押しかけ!チヨちゃん   作:宇宮 祐樹

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 元カノさんの後を追って着いた先は、駅の近くにあるラーメン屋さんでした。

 

「さっきも言った通り、チャンスはこの一度きりだからね」

 食券機の前で財布を開けながら、元カノさんが改めてそう言ってきましたけど。

 私には何のことかさっぱりで、よく分からないまま頷いてしまいました。

 

「とりあえず好きなの選びな。アタシは豚骨にするけど」

「えっと……じゃあ、私も同じものでお願いします」

「アンタよくつまんないヤツって言われない?」

 

 ぶつくさ文句を言いながらですけど、元カノさんは私の文の食券も買って。

 

「さて、じゃあルール説明といきますか」

 

 それからカウンター席に並んで座ったところで、ようやく話が始まりました。

 

「今からラーメンが届いて、アタシらはそれを食べるわけだけど……その間だけ、アタシはアンタの質問になんでも答えてあげる。質問は何回してもオッケーだし、アタシもその間はウソをつかない。大丈夫、ルールはちゃんと守るよ」

「質問……?」

「例えば、アイツの趣味は? って聞かれたら、アタシはギターって答える」

「……初めて聞きました、そんなの」

「ほら、証拠の動画もあるけど、見る?」

 

 あまりの衝撃に思わず叫ぶと、元カノさんは携帯を私に見せてきました。

 その画面には、誰も居ない教室でギターを弾く、一人の男子生徒が映っていて。

 髪色は今と違って黒いし、顔つきも今よりずっと若いですけど。

 間違いありません。このギターを弾いてる人、トレーナーさんです。

 

「はい、ここまでー」

「あっ! もうちょっとだけ! もうひと声お願いします!」

「……アンタ、なんかだんだん図々しくなってない?」

「気のせいです!」

 

 別にこの人、押せば意外とイケたり、なんて全然思ってません。

 

「とにかく、アンタの質問なら何でも答えてあげる。ただしさっきも言った通り、制限時間はラーメンが届いてから、アタシが食べ終えるまで。その間にアンタが、アタシをその気にさせる質問をしたら勝ち。アイツのこと助けさせてあげる」

「……分かりました」

 

 私が返事をしたのと、注文したラーメンが届いたのは、ほとんど同時でした。

 

「じゃ、スタート。頑張りなよー」

 

 割り箸をぱちんと外して、元カノさんは早速ラーメンを食べ始めました。

 それに倣って私もラーメンを食べ進めながら、質問を考えていきます。

 とはいっても、その気にさせる質問なんて、パッと思いつくはずもありません。

 とりあえずここは、当たり障りのないところから……。

 …………って、ちょっと!

 

「食べるの早くないですか!? ちゃんと噛めてるんですかソレ!?」

「だいじょーぶ。ラーメンって飲み物だから」

「それカレーで言うやつですよ!」

 

 私の三倍くらいの速さで、元カノさんはラーメンを食べ進めていきます。

 さっき来たばっかりなのに、もう半分くらいしか麺も残ってません。

 

「ほらほら、早くしないと食べ終わっちゃうよ?」

「そ、そんなこと言われたって……」

 

 なんてやってる間にも、元カノさんの分のラーメンはどんどん減っていきます。

 迷っているヒマはありません。とにかく、どんどん質問しないと。

 

「トレーナーさんとはいつからお知り合いなんですか?」

「中学入ってから、高校まで一緒だったよ。そっから先は別」

「え、えっと……じゃあ、付き合ったのはどうしてですか?」

「別に、流れで。アイツから告ってきて、アタシもまあいいかなって思っただけ」

「……楽しかったこととか、何かあれば!」

「特に何もないね。アイツといると退屈しなかったから、それだけで充分だった」

 

 ダメです。いくら質問をぶつけても、当たり障りない答えしか返ってきません。

 意図的なのか分かりませんけど、元カノさんの答えも淡々としてる気がします。

 いったいどうすれば、元カノさんはその気になってくれるんでしょう。

 

