【完結】ヤヌスの柩   作:扇架

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十話

「……リアイス?」

 鋭い眼が、レグルスを貫く。父は手元の書類を放り投げ、ため息を吐いた。その姿は元の世界でレグルスが見知っていたものと異なっていた。黒髪も肌の色も同じ。ただ眼だけが――群青の色を失ってしまっていた。どちらの眼も燃えるような深紅に染まっている。

「随分と懐かしい」

 くつ、と父が笑う。歪んだ口元、冷えた眼――本当にこれが父なのだろうか。直立不動で立ちながら、レグルスは飛び出しそうな諸々の言葉を呑み込む。これは父だ。けれども本来の歴史にある父ではない。今の父は――。

「お前は知っているはずだ。リアイスはもうない。俺が滅ぼしたからな……やはりお前はどこかおかしい……呪詛はないはずだが。かけられたのなら分かるはずだ。疲れているのなら休め。仮にも大君(タイクーン)の子がおかしくなったなどと言わせるのも癇に障る」

 行け、と扉を示されレグルスは一礼する。足取りも弱々しく『大君』の室を出て行った。

――ここは元の世界ではないのだ

 あらゆる光景がレグルスの胸を突き刺す。壁に飾られたおぞましい絵、日刊予言者の記事、どこにも見あたらないグリフィンドール寮の象徴。

「なんなんだよ大君って、オーグリー様って……」

 忍ばせている杖を掴む。祖母の杖――スリザリンに組分けされたリアイス、闇祓いとして死んだ《ランパント》の形見を。こんな未来のために祖母は死んだわけではないはずだ。

「ハリー・ポッターは殺されて、闇の帝王が勝って……」

 呟けば呟くほど気が滅入る。アルバスは消えてしまった。父親が死んだ未来に、息子が生まれる道理はないから。

「親父が『黒の大君』で、俺はその息子で――」

 図書館に行きたい。けれど、大君の息子は目立つのだ。歴史書なんて引っ張り出していたら何を調べているのだと怪訝に思われるだろう。英雄の息子だった時の方がまだマシだった。最悪だ。

――ああスコーピウス

 友もあれこれと頑張っている。魔法法執行部長官のご子息になっているが、レグルスよりは目立たない。悪名高き『蠍の君』という配役をなんとかこなしつつ、隙をみて動いているようだ。

「ああこれはレグルス様」

 背後から呼びかけられ、振り向いた。校長をちらりと見やる。なるべく尊大に――レグルス・ブラックがいかにもするように。

「どうしたアンブリッジ」

「オーグリー様からお手紙を承っております」

「俺――僕の部屋に置いておけ……あと」

 アンブリッジに――確か元の世界では投獄され獄死したはずの魔女が抱えている本に視線が吸い寄せられた。魔法薬学に関するものだ。アンブリッジの専門は闇の魔術だったはずなのだが。

「その本は」

「スネイプ教授に持って行くのです」

「ス――」

 声が跳ね上がりそうになる。

「レグルス様?」

――どういうことだ

 スネイプは死んだはずだ。殺されたと聞いている。また一つ歪みを見つけてしまった。

「……それは僕が届けよう。ちょうど用がある」

「な、しかし、レグルス様にそのようなことをするわけには」

「用があるんだ」

 きっぱりと言い切り、本をもぎ取り、アンブリッジに背を向ける。どんどんと歩調が速くなり、しまいには走っていた。誰もレグルスを咎めない。この世界にはマクゴナガル女史はいないのだ……。

