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冬に満ちている放課後だった。
夕暮れ時の陽は朱く、されども沈むのは早い。
チリチリと凍る吐息は廊下の隅まで広がっていく。まるで針のように刺すであろう寒風が、窓の外側から聞こえてきた。
この時期、学園のコースを駆けるウマ娘達の情熱はそのまま蒸気へと変換されやすい。特に練習を重ねるほどその身は白煙を纏うようになり、鬼気迫る表情と合わさることで凄みを感じさせるのは一種の名物的な光景だろう。
霜のついた窓越しに、そんな彼女達を眺めた。
「……チヨちゃんも、弥生賞前くらいはあんな感じで走ってたのかなあ」
いやでも、どうだろう。
あのどろどろに甘やかしてるトレーナーさんの事だし、寧ろそんな事したら怒りそうだよね。勝手に走ったところを心配されるほうが目に浮かぶかも。
例えば最初は宥められて、チヨちゃんは譲らなくて、次第に口論に発展して、それから暫くは顔合わせづらくなって。
そんな不器用な繋がりの二人を想像してしまった。
「ああいうのを、でこぼこコンビって言うのかも」
微笑みを吹きこぼしながら、チヨちゃんの下へと向かう。
二人とも普段は甘酸っぱくなるほど距離が近いのに、時折お互い荒れてしまうのも見慣れた光景だったな。チヨちゃんは真面目だし意見もストレートに言えるほうだと思っているけれど、それでもすれ違う場合があるのは不思議だよね。
でも結局のところ本人同士でなければ、二人の間に流れてるものを理解できないって思うの。言語化できない感情の波が漂っていて、お互いにそれを模索しながら探しているように。
だから、さ。
「信じて待ってるんだよね、チヨちゃんは」
音楽室、と書かれた部屋の前で立ち止まる。
外からこっそり覗くと、真剣な表情で楽譜を眺めているチヨちゃんがいた。まだ慣れていないのか、おぼつかない指でギターを鳴らしているのが目に映る。
楽器には詳しくないけれどロックバンドでよく見るような、先端が尖っていてスピーカーと繋げられるギターが見えた。そばにはペダルらしき物が二つ。少なくともチヨちゃんがあの機械達を上手に扱えるイメージは想像できなかった。
でもそれは、チヨちゃんも同じかな。
その上で、頑張って練習してるんだよね。
飾りっ気のない全体がただ赤色だけの見た目だし、チヨちゃんの事だから初心者向けのセットを買ってるんだと思う。
弦を揺らすたび、柔らかさと重さの二つが木霊してきた。
……何の曲かは判らない。
けれど、どこか体温のある旋律を感じさせるようだった。
「───ねえ、聞いた?」
遠くの方からひそひそと声がする。
「チヨノオーさんが、トレーナーさんと別れたって」
「レース自体もお休みしてるらしいよね」
「そりゃまあ……」
「トレーナーが居なくなればレースに出られないから……」
「やっぱあの二人、仲悪かったのかな」
「オレも二人が大喧嘩してるの、見たことあるよ」
「はあ……それにしても、あのトレーナーさん顔は良いけどチャラいというか不真面目というか。チヨノオーさんとの距離感近そうだしああやって思春期のウマ娘達を何度も泣かせてきたんじゃないのかな本当に。顔は良いけどね。ええまあ確かに見た目はさわやか系のキリッとした顔だしそれでいて恋愛慣れしてそうな大人の余裕みたいなのが備わっていて、あのルックスと肉食獣みたいな瞳で誘われたらそりゃ少しくらい騙されちゃっても良いかなと破滅願望が浮きでてきちゃう気持ちはよく分かるけど、そんな妄想したことも一度や二度じゃないけれど。でもこれって常識的に考えたら悪い大人だよね。そう考えると性格は最悪だよ。いや顔は良いけどね、顔は」
「どうしたの? 話聞こうか?」
「あー……こいつファンクラブ会員だったわ」
二人の不仲説は、私の耳にも入ってくる。まだ大事になっていないけれど、耳をすませばちらほら聞こえてくる程度には多い。
みんなスキャンダルに興味湧く歳頃だし、仕方ないのかな。
