淡い光がステンドグラスを透る。黄昏から夜に移り変わる、刹那の輝きだ。とある秋の風はひどく乾いていた。
忍び寄る風に火影が揺れる。聖堂に影が躍る。優雅に身を伸べる枝と、生き生きと茂る緑。それは蛇を思わせた。ぽつぽつと、弾けるように咲くのは深紅の薔薇。冠――鶏冠のようだと感じたのは、過去の経験のせいか。地下深くにもぐり、蛇の王を辛くも退けたのはずっとずっと昔のことだ。
「■■■■!」
叫びが聖堂に木霊する。ほっそりとした影に蛇が――いいや蔓薔薇だ――絡みつき締め上げる。
棘に裂かれ、刺され、血をしたたらせるその娘を、瞬きもせずに見た。
なすすべもなく捕らえられたその様を目の当たりにした第三者ならば、女こそが救われる者だと――理不尽にさらされ、踏みにじられた者だと思うかもしれない。
それほどに惨めな姿だった。多少の哀れみは覚えた。けれど、彼は決めたのだ。
なにを選ぶのかを。
◆
雪を踏む。歩を進め、寒空の下でも枯れることのない生け垣を――薔薇の迷路を抜ける。
道順など端から覚えていないし、覚える気もない。学生時代、飛び抜けて勉強ができたわけではない。なにせ秀才がいたので――二人とも自分は天才ではないと謙遜する――高慢になりようがなかったし、仮に全科目優をとったところで、やっぱり二人にはかなわないと思っただろう。やつらの成績は正確につけるなら優+とか特級とかだろうから。
別にいいさ、と小さく笑う。得意なものを伸ばせばいいのだし、ないものねだりをする性格でもない。飛ぶのが得意で防衛術も得意。それくらいでいいのだ。
――ハリー・ポッターは現状に満足している
「……だから無茶苦茶するからだろ」
満足していたはずだったのだが。
生け垣を抜けた先、とある城……のとある室で、ハリーは額の古傷を撫でた。奇妙な傷痕だ。稲妻形の、呪いの痕。すっかり痛まなくなっていたのに、先日の「事件」でじくじくしくしくずきずき痛んで参った。
「しゃーねえだろ」
窓際――寝台の上に半身を起こした影が言う。闇色の髪には白いものひとつ見つからず、両の眼は差し込む陽で明るい色合いになっていた。青白い顔色、いささか削げたように見える頬が彼の不調を伝えていた。
「見舞いなんかいらないのに」
刺々とした声。軽く眉間に皺を寄せてハリーを見る。
――眼だけが違う
ほかはそっくりだ。いや、ウィスタ・ブラック=リアイスはとうに『彼』の年齢を越している。それでも、ハリーはウィスタに影を見るのだ。逝ってしまったひとの、自分が死なせてしまったひとの影を。
早すぎたと今は思う。あの人は三十代だった。ハリーの両親はそれよりもっと早くに死んでしまったわけだが。
十五歳で、目の前で死なれて、しかもそれが自分が原因なのだ。忘れることなどできないし、一生引きずるだろう。ハリーが優勝杯を一緒にとろうと言ったばかりに殺されてしまったセドリックのことと同じように。あの戦いで死んでしまった皆のことと同じように。服についた染みのようにうっすらとでも残るだろう。
「ジニーが心配してる」
あれこれの思いを胸の奥にしまい、ハリーは籠を卓に置いた。ささやかな品だ。保存のきく菓子その他諸々。なにやらごそごそしているなと思ったら、ジニーがせっせと菓子を焼いていたのだ。そして非番のハリーに籠を押し付けた。見舞いに行ってこいという無言の要請――気遣いにハリーは従った。
「お前の赤毛のレディは心配性だ」
さらりとウィスタが言う。あまりにさらりと「レディ」なんて言うものだから嫌味だとか鼻につくだなんて感想も浮かばない。気障ではあるが実に自然だ。共通点が多いというのに、ウィスタとハリーのこの差はなんなのか。ウィスタはいわゆる大貴族で魔法騎士だ。しかも当主だし。そしてハリーは育ちはあれだし大貴族だなんだは勘弁してほしかったし、どうもポッター家はいわゆる純血貴族の良識派だったようだし、ウィスタによるとポッター家のはじまりは森を散歩するだか徘徊だかするご機嫌なひとだったらしい……ついでにマグルにとても友好的だったようだ。ポッター家は細々と続いているだけだし、ハリーは両親を亡くしているし、昔々のことまではわからないのだ。『ポッター家の歴史』のようなものは残っていない。グリンゴッツの金庫にざっくりした系譜はあった。それは高祖父イライアス・ポッターが書いたもので、一応ポッター家のはじまりらしい男――ペベレルの孫娘と結婚した男――まで書いてはあった。
