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「親父が三人いたんだ」
机の上に置かれたのは、私がゴミ箱の中から見つけたあの写真でした。
それを眺めながら、トレーナーさんは静かに話してくれました。
「一人目は俺が産まれる前に消えた。二人目は妹が産まれた後、警察に捕まった。三人目は……本当にいい人だった。でも、事故で母さんと一緒に死んじまった」
「……お母さんは、どんな人だったんですか?」
「どうしようもない人だった。男がいなくなったら、すぐにまた別の男を作って、その繰り返しでさ。でも……別にそれが悪いことだとは思ってないんだ。だって、それが俺達のためだってことは理解できたし……何より、寂しかっただろうから。それに、俺達に注いでくれた愛情は本物だった。……責める気にはなれなかった」
写真を眺めるトレーナーさんの目は、どこか懐かしそうで。
ここよりもずっと遠くの、どこかを見つめているような気がしました。
「……妹はウマ娘だった」
そうしてトレーナーさんは、写真に映る小さなウマ娘を見つめて。
「これは中学の入学式の時のやつ。俺はそん時ちょうど、高校に上がってた」
写真に映る二人は、そっくりな笑顔を浮かべていました。
「トレセン学園に入るんだ、って頑張っててさ。だけど、毎日走ってばっかりで、勉強なんか全然しなかったなあ。特に数学が苦手だったから、俺がよく教えてた。いやもう、ホント酷かったんだよ? 九九すら怪しかったんだもん」
「あはは……確かに、ちょっと想像がつかないかもしれません」
「だろ? でも、走るのは本当に好きだったんだ。こうしてトレーナーになって、改めて思い返してみると……あいつ、とんでもない才能の塊だったよ。それこそ、チヨちゃんとは真逆のタイプだったかもしれないなあ」
「そんなに、ですか?」
「うん。だって学校や地域でやってるレース大会とか、だいたい一着だったもん。地元じゃ負け知らずだった。それに何よりさ、あいつは走るのが好きだったんだ。勝利に固執することもなくて、ただ純粋に走ることの楽しみだけを追い求めてた。そういう奴こそ強いってのは、チヨちゃんもなんとなく分かるでしょ?」
「……そうですね」
確かに、トレーナーさんの言う通り、妹さんと私は真逆かもしれません。
トレーナーさんと出会う前の私は、いつも何かに固執してばかりでしたから。
対して妹さんは、固執するものもなく、純粋に走ることを楽しんでいて。
そんな、もしかしたら他の子に対する冒涜に近いものを秘めた子が強いことは、トレーナーさんと歩んだ三年間の中で、痛いほどに実感できました。
「……あいつなら、三冠も夢じゃなかった。なのに……」
そこでトレーナーさんは、一度だけ言葉を詰まらせてから。
「あいつが事故に遭ったのは、地域のレース大会で一着を獲った帰りだった」
また、ぽつりぽつりと話してくれました。
「普通の事故だったよ。信号渡ってる時に、信号無視したバカが突っ込んできた、それだけの話。……親父と母さんは即死だった。でも、妹だけは守ってくれた」
「……そうだったんですか」
「でも、妹は頭に鉄の破片が食い込んで……それ以来、ずっと寝たきりになった。いわゆる植物状態ってやつ。ただ生きてるだけで、死んではないって状態だった。医者にも言われたよ。助かる見込みは少ない、って」
そこでトレーナーさんは、少しだけ間を置いて。
「……その時のあいつ、もうトレセン学園に入学することが決まってたんだ」
「え……?」
きっと、そこが限界だったんだと思います。
写真を眺めるトレーナーさんの目には涙が溜まっていて。
「レースはもちろんだし、苦手だった勉強も死ぬほど頑張ってさあ……そしたら、トレセンの関係者からスカウトされたんだよ。その時のあいつ、すげー喜んでた。親父も、母さんも。俺だって、自分のことみたいに嬉しかったんだよ……」
「トレーナーさん……」
「面接も試験も合格して、来年からトレセン学園に入学するはずだった。なのに、全部台無しになっちまった。……意味分かんねえよ。なんで、こんな……」
漏れそうになる嗚咽を押し殺すように、トレーナーさんは口を手で抑えました。
「……あいつが事故に遭った日、俺はいつもみたいにスタジオで遊んでた」
「元カノさんと……ですか?」
「うん。そしたらさ、そこのオーナーが慌てて俺のことを呼んで……最初はもう、訳が分からなかった。こいつらはいったい何を言ってんだ? って。でも実際に、病院のベッドで寝たきりの妹を見て……ようやく、何が起きたのか理解したんだ」
「……全部、後から知ることになったんですね」
「そう。俺だけ、置いてけぼりだったんだ」
ぽろぽろと涙をこぼしながら、トレーナーさんは続けました。
「はじめは自分を恨んだよ。どうして俺も一緒にいてやらなかったんだ、ってさ。でも、すぐに気づいたんだ。親父も母さんもいなくなって、妹を助けられるのは、俺しかいないって。だから……そのために、俺ができることをしなくちゃ、って」
「だから、トレーナーに?」
「うん。稼げるって噂だったし。でも、当時の俺じゃ年齢的に無理だったから……まずは手あたり次第にバイト初めて、入院費を稼ぎながら空いた時間で勉強して、とりあえず専門に入学して、それからもバイト続けながら、とにかく勉強してた。親が残した金もそこまで多くはなかったから、必死になるしかなかったんだよ」
「だから、ギターもやめちゃったんですか?」
「遊んでるヒマなんてなかったからね。それに……俺がギターにかまけてる間に、みんなが事故に遭ったって思うと。……ギターなんて、弾く気にもなれなかった」
