アルバス・ポッターがスリザリンに組分けされたという情報は、子どもたちから家へ、家から家へ……と伝わっていった。
そうして一つの噂が流れた。
『闇の帝王に呪いを受けた英雄たち。その血は呪われている』と。きっとアルバス・ポッターが組分けされたのは、呪われた血のせいだ……とまことしやかに囁かれた。
地下廟堂の闇の中、ウィスタは吐息を漏らす。生者はおらず、当代《ランパント》を見守るのは、死した者たちの写し身であった。
「……卑怯だと言うだろうか」
膝を突き、頭を垂れたまま呟く。漂う言葉を追うように立ち上がり、一番新しい彫像へと歩み寄った。三十路にも満たないうちにこの世を去った先代《ランパント》は、静かにウィスタを見つめている。手を伸ばし、彼女の頬に触れた。呪いの子。それはおそらく――先代であり、自分であったはずだ。呪われた血を継ぐ子どもたち。混ぜられてしまった血筋。
「もし、と思った……」
枝分かれした未来、その一つの道筋が現実のものになったらと。
「俺の子どもが……スリザリンに組分けされたら? どうするべきだろう。一族は疑うだろうか……ブラック家の血のせいだと思うか。それともあなたがスリザリンに組分けされたのだからと見過ごすか」
堪えていたものがあふれ出す。ここにはウィスタ以外いない聖域。死者と語り合い、内にあるものをさらけ出してもよい場所だったので。
「露見してしまえば……」
声が震える。ウィスタは二十余年の間当主を務めてきた。若い頃にはわからなかったものも見えている。光輝く一族の、深い陰。先代当主がもしスリザリンの直系だと――闇の帝王の子だと知られていれば、始末されていただろうこと。そして、呪われた子を産み落とした母親自身の命により始末されかけたこと。
ウィスタだけならまだいい。《ランパント》の地位も必要ない。命も喜んで差しだそう。だが、子どもたちは別だ。ウィスタの子として生まれてきただけで、排斥され、悪くすれば殺されるなど堪えられない。妻もどうなることか。ウィスタは英雄だが、一族に反旗を翻されれば多勢に無勢だ。確実に首を取られることになるだろう。
「俺は守らなければならない」
言い聞かせ、眼を瞑った。たとえ親友の子を売ろうとも。スコーピウスが呪われた子ではないとわかっていて、口を噤もうとも。
「眼をそらせると、思ってしまった」
アルバスの組分けを聞いた瞬間。スコーピウスにまつわる噂を聞いた瞬間。使える、と。これで守ることができると思ったのだ。
――なんと浅ましい
いいや、リアイスというものは浅ましく、愚かなのだ。忌まわしいものには蓋をして、なかったことにしてしまう。皆が望む偶像だけを見せて。
もう一度息を吐いて、踵を返そうとする。だが、自分そっくりの彫像と眼が合ってしまった。父親の鋭いまなざしが、ウィスタを貫いていた。断罪の色を読みとって、唇を噛んだ。
◆
光あふれる世界に戻れば、空気はきんと冷えていた。季節は冬。休暇で子どもたちが帰ってくる手はずになっていた。
地下への入口では、従者が待ち受けていた。
「セイリオス様がお帰りです」
執務室への道を辿りながら、ウィスタは片方の眉を上げた。
「俺の二番目の息子殿はどうしたよ」
「――学校に残ると」
前方から現れた男が告げる。ウィスタは彼のゴールデンオレンジの双眸を見つめた。
「ホグワーツは楽しかったか? イルシオン」
第四分家出身の魔法使いはにっこり笑った。
「最悪でしたね」
学生がうるさいのなんの、魔力が入り乱れてるのなんの、とイルシオンが話し始める。この魔法使いはかなりおしゃべりなのだ。本性は女子どもだろうが始末できる暗殺者であり、二代前の《ランパント》の命でかなり後ろ暗いこともやっていたような人種だ。
「あんたが勝手に暇つぶししてただけだから、知らん」
ああだこうだとやりとりしているうちに、執務室に到着した。書類に眼を通していると、イルシオンはいつの間にか消えていた。あの表の顔は昼行灯、裏の顔は暗殺者な魔法使いを制御できるわけもないので放っておく。