なんだか不思議な気がしたものだ。そのイライアスの義妹――ポッター家の養女がリアイスに嫁いでいて、つまりウィスタの祖なのだと思えばなおさらに。
「誰だって心配するよ」
ぶっ倒れたんだから。
容赦なく言う。あの一件――デルフィーニ・ブラックの事件でウィスタは臥せるはめになった。
デルフィーニを実に冷酷に始末したのはいいが、蓋を開ければウィスタは斬られていた。戦闘の興奮で痛みや出血に気づいていなかったらしく、倒れた。過去に跳ぶなんて無茶をやらかして――しかも最初は単独で行こうとしていた――バカすぎる。
デルフィーニを倒してほっとしていた面々は青ざめ大騒ぎになった、とだけ言っておこう。
「あんな小娘にやられるなんて、俺も鈍ったね」
ウィスタは軽く言う。寝間着から、わずかに白いものが覗いていた。まだ包帯がとれないらしい。
――性質が悪いな
デルフィーニを罵る。ウィスタによると邪悪さてんこ盛りのセクタムセンプラ的な呪文で、なかなか治らないそうだ。
「君を全力で殺しにかかっていたからね」
勝手に椅子を出現させて座る。軽くウィスタを睨みつけた。
また死なれるのか、とあのとき思ったことは絶対に言うまい。ウィスタはあの人ではないのだ。わかっているのだが。
「あれだけ人がいたんだ。最後は君がやらなくてもよかったんだぞ」
「あれは俺の獲物だった」
低い低い声だった。ハリーは息を詰める。たとえ若い娘だろうと始末した男。
本来ならばそこまではしなくてよかったのだ。拘束し、連れ帰り……裁きを受けさせるべきだった。それが正しい道だったのだろう。それは理想論でしかなかった。生け捕りは難しい。殺す気でかからなければならなかった。あの場には友人たちも妻も子どもたちもいた。それにハーマイオニーは魔法大臣だった。下手な手を打って、不慮の死を迎えさせるわけにはいかなかった。
「あの娘は、」
ウィスタは唇を噛む。深紅の片眼が燃えるような輝きを帯びた。
「俺が殺すべきだった」
「いっそのこと自分でと思ったんだろう」
鼻を鳴らされた。
「あれはリアイスの魔女を殺し、俺の息子を巻き込み――磔刑の呪文を使いやがった」
死は確定していた。
バカなやつだよ。そう吐き捨てるウィスタの声は、わずかに震えていた。
「そうだね」
そう返すしかない。ウィスタがデルフィーニを始末する理由なんて腐るほどあった。仮に拘束したとして、連れ帰ったところで、監獄に入る前か後か……事故にあうか、自殺するかだったろう。ウィスタはけしてデルフィーニを生かさない。そう、亡骸すらも残さなかった。
――哀れな子だ
昔の自分ならば、闇側の娘にそんな感情など抱かなかったろうと思う。けれど、デルフィーニに関しては多少の哀れみを覚えてしまう。なにも知らずにいれば、父親を求めなければ、生きていけたろうに。しかも、その父親は娘を娘とも思わない冷血漢だ。
ねじれた世界でデルフィーニは父親と会ったのだろう。しかしそれは――父と娘の関係は破綻したのだろうと思う。最悪の時代、ヴォルデモートの影はなかった……デルフィーニか、はたまた黒の大君か、それとも両方かが、ヴォルデモートを始末したのだろう。真実はわからないけれど。
ウィスタはデルフィーニに対する哀れみなど口にしないだろう。
届かない星を永遠に求めるよりも、いっそ死のほうがマシだろうとデルフィーニを自ら始末した……それはハリーが思っているだけの、仮説にも満たないおぼろげなものだ。
「やりすぎたんだ、彼女は」
だから僕らが裁いたのさ。
生け捕りを選ばずに、裁判すらせずに抹殺することに同意した。ヴォルデモートという前例があったから「楽に済ませた」のだ。
『嫌だやめろ。父上ッ! 私は……、私は父上、に』
娘の悲鳴が記憶の底から浮かび上がる。ひたすらに父を求めた娘。愛を知らなかった娘を。
そしてハリーは秤を傾けたのだ。公正であるべきそれを。
『――魔法法執行部長官ハリー・ポッター、承認』
寝台に身を起こしている、傷だらけの相棒のために。
「僕ら三人で手を汚したんだ」
苦いものが込み上げる。
ペティグリューを殺すなと、裁きを受けさせるべきだと言った自分は――。
もういないのだ。