ただその多くの噂話を裏付けるように、ここ二週間ほどチヨちゃんはレースから去るように走らなくなっていた。勿論怠けない程度には軽く走っているのを見かけるけど、以前より情熱的な走りをするつもりは無いらしい。
それに最近知ったけれど、レース休止届けも出されていたのは事実だった。
でもこれはチヨちゃんとトレーナーさんの署名が必要になる物だし、それなら二人で決めた事なんだと信じることにするよ。一応もう四年目だから春レースを見逃す策もあり得るだろうけど、今回ばかりはそういうのじゃ無さそうだよね。
「なんて、今のチヨちゃんは気にしないかな」
まるで周囲の声なんて聴こえてないように。レースと同じくらい真剣な顔をした幼馴染みは、刺すような目つきで楽譜を見つめていた。
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最初、私とバクちゃんに相談してきた時。
『私は、トレーナーさんを助けてあげたいだけなんです!』
両拳をぎゅっと握りながら、前のめり気味にチヨちゃんはそう言った。跳ねっ毛のある髪をぴょんぴょん揺らしていて、照れくささを隠すように少しだけ声色が高かった。
そっか……そういう事だね。
これはチヨちゃん、惚れてるんだよね!
嬉しさに反射して微笑んでしまう。
幼馴染みがレースを駆けるウマ娘ではなく、ただ一人の少女として青春しているのを見てるとキュンとした可愛さを感じた。
チヨちゃんは必死に否定しているし、助けたいという善意があるのも間違ってないと思う。常にまっすぐで、ひたむきに取り組めるのが長所だもんね。
でもトレーナーさんを狙ってないのは、流石に嘘かな。
だってそもそも相談事の前提だとしても、トレーナーさんが珍しく煙草を吸っていたとか、苛立っていたときの口調が怖かったとか、昔一度でも付き合ってた人が存在して初耳だったとか。
感情的な内容があまりにも細かすぎるよ、チヨちゃん。
「それで、あわよくばトレーナーさんともくっつけたらいいな、ってこと?」
「そっ……違います」
「違うんだ?」
「違います!」
悪戯心でからかうと、顔を真っ赤に染めていた。
自分でも話しながら感情に気付いているのか、それとも見ない振りをしているのか。
三年間の思いを打ち明ける大チャンスって薄々感じているのだろうけど、チヨちゃんそこまで悪くなれないんだよねー。
ちゃんそこまで悪くなれないんだよねー。
「でもチヨちゃん。それってかなり難しい話だと思うよ?」
ちょっと真面目に、忌憚ない意見を言うと。
チヨちゃんも理解してたのか、うっ……と言葉を詰まらせた。
そう、この問題には大きな難所がある。
トレーナーさんと元カノさんの関係ついて。チヨちゃんは何も知らないし、今後も調べられる可能性が低いところだ。
これが時間やお金の問題なら作戦は立てられるかもしれないけど、感情の問題となれば正解がないので難しい。私もヴィクトリー倶楽部やトレセン学園で揉め事の仲裁していたから分かるけど、感情でぶつかる問題はその根本を知らなければ解決できなかった。
もし相手がまだ理性的なら話せるかもしれないけれど、聞いてる限りだと感情的になるほどの理由がありそうだよね。どこまでもストレートなチヨちゃんと、形振り構ってられない元カノさんとの相性は……恐らく良くないかな。
こうなるとまさに水と油。
お互いに意見は平行線になるのが目に見えた。
ただいつまでも悩んでいるチヨちゃんを放っておくのも良くないし、それならばと助け舟を出そうとしたところで。
「では、ここで思い切って別の作戦を考えるのはどうでしょう!」
ビシッと指を立てて。
何かを閃いたらしく、バクちゃんがそう言った。
キリッとした顔、真剣な目つき。
これは、まさか。
「───チヨノオーさんの強みを最大限に活かす方法を考えればいいのです!」
「……バクちゃん、いつの間にかレースモードだね」
「どこでスイッチ入っちゃったのでしょう」