アストリアに関する書類を眺め、あらゆる工作が完了したことを確認する。ひとまずはマグルとして登録は済んだ。あとは適合者が現れるのを待つだけだ。アストリアの命数が尽きるのが先か、神が微笑むか、運次第だが。
アストリアのことを思い浮かべるうちに、自然とその息子の面影が浮かんだ。灰色の眼を持つスコーピウス。ブラック家の血を継ぐ子ども。
どこからスコーピウスが闇の帝王の息子だなんて噂が出てきたのか。世間の発想は時に突拍子もない。
――そもそも
逆転時計でアストリアを過去に送り込む。そこまではいいとしよう。だが――首尾よくことが運んだとして――そのあたりを想像するのはげんなりするのでやめたが――過去に戻る。スコーピウスが生まれる。無理がある。まず逆転時計の制限時間の問題がある。そう長くはなかったはずだ。一時間か二時間か。その昔使ったときにはそんなものだった。
だいたいが、スリザリン系の家門の子は、たいていが噂されたものだ。闇の帝王の子ではないか、と――。
遠慮がちな叩音に我に返った。扉の向こうから「父上」と声がした。変声期を終えた声を聞いて、なぜだが感慨深くなる。
従者が扉を開ければ、ウィスタの長子が立っていた。切れ長の眼は、まっすぐにウィスタを見つめている。
――父に似ている
シリウス・ブラック。戦いの中で死んだ父親に印象が重なる。まっすぐにウィスタを見つめてきたその眼が。
「よく帰った」
声をかけても、息子は沈黙したままだ。くっと唇を引き結び、何事かを考えている。従者が気を利かせて出ていって、室内にはウィスタと息子の二人きりだ。
「……ただいまダディ、愛してるよとか一言ないのか長男坊」
茶化したが、息子――セイリオスの眼に鋭いものがひらめくのを見てとって肩をすくめた。そもそもウィスタだって、父親に愛しているよなどと言った覚えはない。ずいぶんと記憶は曖昧だが。
「――噂を流したのはあなたですね、父上」
鋭く打ち込まれた刃を、微笑んで受け止めた。
「察するくらいには賢くなったか。セイリオス」
セイリオス・ブラック=リアイスはグリフィンドール寮に所属していて、おおむねリアイス一族というものはグリフィンドールの出である。というのもリアイスの系譜を辿るとゴドリック・グリフィンドール――世界に十一ある魔法学校のひとつ、ホグワーツの創設者に行き着く。つまりリアイスはゴドリック・グリフィンドールの子孫であり、八つに分かれた家系のうち《ランパント》は直系の血筋であった。
現在のランパント・リアイスはセイリオスの父、ウィスタが当主の座にあった。彼もまたグリフィンドールの出身であり、成人したその年にヴォルデモート卿を討ち取った英雄である。それはセイリオスの祖母にあたるリーン・リアイスや、曾祖母にあたるアリアドネ・リアイスにも果たせなかった偉業であり、この功績により、父の一族内での地位は磐石となった。
――尊敬すべき父だ
だが、セイリオスは父を――群青と紅の眼を持つ英雄を睨み付ける。苦々しい思いが込み上げた。グリフィンドールは騎士道を重んじる。世界が善か悪かで分けられるならば、善の側に属すべき者が集うところだ。だというのに――。
「さてと」
執務室、据えられた机の上で、父が指を組む。左中指に嵌まった銀の指輪が煌めいた。
「ここで俺がイエスと言ったところで……証拠はない」
父が淡い笑みを浮かべ、眼を細める。
「――確たる証拠もなしに俺を弾劾するとは……なんとまあ、お前はいつの時代の生まれだ。そうか我々にとっての悪夢――魔女狩りの時代か」
眉間に皺が寄る。立て板に水のようによくこれだけすらすらと言えたものだ。
アルバスがスリザリンに組分けされた数日後から流された噂。それが父によるものだと半ば確信しているというのに、証拠といえる証拠はない。そしてなぜ父が動いたのかも、セイリオスにはわからなかった。わざわざ『呪われた英雄の血筋』を喧伝して、得をするとも思えない。ただ、酷く腹が立った。なにか目的があってアルバスの組分けを利用したのだから。
「それで、アルバスは元気にやってるのか」
スリザリンで、と父が呟く。セイリオスは視線を泳がせた。スリザリン。グリフィンドールと対極に位置する寮。多くの純血名門、準名門の子弟が集う場所である。
