父上、と声がする。今時あらたまった呼び方だ。少なくとも彼の娘が「父上」なんて言おうものなら、彼は大笑いするだろう。父上母上なんて柄ではない家で彼は育ったし、なんならけっこうほったらかしで育てられた。家柄なんて馬鹿らしいものもないと思っていた――名家に入るらしいけれど、一シックルにもならないのだからと。
だが、その娘の父上という呼び方には、せっぱ詰まったなにかがあった。蔓薔薇に締め上げられ、血を滴らせながらも、叫んでいた。
私は父に会いたかっただけだと。
パパでもお父さんでもなく父上と呼ぶ相手は、その娘のことをこれっぽちも知らないのだ。だって娘は――デルフィーニ・ブラックは一九■■年に存在していない。彼女の「父上」が知るはずもない。
届かない声をほとばしらせているデルフィーニのことが、多少は気の毒になった。
あがいてもどうしようもないのだ。
デルフィーニ・ブラックが死ぬことは決まっていたのだ。
ウィスタの一族に……リアイスに手を出したのだから。
◆
しんなりとした草を踏む。雪は解け、オッタリー・セント・キャッチポールにも春が近づいていた。といっても、まだまだ風が冷たくて、ロンはコートの襟をかき合わせた。ずっと昔にもらったもので、ドラゴン革の上等なものだ。値段は聞いていないけど、いいものなのだろうと思う。
「……坊ちゃんだよなあ」
贈り主は名門大貴族の御曹司。今は当主だ。といっても、当主だというのは伏せている。表向きは一族の重鎮で、英雄。ホグワーツの理事なんてものもやっているし、孤児の保護どうこうの慈善活動もやっている。生まれはいいが育ちは庶民。初めてホグワーツ特急で会ったときは、とても痩せていると驚いた。ろくに食べていないような。マグルの世界で苦労してきたんだろうな……と同情したものだ。
そんな庶民育ちの坊ちゃんこと、リアイスの当主は相変わらず逃げ回っている。それはもう逃げ回っている。ハーマイオニーが追いかけ回しているとかいないとか。
「……複雑なんだけど」
誰もいないのをいいことに、ぽつりと呟く。妻が他の男のケツを追いかけ回すなんてちょっとどうなの。仕事だってわかっているけど。ウィスタを顧問だか相談役にしたいハーマイオニー。断固拒否のウィスタ。楽をしたいハーマイオニー。嫌だ俺はか弱いのと言って逃げるウィスタ。
――か弱いというか
怪我しまくりなのだが。
一年、二年、三年、四年、五年はどうだっけ。六年……七年というか最終戦……とほぼ怪我まみれなウィスタ。そしてこの間――冬も怪我をしてぶっ倒れた。か弱いというよりも呪われてるんじゃないかとロンは思う。
なだらかな丘を下り、塀を抜け、奥へ進む。古びた墓標の並ぶ一角に、見慣れた影があった。
「ウィスタ」
黒いコートをまとったウィスタが振り返る。どきりとするほどシリウスに似ている。
「よう」
片手に火のついた煙草、片手に酒瓶を持ち、ウィスタは気楽に言った。墓参りには間違っても見えない。
「……起きてていいんだ」
ロンはゆるくまとめた花束を墓標に置く。ウィスタが酒をぶっかけたらしいが何も言わなかった。フレッドと好きなだけ酒を酌み交わせばいいさ。
――ろくに飲んだこともなかったな
年が近くてパーシーより気が合う兄だったのがフレッドだ。もちろんジョージも同じなのだけど、三人で飲む機会はなかった。そもそも、あの双子と飲もうものならなにを仕掛けられているかわかったものじゃなかったろうが。きょうだい相手ならかなり悪質な悪戯もするのだ。だいたいフレッドが言い出して、ジョージが細かいところを詰めるのだけど。
暇がなかったのか、ロンが無意識に避けていたのか。いまとなっては謎だ。そんなものだろう……。
「鈍るから。だいたい治ったし」
クインやエリュテイアに縛り付けられていないということはそうなのだろう。ウィスタはデルフィーニ・ブラックにけっこうな傷を負わされて冬から臥せっていたのだ。なんだかんだ走り回っていたからちょうどいい「お休み」だろうと周りは言っていた。
「ありがとう。ハーマイオニーには漏らさないでおくよ」
「親愛なる大臣閣下をなんとかしてくれ」
「……僕の奥さんが楽をするためだと思って」
「男女はめんどくさいだろ。お前だっていい気はしないだろ。リータがスキャンダル捏造するぞきっと」
「ほらそこは君がもみ消してさあ」
ていうかリータ、君関連のあれこれは控えるじゃない。今も元気に活動中の記者の名をあげる。ザ・クィブラーの「ハリー・ポッター真実を語る」の記事からこっち、あまりスキャンダル方面の記事は書かなくなったようだが。魔法省の失態と銘打って毒舌記事は書いているようだ。
「よくできた僕の奥さんには、信頼できる人が必要なんだよ」
軽く言う。よくできた僕の奥さん。なんだか妙な気分になる。不釣り合いだなんだと散々言われてきたし、今更だけれど。ハーマイオニーは仕事が好きだし、ロンはバリバリ働くより大事なことがあったのだ。フレッドという片割れをなくして壊れかけていたジョージをなんとかしなきゃならなかった。お役所仕事は性に合わなかったから、悪戯専門店に噛むことにした。時間の自由が利くから主夫になった。卵を片手で割れるの自慢だ。しかも両手で一個ずつ。
「それとも君ってば信頼できるひとじゃないと」
「……それはない」
ウィスタは百味ビーンズ激苦味を食べたような顔をしている。整った顔が台無しであった。
「お前らにああいうことをさせておいて、それはない。絶対」
呻くような声。ロンはため息を吐いた。ああ、まだ後ろめたく思っているのだ。
昔に破れぬ誓いを結んだことを。けしてウィスタの秘密を漏らさないと。
無理矢理結ばせた――結んだようなものだった。ウィスタは相当抵抗し、終わった後はうずくまっていた。
『なにをしたかわかっているのか』
大貴族。英雄。そう呼ばれた男は、顔に恐怖を、声に惨めさをにじませていた……。
今もそうだ。誰かが眉に雷鳴を、瞳に雷光を……と言っていたか言っていなかったか。その逆だ。瞳に暗雲を宿らせている。ずっとずうっとウィスタにつきまとう影。ロンたちへの負い目。そして……。
ウィスタの肩を叩く。
「デルフィーニは野放しにしちゃいけなかった」
君は正しかったんだよ、ウィスタ。
ロンはうちでは闇祓いにはならずにいたずら専門店に噛み、主夫もしてる。