飲を下げ、軽音に言葉を投げかけられたのは、一重に獣の強固な理性によるものだ。

 

「……、何を分かった気に」

 

 シラサワの問いに少女は一度視線を下げると、手に持っていた木の実を手の中で転がした。

 

「分かるよ。私には家族がたくさんいるけど、もしいなかったらと思うと、きっと辛くて死んでしまう。一人っていうのは、それくらい怖いものなんだ」

「だから私と人間を一緒にしたというのか? 馬鹿馬鹿しい」

「一緒だよ」

 

 シラサワは、確かな声でそう言いきった慧音を見た。

 

「一人が嫌なのは物の怪も、人間も変わらないと思うんだ。だってそうだろ? こうして言葉を喋れるんだから。誰に聞かせるわけでもないなら、喋れる必要がないのに。誰かと語り合わないなら、相手の言葉を理解する必要もないのに……私とシラサワは今もこうして話し合えてる」

「……それは……」

「誰だって孤独は嫌だし、寂しいのは怖いもんだよ。辛いのは、苦しいのは味わいたくないものなんだ」

 

 慧音が不意に立ち上がる。腰に手を当てて、麗美な黒髪を棚引かせれば、ぐいっとシラサワの目玉に顔を近づけた。

 

「でも気にすることはない、シラサワ! 私はお前の家族だからな!」 

「――――はあ?」

「なんてたって、こうして共に寛ぐ仲だ! こんなに一緒にいるのなら、それはもう家族といっても過言じゃない! シラサワは私の妹にしてあげるから、これからはいつでも甘えて良いんだぞ!」

 

 私妹が欲しかったんだ、と慧音は笑う。薄い胸板に軽く拳を打てば、ぽんと剽軽な音が出た。

 慧音はよく笑う娘だった。

 それこそ、シラサワの牙が抜かれてしまうほどには。

 

「……誰がそんなことするものか」

「遠慮しなくて良いのに」

「ふん、傷さえ治ればあんたと会話なんてしないわ」

「それ何回目ー? もう聞き飽きた」

「うるさい、なんでこんな辺鄙な村に、退魔の罠が仕掛けられているのよ、過剰防衛じゃない!」

 

 そう罠だ、とシラサワは愚痴る。

 総て、全て、凡て呪具をしかけていた罠のせいである、と。

 今もなお高鳴る胸の動機も、一瞬でも小娘に心を許そうとした己の弱さも、シラサワはすべからず罠のせいにして思考を放棄した。

 

「多分、修行僧とかの人が仕掛けたんだろうな。この辺り霊験灼然で有名らしいから」

「なんなのよ、それ。少し力が高まりそうだからって、寄るんじゃなかったわ……」

「でも、そのおかげで傷の治りも早いんでしょ?」

「まあ、そうだけど」

「じゃあ、安静にしないとな。よーし、よし、いい子だなー」

「私は貴様の家畜かっ!? えーい、どうせ家族というのなら、私の方が何百倍も年上なんだ、せめて私が上だあろうが!」

 

 まぁ少しだけ。

 ほんの少しだけだが。

 シラサワは慧音との時間に嫌悪感が薄まっているのを認めるのだった。

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