1.燕を斬る老爺
魔王に率いられた人食いの魔物、魔族達が猛威を振るっていた頃。そして勇者ヒンメルが産まれる頃に、リーニエは魔族として産まれた。
魔族は人を騙すために進化した魔物。そして、リーニエも魔族だ。見た目だけは人目を引くような可愛らしい少女として産まれた彼女は、しかしまだ人間の脅威になる存在ではなかった。単純な理由だ……今のリーニエはまだ十歳にも満たぬ、幼く弱い魔物だったからである。
魔力も身体能力も成長前。そして何より、彼女の魔法が鍛えられていない。
「……たいくつ」
リーニエは思わず、そんな言葉を漏らした。今の彼女がいるのは、人間が通らないような山の中だ。
魔族は基本的に、一つの魔法だけに集中して鍛錬を行う。リーニエが組み上げた魔法は人間の動きを再現する「
隠れ潜みながら各地を渡り歩いて、できるだけ戦いを避けながら魔力探知を鍛える。そんな日々をリーニエは送っていた。彼女が距離を保った状態で強者を観察できるようになるまで、最低でも十年は掛かるだろう。
もっとも、魔族の子供としては不幸とは言えない。魔族には子育ての習慣がないため、弱く未熟な幼子がこういった生活を送るのはよくあることだ。孤独な放浪を経て生き残った魔族だけが、人類の脅威として扱われるに足る存在として成長するのである。
「…………?」
そして、リーニエがその人間に気付いたのは魔力探知ではなく偶然だ。木々の間を縫うように作られた山道で、剣を振っている男がいる。ごく一般的な魔力探知には引っかからない……魔法使いではない、ただの剣士。しかしリーニエには、体内で動いている魔力が分かった。そして、その魔力が尽きていく様子も。当たり前といえば当たり前だ。その男は、剣を振れるのが不思議なほどに老いていたからである。
「死にたいの?」
聞こえないような声で、リーニエは呟く。エルフでもドワーフでもないただの人間は寿命が短い、それくらいは幼い人外であるリーニエだって知っている。実際、老爺は明らかに息を荒くしていた。動きは疲労でどんどん鈍っていく。にも関わらず、老爺は剣を振り続ける。三つの剣筋を、ひたすら繰り返す。
日が沈んでやっと、老爺は剣を収めてどこかに去っていった。リーニエはそれを密かに追って、彼の住処を知った。山の中に質素な庵を構えて暮らしているようだ。リーニエは家に手出しはしなかった……老爺は確かに老いていたが、その剣筋だけは見事だったからだ。今の彼女では、老爺に勝てる自信すらない。山奥に戻って、魔力探知を鍛えることにした。
だが、翌朝。
「なに、あいつ」
また、老爺は山道を登ってきた。昨日と同じ場所に立ち、同じように剣を抜いて、ただひたすらに剣を振る。だが、リーニエから見た老爺はどこか違うように見えた。一晩抜けて疲労が抜けた、というのもあるだろうが、それとは何か異なるものがある。
リーニエは森の中に潜みながらも、老爺に接近を試みる。これほどの達人に接近できる機会は当分ないだろう。幸い老爺は剣を振るのに夢中で、気付く様子はない。無事に、今の彼女でも「模倣する魔法」で学ぶことができる距離にたどり着いた。
老爺は昨日と同じように夕方まで剣を振り、同じように庵へと去っていった。観察するには十分な時間。だからこそ、リーニエは気付いた。今日だけでは模倣しきれないことに。
「動きをかえてる」
一見すれば、老爺は同じ剣筋を繰り返しているように見える。だがその実、身体の動きは少しずつ変わっている。様々な姿勢から、同じ剣筋を繰り出しているのだ。ああでもない、こうでもないと試行錯誤を繰り返すような。剣の達人のように見えた老爺は、実際には型すら定まっていない。彼の中ではまだ、老いてなお修行をせずにはいられない段階に留まっている。型がなくとも、大抵の相手は斬り伏せられるだろう剣筋だというのに。
「大魔族とたたかうつもり?」
リーニエはそう推測した。老爺はここにいない何者かを斬ろうとしているように見えた。だがこの剣で満足できないほどの相手となると、齢数百を越える大魔族くらいしか想像できない。