「アンタよかったね。アタシ、スープまで飲む派なんだ。まだ時間あるよ」

「えっ」

 

 気づけば元カノさんの器には、もうスープしか残っていませんでした。

 いくらなんでも食べるのが早すぎです。絶対に健康に悪いです。

 こうなると、時間的に質問できるのはあと一回が限度みたいです。

 でも、それを聞くだけで二人の核心に迫るような、そんな質問なんて……。

 …………あ。

 

「どうして、トレーナーさんと別れることになったんですか?」

 

 そこではじめて、元カノさんは箸を進める手を止めました。

 

「……アタシがアイツを捨てたから」

「捨てた?」

「そう。アイツにとって、アタシはもう必要なくなったってこと」

 

 そうやって話す元カノさんは悲しそうというより、どこか寂しそうでした。

 

「……その時間に答えるには、ラーメン食べながらじゃ時間が足りないね」

 

 すると元カノさんは器を持ち上げてから、一気にスープを飲み干して。

 

「いいよ、話してあげる。どうしてアタシが、アイツに捨てられたのか」

 

 私の目を見ながら、そう言いました。

 

 

「アイツのギター、上手かったんだよ」

 

 ラーメン屋の帰り道で、元カノさんはぽつりぽつりと話してくれました。

 

「中学の全国コンテストで確か、三位だったかな? アタシも好きだったんだよ、アイツのギター。だからアイツがバンドやりたいって言った時、嬉しかった」

「……元カノさんも、楽器を?」

「アタシはベース。中学に軽音部がなかったから、知り合いのスタジオ借りてさ。学校終わってから夜になるまで、バカみたいにずーっとそこで練習してた」

 

 その時のことを懐かしむように、元カノさんは笑っていましたけど。

 やっぱりその表情にはどこか、寂しさが見え隠れしているような気がしました。

 

「アイツと一緒に音楽やってる毎日は、本当に楽しかったんだ」

「だから、トレーナーさんとお付き合いを始めたんですか?」

「んー……ってよりは、たぶんアイツもアタシと同じ考えだったんじゃないかな。スタジオから帰るって時に、大事な話があるってアイツに言われて……そのまま。つまりアタシもアイツも両想いだった、ってワケ。青春してたね、あの頃は」

「そうだったんですね」

 

 同じ気持ちだった、というのは少しだけ分かります。

 だってトレーナーさんと元カノさん、どこか似てますから。

 

「一緒に入った高校には軽音部があったから、そこへ一緒に入部したんだ。まあ、正直レベルは低かったけど……それでも楽しかったよ。ライブも何回かやったし、仲間も増えた。……アイツとの仲も、これまで以上になった」

「順風満帆ですね」

「だよね。アタシもそう思ってた。このまま二人でずっとやってくんだな、って。そこはたぶん、アイツもアタシと同じだった気がする」

「……だったら、どうしてトレーナーさんと別れることに?」

 

 そこで一度、元カノさんは静かにため息を吐いてから。

 

「アイツ、妹がいたんだよ」

 

 なんてことを言い出して。

 

「トレーナーさんに、妹? そんなの、一言も……」

「だろうね。だってあの子、もう死んじゃってるもん」

「え…………」

「だから言ったでしょ? 妹が『いた』って」

 

 その言葉が本当だということは、すぐに分かりました。

 だって話を続ける元カノさんの目が、すごく悲しそうでしたから。

 

「……高校二年の秋だった。アタシも細かいところまでは未だに聞いてないけど、両親と妹で出かけてたんだって。そんで、その帰りに交通事故に遭ったみたいで」

「ということは、もしかしてご両親も……」

「そうだよ。二人とも即死。でも、アイツの妹だけはまだなんとか生きてたんだ。頭の中に鉄の破片が食い込んで、ほとんど寝たきりの身体になったけどね」

「…………………………」

 

 間を繋ぐ言葉の一つも出ませんでした。

 だって、こんなの……あんまりじゃないですか。

 ご両親を事故で失って、唯一残った家族の妹さんも寝たきりになって。

 高校二年ってことは……私とほぼ同じ歳で、そんなことを経験していたなんて。

 私ならきっと耐えられません。ショックでおかしく――。

 

