■
元カノさんの後を追って着いた先は、駅の近くにあるラーメン屋さんでした。
「さっきも言った通り、チャンスはこの一度きりだからね」
食券機の前で財布を開けながら、元カノさんが改めてそう言ってきましたけど。
私には何のことかさっぱりで、よく分からないまま頷いてしまいました。
「とりあえず好きなの選びな。アタシは豚骨にするけど」
「えっと……じゃあ、私も同じものでお願いします」
「アンタよくつまんないヤツって言われない?」
ぶつくさ文句を言いながらですけど、元カノさんは私の文の食券も買って。
「さて、じゃあルール説明といきますか」
それからカウンター席に並んで座ったところで、ようやく話が始まりました。
「今からラーメンが届いて、アタシらはそれを食べるわけだけど……その間だけ、アタシはアンタの質問になんでも答えてあげる。質問は何回してもオッケーだし、アタシもその間はウソをつかない。大丈夫、ルールはちゃんと守るよ」
「質問……?」
「例えば、アイツの趣味は? って聞かれたら、アタシはギターって答える」
「……初めて聞きました、そんなの」
「ほら、証拠の動画もあるけど、見る?」
あまりの衝撃に思わず叫ぶと、元カノさんは携帯を私に見せてきました。
その画面には、誰も居ない教室でギターを弾く、一人の男子生徒が映っていて。
髪色は今と違って黒いし、顔つきも今よりずっと若いですけど。
間違いありません。このギターを弾いてる人、トレーナーさんです。
「はい、ここまでー」
「あっ! もうちょっとだけ! もうひと声お願いします!」
「……アンタ、なんかだんだん図々しくなってない?」
「気のせいです!」
別にこの人、押せば意外とイケたり、なんて全然思ってません。
「とにかく、アンタの質問なら何でも答えてあげる。ただしさっきも言った通り、制限時間はラーメンが届いてから、アタシが食べ終えるまで。その間にアンタが、アタシをその気にさせる質問をしたら勝ち。アイツのこと助けさせてあげる」
「……分かりました」
私が返事をしたのと、注文したラーメンが届いたのは、ほとんど同時でした。
「じゃ、スタート。頑張りなよー」
割り箸をぱちんと外して、元カノさんは早速ラーメンを食べ始めました。
それに倣って私もラーメンを食べ進めながら、質問を考えていきます。
とはいっても、その気にさせる質問なんて、パッと思いつくはずもありません。
とりあえずここは、当たり障りのないところから……。
…………って、ちょっと!
「食べるの早くないですか!? ちゃんと噛めてるんですかソレ!?」
「だいじょーぶ。ラーメンって飲み物だから」
「それカレーで言うやつですよ!」
私の三倍くらいの速さで、元カノさんはラーメンを食べ進めていきます。
さっき来たばっかりなのに、もう半分くらいしか麺も残ってません。
「ほらほら、早くしないと食べ終わっちゃうよ?」
「そ、そんなこと言われたって……」
なんてやってる間にも、元カノさんの分のラーメンはどんどん減っていきます。
迷っているヒマはありません。とにかく、どんどん質問しないと。
「トレーナーさんとはいつからお知り合いなんですか?」
「中学入ってから、高校まで一緒だったよ。そっから先は別」
「え、えっと……じゃあ、付き合ったのはどうしてですか?」
「別に、流れで。アイツから告ってきて、アタシもまあいいかなって思っただけ」
「……楽しかったこととか、何かあれば!」
「特に何もないね。アイツといると退屈しなかったから、それだけで充分だった」
ダメです。いくら質問をぶつけても、当たり障りない答えしか返ってきません。
意図的なのか分かりませんけど、元カノさんの答えも淡々としてる気がします。
いったいどうすれば、元カノさんはその気になってくれるんでしょう。
「アンタよかったね。アタシ、スープまで飲む派なんだ。まだ時間あるよ」
「えっ」
気づけば元カノさんの器には、もうスープしか残っていませんでした。
いくらなんでも食べるのが早すぎです。絶対に健康に悪いです。
こうなると、時間的に質問できるのはあと一回が限度みたいです。
でも、それを聞くだけで二人の核心に迫るような、そんな質問なんて……。
…………あ。
「どうして、トレーナーさんと別れることになったんですか?」
そこではじめて、元カノさんは箸を進める手を止めました。
「……アタシがアイツを捨てたから」
「捨てた?」
「そう。アイツにとって、アタシはもう必要なくなったってこと」