 地下へ向かって疾走していると、スコーピウスを見つけた。

「お前もか」

「まさか君も?」

 スコーピウスが隣に並ぶ。実に三日ぶりの再会だった。

「もし俺の予想通りなら……」

「彼に協力を――」

 頼むしかない、と同時に呟いて、レグルス達はセブルス・スネイプの部屋に飛び込んだ。

 ◆

「――湖で泳いだと聞いていたが、頭の芯まで冷えたのかね、ブラック、マルフォイ」

 突然の乱入者にセブルス・スネイプは動じなかった。眉間に皺を刻み、すっくと立っている。

「アンブリッジからの届け物です」

 なんと返そうか迷って、ひとまずスネイプに本を差し出す。その瞬間、スネイプの眸が揺れ、口が半開きになった。

「……どういう風の吹き回しかね、あの無礼な君が」

――いかにも嫌なやつだったんだろうな

 レグルスは気が遠くなった。なにせ大君の子であり、ホグワーツに籍はあるものの授業はまともに出ず――その他悪評に事欠かないのだから。

「教授。お話があります」

「なんだねマルフォイ。魔法薬についての質問ならばこの間答えたはずですがな」

「あなたは今でも正体を隠したままなのですか?」

 言葉が放たれた瞬間、スネイプが沈黙した。唇を引き結び、杖にそろそろと手を伸ばす。

「我が輩は忠実なる闇の僕――オーグリー様と大君に仕える者だ。乱心したかマルフォイ?」

「おかしいのは世界のほうです、スネイプ教授」

 レグルスは一歩踏み出した。何をどう言えばいいのだろうか。

「医務室に行くことを勧めよう。大君の子」

「治療が必要なのは俺じゃあなく世界の方でね」

「何を言っている?」

「――ハリー・ポッターが生存した世界がある。こんな闇の時代が来なかった世界が。僕達は逆転時計を使ってこんな世界にしてしまったんです」

 スコーピウスの言に、スネイプが唇をかすかに震わせた。

「妄言だ」

「俺は父から聞いている。あんたはダンブルドアの忠実なる僕で……俺の祖母の親友で……命を懸けたと」

 レグルスは杖を――もう一本の杖を取り出した。色は漆黒。あちこちに傷がある。古い杖を。

「待て、それは……」

 スネイプが喘ぎ、素早く杖を振った。カチリ、と魔法がかかり部屋が封鎖される。

「我が輩は幻を見ているのか。罠か? その杖はもう――破壊されたはずだ……」

 レグルスは返事の代わりにスネイプと距離を詰めた。己の指を噛み、流れる血をスネイプの額につける。

「な――」

「害はないです」

 素早く言って今度はスネイプの指を切る。彼の血を己の額になすりつけた。

――古い魔法

 そう父の従者は言っていた。もしもの時に使うといいでしょうと。

「魔法の血において身の証とすべし」

 言葉が魔法となり、血が輝く。スネイプが瞑目した。

「――嘘は言っていないようだな」

「俺やスコーピウスが信用できないなら、あなたの親友を信じてもらうしかないところだ」

 スネイプが苦笑する。

「その口調、ウィスタ・リアイスにそっくりだ……若い頃の……ああなる前の……レグルス・ブラック。外は同じだが中はまるで違うな」

「俺の名はレグルス・ブラック=リアイス。ウィスタ・ブラック=リアイスの息子。そしてグリフィンドール生です」

 レグルスはまっすぐにスネイプを見つめる。

「……信じるしかあるまいか」

 もはや何にでもすがるしかないとスネイプが呟き、杖を振る。重い音とともに、壁に一部が溶けて消えた。

「ついてこいレグルス、スコーピウス」

 白い手がレグルス達を招き寄せる。行くか? と二人で顔を見合わせて腹を括る。隠し通路へと身を滑り込ませた。

「どこへ繋がっているんですか?」

「暴れ柳の根本にある隠れ家だ……拠点をつくってもつくっても潰されたものでな。スコーピウス、お前が嗅ぎ回るものだから面倒だったぞまったく」

 すみません、と自分ではない自分のためにスコーピウスが謝り、一行はひたすらに進み続けた。やがて小さな扉が見え、スネイプがぱっと開ける。淡い光に眼を細めていると低い声がした。