「……もしかして、今のトレーナーさんがあんな風になったのは」

「そういうこと」

 

 私の問いかけに、元カノさんはすんなりと頷きました。

 

「アイツ、妹のために必死になってたなあ。あれだけ頑張ってたギターも止めて、勉強とバイトばっかりするようになった。高校卒業したらトレーナーになるんだ、って言うようになった。稼げるからね。……そこから、アイツは変わったんだ」

「今みたいに、ですか?」

「ああ。全部捨てたんだ。趣味でやってたギターも、一緒にバカやってた友達も。そんで、最後にアタシが捨てられたってワケ。分かりやすいでしょ?」

 

 手をひらひらと振りながら、元カノさんはそう話しました。

 

「高校出たあとは、すぐにトレーナーの専門学校に通うようになった。もちろん、アタシとは別の進学先。そこで必死に勉強して、二年で資格も取って……それで」

「……それで、どうなったんですか?」

 

 そこで一度言葉を詰まらせた元カノさんは、小さく首を横に振って。

 

「アイツの妹は、アイツがトレーナーになってから、すぐに死んだよ」

 

 私の質問に、そう答えました。

 

「ギリギリ間に合わなかったんだ。トレーナーになって妹のための治療費を稼ぐ、って考えも、全部なかったことになった。運が悪かった、としか言いようがない。誰が悪いってワケでもない。……どうしようもない話だよ、ホントに」

「そんな……」

 

 元カノさんは淡々と、感情を押し殺したような声で話してくれました。

 

「その後アイツがどうなったのかは、たぶんアンタの方が知ってるんじゃない? だって次にアタシがアイツを見たのは、アンタが日本ダービーを獲った時だもん。一緒にテレビに出てたよね。驚いたよ。まだトレーナーやってたんだ、って」

 

 そこで元カノさんは、改めて私に向き直ってから。

 

「聞いてもいい? トレーナーの契約する時、アイツ何て言われたの?」

「えっと、トレーナーさんは……私に一目惚れした、って」

「ふーん……一目惚れ、ねえ」

 

 すると元カノさんは私の目をずい、と覗き込んで。

 

「確かに。アンタ、どことなくアイツの妹に似てるかも」

「……だから、トレーナーさんは私を?」

「今のアイツのことを考えたら、あり得ない話じゃないね」

 

 私も、それは否定できませんでした。

 だってトレーナーさんは「担当させてほしい」って私にお願いしてきたんです。

 確かに目を惹くような才能があったり、模擬レースの戦績もいい生徒さんなら、トレーナー側からそういうお願いをされることもあるかもしれません。

 でも、当時の私はどれだけ頑張っても、良くて中の上くらいでしたから。

 とてもトレーナーの方からお願いされる、みたいな立場じゃありませんでした。

 なのに、トレーナーさんが私にそういう「お願い」をしてきたのは、つまり。

 

「私を、亡くなった妹さんと重ねてる……」

「そういうコトだろうね」

 

 行きついた結論に、元カノさんは小さく言葉を返して来ました。

 

「とにかく、この勝負はアンタの勝ちだ。アイツのこと、アンタに任せてみる」

「ありがとうございます」

「まあ、どうせアタシが何か言ったところで、アイツには何も届かないだろうし。アンタの口から言ってやった方が、アイツも少しは聞く耳も持つでしょ」

 

 どこか諦めたような口調で、元カノさんはそう言いました。

 

「もうアイツには、アンタの言葉しか届かないんだよ」

 

 それから元カノさんは、私の肩に手を置いてから。

 

「お願いだから、アイツを救ってやって。……頼んだよ」

 

 縋るような声で、言いました。

 

 

「ただいま~」

 

 トレーナーさんが帰宅したのは、二十三時を少し過ぎた頃でした。

 

「おかえりなさい、トレーナーさん。お風呂にしますか? それとも何か……」

「うへへ……チヨちゃんだあ……」

「うわぁ!?」

 