そうやって話す元カノさんは悲しそうというより、どこか寂しそうでした。
「……その時間に答えるには、ラーメン食べながらじゃ時間が足りないね」
すると元カノさんは器を持ち上げてから、一気にスープを飲み干して。
「いいよ、話してあげる。どうしてアタシが、アイツに捨てられたのか」
私の目を見ながら、そう言いました。
■
「アイツのギター、上手かったんだよ」
ラーメン屋の帰り道で、元カノさんはぽつりぽつりと話してくれました。
「中学の全国コンテストで確か、三位だったかな? アタシも好きだったんだよ、アイツのギター。だからアイツがバンドやりたいって言った時、嬉しかった」
「……元カノさんも、楽器を?」
「アタシはベース。中学に軽音部がなかったから、知り合いのスタジオ借りてさ。学校終わってから夜になるまで、バカみたいにずーっとそこで練習してた」
その時のことを懐かしむように、元カノさんは笑っていましたけど。
やっぱりその表情にはどこか、寂しさが見え隠れしているような気がしました。
「アイツと一緒に音楽やってる毎日は、本当に楽しかったんだ」
「だから、トレーナーさんとお付き合いを始めたんですか?」
「んー……ってよりは、たぶんアイツもアタシと同じ考えだったんじゃないかな。スタジオから帰るって時に、大事な話があるってアイツに言われて……そのまま。つまりアタシもアイツも両想いだった、ってワケ。青春してたね、あの頃は」
「そうだったんですね」
同じ気持ちだった、というのは少しだけ分かります。
だってトレーナーさんと元カノさん、どこか似てますから。
「一緒に入った高校には軽音部があったから、そこへ一緒に入部したんだ。まあ、正直レベルは低かったけど……それでも楽しかったよ。ライブも何回かやったし、仲間も増えた。……アイツとの仲も、これまで以上になった」
「順風満帆ですね」
「だよね。アタシもそう思ってた。このまま二人でずっとやってくんだな、って。そこはたぶん、アイツもアタシと同じだった気がする」
「……だったら、どうしてトレーナーさんと別れることに?」
そこで一度、元カノさんは静かにため息を吐いてから。
「アイツ、妹がいたんだよ」
なんてことを言い出して。
「トレーナーさんに、妹? そんなの、一言も……」
「だろうね。だってあの子、もう死んじゃってるもん」
「え…………」
「だから言ったでしょ? 妹が『いた』って」
その言葉が本当だということは、すぐに分かりました。
だって話を続ける元カノさんの目が、すごく悲しそうでしたから。
「……高校二年の秋だった。アタシも細かいところまでは未だに聞いてないけど、両親と妹で出かけてたんだって。そんで、その帰りに交通事故に遭ったみたいで」
「ということは、もしかしてご両親も……」
「そうだよ。二人とも即死。でも、アイツの妹だけはまだなんとか生きてたんだ。頭の中に鉄の破片が食い込んで、ほとんど寝たきりの身体になったけどね」
「…………………………」
間を繋ぐ言葉の一つも出ませんでした。
だって、こんなの……あんまりじゃないですか。
ご両親を事故で失って、唯一残った家族の妹さんも寝たきりになって。
高校二年ってことは……私とほぼ同じ歳で、そんなことを経験していたなんて。
私ならきっと耐えられません。ショックでおかしく――。
「……もしかして、今のトレーナーさんがあんな風になったのは」
「そういうこと」
私の問いかけに、元カノさんはすんなりと頷きました。
「アイツ、妹のために必死になってたなあ。あれだけ頑張ってたギターも止めて、勉強とバイトばっかりするようになった。高校卒業したらトレーナーになるんだ、って言うようになった。稼げるからね。……そこから、アイツは変わったんだ」
「今みたいに、ですか?」
「ああ。全部捨てたんだ。趣味でやってたギターも、一緒にバカやってた友達も。そんで、最後にアタシが捨てられたってワケ。分かりやすいでしょ?」
手をひらひらと振りながら、元カノさんはそう話しました。
「高校出たあとは、すぐにトレーナーの専門学校に通うようになった。もちろん、アタシとは別の進学先。そこで必死に勉強して、二年で資格も取って……それで」
「……それで、どうなったんですか?」
そこで一度言葉を詰まらせた元カノさんは、小さく首を横に振って。
「アイツの妹は、アイツがトレーナーになってから、すぐに死んだよ」
私の質問に、そう答えました。