ひそひそ話しながら、頼れる学級委員長を見た。
普段はどこまでも直線的なのに、こういう時のバクちゃんはとにかく頭が冴える。怖いくらいに状況を把握してくるし、現状使えるカードを最大限に活かして圧してくる。まさにバクちゃん常勝の考え方だ。
でも、それなら話は早いよね。
「やっぱり毎日会えることじゃない? 担当とトレーナーなんだし。向こうはトレーナーさんに避けられてるみたいだから、そこの差はあると思うよ」
「チヨノオーさんの言うことなら、ある程度は聞いてくださるのも大きいですね。多少の無茶でも、あのトレーナーさんなら許してくださるでしょう!」
「めいっばい甘やかされてるもんね、チヨちゃん」
トレーナーさんは普段からチヨちゃんのことばかり見てるし、悩んでる時いざとなれば励ましてくれてるもんね。
あとトレーニング前に抱きつかれてるチヨちゃんが、怒りながらも満更でない顔してるの知ってるんだよ。
担当ウマ娘と、担当トレーナー。
うん。使える手札は判った。
そして勝負の方針も定まった。
バラバラだった情報が整えられると、まるでパズルピースをはめるように、今できる範囲の作戦がぼんやり見えてくる。
これは、一つしかないね。
「……ねえ、バクちゃん」
私が頼れる学級委員長へ目をやると、同じことを考えてたのか。バクちゃんも確
信を持ったアイコンタクトで返してきた。
多少は強引だけど。セオリーに反しているけど。
担当とトレーナーの関係を超えすぎてるのは自覚してるけど。そもそも相談された話からして、担当ウマ娘という範疇を超えているもんね。
「ねえ、チヨちゃん」
「はいっ」
私とバクちゃんが一手、一手と情報を詰めていく。
チヨちゃんも途中で察したのか、バツの悪そうな顔をした。
ごめんね。荒療治になるかも。
でも……ね。
たまには悪いチヨちゃんも、必要じゃないかな。
「チヨちゃん、しばらくトレーナーさんと同棲してみるっていうのはどう?」
それから案の定、チヨちゃんは必死に断ろうとしてきた。
ただこれ以上に有効策が思いつかないのもまた事実だったし、今度はそこを二人で詰めていくことにした。
最終的にチヨちゃんが自棄になる形にはなったけど。初めからトレーナーさんを
助けたい気持ちと、あわよくばって気持ちの両方があったと思う。
……まあ多少はバクちゃんのレースモードに便乗したのは事実だよ。昔から知っている幼馴染みの恋心を無視するってのは難しいよね。
「大丈夫だって、チヨちゃん可愛いもん」
「ええ、その通り。チヨノオーさんは可愛らしいです!」
「ろ、ローレルさん! バクシンオーさんも!」
「ふふっ……じゃあ、とっておきの作戦教えてあげよっか?」
「と、とっておきの作戦、ですか?」
「うん。これはお母さんから教えてもらったんだけどね」
私の尊敬するお父さん───を射止めたらしく。
お母さん曰く、男性ならこれで喜ばない人は居ないって。
「まずいきなりトレーナーさんの家に行って驚かせるの。そうすると相手はこちらの意図を読めなくなるからね」
「意図を……読めなくする……」
「お父さんもそうだけど、やっぱりトレーナーさん達って頭が良いから、もし事前に伝えても理性的に対処されちゃうの。だからまず考える隙を与えないって」
「な、なるほど……」
「ほうほう、ローレルさんのお母さんも頭脳派でしたか」
「あとはただ一言」
ここが一番大切って、お母さん言ってたなあ。
「───『来ちゃった』って笑顔で言えば良いんだよ」
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そんなやり取りをしたのも、もう随分前になるんだね。
最後に伝えた作戦は、照れ屋なチヨちゃんに出来るかどうか。ほんのちょっとだけ不安な要素はあったけど。でもあれからすぐに同棲を始めたって聞いて、バクちゃんと二人でお祝いしたのも懐かしい。
「やっぱり、お母さんは凄いなあ……」