 私が言い終わるよりも先に、そのままトレーナーさんが抱き着いてきて。

 

「ちょっと、トレーナーさん……」

「チヨちゃん、ほんとに俺のこと待っててくれたの……?」

「当たり前じゃないですか。トレーナーさんを一人になんてしませんよ」

「うれしい……ありがと、チヨちゃん……」

「でもお酒くさいからちょっと離れてください!」

 

 ベロベロです。完全に出来上がっちゃってます。

 元よりお酒を飲んでいるところを見たことがない、という話はありますけど。

 それにしても、こんなヘロヘロでフラフラのトレーナーさん、初めて見ました。

 よっぽど飲み会が楽しかったみたいです。それはそれで、いいことですけど。

 明日がお休みとはいえ、早く寝かせてあげないと大変なことになりそうです。

 

「シャワー浴びますか? それとも、何か飲みますか?」

「チヨちゃん吸う……」

「ダメです!」

 

 私なんて吸ったところで、酔いがさめるわけでもありませんし。

 だいたい、こんなお酒くさいトレーナーさんなんてお断りです。

 

「ほら、まずはお水飲みましょう? 歩けますか?」

「むりかも……」

「もう……分かりました。じゃあ、少し待っててください」

 

 なんとかトレーナーさんをベッドに座らせてから、キッチンへ向かって。

 コップに水を注いで戻ると、既にトレーナーさんはべッドに倒れていました。

 

「トレーナーさん?」

「う……ご、ごめ…………」

「大丈夫ですか? お水、飲めますか?」

「うん……ありがと」

 

 ゆっくりと身体を起こしたトレーナーさんは、私の手からコップを受け取って。

 そのまま一気に水を飲み干すと、力尽きたようにベッドへ倒れてしまいました。

 どうやら体力の限界だったみたいです。

 

「まったく……トレーナーさんったら、仕方ありませんね」

 

 こうなったら、シャワーと着替えは起きてからにしましょう。

 明日が休みでよかったです。こんな状態でお仕事なんて、できっこありません。

 とにかく、お疲れみたいですからゆっくり寝かせてあげないと。

 そう思って、トレーナーさんの体に布団をかけてあげたところで。

 

「……ごめん、な」

 

 まだ微かに意識があるのか、トレーナーさんからそんな言葉が返ってきました。

 

「構いませんよ。私も、勝手にお邪魔してる身ですから」

「ごめん……ごめんよ……」

「もう、どうしたんですか? さっきから謝ってばかりですよ?」

「ごめんなあ……」

 

 私がそう言っても、トレーナーさんはずっとそうやって謝り続けていました。

 きっとお酒のせいで、まだ意識がふわふわしてるんだと思います。

 今はとにかく、そっとしておいてあげましょう。それが一番だと思います。

 そうして私も寝る準備をするために、ベッドから離れようとしたところで。

 トレーナーさんが、私の服の袖を掴んでいることに気が付きました。

 

「……ごめん」

 

 絞り出すような声でした。子供が泣くのを我慢しているような、そんな。

 そうしてトレーナーさんは、うっすらと開いた目で私のことを見つめながら。

 

「お兄ちゃん、間に合わなくてごめんな……」

 

 今にも泣きだしそうな子供みたいな声で、そう言いました。

 

「……っ、トレーナーさん……!」

 

 私が呼びかけた時にはもう、トレーナーさんは寝息を立てていました。

 服の袖を掴んでいた手も、いつの間にか放しています。

 

 ……今の言葉で、はっきりしました。

 やっぱりトレーナーさんは、亡くなった妹さんと私を重ねています。

 そうでもしないと、妹さんを失った事実に耐えられなかったんだと思います。

 一目惚れなんて理由で担当になったのも、私をそばに置いておきたかったから。

 私を過剰なくらいに甘やかすのも、本当は妹さんにそうしてあげたかったから。

 そう考えると、今まで感じていた違和感にも説明が付きます。

 