「ギリギリ間に合わなかったんだ。トレーナーになって妹のための治療費を稼ぐ、って考えも、全部なかったことになった。運が悪かった、としか言いようがない。誰が悪いってワケでもない。……どうしようもない話だよ、ホントに」
「そんな……」
元カノさんは淡々と、感情を押し殺したような声で話してくれました。
「その後アイツがどうなったのかは、たぶんアンタの方が知ってるんじゃない? だって次にアタシがアイツを見たのは、アンタが日本ダービーを獲った時だもん。一緒にテレビに出てたよね。驚いたよ。まだトレーナーやってたんだ、って」
そこで元カノさんは、改めて私に向き直ってから。
「聞いてもいい? トレーナーの契約する時、アイツ何て言われたの?」
「えっと、トレーナーさんは……私に一目惚れした、って」
「ふーん……一目惚れ、ねえ」
すると元カノさんは私の目をずい、と覗き込んで。
「確かに。アンタ、どことなくアイツの妹に似てるかも」
「……だから、トレーナーさんは私を?」
「今のアイツのことを考えたら、あり得ない話じゃないね」
私も、それは否定できませんでした。
だってトレーナーさんは「担当させてほしい」って私にお願いしてきたんです。
確かに目を惹くような才能があったり、模擬レースの戦績もいい生徒さんなら、トレーナー側からそういうお願いをされることもあるかもしれません。
でも、当時の私はどれだけ頑張っても、良くて中の上くらいでしたから。
とてもトレーナーの方からお願いされる、みたいな立場じゃありませんでした。
なのに、トレーナーさんが私にそういう「お願い」をしてきたのは、つまり。
「私を、亡くなった妹さんと重ねてる……」
「そういうコトだろうね」
行きついた結論に、元カノさんは小さく言葉を返して来ました。
「とにかく、この勝負はアンタの勝ちだ。アイツのこと、アンタに任せてみる」
「ありがとうございます」
「まあ、どうせアタシが何か言ったところで、アイツには何も届かないだろうし。アンタの口から言ってやった方が、アイツも少しは聞く耳も持つでしょ」
どこか諦めたような口調で、元カノさんはそう言いました。
「もうアイツには、アンタの言葉しか届かないんだよ」
それから元カノさんは、私の肩に手を置いてから。
「お願いだから、アイツを救ってやって。……頼んだよ」
縋るような声で、言いました。
■
「ただいま~」
トレーナーさんが帰宅したのは、二十三時を少し過ぎた頃でした。
「おかえりなさい、トレーナーさん。お風呂にしますか? それとも何か……」
「うへへ……チヨちゃんだあ……」
「うわぁ!?」
私が言い終わるよりも先に、そのままトレーナーさんが抱き着いてきて。
「ちょっと、トレーナーさん……」
「チヨちゃん、ほんとに俺のこと待っててくれたの……?」
「当たり前じゃないですか。トレーナーさんを一人になんてしませんよ」
「うれしい……ありがと、チヨちゃん……」
「でもお酒くさいからちょっと離れてください!」
ベロベロです。完全に出来上がっちゃってます。
元よりお酒を飲んでいるところを見たことがない、という話はありますけど。
それにしても、こんなヘロヘロでフラフラのトレーナーさん、初めて見ました。
よっぽど飲み会が楽しかったみたいです。それはそれで、いいことですけど。
明日がお休みとはいえ、早く寝かせてあげないと大変なことになりそうです。
「シャワー浴びますか? それとも、何か飲みますか?」
「チヨちゃん吸う……」
「ダメです!」
私なんて吸ったところで、酔いがさめるわけでもありませんし。
だいたい、こんなお酒くさいトレーナーさんなんてお断りです。
「ほら、まずはお水飲みましょう? 歩けますか?」
「むりかも……」
「もう……分かりました。じゃあ、少し待っててください」
なんとかトレーナーさんをベッドに座らせてから、キッチンへ向かって。
コップに水を注いで戻ると、既にトレーナーさんはべッドに倒れていました。
「トレーナーさん?」
「う……ご、ごめ…………」
「大丈夫ですか? お水、飲めますか?」
「うん……ありがと」
ゆっくりと身体を起こしたトレーナーさんは、私の手からコップを受け取って。
そのまま一気に水を飲み干すと、力尽きたようにベッドへ倒れてしまいました。
どうやら体力の限界だったみたいです。
「まったく……トレーナーさんったら、仕方ありませんね」
こうなったら、シャワーと着替えは起きてからにしましょう。
明日が休みでよかったです。こんな状態でお仕事なんて、できっこありません。
とにかく、お疲れみたいですからゆっくり寝かせてあげないと。