「それなりには……やっているでしょうが」
あいにくセイリオスとアルバスは学年が違う上に寮も違う。なるべくアルバスを気にかけているものの、助けてやれるかといえば難しい。グリフィンドールに入ってくれれば、いくらでも手を差しのべられたものを。
「その場所でやっていくしかないわけだからな……」
父がため息を吐く。
「お前やレグルスがスリザリンに組分けされれば、ある意味楽だろうが」
瞬いた。セイリオスの視線を受け止め、父が肩をすくめる。
「リアイスじゃない。ブラック=リアイスだからな。つまるところ、悪徳の一族の血とやらが、俺やお前たちには流れているわけだ」
スリザリン系名門を指して言う。悪徳の一族、と。ヴォルデモート卿に従った者の多くがスリザリン系名門の出身であったことに端を発している。 父はグリフィンドール五大名門リアイスの本家当主であるが、スリザリン系名門筆頭ブラック本家の当主でもある。それは父親がブラック本家の直系にあたるからであり、ほかになり手がいなかったからでもある。リアイスには劣るものの、ブラック一族の歴史は長く、魔法族としての純血を守り続けてきた名門でもある。もはや一族の体を成せず、リアイスと統合する形で存続しているとはいえ――魔法族の純血を重んじるスリザリンの者たちにとっては価値がある家名と血筋であった。
「なにせあの英雄、ハリー・ポッターの息子だ。苦労もするだろう……昔よりマシだろうが」
父が視線をさ迷わせる。なにを見ているのか察し、口にした。
「先代よりも?」
「そりゃ陰険だったらしいな。どちらかというと――」
ためらうような沈黙が生まれ、やがて父が続けた。
「スリザリンよりも、我が一族のほうが……先代に辛く当たったようだ」
眼を見開く。先代リーン・リアイスは直系であり、本家当主になるべき人間だったはずだ。だというのに辛く当たる?
「直系で、本家当主候補だからこそ、だ。セイリオス」
父は冷えた眼をしていた。セイリオスは息を呑む。リアイスの頂点に立つ人間……だからこそ?
「……赦されなかった、と」
「末端であれば問題はなかったかもしれん。だが、先代は一人娘であったし、一族で初めてスリザリンに組分けされたからな」
「そういうことも、あるのでは? 一人スリザリンに組分けされたくらいで……」
言いながら、背中に嫌な汗が滲む。数ヵ月前の組分けを思い出す。スリザリンと帽子が叫んだ瞬間、大広間が凍りついた。そんなまさかと誰かが言った。英雄の子がスリザリンにと。
「……ポッター家は道義とやらをまだわかっている。しかし、リアイスはな――世間の道義とは違うものを信じている節がある。特に昔は。ゴドリック、ヘルガ、ロウェナの末裔であるから。組分けの意味は――重い」
昔、セイリオスは自分がどの寮に入るか不安に思った。グリフィンドールならいい。けれどスリザリンなら?と。ヴォルデモートの一派が多くいた寮で、悪徳の場所なのだと恐れていた。そして周りはグリフィンドールの出身者ばかりだった。無意識にわかっていたのかもしれない。リアイスにとっての組分けの意味を。
「……そんなものだと思えばいい。スリザリンに組分けされる者くらいいるのだと」
ぽつ、と父が呟く。深い陰を纏う眸を見つめ、セイリオスは悟った。噂を流したのにはいくつか理由があるだろう。アルバスを守る意味もあったのではないか。呪いの子だから。本人の資質とは関係なく、スリザリンに組分けされたのだと。
「――お前には言っておこう」
父の声が凜とした響きを帯びた。
「真の英雄は寮なんてものは飛び越えてしまう。たとえどんな血筋でも……己の為すべきことのために命すら懸ける」
先代こそがそうであったように。
◆
出ていく息子を見送ってため息をひとつ。すらりとした立ち姿や、歩く姿も若い頃の自分と似ているのだろう。
「グリフィンドールらしい潔癖さと誉めてやるべきか」
馬鹿というべきか、と続きを付け足す。心根が真っ直ぐで大変けっこうと評価するには、ウィスタはいささかひねくれている。かれこれ二十年以上前、スリザリンに組分けされかかったくらいには。