 きっと妹さんを失った悲しみを、私で埋めようとしているだけだったんです。

 私を「代わり」にして、必死にその事実から目を背けていたんです。

 あの優しさも笑顔も、本当は妹さんに向けたかったものなんです。

 

「……………………」

 

 別にそのことを責めるつもりなんてありません。

 私にその資格があったとしても、そんな酷いこと私はできません。

 トレーナーさんのことを嫌いにもなれません。

 むしろ私でよければ、いくらでも「代わり」にしてくれて構いません。

 トレーナーさんがもう悲しまなくてよくなるなら、それでいいんです。

 

 ……でも。

 本当に、このままでトレーナーさんは幸せになれるんでしょうか。

 妹さんを失った事実から、ずっと目を背け続けるつもりなんでしょうか。

 自分を騙し続けながら生きていくのは、正しいことなんでしょうか。

 私にその答えは分かりません。私みたいな子供に、分かるはずもありません。

 でも、一つだけ確かなのは。

 

「……私は、サクラチヨノオーです」

 

 傍で寝ているトレーナさんにすら聞こえないくらい、静かな声で。

 私は、トレーナーさんに、そして自分自身にそう言い聞かせました。

 

 

 翌日。

 

「っ…………頭いてぇ……」

 

 案の定、トレーナーさんは二日酔いでダウンしていました。

 

「大丈夫ですか? お水、用意しましたけど」

「ああ、ありがと……いや、ホント助かるよ……」

 

 受け取った水を一気に飲み干しても、トレーナーさんはまだ気分が悪そうで。

 そのままベッドに仰向けになって倒れると、辛そうな声を上げ始めました。

 

「あー……きもぢわり……」

「トレーナーさん、お酒弱いんですね」

「実はね。自分からもそう言ってるのに、昨日はドンドン飲まされちゃってさあ。最悪だよホント。チヨちゃんも大人になったらお酒には気をつけなよ?」

「分かりました。今のトレーナーさんみたいにはなりたくありませんから」

「あはは……まあ、反面教師になったなら、それでもいいかな」

「……もし酷いようでしたら、今からでもお薬買ってきましょうか?」

「いや、大丈夫……もうちょい時間経てばなんとかなる……ハズ」

 

 時間が解決してくれるとは思えない顔色のまま、トレーナーさんは答えました。

 

「ところで俺、チヨちゃんに何か変なことしてないよね……?」

「心配しなくても、昨日は帰った途端にぐっすりでしたから大丈夫ですよ」

「そっか。ならよかった……」

 

 昨日のことは、ほとんど忘れちゃってるみたいです。

 あれだけ酔っていたらそれも当然かもしれませんけど。

 でも、トレーナーさんにとってはその方がよかったのかもしれません。

 

「……ダメだなあ、こりゃ。今日はもう、ベッドの上で過ごすことになるかも」

「それなら、家事は私がしますから。トレーナーさんはゆっくり休んでください」

「……ごめんね」

「気にしないでください」

 

 申し訳なさそうにするトレーナーさんに、私はできるだけ笑顔で返しました。

 

「ご飯はどうしますか? 簡単なものなら用意できますけど……」

「あー……いや、お昼まで待つよ。今は気持ち悪さの方が勝ってるから……」

「じゃあ、それまでお部屋の掃除でもしておきますね」

「ありがとー……うぅ……」

 

 最後にそう言って、トレーナーさんはもう一度目を閉じました。

 どうやら二度寝に入っちゃったみたいです。そっとしておきましょう。

 

「さて、と……」

 

 トレーナーさんの寝顔を見届けた後、私はお掃除に手をつけることにしました。

 来た時は綺麗だったこのお部屋も、今はそこそこ散らかっています。

 そもそもこのお部屋が綺麗だった理由は、単純にモノが少なかったからで。

 私が来てから、トレーナーさんは色々なものを買うようになりました。

 曰く、「チヨちゃんが不自由しないようにね」ということらしいですけど。

 

「それにしたって、やっぱり買い過ぎですよ……」

 