そう思って、トレーナーさんの体に布団をかけてあげたところで。
「……ごめん、な」
まだ微かに意識があるのか、トレーナーさんからそんな言葉が返ってきました。
「構いませんよ。私も、勝手にお邪魔してる身ですから」
「ごめん……ごめんよ……」
「もう、どうしたんですか? さっきから謝ってばかりですよ?」
「ごめんなあ……」
私がそう言っても、トレーナーさんはずっとそうやって謝り続けていました。
きっとお酒のせいで、まだ意識がふわふわしてるんだと思います。
今はとにかく、そっとしておいてあげましょう。それが一番だと思います。
そうして私も寝る準備をするために、ベッドから離れようとしたところで。
トレーナーさんが、私の服の袖を掴んでいることに気が付きました。
「……ごめん」
絞り出すような声でした。子供が泣くのを我慢しているような、そんな。
そうしてトレーナーさんは、うっすらと開いた目で私のことを見つめながら。
「お兄ちゃん、間に合わなくてごめんな……」
今にも泣きだしそうな子供みたいな声で、そう言いました。
「……っ、トレーナーさん……!」
私が呼びかけた時にはもう、トレーナーさんは寝息を立てていました。
服の袖を掴んでいた手も、いつの間にか放しています。
……今の言葉で、はっきりしました。
やっぱりトレーナーさんは、亡くなった妹さんと私を重ねています。
そうでもしないと、妹さんを失った事実に耐えられなかったんだと思います。
一目惚れなんて理由で担当になったのも、私をそばに置いておきたかったから。
私を過剰なくらいに甘やかすのも、本当は妹さんにそうしてあげたかったから。
そう考えると、今まで感じていた違和感にも説明が付きます。
きっと妹さんを失った悲しみを、私で埋めようとしているだけだったんです。
私を「代わり」にして、必死にその事実から目を背けていたんです。
あの優しさも笑顔も、本当は妹さんに向けたかったものなんです。
「……………………」
別にそのことを責めるつもりなんてありません。
私にその資格があったとしても、そんな酷いこと私はできません。
トレーナーさんのことを嫌いにもなれません。
むしろ私でよければ、いくらでも「代わり」にしてくれて構いません。
トレーナーさんがもう悲しまなくてよくなるなら、それでいいんです。
……でも。
本当に、このままでトレーナーさんは幸せになれるんでしょうか。
妹さんを失った事実から、ずっと目を背け続けるつもりなんでしょうか。
自分を騙し続けながら生きていくのは、正しいことなんでしょうか。
私にその答えは分かりません。私みたいな子供に、分かるはずもありません。
でも、一つだけ確かなのは。
「……私は、サクラチヨノオーです」
傍で寝ているトレーナさんにすら聞こえないくらい、静かな声で。
私は、トレーナーさんに、そして自分自身にそう言い聞かせました。
■
翌日。
「っ…………頭いてぇ……」
案の定、トレーナーさんは二日酔いでダウンしていました。
「大丈夫ですか? お水、用意しましたけど」
「ああ、ありがと……いや、ホント助かるよ……」
受け取った水を一気に飲み干しても、トレーナーさんはまだ気分が悪そうで。
そのままベッドに仰向けになって倒れると、辛そうな声を上げ始めました。
「あー……きもぢわり……」
「トレーナーさん、お酒弱いんですね」
「実はね。自分からもそう言ってるのに、昨日はドンドン飲まされちゃってさあ。最悪だよホント。チヨちゃんも大人になったらお酒には気をつけなよ?」
「分かりました。今のトレーナーさんみたいにはなりたくありませんから」
「あはは……まあ、反面教師になったなら、それでもいいかな」
「……もし酷いようでしたら、今からでもお薬買ってきましょうか?」
「いや、大丈夫……もうちょい時間経てばなんとかなる……ハズ」
時間が解決してくれるとは思えない顔色のまま、トレーナーさんは答えました。
「ところで俺、チヨちゃんに何か変なことしてないよね……?」
「心配しなくても、昨日は帰った途端にぐっすりでしたから大丈夫ですよ」
「そっか。ならよかった……」
昨日のことは、ほとんど忘れちゃってるみたいです。
あれだけ酔っていたらそれも当然かもしれませんけど。
でも、トレーナーさんにとってはその方がよかったのかもしれません。
「……ダメだなあ、こりゃ。今日はもう、ベッドの上で過ごすことになるかも」
「それなら、家事は私がしますから。トレーナーさんはゆっくり休んでください」
