君のための幻想郷 作:倭人
始まりは、そう、今より1300年以上も昔のことにございます。世では大宝律令が制定され、天皇による中央集権国家が様になってきた頃合いと言えばよろしいでしょうか。まあ、いずれにせよ、そのような時代あたりの事なのです。
人々の心は未だ安定しておらず、世には様々な不穏と不安が渦巻いておりました。律令による国家の統治は当時代の農民には厳しく、区分によっては生きる事さえ大変苦しいものだったのです。
そんな人間社会とは相反する存在も、この時代にはおりました。妖怪と呼ばれる物の怪でございます。
妖怪は人間達の恐怖心や信仰心を煽っては、それらを餌として跳梁跋扈し、常に人間達の隣人として付き纏うのです。
当然、人と妖怪は相入れぬ種族でございました。いえ、これは少し間違った表現となりましょう。正しくは互いの生存のため、相入れてはいけぬ存在なのです。
そんな今となっては遠き昔の頃、一人の男と一体の妖怪がおりました。
男は都に役人として仕えておりました。
名を「八雲」。
黒髪を短く垂らし、相手の全てを見透かすかのようなその墨色の瞳は、誰もが吸い込まれそうになる程端正で美しく、儚いものでありました。まさしく、何もかもを見通しているかのような慧眼と言えましょう。さらには、この時代では珍しく、白衣に黒と赤の小袖を着込み、特徴的な緋袴も合わさって、その統一感のなさも彼の着崩しによってか、大変な粋と感じさせるのでした。
かの者こそ、この物語の主役にして記録者でございます。
そして、そんな男の隣に侍る妖怪が一体。
名を「紫」と申します。
妖艶な色気を持つ唇に、眉にかかるあたりで切り揃えた艶やかな金色掛かった白髪。彼女が歩けば身に付けている紫色の衣が風に吹かれ、風流を感じさせるほどだったのでございます。気品漂うその出立は、男であれば誰もが二度見をしてしまうほどの、美麗さを持ち合わせていました。
さて、この妖怪がなぜ隣にいる男に付き従えているのか、当然気になった方もいることだと思います。妖怪と人間がこの時代において、共に過ごしているというのは何とも不思議なことなのですから、引っかからない方が可笑しいのです。
どうして、このような異色の組み合わせが出来たのか。その疑問を解決するためにも、まずはこの一人と一体の出会いの物語を最初のものとして飾り、語らせていただくとしましょう。
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第一章 『神祇官』
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都より東へ百里半ば。世に知られぬ秘境と讃えられるその山は、鬱蒼たる樹々に覆われ、空をも隠すほどの深い緑に包まれていた。樹海は生命の息吹を感じさせ、野の草花や山の獣たちは、豊かな自然の恵みの中、静かに繁栄していた。
そんな場所に、一人の男がやってきた。
名を、八雲という。
彼は草木をかき分けながら、道なき道を進んでいた。彼はこのような場所に慣れているのだろうか。絡みつく枝が頬を引っ掻き、虫どもがしつこく牙をむく。しかし、八雲はまるで悠然と歩む仙人のごとく、大股で荒野を進んでいった。
「やれやれ、思いのほか緑が濃い……本当にこちらであってるのかね」
独り言のように呟きながら、八雲は枝葉を払って潜り、道なき道を突き進む。途中、きょろきょろと辺りを見渡してみるも、視界に入ってくるのは、木に花に草に土ばかり。なんとも自然豊かな面子だ。如何なる人工の気配すらない。
さて、なぜこのような荒道を進むのか。
それは一概に男の生業に関係していた。
というのも、彼の仕事は日本で起きた問題ごとを解決するという大雑把極まりないものである。何かしらの問題ごとが日本のどこかで起きれば、その問題を解決するため日本各地どこへでも駆け付けなければならない。
今回もまたその例に漏れず、己の上司から勅令を受け、このような悪路とも呼べぬ道を歩かされていた。
「よっこらせ……本当に参った、今夜ばかりは茅葺の許で寝むりたかったが、叶わんやもしれん」