「あの年頃は、あれくらいでちょうどよろしいではありませんか」
さらりと従者が言って、苦笑いとともにうなずいた。少なくともウィスタや従者は子どもの頃から一波乱も二波乱もあったので、あの潔癖さは持ち得なかった。
「平和の証かね」
ここ数代で飛び抜けて平穏な時代であることは間違いない。大戦は勃発していないし、グリンデルバルドの大陸蹂躙も、ヴォルデモートの台頭もない。無論少々の揺らぎはあるが、抑えが効く範囲内だ。
机に積み上げた書類の一通を指で弾く。生まれた火が、紅の舌で紙を舐め、飲み込み咀嚼してしまった。
「――ルキフェルが闇祓い局長に返り咲き、ハリーは魔法法執行部長に就任見込み」
「祝いの花束でも送りましょうか」
答えず、煙草をくわえて火をつけた。煙で肺を汚し、吐き出しがてらに言葉を紡ぐ。
「ルキフェルは満面の笑顔でぶん投げるだろうし、ハリーは補佐官誰か寄越せっていうだろうよ。いやはやかわいそうに」
ルキフェル・リアイスは第三分家の出であり、闇祓いとして名を馳せた魔法使いだった。キングズリー・シャックボルトの後任として局長に就任。数年前ハリーに座を譲り、省を辞した。そして一族のために魔法界のために――この二つはほとんど同じ意味なのだが――動いていた。今の生活を本人は気に入っていたようだから、花束を投げたくもなるだろう。宮仕えは十分しましたよランパントと言われそうだが、要請があるのだから仕方がない。魔法省には恩を売っていざというときにきっちり手綱を取れるようにしておきたい。ヴォルデモート台頭の時のような傀儡政権などこりごりだからだ。
「次期魔法大臣はハーマイオニーが最有力候補だとか」
従者が囁く。魔法大臣は選挙で選ばれる。非常時ならば独自に要請が下り、選挙などの手順は丸ごと無視することも可能だが、今は平時だ。選挙である以上油断はならないが、多方面から情報を集めた結果、ハーマイオニーの当選は確実だろうと予想が立った。
「勝手にやってくれればいいが……」
頭に魔法省の人事を思い浮かべ、軽く舌打ちした。
「出身寮がえらく偏ってるのがな」
主要な地位にグリフィンドール出身者が多い。とはいえ、混血やマグル生まれが目立つのでまだいいが。
ここらでグリフィンドール以外の出身者を入れて均衡を――と思うが、ウィスタは二つの名門の当主を務める魔法使いだ。省の案件に口を出すのは控えたい。
煙草を一本吸い終わり、消失させる。紙束から手紙を引きずり出して、文面を眺める。
「せいぜい騎士殿たちには頑張って頂かないとな」
各地で闇の生き物が蠢いている。いわゆる怪物たちである。勇猛果敢な寮の出らしくこれらを押さえつけてもらわなければ。古来怪物と対峙するのは英雄と決まっているのだ。
英雄、で先代当主であった母を思い浮かべ、頭の痛みに顔をしかめた。
――消えない噂
呪いの子がいるのでは。闇の帝王の血を引く子が生きているのでは。
何年も何年も囁かれてきた。口にするのは、それだけ恐れているからだ。グリンデルバルドの時もそうだった、と曾祖父は言っていたものだ。悪徳の血が残ることを民は恐れるのだと。
室を出ていった息子の姿が浮かぶ。ありとあらゆる名門の血と、悪徳の血が混ざりあった裔。子どもたちの誰にも秘密を話していない。話すかどうかも決めていない。知らなければ問題はないのと同義だ。
代々のリアイスも、ウィスタと同じようなことを考えたらしい。問題をなかったことにした。
――リーン・リアイス以外にもスリザリンに組分けされた者はいた
千年ほど前の魔法使いペンドラゴンは別として、複数人いたのだ。だが、一族はそれを知らない。輝かしい系譜には載っていないのだ。
黄金のグリフィンにとって汚濁はいらぬ。彼らは削除された。系譜の上では存在しない。ある者は追放され、ある者は他家の子として他所へやられ、悪くすれば始末された。