「……ごめんね」
「気にしないでください」
申し訳なさそうにするトレーナーさんに、私はできるだけ笑顔で返しました。
「ご飯はどうしますか? 簡単なものなら用意できますけど……」
「あー……いや、お昼まで待つよ。今は気持ち悪さの方が勝ってるから……」
「じゃあ、それまでお部屋の掃除でもしておきますね」
「ありがとー……うぅ……」
最後にそう言って、トレーナーさんはもう一度目を閉じました。
どうやら二度寝に入っちゃったみたいです。そっとしておきましょう。
「さて、と……」
トレーナーさんの寝顔を見届けた後、私はお掃除に手をつけることにしました。
来た時は綺麗だったこのお部屋も、今はそこそこ散らかっています。
そもそもこのお部屋が綺麗だった理由は、単純にモノが少なかったからで。
私が来てから、トレーナーさんは色々なものを買うようになりました。
曰く、「チヨちゃんが不自由しないようにね」ということらしいですけど。
「それにしたって、やっぱり買い過ぎですよ……」
ゴミ箱代わりのビニール袋を纏めながら、ふと口からそんな言葉が漏れました。
大きいものだと、私が来た時に買った炊飯器とオーブンレンジがそうですし。
小さいものだと調理器具やお洋服、あとは化粧品も買ってくれました。
果てには私がちょっといいな、って思った本や雑貨まで、手当たり次第です。
「…………………………」
私には分かります。
トレーナーさんの優しさは、本当は妹さんに向けたかったものなんだって。
私を甘やかしてくれるのは素直に嬉しいです。そこにウソはありませんから。
私を妹さんの「代わり」として見ていることを、咎めるつもりもありません。
元カノさんが言っていた通り、仕方のないことだと思いますから。
……だけど、このままなんてやっぱりダメだと思うんです。
どれだけ私が頑張っても、結局は「代わり」にしかなれないんですから。
いつかは崩れる日が来ます。歪みに耐えられなくなって、壊れてしまう日が。
むしろ、三年間も保った方が奇跡なのかもしれません。
だから変えないといけないんです。トレーナーさんを。そして、私自身を。
でも。
「一番つらくなるのは、トレーナーさんですよ……」
それはきっと、トレーナーさんを追い詰めてしまうことになるんだと思います。
今でさえこんなに苦しんでいるのに、これ以上なんて私の方が耐えられません。
でも、今のままでいたら、いつまで耐えられるのかも分からないのも事実です。
「……どうすればいいんですか、こんなの」
何かがひらひらと足元に落ちてきたのは、私がそう零したときでした。
「あれ?」
拾い上げたそれは、一枚の写真でした。
きっとビニール袋を纏めていた時に、袋の口から落ちたんだと思います。
……考え事のしすぎですね。いけません、しっかりしないと。
気持ちを切り替えて、写真をゴミ袋へ戻そうとしたところで、ふと。
「これ……」
写真に写っていたのは、一人の男の子と小さなウマ娘さんでした。
場所はどこかの広い公園。満開の桜の下で、その二人は笑顔を浮かべています。
二人とも制服でした。見た限りでは、同じ学校のものだと思います。
……もしかして
「トレーナーさんと……妹さん?」
男の子の方は今よりずっと幼いですけど、トレーナーさんの面影があります。
となると、女の子の方は妹さんと考えるのが自然な気がします。
二人とも楽しそうに笑っていました。その後ろで咲いている桜も満開ですから、入学式か卒業式のどちらかで撮ったものなんだと思います。
思い出の写真です。かけがえのない、大事な一枚です。
……でも、どうしてこんな大切そうな写真が、ゴミ箱なんかに。
「触らないで」
後ろからトレーナーさんの声が聞こえてきたのは、そんな時でした。
「トレーナーさん……?」
「……いいから。それから手、離して」
気まずそうに頭を掻きながら、トレーナーさんは続けました。
「ゴミは俺が纏めておくよ。だからチヨちゃんは買い物でも行ってきて」
「でも……」
「そうだ、今日のご飯はカレーがいいな。二日酔いに効くってどっかで聴いたし。材料、残ってなかったよね? また作ってよ。ウチに来た時みたいにさ」
私の言葉を聞く気もないみたいで、トレーナーさんは立て続けに話しました。
怖いです。私の知ってるトレーナーさんとは、まるで別人みたいでした。
でも、当然と言えば当然なのかもしれません。
だって、私に見せたくなかった――見せずはずもなかったんですよね。
