虚空に放り出されるような感覚を味わうのは何度目のことか。レグルスは気づけば地面に尻を打ち付けていた。
「うんざりだねまったく」
「気持ち悪い……」
スコーピウスとアルバスがよいしょと言いながら立ち上がる。天気は晴れ。風は冷たい。レグルスは辺りを見回して、鼻腔をくすぐる香りと、覚えのある景色に瞬いた。漂うのは薔薇の香。見えるのは――。
「……谷じゃねえか、ここ」
「谷だね……」
スコーピウスも視線をあちこちへさまよわせ、困ったようにレグルスとアルバスを見つめた。
「君たちの『谷』っていうと」
「ゴドリックの谷さ」
「……まいったな」
ぽつねんと呟いたスコーピウスに、レグルスも頷きたい。本当に参った。逆転時計は壊れてしまったし、デルフィーはいない。しかもいつの時代のゴドリックの谷に飛ばされたのかさっぱりだ。
「とにかく移動しよう」
「ジェローム聖堂がいいんじゃねえの」
広い谷の外れで固まっていても仕方ない。勝手知ったる土地を、レグルスとアルバスで先導するように進んでいく。雨露をしのげて座れる場所といったらいくつかあるが、ジェローム聖堂が適当だろう。
「ああ、ゴドリックの谷の共同墓所?」
「聖堂の裏に墓所があってな。墓参りのふりして誤魔化せる」
ずんずん進む。呪文で髪と眼の色だけ変えておいた。これ以上ややこしいことになるのは嫌だ。
「ジェロームっていうとリアイスの人だよね、確か」
「戦争でばったばったと敵を倒した英雄らしい」
本家の人間なのか、分家の人間なのか記憶は曖昧だ。歴史上にリアイス姓の者が現れるなんてさして珍しくもない。ジェロームよろしく戦争の英雄といえばレグルスの父も当てはまる。そのうち銅像やら聖堂やら建てられたらどうしようかと思ったが、レグルスは口をつぐんだ。第一、父は祭り上げられることを良しとしない。目指す建物が見えてきて、レグルス達は中に滑り込む。誰もおらず、石造りの壁にはステンドグラスがはめられている。グリフィンドール六大名門――リアイス、ポッター、ロングボトム、ウィーズリー、マッキノン、プルウェットの紋が一枚ずつ、華麗に描かれていた。昔からここは墓所で、聖堂自体は後から建てられたらしいが、そんな知識は役に立たなさそうだった。ある種のリアイスの『場』とも教えられたような気もするが、ここでドンパチしない限りどうでもいい話だ。しかも『場』と言われてもレグルスには活用の仕方が分からないのだ。
ため息を吐いて長椅子に腰かける。アルバスもスコーピウスも同じく座った。
「デルフィーがゴドリックの谷を選んだ理由……」
「なんだかとっても嫌な予感がするし、僕はなんとなく分かってきたんだけどさ。今がどの時代か」
「ゴドリックの谷っていや、そりゃあ……」
闇の帝王を復活させるとデルフィーは言っていた。ならどうするか。凋落の原因であるハリー・ポッターを排除してしまえばいい。
「報せるかい、アルバス?」
スコーピウスの問いかけに、アルバスはゆるゆると首を振った。翠の眼は薄く曇ってしまっている。
「僕の家に行って……まだ僕はいないわけだけどさ、馬鹿正直に戸を叩いて、招いてもらおうって? 信じないだろう」
じゃあ、とばかりにスコーピウスの眼が向くのを感じて、レグルスも首を振った。
「リアイスを訪ねても無駄だぞ。仮に俺の祖母のとこ行っても……」
思わず震えた。相手は怪しい子どもだ。しかも今は戦時。リアイスも緊迫しているに違いない。さらに悪いことに、祖母は腕利きの闇祓いだ。巡り合わせが良ければ、局長にだってなれたほどの。
「下手すりゃぶっ殺される。なにせリアイスだ。子どもの姿を被った死喰人だ怪しいやつだ……で終わりだ。さすがに殺されはしないと思うけど、俺も自信ない。まったくない」
「ポッター家のほうがまだマシじゃないか?」
「うん」
アルバスが深く頷く。レグルスは何も反論できなかった。自分の家がどんな家か、多少は分かっている。敵と見なせば容赦しないのだ。なにせ根が魔法騎士なのだから。
「僕、家の様子が見たいな」
「見つかってお前の祖父さんに追っかけられるとか嫌だからな」
「そのときはそのときだよ」
意外にもスコーピウスが言い切り、さっと立ち上がった。そのまま聖堂の外へ足を向ける。レグルスも急いで追いかけ、慌ただしくポッター家へ向かう。場所はレグルス達の時代と変わらないはず――だった。
「……ない?」