 ゴミ箱代わりのビニール袋を纏めながら、ふと口からそんな言葉が漏れました。

 大きいものだと、私が来た時に買った炊飯器とオーブンレンジがそうですし。

 小さいものだと調理器具やお洋服、あとは化粧品も買ってくれました。

 果てには私がちょっといいな、って思った本や雑貨まで、手当たり次第です。

 

「…………………………」

 

 私には分かります。

 トレーナーさんの優しさは、本当は妹さんに向けたかったものなんだって。

 私を甘やかしてくれるのは素直に嬉しいです。そこにウソはありませんから。

 私を妹さんの「代わり」として見ていることを、咎めるつもりもありません。

 元カノさんが言っていた通り、仕方のないことだと思いますから。

 

 ……だけど、このままなんてやっぱりダメだと思うんです。

 どれだけ私が頑張っても、結局は「代わり」にしかなれないんですから。

 いつかは崩れる日が来ます。歪みに耐えられなくなって、壊れてしまう日が。

 むしろ、三年間も保った方が奇跡なのかもしれません。

 だから変えないといけないんです。トレーナーさんを。そして、私自身を。

 でも。

 

「一番つらくなるのは、トレーナーさんですよ……」

 

 それはきっと、トレーナーさんを追い詰めてしまうことになるんだと思います。

 今でさえこんなに苦しんでいるのに、これ以上なんて私の方が耐えられません。

 でも、今のままでいたら、いつまで耐えられるのかも分からないのも事実です。

 

「……どうすればいいんですか、こんなの」

 

 何かがひらひらと足元に落ちてきたのは、私がそう零したときでした。

 

「あれ?」

 

 拾い上げたそれは、一枚の写真でした。

 きっとビニール袋を纏めていた時に、袋の口から落ちたんだと思います。

 ……考え事のしすぎですね。いけません、しっかりしないと。

 気持ちを切り替えて、写真をゴミ袋へ戻そうとしたところで、ふと。

 

「これ……」

 

 写真に写っていたのは、一人の男の子と小さなウマ娘さんでした。

 場所はどこかの広い公園。満開の桜の下で、その二人は笑顔を浮かべています。

 二人とも制服でした。見た限りでは、同じ学校のものだと思います。

 ……もしかして

 

「トレーナーさんと……妹さん?」

 

 男の子の方は今よりずっと幼いですけど、トレーナーさんの面影があります。

 となると、女の子の方は妹さんと考えるのが自然な気がします。

 二人とも楽しそうに笑っていました。その後ろで咲いている桜も満開ですから、入学式か卒業式のどちらかで撮ったものなんだと思います。

 思い出の写真です。かけがえのない、大事な一枚です。

 ……でも、どうしてこんな大切そうな写真が、ゴミ箱なんかに。

 

「触らないで」

 

 後ろからトレーナーさんの声が聞こえてきたのは、そんな時でした。

 

「トレーナーさん……?」

「……いいから。それから手、離して」

 

 気まずそうに頭を掻きながら、トレーナーさんは続けました。

 

「ゴミは俺が纏めておくよ。だからチヨちゃんは買い物でも行ってきて」

「でも……」

「そうだ、今日のご飯はカレーがいいな。二日酔いに効くってどっかで聴いたし。材料、残ってなかったよね? また作ってよ。ウチに来た時みたいにさ」

 

 私の言葉を聞く気もないみたいで、トレーナーさんは立て続けに話しました。

 怖いです。私の知ってるトレーナーさんとは、まるで別人みたいでした。

 でも、当然と言えば当然なのかもしれません。

 だって、私に見せたくなかった――見せずはずもなかったんですよね。

 この写真も、そんな怯えたような顔も。悲しそうな目も、ぜんぶ。

 

「妹さん……ですか?」

「……………………」

 

 私の言葉に、トレーナーさんは何も答えませんでした。

 普段は私が何か口にしたら、絶対に何か言ってくれるのに。

 

「いいから、それ返して」

 

 なんて強引に、トレーナーさんは私の手から写真を奪おうとして。

 

「っ……!」

 

 次の瞬間、ひりつくような痛みが指先から伝わってきました。

 指先に目を落とすと、そこにはうっすらと赤い切り傷が通っています。

 …………痛い。

 