この写真も、そんな怯えたような顔も。悲しそうな目も、ぜんぶ。
「妹さん……ですか?」
「……………………」
私の言葉に、トレーナーさんは何も答えませんでした。
普段は私が何か口にしたら、絶対に何か言ってくれるのに。
「いいから、それ返して」
なんて強引に、トレーナーさんは私の手から写真を奪おうとして。
「っ……!」
次の瞬間、ひりつくような痛みが指先から伝わってきました。
指先に目を落とすと、そこにはうっすらと赤い切り傷が通っています。
…………痛い。
「あ………………」
見上げると、トレーナーさんは呆然としたまま、私の手を取って。
「あ、いや、違う……違うんだよ。俺、そんなつもりじゃなく……て」
「……大丈夫です。気にしないでください」
「でも、血が……そ、そうだ。絆創膏。すぐに取って……」
「これくらい平気ですから」
そうです。別に、これくらいの痛みなんて気にもなりません。
今のトレーナーさんに比べたら、こんな小さな痛みなんて。
「……ごめん。ごめんよ……」
青ざめた顔のまま、トレーナーさんは私の手を優しく握りしめました。
目も合わせてくれません。俯いたまま、うわごとのように謝り続けています。
……こんなトレーナーさん、見たくなかったのに。
私のせいです。私が、勝手にトレーナーさんの過去に触れてしまったから。
だから、こんなに怯えているんです。私がここまで追い詰めてしまったんです。
……ごめんなさい。
「買い物、行ってきますね」
「ぁ……」
「カレーの材料、買ってきますから。楽しみにしててください」
それだけ言って、私は逃げるようにその場を後にしました。
■
トレーナーさんに必要なのは、過去と向き合うこと。
妹さんが亡くなってしまった事実を受け入れて、それを乗り越えることです。
でも、それはトレーナーさんにとって、死ぬよりも辛いことなんだと思います。
私に向けたあの表情を見れば、そんなことは嫌でも分かります。
きっとトレーナーさんは、妹さんのことが大好きだったんだと思います。
だって、誰よりも、何よりも大切な、たった一人の家族だったんですから。
そんな大事な人が亡くなってしまった事実を、受け入れられなくて。
だからトレーナーさんは、私を妹さんの「代わり」にしたんです。
私という「代わり」を甘やかして、可愛がることで、必死に耐えていたんです。
トレーナーとしてのお仕事をサボりがちで、私に構ってばっかりだったことも。
あんな何もない寂しい部屋に、一人で住んでいて何も思わなかったことも。
全部、妹さんを失った悲しみから目を背けるためだったんです。
私のことだけを考えることで、トレーナーさんは自分を保っていたんです。
それが間違ってるとは言えません。仕方のないことでしたから。
でも。
今のままでいたら、いつかトレーナーさんは壊れてしまうと思うんです。
それも、そう遠くないうちに。小さなきっかけで全てが崩れる気がします。
きっと元カノさんは、そのことに気づいていたんです。
だから、トレーナーさんを助けようとして、毎日のように連絡を続けて。
でも、トレーナーさんはそれをずっと拒み続けていました。
『もうアイツには、アンタの言葉しか届かないんだよ』
元カノさんが最後に渡してくれた、その言葉の意味。
それが分からないほど、私はもう子供じゃありません。
今のトレーナーさんを救えるのは、他の誰でもない、私だけなんです。
だから元カノさんは、私にトレーナーさんのことを託してくれたんです。
こんなことになるなら、なんて情けないことは言いません。
知ってしまった以上、私にはトレーナーさんを助ける責任があるんです。
それがどれだけ残酷で、たとえトレーナーさんに嫌われることになっても。
トレーナーさんのためなら、私はなんだってしてみせます。
だって私は、トレーナーさんのことを好きになっちゃったんですもん。
そんな人が苦しんでるなら、助けてあげたいと思うのは当然じゃないですか。
トレーナーさんに必要なのは、過去と向き合うこと。
今のままじゃ、ただ足踏みをしているだけで、ずっと前に進めないままです。
だから、私がトレーナーさんの背中を押してあげるしかないんです。
妹さんの「代わり」としての私じゃなく。
トレーナーさんのことが大好きな、「サクラチヨノオー」として。
待つことには、慣れてます。
でも、もう待ってるだけの私じゃありません。
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