「なんだスネイプ――待て、お前裏切ったか!」

「落ち着け――」

 レグルスは瞬く。魔女と魔法使い達がいる。そのうち一人が眼を見開いている。

「……な、な……」

 舌が巧く回らない。灰色の眼が――兄そっくりの眼が――ある。

――ブラック家特有の虹彩が

 嵐の空のような灰色。

「祖父……さん?」

 シリウス・ブラックが、レグルスを睨みつけていた。

 

 

「逆転時計……時間遡行……荒唐無稽だが……」

 ありえない話でもないか、と黒髪に灰色の眼をした男が呟く。ため息を吐いてコーヒーをぐいと飲んだ。本や薬、ナイフや銃、その他諸々が転がり雑然とした部屋で、レグルスも彼に――シリウス・ブラックに倣った。スコーピウスは真っ黒なコーヒーを見て絶望した顔をしている。甘い方が好きなのか、とレグルスは頭の片隅に留めた。なにせ寮が違うので食べ物の好みもそこまで知らないのだ。

「――三校対抗試合はハリーだけが優勝したんだよな」

 祖父さん、と小さく付け加える。シリウスは顔をしかめた。本当に父に似ている。顔の造作も、表情も。眼の色と雰囲気を除けばだが。

「セドリックは第一の課題と第二の課題で躓いてな」

「杖は吹っ飛ぶ、泡頭呪文は失敗する……」

 ハーマイオニーが鼻を鳴らす。魔法大臣の時のように髪を綺麗にセットしていないし、闇の魔術の防衛術担当の時のように意地悪そうでもない。ただ、顔には小さな傷があり、眼つきは鋭く、どこか荒々しいのだ。

「第三の課題の時、セドリックは最後に出発して優勝杯を逃した……ねえシリウス、レグルスがいて緊張するのもわかるけど、ほら孫なんだからちょっと優しげな顔したら? まあ無理か……」

 ハーマイオニーの言葉をロンが受け取り、シリウスに投げた。シリウスは軽く舌打ちし、手の平で漆黒の杖を撫でた。

「ろくでもない息子の、いけすかない息子と今更どうこうできんだろう、この男は」

「うるせえスネイプ。誰がろくでもない……バカ野郎な息子だって」

 スネイプが唇をひん曲げ、カップの中身をすする。

「確かに……ウィスタ・リアイスは――少なくともリアイスではあったな……」

 懐かしいことだ、とスネイプが口にして、ハーマイオニーとロンが固く眼を瞑った。

「君たちがセドリックに屈辱を与え、対抗試合から引きずり落としたのが元凶だろう」

 ハーマイオニーから猛々しさが薄れ、代わりに薄暗い紗を纏った。どこか遠くを見るように視線をさまよわせる。

「対抗試合が終わって、セドリックは卒業した。それで不死鳥の騎士団に入った。ウィスタは彼のことを信じていたよ。とてもね。神秘部の戦いでも……」

 茶色の眼がシリウスに向けられた。

「俺はウィスタに気を取られて、ベラトリックスの呪文が当たりかけた。それを防いでくれたのもセドリックだった……」

「だがあいつは裏切った」

 スネイプの深みのある声が、隠し部屋に響く。

「いや、最初から裏切るつもりだった。ホグワーツでの戦いの折、リアイスの大切な人間を殺した……ルーピンだ……しかもそれを騎士団の者の犯行の見せかけた。それだけでも最悪だが、やつはナギニを始末しようとしたロングボトムを殺した。これは服従の呪文をかけたホグワーツ生にやらせた。ポッターは殺され、リアイスを筆頭に、誰も彼もが撤退した」

「俺たちの士気は最低にまで落ちこんで、何年も何年もぎりぎりの戦いを続けた。不死鳥の騎士団には不和が満ちた。ウィスタはその頃からおかしくなっていたんだろう。逃げて逃げて戦って、セイリオスとお前を授かっても、あいつの歪みは大きくなっていった」

