千年以上に渡る因縁を、あの時断ち切ったと思っていた。闇の帝王はこの世から消えた――と思っていたのだ。いいや、思いこもうとしていたのかもしれない。当時のウィスタは戦いの日々が終わり、疲弊していた。何も考えたくなかったし、養父や友人を喪った痛みにも苛まれていた。それを忘れたいがために闇の帝王の残党狩り、捕縛した死喰い人の処断、アズカバンの再構築や破壊されてしまったホグワーツの修復――戦乱の傷跡深い魔法界を復興させるために駆けずり回っていた。合間合間にリアイスの系譜について調べたり、スリザリンや古い一族について調べたりしているうちに何年も経ってしまっていた。だが、闇の帝王に子がいるかどうかを考えたことはなかった。触れる気にもならなかったのだ。
ウィスタは過去視の鏡の表面を撫でた。使えるのは鏡を継承し、過去視の力を持つ者だけだ。
指先を噛み、鏡に血を落とす。淡く輝き、鏡が魔力を帯びる。
――視せてくれ
世界はまだ書き換えられていない。ならば『過去』のどこかにいるはずだった。
「デルフィーニはどこにいる」
呟くと同時に、鏡面が揺らぐ。闇がひび割れ、色彩が渦を巻いた。
◆
風が吹く。強い草の匂いを感じ、レグルスは眼を開けた。
――クィディチ競技場
だが、今は迷路に変わってしまっている。
「……第三の課題から『やり直す』つもりか」
縄が食い込んで腕がびりびりと痛む。こちらは三人、あちらは一人。数の上では有利だが、拘束されていては話にならない。しかも相手は闇の帝王の娘だ。何年も前に父が倒した帝王なんてお伽噺の中の人物だが、その恐ろしさは耳に胼胝ができるほど聞いている。娘もきっと強いに違いない。負ける、とレグルスは思ったのだ。墓場にいた『敵』はデルフィーだったのだ……。ウラニア・ユスティヌを奪い、レグルス達を嘲笑して去っていったあの敵――。
デルフィーは鼻を鳴らし、レグルス達を強引に進ませた。迷路は薄暗く、どこかじめじめとしていて刑場に引き立てられる虜囚の気分が味わえる。何かあれば死刑執行人に早変わりするであろう敵がいる時点で、間違っていないのだが。
「第一、第二の課題では動きにくいからな。私は危険を冒さない」
「俺達はお前の手助けなんかしないぞ」
吐き捨てる。燃えるような紅色が、レグルスを貫いた。
「いいや、成すのだ。よけい者がよけい者でなくなり、息子が父を殺す……そうすれば我が父は蘇る!」
白い杖が振られる。次の瞬間、魔法が炸裂しレグルスは絶叫した。身体が内側から燃えている。眼が溶ける。内蔵が煮える。痛みという痛みが這い回る。
「アルバス。セドリックに屈辱を与えるのだ!」
縛られながらも、レグルスは転がり回った。ダメだと叫ぼうにも口が動かない。
「お前が父を殺す必要があるのだ。でなければ予言が成就しない! さあ幼なじみを殺されたくなければやれ!」
――確かロングボトム先生の親は
――拷問されて気が狂って……
思考が散らばる。死喰い人に拷問されて、狂って、廃人になって……。
熱い息が漏れる。
――父が
きっとレグルスが廃人になっても、治してくれる。先生の両親だって父や一族が――長い年月をかけて……治した……。
ウィスタ! と叫びが聞こえる。直後鋭い声が響いた。
「武器よ去れ!」
紅の閃光が炸裂し、デルフィーが呻き、杖を取り落とす。続けざまに呪文が響いた。
「石となれ!」
レグルスは顔を動かす。すらりとした影が、戦意をみなぎらせて直立している。
「セド……リック……」
セドリック・ディゴリーはレグルス、アルバス、スコーピウスを順繰りに見回し、眉間に皺を刻んだ。
「ウィスタかと思ったけど、ここにいるはずもない……迷路の仕掛けか」
呟きながらも、セドリックはレグルスを助け起こす。ありがとうと言おうにも息も絶え絶えだった。
「僕が打ち負かすのはそこの魔女だけでいいのか。それともお前達もか? 言え」
レグルスはかすかに首を振り、アルバスが声を上げた。
「僕達の縄を解いてくれ。それだけでいい! 君は迷路をやり通さなければならない」
セドリックがまじまじとアルバスを見つめ、杖を握りしめる。杖の一振りで、戒めが解けた。
「行っていいな?」
「……ああ」
レグルスは叫び出したくなった。行ってはいけない。その先には死がある。だが、セドリックは死ななければならない。あるべき歴史のために。
セドリックが踵を返す。アルバスが一歩二歩と彼を追いかけようとして、止まった。
「君の両親は君を愛していた! 忘れないで!」