アルバスがポッター家の近辺をぐるぐると回る。だがないのだ。建物などどこにもない。レグルスも首を捻った。絶対にここなはずだ。なのにない。スコーピウスが魔法史家のバチルダの家をきらきらした眼で見つめているだけだ。化石になりそうなほど老齢の魔女で、最後は闇の帝王に殺されたらしい。この時代ではまだ生きているのだ。
「スコーピウス」
はっと、スコーピウスが振り向く。眼がうろうろと泳いだ。
「そうだ、ポッター家……」
「なんかさ、ねえんだよ。あるはずなのに」
これ以上うろついても拙い。三人はそそくさと離れ、聖堂へ避難した。
「あるはずのものがない? 透明呪文……それとも幻……でも、狙われてたんなら『忠誠の呪文』で守ってるんじゃないか? 魔法戦記とかでたまーに出てくるよ」
「さすが歴史オタク」
「いやあ、誉めないでよレグルス」
「誉めてるのかな、それ」
スコーピウスのおおざっぱな説明によると、一人の人間に秘密を封印してしまう術らしい。高等魔法中の高等魔法で、ふさわしい魔力と、ふさわしい技術を持っていないと成立できないのだとか。『守り人』が秘密を漏らさない限り、何人もその『場』に侵入することは不可能。まさに鉄壁の守りだ。
「戦記じゃ『守り人』が誰なのか探ったり、『守り人』をいかに寝返らせるかの駆け引きとか色々あって……」
「俺らには無理だな」
あっさりと降参した。あれだけ探し回って、しかも元からポッター家の場所を知っているのに見えないとなれば『忠誠の呪文』で決まりだろう。レグルス達に突破する術はない。
「どうにもならないね。逆転時計も壊れたし」
今まで全力で眼を背けていたのに、アルバスがずばり口にした。そう、逆転時計はない。つまりレグルス達は帰れないのだ。ここで何十年か過ごすなら別だが。
――それか
デルフィーが世界を書き換えてしまえば、何もかもが終わってしまうだろう。
何もできない無力感を『剣に蔓薔薇』が描かれたステンドグラスを睨むことで解消しようとした時、頭の芯が揺れ、心臓が脈打った。何かがくる。わけもなくそう思う。
「レグルス?」
アルバスの問いに首を振る間もなく、淡い光とともに複雑な方陣が石床を覆った。
単身で過去のゴドリックの谷に乗り込むつもりだったが、横槍が入った。一本だけでなく何本もだ。
「何を考えてるのかしら」
「奥さん、美人が台無しだから。しかも俺の腕そこまで掴んで折る気か」
「ええあなたの両手両足折ってでも止めたいわよ」
冷や汗が滲む。ロンが「ひゅーさすがクイン、ワイルドだ。ウィスタの奥さんはこうでなくっちゃ!」と拍手しているのも遠くから聞こえてくる始末だ。あの野郎後で覚えていろ。
「ロン、勘違いしないでね。私がウィスタの奥さんをしてるんじゃなくて、ウィスタが私の夫なの」
言い切ったクインは、まさしく女帝の威風を身に纏っていた。おかしい。彼女はレイブンクローの出身のはずだ。長い結婚生活でリアイスの色に染まったか……と考えたが、それどころではない。
「我が君、単身で行かれるなど……英明なる我が君の眼は節穴ですか。お役に立つ『杖』がいるというのに」
「エリュテイアの言う通りよ。一人はダメ。クインとエリュテイアともちろん私と……なにせ魔法大臣ですからね……必要でしょう」
「もちろん僕も行く。魔法法執行部長官だって必要だろう。大体、息子がいるのに行かない父親がいるかい」
「ポッターと同意見だ。観念しろリアイス」
「ここで僕を仲間外れにされちゃ困るなあウィスタ」
槍がざくざくと突き刺さり、ため息を吐いた。
「奥さん、あんたには残っておいて欲しいんだけど。イリスはどうする。セイリオスも。こんな時だから側にいてやれ」
校長室にはイリスもいて、娘は顔をこわばらせていた。長子のセイリオスはともかく、娘を置いていくのは気が引けた。もしかしたら帰ってこれないかもしれない危険な旅だ。物心付く前に親から引き離されるならまだしも、今この段階で親と別れるのは酷いことだ。
「なんとかなるわよ。先生、戻ってくるまでイリスをお願いしますね。セイリオスもホグワーツに来るでしょうけど、説明も重ねてお願いします」
クインはマクゴナガルにさらりと告げる。ウィスタは肩を落とした。どいつもこいつも折れる気配がない。こんなところで揉めても時間の無駄だ。
「集まってくれ。行くぞ」
銀の逆転時計を掲げ、杖を振る。巡る血が燃えるように熱くなり、逆転時計と共鳴した。
――さあ過去へと
――息子の処へと
飛ばせ、と念じた瞬間逆転時計を金の光が染め、視界もまた金に染め抜かれる。ウィスタを中心にするすると方陣が描かれ――弾けた。