「あ………………」

 

 見上げると、トレーナーさんは呆然としたまま、私の手を取って。

 

「あ、いや、違う……違うんだよ。俺、そんなつもりじゃなく……て」

「……大丈夫です。気にしないでください」

「でも、血が……そ、そうだ。絆創膏。すぐに取って……」

「これくらい平気ですから」

 

 そうです。別に、これくらいの痛みなんて気にもなりません。

 今のトレーナーさんに比べたら、こんな小さな痛みなんて。

 

「……ごめん。ごめんよ……」

 

 青ざめた顔のまま、トレーナーさんは私の手を優しく握りしめました。

 目も合わせてくれません。俯いたまま、うわごとのように謝り続けています。

 ……こんなトレーナーさん、見たくなかったのに。

 私のせいです。私が、勝手にトレーナーさんの過去に触れてしまったから。

 だから、こんなに怯えているんです。私がここまで追い詰めてしまったんです。

 ……ごめんなさい。

 

「買い物、行ってきますね」

「ぁ……」

「カレーの材料、買ってきますから。楽しみにしててください」

 

 それだけ言って、私は逃げるようにその場を後にしました。

 

 

 トレーナーさんに必要なのは、過去と向き合うこと。

 妹さんが亡くなってしまった事実を受け入れて、それを乗り越えることです。

 でも、それはトレーナーさんにとって、死ぬよりも辛いことなんだと思います。

 私に向けたあの表情を見れば、そんなことは嫌でも分かります。

 

 きっとトレーナーさんは、妹さんのことが大好きだったんだと思います。

 だって、誰よりも、何よりも大切な、たった一人の家族だったんですから。

 そんな大事な人が亡くなってしまった事実を、受け入れられなくて。

 だからトレーナーさんは、私を妹さんの「代わり」にしたんです。

 

 私という「代わり」を甘やかして、可愛がることで、必死に耐えていたんです。

 トレーナーとしてのお仕事をサボりがちで、私に構ってばっかりだったことも。

 あんな何もない寂しい部屋に、一人で住んでいて何も思わなかったことも。

 全部、妹さんを失った悲しみから目を背けるためだったんです。

 私のことだけを考えることで、トレーナーさんは自分を保っていたんです。

 それが間違ってるとは言えません。仕方のないことでしたから。

 

 でも。

 今のままでいたら、いつかトレーナーさんは壊れてしまうと思うんです。

 それも、そう遠くないうちに。小さなきっかけで全てが崩れる気がします。

 きっと元カノさんは、そのことに気づいていたんです。

 だから、トレーナーさんを助けようとして、毎日のように連絡を続けて。

 でも、トレーナーさんはそれをずっと拒み続けていました。

 

『もうアイツには、アンタの言葉しか届かないんだよ』

 

 元カノさんが最後に渡してくれた、その言葉の意味。

 それが分からないほど、私はもう子供じゃありません。

 今のトレーナーさんを救えるのは、他の誰でもない、私だけなんです。

 だから元カノさんは、私にトレーナーさんのことを託してくれたんです。

 

 こんなことになるなら、なんて情けないことは言いません。

 知ってしまった以上、私にはトレーナーさんを助ける責任があるんです。

 それがどれだけ残酷で、たとえトレーナーさんに嫌われることになっても。

 トレーナーさんのためなら、私はなんだってしてみせます。

 だって私は、トレーナーさんのことを好きになっちゃったんですもん。

 そんな人が苦しんでるなら、助けてあげたいと思うのは当然じゃないですか。

 

 トレーナーさんに必要なのは、過去と向き合うこと。

 今のままじゃ、ただ足踏みをしているだけで、ずっと前に進めないままです。

 だから、私がトレーナーさんの背中を押してあげるしかないんです。

 妹さんの「代わり」としての私じゃなく。

 トレーナーさんのことが大好きな、「サクラチヨノオー」として。

 

 待つことには、慣れてます。

 でも、もう待ってるだけの私じゃありません。

 

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