「……え、ああ。そうだろうとも。もう僕は行くよ、ハリー」
「セド」
レグルスは思わず呼びかけた。なんだ、とばかりにセドリックが振り向く。父は昔言っていた。約束をしたのだと。それは果たされなかったけれど、と。
「クィディッチの約束、忘れるなよ」
「もちろんだ」
セドリックがにっと笑う。そうして迷路の中に消えていった。
「くそ……」
獣の唸りが迷路に響いた。黄金の逆転時計を握りしめ、デルフィーが立ち上がる。
「もうたくさんだ。やはり我が手で父を復活させなければならない」
デルフィーは眼を光らせ吼える。彼女は身を震わせながら、杖を振りかぶった。
「待て!!」
レグルス達は手を伸ばす。
――止めなければならない。デルフィーの企みを。
魔法が展開され、時の歯車は回転を始め、レグルスは『跳んだ』。
じん、と眼の奥が痺れる。渦巻く闇は形を成しては消えていく。
――どこだ
気ばかり焦る。時の流れに手を伸ばし、掴もうとしてはすり抜ける。早く見つけなければ。あの娘は――デルフィーニは、子ども達を殺すだろう。それができる女だ……。
「呼吸を鎮めて」
声とともに、肩口にひやりとした感触が伝わる。振り向けば淡い光を纏ったヘレナがいた。
「これは、レディ……」
かつて生きた遠い祖先の影は、ウィスタの肩をぎゅっと掴んだ――ように思った。肉体は既になく、おぼろな写し身として地上に存在している幽霊は、この世に物理的な影響を及ぼせない。だが、ヘレナの冷たさが、ウィスタの気持ちを落ち着かせた。
「助けましょう。血脈の子よ……時を視る者よ」
「助かる」
息を吐く。吸う。ゆっくりと、繰り返して。捕らえるのは時の流れ。引き寄せるのは刻まれた過去。求めるのは彼方へ去った子ども達だ。
――見つける
必ず見つけだす。
鏡が緑の色を帯びていく。ウィスタは眼を細めた。緑、青……そして茶――。覚えがある。そうして子ども達の姿を捉えた。
「――ゴドリックの谷……」
呟いた瞬間、幻は消えていく。ウィスタは沈黙し、鏡を見つめる。もう一度試みて、再び望むものを映すかどうか。鏡を仕舞おうとして、瞬いた。漆を塗り込めたような闇が波打つ。今度は白い色が滲んだ。
『――これで』
あるのは灯火一つ。白い髪に紅の眼の女が、にたりと笑う。くつくつと喉を鳴らす女の視線の先には、寝台があった。横たわるのは――。
「ユスティヌ……」
白い肌、黒髪。細い肢体。纏う衣は少し古い型のホグワーツの制服だ。少し疲れたから眠って、呼ばれたらまた起きるのではないかと思わせるような穏やかな顔をしていた。しかし、彼女は永遠に起きないのだ。実の父に殺されたのだという。最期の最期は心臓が爆ぜたとも聞く。
『さあ姉様、お役に立って下さい』
双狼と銀の蛇の血を受け継ぎ、三人の娘の中で最も濃く純粋なスリザリンの徒は囁いた。
『古き血。過去視の力を持つ幻獣よ……あなたが必要なのです。すべては我が野望のため』
風切音が響き、一拍後にはユスティヌの片腕が落ちた。玩具のように寝台に転がる。生あるならば痛みに声も上げようが、彼女は沈黙を守ったまま瞼を閉じるのみ。ただただ、妹の暴挙を受け入れるしかなかった。
デルフィーニは転がる片腕をそうっと拾い上げ、ああ、とため息を漏らした。紅色の虹彩がとろける。
『姉様、あなたの骨で杖を作りましょう。それは素晴らしいものを作りましょう。そうして逆転時計に血を封じ込めるのです……うふ、あなたの甥の血を……』
腕を両手で捧げ持ったまま、デルフィーニはくるくると踊る。とうに死んだ姉の幻と踊っているが如く。
『力ある骨と力ある血、それさえあれば確実な遡行ができましょう……だって私も選ばれた者! 正しき血脈なのですから!! さあ杖を作りましょう。血を奪いましょう。始まるのです……』
闇の帝王が存在する、真の歴史が。
デルフィーニは『過去』のゴドリックの谷にいるだろうと伝えてくれと従者に告げる前に、彼女は仕事を終えていた。炎の欠片が闇の中に散っていく。
「我が君、敵の居所はともかくとして……先ほどは何を?」
ウィスタは鏡を撫でる。意図せずして垣間見た光景を思い出す。暗い一室。寝台。横たわるユスティヌ――母の異母姉。
「ウラニア・ユスティヌ」
名を口にした途端、従者が片方の眉を上げる。灰緑の眼が揺らめいた。
「亡骸の場所が?」
「正確には分からんが。どうやら彼女の骨で杖をつくったらしい」
だからこそ亡骸を盗んだのだろう。そしてウィスタの血を奪い、逆転時計の核とした。