 セイリオスとお前、という言に首を振りたくなった。もう一人いるのだ。ウィスタ・リアイスとクイン・マグダラの子は。だが、口を挟める雰囲気ではなかった。

「最悪にはまだ底があった……」

 シリウスが囁く。レグルスは、彼の声に冥府の冷たい息吹を感じ取った。思わず腰が引ける。心臓が脈打った。

「クインが、殺された。転々と逃げていた時……正体がばれて、引きずり出されて――」

「あんな死に方ってない」

 ハーマイオニーがすすり泣く。レグルスは、彼女の中に穏やかで理知的な魔法大臣の面影を見た。

「彼女はウィスタと君たちを逃がしたんだ」

「そして、ウィスタは壊れた。クインを殺されておかしくなった。だって彼女を殺したのは、リアイスの――魔法使い達だった……」

 ロンが呟き、カップを強く握りしめた。激情に震える身体を抑えようとするように。

「なぜ彼らがあんなことをしたのか、今となっては探りようもない。確かなのはウィスタが絶望したってことだ。そして」

「闇の帝王の軍門に下ったのだ」

 手土産にリエーフの首を持って、とスネイプが締め括った。

 

 ただただ首を振った。こんな現実は受け入れたくないと首を振ったのか、他の感情がそうさせたのか分からない。食いしばった歯の間から、かろうじでて声を絞り出した。

「親父が……エリュを、殺すはずない……」

 エリュテイア・リアイス・リエーフ。父の従者――友人でも伴侶でもない関係の魔女……。父が彼女を殺すなんて何かの冗談としか思えなかった。

「残念ながら事実だ。俺達が訪ねた時にはエリュテイアの胴体しか残ってなかった」

「抵抗の跡は一切なかったよ。私とロンとシリウスで弔った」

「……エリュテイアが拘束されて――」

「スコーピウス、それはない。リエーフが簡単に拘束されるはずもない」

 スネイプの深い声が、スコーピウスの予想を打ち砕く。レグルスも頷いた。

「エリュが本気になれば簡単には殺されない……」

 正確な実力は、レグルスも知らない。けれどあの父の護衛までこなしていたのだ。弱いはずがない。

――本当に抵抗しなかったのか

「何もかも……命すら……差し出したっていうの」

「それがリエーフなんだ、スコーピウス」

 スコーピウスがうなだれる。レグルスも同じようにしたかった。このままここにいて、何も考えずに過ごしたい。これ以上酷い現実を見たくない。自分達が過去をねじ曲げてしまったせいなのだと思えば、なおさら。