目を伏せながら、偉大な母の知恵にしみじみと思いを馳せる。
二月になったばかりの空は雪でも降りそうな曇天に塞がれている。トレセン学園の玄関口には、同じように身震いしながら帰るウマ娘で溢れていた。
「さて、と」
今日はクールダウンも兼ねて練習はお休み。久々に早い時間の下校だし、このまま寄り道でもしたい気分かも。
試しにチヨちゃんを誘ってみたところ、今日もギター練するようだ。
私もそれならそれで気にしないのに、とても申し訳無さそうに謝るのがまたチヨちゃんらしいと思えちゃった。
「んー……よしっ、たまには駅前まで歩こうっと」
身体をぐっと伸ばしながら、ぼんやりと考える。
駅前にある大型書店とか、先月覗いたときフランス関連の本が多かったんだよね。今日はじっくり見るのには良い機会だろうし、何か目新しいのが入ってないか探して良いかも。
なんてことを、頭に思い浮かべていると。
「───チヨノオーさん、まだ復帰できないの?」
また遠くの方から、以前よりも大きな声がしてきた。
「うん……それにトレーナーを探してもないらしくて」
「まあ、簡単に割り切れないってやつなのかな」
「三年間は一緒にいたもんね……」
「寧ろこのタイミングで担当解消するほうが珍しいと思う」
「それでもアタシらウマ娘のピークは短いし、三年間も我慢したって思えばチヨノオーは優しすぎるだろうよ」
どうやらチヨちゃんへの噂話はまだ沈下していないらしく。
こぼした水のように、根も葉もない憶測だけが広がっていた。
「もしかして、少しでも許す気持ちがあるんじゃない?」
「あの娘、ぐずぐずに甘やかされてた部分もあったしなあ。てかそれ典型的なダメ男に引っ掛かるパターンだろ」
「だってチヨノオーさん優しいから……」
「トレーナーの家に上がり込んでた噂もあるよね」
「あの娘、都合よく騙されてそうだからなあ」
「わかる……頭下げられたらすぐお金貸してそう」
「ご飯代とか言って二万円くらい渡してそうだよね」
「煙草代って言われても二万円くらい渡してそうだな」
「もし怒鳴られたら、謝りながら五万円出すタイプでしょ……」
「チヨノオー、ヒモ男を養う適正高そうだもんなあ……」
あれ?
んんっ?
なんか不仲説が途絶えるどころか、変な方向に進化してない?
確かに絵面的にはちょっと不健全な組合せに見えたかもしれないけど。チヨちゃんは真面目だし優しいし、騙されやすく見えちゃうかもしれないけど。
だとしても、チヨちゃんそんなに意志弱くないからね。
「うーん……」
というより、これは何かしたほうが良いのかな。
でもチヨちゃん自身は気にしてない感じだったし、あまり騒ぐのは良くないかも。変に騒ぎを荒立てたところで、寧ろ迷惑かけちゃいそうだし。
それに。
「チヨちゃん……今はギターに集中してるもんね」
噂と言っても学園側で問題視されてもないところから、一部のゴシップ好きな娘達に遊ばれてるって感じかな。
若干チヨちゃんへの同情も乗っかる部分はあるけど、他の話題があればすぐに消
え去るような流行りだと思う。
そう結論付けて、今度こそ帰ろうとした瞬間。
「ローレルっ、さん!」
噂話とは別に勢いよく、それも明確に私を呼ぶ声で足を止めた。
「ローレルさんっ! 少し、その、お時間貰えますでしょうかあ!」
声の方向へ目をやると。
声量の大きさとは裏腹に、普段のようにハリのない顔があった。
眉を八の字に曲げながら、弱々しく唇を震わせるバクちゃんがいた。
あー、これは……。
今しがた聞いた噂話と合わせて、全てを察する。
性格にも考え方にも、直線定規で引くような真っ直ぐなバクちゃんの事だし。
例え小さな噂だとしても、幼馴染みが偏見の渦中にいたら立ち止まれない気持ちになるよね。
うん、それじゃあ。
「バクちゃん、大丈夫だよ」
ここは私の出番かな。
「少しなんて言わずに、たくさんお話しよっか!」
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