ふらつく頭を押さえて顔を上げれば、息子が飛びついてきた。なんとか受け止め、背を叩く。
「ジェローム聖堂か……ちょうどいいところにいてくれた」
レグルス、と呼びかける。見たところ怪我はないようだ。
「どうやって?」
「お前を座標にして逆転時計で跳んだ」
それだけ告げる。あまり悠長にしてもいられない。数十年跳ぶのはとんでもない荒技だとか、きっと過去視の能力者か特殊な道具がないと無理だとか、核に俺の血が使われているなんてことを説明している暇はなかった。重要なのは息子に再会できたこと。逆転時計が壊れずに手元にあることだ。憶測混じりの理屈なんてものはどうでもいい。
「皆、ここに来るまでのことと、来てからのことを説明してくれ」
マルフォイが問いかける。疲労しているウィスタとは違い、立ち姿にぶれがないのが小憎たらしい。アルバスがつっかえつっかえ話し、スコーピウスとレグルスが的確に補足した話を聞き、ウィスタ達は顔を見合わせた。
デルフィーニは息子達を放り出したままだ。もう用はないのだろう。
「闇の帝王の娘を探し出すか……」
ハリーが言って、ウィスタの方を見やる。お互い考えていることは同じだろう。ゴドリックの谷は広い。魔法使いと魔女が数人で捜索したところで見つけられるかどうかも分からない。しかも、デルフィーニは七変化だ。誰にでもなれる能力がある。ウィスタは又従姉のニンファドーラ・トンクスの実演を何度も見たものだ。あれほど便利で恐ろしい能力もない。
「おびき寄せる方がいいでしょうね」
「戦場はどうする、ハーマイオニー」
「ここでいいだろう」
ウィスタは石床を靴で叩く。リアイス一族本家当主《ランパント》として在る時代なら一族を動員し、デルフィーニを狩ることもできるだろう。しかし、今のウィスタは存在しているようでしていない。本来いてはならない時代にいる者だ。打てる手は限られている。うかつに外へ出れば、どんな影響があるかも分からない。ジェローム聖堂は今考えられる最良の戦場だった。
「そうか、ここなら……。問題はどうやっておびき出すかだ」
「化ければいいんじゃないの、ハリー。なにせ奴は特徴的だ」
「で、君はポリジュース薬を持っているんだろうな、ロン」
問いかけられ、ロンはひらりと手を振る。
「僕は奴の一部が入った薬を飲むなんて嫌だね。大丈夫さ。ここには優秀な魔法使いと魔女がこれだけ揃ってる。短時間なら騙せるだろ?」
「腕が鳴るわね」
クインがにこりとする。やる気満々だ。にこやかな時こそ腹の中で過激なことを考えているのがクインなのだ。
「変身者にはありったけの防御の呪文もかけておきましょうか」
私が変身してもよろしいですが、と従者が付け加える。
「魔法大臣の責任として私が……」
「いいや」
前に手を突き出す。
「俺が適任だろう。眼の色ならば自力でどうにかできる。ハリーは能力を失ったが、俺は蛇語も話せる……呪いが濃くてな。それにあの娘の前に立つのは俺でなくてはならない」
◆
腕利きの魔法使いと魔女が、ウィスタに呪文をかけていく。声帯に身長、あらゆるものの変化を受け入れながら、自身でも魔法をかけた。片眼に刻まれた呪痕を見えなくするために。
――デルフィーニはなぜこの日を選んだのか
ハリーが生まれてから一年余りの今日を。忠誠の呪文に守られているとはいえ、どこかに機会はあったかもしれない。僅かな外出の隙を衝いて、ハリーを始末することもできただろう。限りなく不可能に近いにしろ。
杖を振る。闇祓いの紋を綺麗に隠した。今のウィスタは闇の帝王だ。狩人の徴はいらない。
うつむけていた顔を上げれば、恐怖が波のように広がっていくのを感じた。鏡で己の姿を確認し、頷いた。まさしく闇の帝王だ。過去の亡霊が蘇ったのだ。
靴音を鳴らし、聖堂を歩き回る。時間遡行で削られているとはいえ、戦えるだけの体力は残っている。ゆっくりと杖を振って、外へ出た。背後で扉が閉まる。
ウィスタはゴドリックの谷を歩く。頭巾で顔を隠したまま、密やかに。町中を歩き、ジェローム聖堂へ戻ろうとする。背後に気配が生じた。振り向き、黄昏の押し迫る中、ウィスタは問いかけた。
「俺様の跡をつけるとは。死にたいか娘」
朱光を受け、白銀の髪を炎のように輝かせ、最後の娘は微笑んだ。
「滅相もありません。我が君……我が父よ」
その瞬間、ウィスタは悟った。なぜデルフィーニが今日を選んだのか。娘の顔がすべてを語っていた。
――ただ
父に会いたかったのだと。