「……要点をまとめよう」

 揺らぎのない声が、レグルスの乱れた心を鎮めた。つと顔を向ければ、静かな灰色の眼とかち合った。苛烈な意思が見え隠れする虹彩。

「セドリックは何事もなく三校対抗試合で優勝し、ヴォルデモートに殺されなければならない」

「つまりは、第一の課題と第二の課題を修正するってことだね」

 ロンが指を折り、ハーマイオニーが腕を組んだ。

「代償は伴うだろうが――お二方」

「予想はしているとも」

「こいつと同じ結論なのは腹が立つがな」

 スネイプとシリウスの淡々とした様子に、レグルスは何も言えなかった。

――本当なら

 死なせたくない。だが、とっくに死んでいるべき人達なのだ。

「気にするな、レグルス。俺の命の使いどころはここなんだ」

 クインのように伴侶を守れたわけでもないからな、とシリウスが呟く。スネイプがどこか哀れみのこもった眼を、シリウスに向けた。

「世界があるべき姿に戻るだけのこと。我が輩は構わん。さてグレンジャー、有効な策は浮かんだかね」

「盾の呪文で妨害するのが早い。逆転時計の性能は怪しいが……」

 茶色の眼が逆転時計をちらりと見る。

「魔法省が作成したものとはかなり違うんだろう。もっとも未来や過去は最も神秘的で不可解な分野だ。選ばれた者にしか手にできない特権だ」

 ハーマイオニーの顔が険しくなる。

「これの『心臓』がなんなのか、なんとなしにわかる。強力な分扱いは難しいな。そうでしょう、シリウス」

「……レグルスがいれば大丈夫だろう」

 不思議な会話に、口を挟む隙もない。ただ、シリウスの暗い顔が気にかかった。

「時間遡行を安定させるための手段があと一つ二つあるんだろうが、検証もしていられない」

 シリウスの手が、ハーマイオニーから逆転時計をもぎ取る。

「さっさと行って修正するぞ。レグルス」

 ◆

 時間を逆行し、第一の課題を修正して戻ったとき、レグルス達は隠れ家の外――禁断の森の端にいた。

 レグルスは杖を握りしめる。ここから隠れ家まで距離がある。暴れ柳の根本、地下にあるのだから当然だ。

「急ぐ――」

 スネイプが言い終える前に、風が吹いてきた。レグルスは鳥肌が立つのを感じる。冬の風よりなお冷たく、校庭の芝生が霜に覆われていく……。

――魔法?

 冷気の呪文の類だろうか。

「逃げるぞ!」  腕をぐいと掴まれる。引きずられるように走り出した。祖父さん、と呼びかけようとした矢先、叫び声がした。ロンだろうかハーマイオニーだろうか、それともスコーピウスか。

「吸魂鬼が来るんだ!」

 草が凍っていく硬い音が追いかけてくるのを感じた。澱んでいた空気が腐り落ちていくのだと直感した。

――吸魂鬼

 聞いたことがある。最悪の闇の生物で、その昔アズカバンの看守をしていたというが、今では追放されているのだと。

「第二の課題を……修正しないと!」

「俺達が時間を稼ぐしかない」

「賛成!」

 いつの間にか足下が凍り、頭上には影が渦巻いていた。大人達が止まり、レグルス達を見る。

「お前達が修正――」

「……むざむざ命を捨てるのか、騎士団。昔からそういうバカなところは変わらないな」

 不可視の刃が、闇が渦巻く世界を切り裂く。瞬きする間に影が出現していた。黒髪、白い肌、黒衣――燃えるような虹彩。黒の大君がレグルス達を興味深げに――ただ、その実乾いた眼で――見つめている。

「お久しゅう父上、息災なようで。友人達も同じく。小汚いのが残念だが。さてはて教授とマルフォイ家の子息と我が子と……妙な組み合わせだな」

 吸魂鬼がひらひらと外套なびかせ、下降しようとする。だが、黒の大君が睨みつければそろそろと後退した。

「温和しくしていればよかったものを――あのじゃじゃ馬の眼を誤魔化すのに苦労したんだ」

「半端な慈悲をかけてくれてたってわけか。息子よ」

 つ、と黒の大君が笑う。嘲りを顔に貼り付けて、一同を眺め回した。

「その気になれば即座に殺せたさ。ヴォルデモートを始末したようにな」

「――ウィスタ、お願い」

「命乞いかハーマイオニー。お前らしくもない」

「違う。過去を見て! なぜ私達がここにいるのか『視て』。命を差し出してもいい!」

「わざわざ外に出てそれか」

 もう一度、吸魂鬼を牽制し、黒の大君は眼を閉じ――開いた。レグルスは硬直した。強い魔法が渦巻いているのだとなぜだか分かる。

――過去を視て

 ハーマイオニーはそう言っていた。だが、レグルスは父がそんな力を持っているのだと聞いたことがない。この世界だから能力があるのか、それとも他に理由があるのか――と考えていると、黒の大君は片手で顔を覆った。

「――過去の、書き換えを?」

「そうよ……」

 黒の大君がよろめく。呻きながらレグルスの手の中の逆転時計を睨みつける。

「お前の世界では、クインは生きているか」

「ああ。俺の下に女の子もいる。イリスっていうんだ」

「そうか……」

 沈黙が満ちる。黒の大君は眉間に皺を寄せた。

「ならばいい。行け、レグルス、スコーピウス」

『裏切ったな大君』

 次の瞬間、どこからともなく声が響く。だが、黒の大君は顔色一つ変えなかった。

「なんだじゃじゃ馬。お前に従った覚えはない。帝王のように始末しようと思っていたところだよ」

『それはこちらの台詞だ――死ね!!』

 甲高い音が鼓膜を震わせる。同時に、吸魂鬼の渦が形を崩した。

「――行け」

 黒の大君が杖を振る。白い幻獣が吸魂鬼を引き裂いた。

「行って世界を救ってこい」

 