ともあれ、リーニエは今後も老爺の観察を続けることにした。なにせ老爺本人が自らの動きを完成させていないのだ。その段階で模倣を終わらせても同じ未完成に留まってしまう。せっかく観察対象が定期的に現れて動きを見せてくれるのだから、活かさない手はない。
そのまま、しばらく月日が経った。老爺の修行は全く終わらず、その体の動きは日々変わっていく。リーニエが記憶した動作は次の日にはまた別のものとなり、剣技が日を跨いで統一されることは一度たりともなかった。そして、老爺が戦いに向かう様子もまたない。修行の中で、ただ老いさらばえていく。
「このままだと、誰ともたたかわないまま死ぬのに」
その日も老爺の剣を眺めながら、思わずリーニエは呟いた。初めて見た時から更に老爺の身体は細くなり、今にも倒れそうな状態だ。美しかった剣筋ですら、見る影もないものとなっていた。
既にリーニエは気付いている。老爺はおそらく、一つの技を求めて剣を振っていることに。その事は彼女にも理解できる……ある意味では、魔族の生き方にも通じるものがある。だが、このままではそれを実践する機会もなく老爺は死ぬだろう。それじゃ意味ないのにな、とリーニエは思った。
「もう観察するのをやめて、ころそうか」
そんな気分がリーニエの中に湧き上がってくる。自分にとってはもちろん、あの老爺にとっても無駄な時間を過ごしているというのが正直な感想だ。彼女にとってはこれ以上学ぶものはなく、老爺はもうまともに戦える身体ではない。だったら「模倣する魔法」の試し切りに使ってしまおうかと思い始めていた。
大魔族と戦うために鍛錬をしているのなら、大魔族と戦わなくてはならない理由があるはずだとリーニエは誤解している。そう、誤解だ。なぜなら、老爺の仮想敵は最初から大魔族ではないのだから。
「うん?」
リーニエの視界の中で、す、と老爺が構える。途端に老爺の表情が変わった。今まで合わなかったパズルのピースが何の前触れもなく埋まった、そんな実感が老爺の全身に満ちる。観察していたリーニエも直感する。今までの構えとは、何かが違う。
老爺は、確信と共に宣言した。
「我が秘剣――成った」
その言葉と共に、老爺が腕を振り抜く。剣筋が鋭さを取り戻す……否。リーニエが観察を始めてから、一度も無かった冴えを以て剣が振るわれた。
完全同時の三連撃。いや、連撃という言葉は相応しくない。本当に全く同時に放たれる三撃だったのだ。二撃目と三撃目が遅れる形でも続く形でもない。剣筋が同時に存在する、物理法則を超越した秘剣だった。
「すごい」
リーニエは理解した。これこそが、老爺の目指した境地なのだと。いったいどんな相手と戦うつもりでこの秘剣を編み出したのだろうか、彼女はそう思わずにはいられない。だが、老爺が遺した言葉はその予想を裏切るものであった。
「これならば、燕も切れようか……」
「え?」
そう呟くと、老爺はその場に倒れ込んだ。その後に二言三言、彼は感慨深そうに呟いて……ぴくりとも動かなくなった。思わずリーニエは老爺に駆け寄って、その身体に触れた。死んでいる。遺体をひっくり返して顔を見れば、満足げな笑みを浮かべていた。大往生と言わんばかりに。
「……つばめ?」
事態が全く理解できず、リーニエは唖然としていた。老爺が斬りたかったのは大魔族でも戦士でもなく、燕。その辺を飛んでいる、ただの鳥。最期の言葉を信じるのであれば、そんなものを斬るために死ぬまで剣を振っていたというのだろうか?いや、斬るどころではない。斬るための技を編み出した、それだけで実際に確認したわけでもないのにこの老爺は笑って逝った。リーニエからすれば、訳がわからない話どころではない。
そしてもう一つ、理解できなかったことがあった。
リーニエは間違いなく、老爺の秘剣を観察していたにも関わらず。その後何度「模倣する魔法」を繰り返しても、秘剣は完全同時の三撃ではなく……ただの三連撃にしかならなかった。