天を仰ぎ、八雲は苦笑いを浮かべながら呟く。厚い樹冠のため、方角を確かめるための空がほとんど見えなかったのだ。
歩き続けて今日で八日目。いくら野宿には慣れているといっても、流石にそろそろ心休まる場所で快眠をしたいという欲が、男の中に芽生えている。
それでも如才なく足や手を動かし続けられるのは、彼がこの職に就いてから長いという証明なのだろう。思考と体の動きを並列させながら、八雲はそれでもずんずんと奥へ進んでいく。
「ん?」
が、唐突な疑問符を浮かべた八雲は立ち止まる。これまで止めることを知らなかった足が、ここに来てようやく止まったのである。
顎を上げた八雲の視線の先には、一羽の烏が舞い降りていた。朱色に燃える眼差しで、まるで人を見下すかの様に目を光らせては、頭を振り、忙しなく羽ばたく黒鳥。
(何か、おかしい)
別に山中で烏に遭うこと自体は珍しからず、他の野鳥もまた、静かにこの地を彩る動物ではある。事実、あちらこちらに烏以外の野鳥も見受けられた。
しかし、烏というのは知恵ある生き物として知られる生物だ。人の営みを巧みに利用し、己の生活を豊かにするその知能を考えれば、八雲に対して全く警戒心を見せぬ烏は、いささか異様に映った。
「――――来い、前鬼」
八雲は異様さに気づき、腕を高く掲げ、烏に命じる。すると、烏は宿り木を見つけたかのように、軽快な身のこなしで八雲の腕へと飛び移った。
このような野鳥ではありえない行動をする烏は、決まって都にいる八雲の上司たちからの式神なのだ。何かを伝える際、このように伝令書を式神に擬態させ飛ばしてくる。
慣れた手つきで八雲は烏の額に指を当てると、瞬く間に先ほどまで確かに生きていた黒き鳥が、一枚の麻布へと変容した。
その麻布には、八雲の推測通り、都の者たちが下した伝令が記されていた。
「……こいつは面倒なことになりそうだ」
麻布に書かれた文字を読み進めるうち、八雲は幾度か思わずため息をつきそうになった。その衝動をぐっと堪え、読み終えた八雲が、その一言で締め括れたのは、まさに奇跡に等しいだろう。
何故ならば、文面にはこう記されていたからだ。
——我们前面的村子里有一个志許売。
小心,这个怪被认为是神祇。——
現代語に訳せば、
——この先にある人里にて物の怪がいると思われる。
しかし、その物の怪は土着神が堕ちた存在かも知れぬゆえ、十分に注意するべし——
何度も読み返したが、どうにも誤読はないと気づいた八雲は思わず嘆息する。妖怪退治の任を度々受ける八雲だが、神と呼ばれる存在に対峙するというのは、極めて稀なことであった。
それもそのはず、神様というのは一部の位高き神職か、はたまた、天に近き人間の元にしか馳せ参じない存在である。つまるところ、人間自らが会いに行こうとして、おいそれと気安く会って良い者では無いわけで、もし、人前に平然と出てくる神様がいるのであれば、それは余程力の無い神霊か、存在危機に陥っている神様くらいのものであろう。
今一度、文を見返してみる。そんな人間からすれば尊い存在が、物の怪になってしまっていると書かれた文をだ。
なんともはや、頭が痛くなる事案ではないだろうか。どのようなことをすれば、この神道盛んな時代で神が物の怪に転じてしまうのか思いつきもしないのだが、きっと浅からぬ経緯があるに違いない。事実、伝令書を送ってきた都側も半信半疑なようで、その部分を断言できていなかった。
しかし、本当に神様が物の怪に転じたのであれが、ここに書いている物の怪は、どちらにせよ尊大なる神霊と同種族ということになる。結局のところ、それなりの力を有している物の怪が、この先で待ち受けているという事に変わりはなかった。
「はぁ――――これが俺の天命の行く末かね」
そう腹を括る八雲。もう一度麻布に式神を入れて擬態化させれば、烏は目的地である人里の方角へと目を向いて「かぁかぁ」と鳴き始める。
現在、山の中腹あたりから見下ろしているが、人里思わしきものは一切見えない。どうやら、目的地はまだ遠くにあるようだ。眼前には、相も変わらず樹海が広がっているだけである。
八雲は悩んでいても仕方がないと思い、さっさと指し示された人里へと向かうことにした。
後ろから1人の少女に見られていると知りながら——。