 

 

 走って走って走って走る。吸魂鬼が向かってくる気配を感じてさらに足を速める。風は冷たく、空気は濁って、希望はない。暗黒の世界。最悪の時代の中をもがく。

 強い魔法を感じて、思わず振り向きそうになる。だが、スコーピウスに腕を引っ張られた。

「駄目だ! 僕らは行かなきゃ」

 でも、と言いかけて唇を噛む。振り向いて何になる。

――あの数の吸魂鬼を相手にしてしまえば……

 待つのは死だ。いいや、死より惨い運命だ。頭を振ったその時、大気を叫びが貫いた。幾重もの不協和音にスコーピウスが腕を放す。吸い寄せられるように、二人とも首を捻り、口を開けた。閃光が天を染め抜いている。渦巻く影が次々に千切られ、砕かれて塵となって還っていく。

「……黒の大君だろうと、なるほどウィスタ・リアイスなわけだ……」

 レグルスは黙って頷いた。どの世界でも父は父なのだろう、確かに。息を切らせ、やっとのことで湖が見えてきた。

『レグルス』

 声とともに白い影が舞い降りる。小さな幻獣だった。父だ、とすぐに分かった。守護霊は深紅の眼を輝かせ、レグルスを見つめる。

『あちらで黒獅子公に伝えろ』

 幻獣が身を屈め、レグルスの額を舐めた。その瞬間『何か』が流れ込んでくる。レグルスの奥底に熱い痛みが生まれ、思わず胸を押さえた。

――強い魔法

 それしか分からない。

『――行け……この出会いは『なかったこと』になるのだろうが』

 無駄ではない、と呟いて幻獣が消えた。同時に衝撃波が草地を揺らし、湖に波を立てた。魔法と魔法がぶつかり合っているのだ、となぜだか分かった。

「スコーピウス」

 呼びかけ、レグルスは息を整える。地を蹴る。逆転時計が回り始める。なぜだか涙が止まらない。  溢れてこぼれた涙すら、時間の流れに吸い込まれていく――。

 ◆

 水面から浮かび上がる。きょろきょろとあたりを見回し、空が晴れていること、空気が濁っていないこと、吸魂鬼がいないことを確認し、続いて黒髪に緑の眼の少年を見つけ、歓声を上げた。スコーピウスが飛沫を上げて少年――アルバスに飛びつく。

「アルバス! アルバスだな!! 会いたかった!!!」

 レグルスはほっと息を吐いた。過去の修正は成功したらしい。歪んだ歴史は正された……。

「寒中水泳とは感心感心、闇祓いの教練に取り入れようか」

 ぴたり、とレグルス達は動きを止めた。湖の縁に黒衣の影が立っている。影は深紅の眼と群青の眼をぎらぎらと光らせて、煙草を放り投げた。

「お、おおおお、おや、じ」

 感動の再会を喜びたいが、レグルスの顔は引きつるばかりだった。硬直している魔法使い達を尻目に、父は湖に踏み入る。靴が水面と触れ合い、波紋を描いた。そのまま沈むことなく地を歩いているのと何ら変わらない歩調でやってくる。冷厳な靴音が高く響いた。杖なしで魔法を使っている。俺も教えて欲しい――といつもなら言っている。が、今は無理だ。無理ったら無理だ。

 おおマーリンよお助けくださいと唱えてひしと抱き合っているアルバスとスコーピウスがちらりと見えたが、レグルスは口をぱくぱくと開け閉めすることしかできなかった。父の苛烈な怒りが突き刺さる。

「なぁあああにをやってるんだお前等はぁあああこんのバカ息子どもが! 関係者一同お待ちかねだ。校長室まで来い」

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