後ろめたい気持ちがあったんだと思います。
だから、ギターも元カノさんも捨てて、トレーナーになることを目指した。
もう二度と、同じようなことを繰り返さないために。
「それでも、こうしてトレーナーになれたんですね」
「本当にギリギリだったけどね。筆記試験の成績も下から数えた方が早かったし、面接もほとんど運で通ったみたいなモンだった。ま、二年しか通ってなかったし、そう考えりゃよくそれだけの期間で受かったな、って自分でも思うよ」
笑いながら言うトレーナーさんは、けれどすぐに悲しい顔になりました。
「……トレーナーになれば、妹の治療費も稼げると思った。それにもしかしたら、トレセン学園で一緒にやっていけるのかな、とも思ったんだ。でも……」
トレーナーさんはそこで一度、深く息を吐いて。
「俺がトレーナーになったその年に、妹は死んじまった」
消え入りそうな声で、そう言いました。
「間に合わなかったんだよ。何もかも、遅すぎたんだ。でも……あの時の俺には、そうするしかなかった。子供だった俺にできることなんて、ほとんどなかった」
「……元カノさんも言ってました。仕方ないことだ、って」
「それで納得出来たら、よかったんだけどな」
呆れるように、トレーナーさんは力なく笑いました。
「妹さんが亡くなっても、トレーナー業は続けてたんですよね?」
「続けてたってよりは……他にもう、することが見つからなかったんだ。だって、
その時の俺にはもう何もなかった。生きてる意味もない、って考えた時もあった」
そう考えてしまうのも、無理もないと思いました。
ギターも元カノさんも、全てを投げ打ってトレーナーになったことも。
長い時間をかけて、妹さんの治療費を稼ぎ続けていたことも。
全部、意味のないことになってしまったんですから。
「そんな時だよ。チヨちゃんと出会ったのは」
そこでトレーナーさんは、私の目を見つめて。
「今でも覚えてる。一目惚れだった。……似てたんだよ。特にその、明るい瞳が。君を見てると妹を思い出せた。それが、チヨちゃんを選んだ理由」
「……そうだったんですね」
「そこからは、チヨちゃんも知ってる通り。俺は、君のトレーナーになった」
当時のことは、今でも鮮明に思い出せます。
いきなり私の前に現れて、一目惚れした、なんて理由で迫ってきて。
混乱してる私のことを半ば強引に説得して、そのままトレーナーになって。
最初は、とんでもない人に捕まっちゃったなあ、なんて思ってましたけど。
今の話を聞いたら、その強引さにも納得できました。
「君と一緒にいると、全部を忘れられたんだ。親父と母さんが死んだことも、妹を助けられなかったことも……君のことだけを考えれば、それでよかったから」
「だから、あんなに私のことを甘やかしてくれてたんですね」
「……そうだね。君と妹を重ねてた。そうしないと、押し潰されそうだったから」
申し訳なさそうな、ばつの悪そうな顔で、トレーナーさんは答えました。
「今までごめんね、チヨちゃん」
「……謝らないでください。トレーナーさんは何も悪くありません」
「でも、俺は君を利用してたんだ。自分が楽になるために」
「それでも、許してあげます」
「……ありがとう」
最後にそうやって言いながら、トレーナーさんは写真を裏返しにして。
「話はこれで終わり。つまんない上に、長くなっちゃってごめんね」
「そんなことありません。話してくれて、ありがとうございます」
トレーナーさんは、何も答えませんでした。
ただ静かに、裏返しになった写真へと目を落としていました。
……今まで目を逸らしていた過去と、ようやく向き合えたトレーナーさん。
その胸中がどんなものかなんて、私には想像もつきません。
だからどんな慰めの言葉を送ったところで、意味なんてないんだと思います。
……それでも、今の私がトレーナーさんのためにできること。
それは。
「私、ギターの練習してみます」
これから先の、未来の話をすること。
「……え?」
「いつかトレーナーさんと一緒に弾けるよう、頑張りますから」
過去を振り返ったトレーナーさんが、前に向かって進めるように。
もう二度と、人で寂しい思いしないように。
私が、トレーナーさんとのこれからを、思い描いてあげるんです。
それがきっと、トレーナーさんが進むための一歩になるって、信じてますから。
「……そっか」
やがてトレーナーさんは、どこか安心したような表情を浮かべてくれました。
「ねえ、チヨちゃん」
「はい」
「俺、どうしてもやらなくちゃいけないことを思い出したんだ。時間もかかるし、今更になって、ってみんなから言われるかもしれないけど……それでも」
「トレーナーさんにとって、大事なことなんですよね?」
「うん」
それなら、私はもう何も言いません。
だってトレーナーさんが、そう決めたことなんですから。
トレーナーさんは、これから前を向いて進みだそうとしてる。
その背中を優しく押してあげることだけが、今の私にできることなんです。
「もしかしたら、チヨちゃんを待たせることになるかもしれない」
「いつまでですか?」
「分からない。でも、絶対にチヨちゃんのところに戻ってくる。だから……」
そうしてトレーナーさんは、私の――サクラチヨノオーの目を、見つめて。
「チヨちゃん、俺のこと待っててくれる?」
……今さら、そんなこと。
「大丈夫です。
待つことには、慣れてますから」
そして。
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