――過去視の力を持つ骨と血を求めていた
「問題は、どの時代のゴドリックの谷にいるかだ」
闇の帝王の時代を復活させようとするならば、一番手っ取り早いのは――。
「ハリーを」
始末すること、と続けようとしたとき、紙片がこすれる微かな音に眼を向ける。ユスティヌの秘宝『死の書』が頁を開いていた。継承者であるウィスタの思惑の外にある魔法の書に指先で触れる。かつて、この書を読んだ時書かれていたのはユスティヌの者が成立させた禁術について。その名を分霊箱。生け贄と引き替えに己の魂を裂き、器に封じ込める術だ。常人は手を出そうともしない禁忌中の禁忌だ。『死の書』は一族の行いを悔いたユスティヌが分霊箱と本体の破壊方法についても記していた。長く続く一族の歴史についても記述が及んでいるようだったが、ウィスタは細かいところまでは読んでいなかった。当時は闇の帝王に追われる身であり、分霊箱の破壊こそが急務だった。戦が終わった後改めて読もうにも『死の書』は姿を消していた。どうやら必要な時に現れるのが、この書の性分らしい。
ウィスタは頁の上部、流麗な筆跡で書かれた題に触れた。
「時間の遡行について……」
『我々は祖先サラザールより過去視の力を授かった一族。ならばこそ、と考えた。時間を遡り世界を書き換えることができるのではないかと。だが、容易なことではない。すべては夢物語に等しい。しかし成さねばならぬ。サラザールの栄光のため。そして忌々しきグリフィンドールの失墜のため』
『一つの推論を組み上げた。ユスティヌが継承する杖のように、骨から杖をつくればよい。我々だけではなく他の一族でも例のあること。強い力を発揮できよう。時を遡るために必要な媒体はもう一つ。血だ。望む未来を手に入れるため、サラザールの時代にまで遡る必要があろう。もしくはペンドラゴンの時代か。我々と彼らを繋ぐもの。魔法の神秘を宿すものだ』
『古来大規模な魔法において、力を増幅させる要素がある。東方では陰陽、こちらでは太陽と月といったところか。これに男と女を当てはめる。男の骨と女の血、あるいは女の血と男の骨』
『骨は私でよかろう。このヤヌスの骨を杖と成せばよい……どうせ呪われた身。先は見えている。娘に始末をつけさせ、後を任せよう』
引き結んでいた唇を緩める。『死の書』は独りでにぱたんと閉じた。
「忌々しい娘だ。どうやら自力で理論を組み立てたらしいな」
女たるユスティヌの骨、男たる――過去視の力を持つ唯一の男たるウィスタの血。この組み合わせでなければならなかったのだろう。現在の汎用品を越える逸品を作り出し、確実な時間遡行を可能にするためには。
『死の書』をひっつかみ、歩を進める。同時に『炎』を飛ばす。
――我々と彼らを繋ぐもの
こんな時だというのに笑みがこぼれる。どこかの時代のゴドリックの谷に、息子はいる。ならば遡行は可能だろう。
――この身に流れる呪われた血こそが鍵
校長室に戻り、ウィスタは告げた。
「先だって告げた通りだ。場所はゴドリックの谷。時代は確定じゃないが四十年ばかし前だろう」
「つまり――」
ハリーがぐいっと進み出る。ウィスタは続く言葉を引き取った。
「そうさ相棒。デルフィーニは最初の予言を無効にしようとしている」
「僕を直接消すのは無理だろう。ポッター家は守られている。デルフィーニは手出しができない。守り人から秘密を明かされていないから」
「だろうな。だから、あいつがお前に死の呪文を放たないようにするんだろう。お涙頂戴の説得かそれとも脅しか……」
呟き、首を振る。そうして虚空に視線を滑らせた。空間が僅かに歪む。『炎』とともに白銀の輝きと紙片が舞い降りた。
「感謝するぜ先視殿」
デルフィーニは高を括っているだろうが、鍵は既に用意されていたのだ。敵が作成した逆転時計が。核となっているのは誰あろうウィスタの血だ。
ウィスタは杖を引き抜いた。普段使っている真紅のそれではなく、黒に見えるほど深い緑の杖を。芯にバジリスクの鱗を用いた、古い力を持つ杖を。忌まわしい骨の杖はないが、これで良しとするしかない。加えて、闇の帝王と同じ木を使っているのだ。あの時代にある帝王の杖と引き合うかもしれない。なにより目指す時代には息子がいる。ならば辿れるはずだ。
紙片に眼を落とす。闇祓い局の長・ルキフェルの名において、ウィスタに全権を委ねる旨が書かれている。
――駒は揃った
杖を振り、闇祓いのローブを羽織る。背に描かれた紋は『鷹の翼持つ死神』。獲物を追う狩人の徴だ。
「さて、息子達を取り戻すとしよう」