ウィスタは戦が終わってからというもの、本家に眠る記録を漁り、各地に残る足跡も辿り、歪められた系譜の修復にあたっていた。真に騎士道を重んじるならば、偽りは恥だ。そして、グリフィンドールという概念に対する信仰を揺らがせたかった。いつか彼の子どもたちが、その子孫たちがスリザリンの直系なのだと知られても生き残ることができるように。
「一番嘘吐きなのは俺だけどな」
自分にうんざりして片手で顔を覆った時、中空に『炎』を感じ取った。空いた片手を差し出せば、乾いた羊皮紙の感触を掴み取る。
紅の片眼で紙面を読み取る。
「筆頭分家……消息不明」
――筆頭分家パッサント・リアイスの魔女が消えた
彼らが司るのは占術。殊に当主であるクロードは先視の魔女として名高い。
『何者かに連れ去られた模様』
クロードの字を眺め、羊皮紙を握り潰す。久々に胸に火がついた。口許が弧を描く。
「命知らずな」
リアイスに手を出すとはな。
英国北部――スコットランド寄りの町。マグルの居住区と魔法族の居住区が入り乱れる地域に『姿現し』し、お決まりの吐き気と戦った。数分経って気分を落ち着かせたウィスタは従者を伴って、ホテルに踏み入った。金髪に灰の眼の『デュランダル』に扮し、チェックインを済ませた。鍵を受け取った従者が先導するような形で最上階に一室に向かう。
広々とした客室に思わずため息が漏れる。
「適当な部屋で良いと言ったはずだが?」
俗にスイートルームと呼ばれる部屋で、従者が振り返った。灰緑色の眼がちかりと光る。
「私が思う、ウィスタ様にふさわしい適当なお部屋ですが」
「そうかいそりゃご苦労」
反論はもはや諦めた。時間の無駄だ。昔はこの従者の説得を試みたものだが、付き合いは二十年以上だ。学ぼうというものだ。
従者が荷を置き、厳重に魔法をかけていく。物盗りはまず入れないし、盗聴も同じくだ。そうして部屋をあとにした。エレベーターで数階下へ降り、奇妙に静かなフロア、廊下の突き当たりの部屋へと向かう。従者がドアノブに手をかければ、あっけなく開いた。
「来たわね」
女の声が響く。ウィスタは眼を細めて、部屋のなかに立つ魔女を見つめた。銀の髪に薄青の眼を持つ《パッサント》の顔に喜ばしい兆しは見えず、くすんだ影が落ちていた。
「なにか欠片は」
時を越えた一場面を見なかったか、と問いかける。クロードはじっと虚空に視線を向けて、唇を引き結んだ。
「うちの魔女に関してはなにも……」
ウィスタたちがいるこの部屋から、魔女が消えたのだ。荷物は残ったままで、戦いの跡が生々しく残っている。クロードはすぐさま手を打って、この階を借りきった。そしてあれこれとホテルの人間を操って、女が一人消えたことを隠蔽している。五日経った今も進展はなく、ウィスタが出張ったというわけだ。
他の分家の案件に首を突っ込むのは誉められたことではない。だが、リアイスに手を出されて本家当主として黙っているわけにもいかなかった。
「襲撃は夜。鍵は突破され、襲われて――連れ去られた」
クロードが手紙と同じ内容を呟く。一旦言葉を切って、繋いだ。
「私の未来視には引っ掛からない。ほかの占者も同じ。総出でしても掴めない」
クロードはもどかしげであった。
「視たものはあったけれど」
続きを待たず、ウィスタは眼を瞑った。この魔女は当代一の力を持つ『先視の魔女』だ。その力をもってしても手がかりを見つけだせない。しかも一族の誰が占っても同様となれば――。
言葉を控え、息を吐いた。
「現在も未来も見えないなら」
じわり、と両目が熱を帯びる。部屋の空気が波打ち、囁きを溢す。呼吸を遅くしていくにつれ眼の熱は激しくなる。変装を解く。恐らく虹彩は色を変え、今ごろは深紅へと変じているだろう。
――過去を
強く願う。部屋が歪み景色が入り乱れる。時の彼方に楔を打ち込んだ――そのように感じた――引っかける。望む時間を引きずり寄せる。ほんの数日前まで『遡る』。
――行方を
――なにがあったかを
ウィスタの中にひそむ血が蠢いた。過去を司る銀のバジリスクの血が。蛇が時の渦に食らいつき――光が弾けた。
「誰なの」
震える声が間近で聞こえる。壁に傷もなく、床も綺麗なまま。寝台に女が身を起こしている。その手には杖がしっかり握られていた。女はそっと身を起こす。音を立てない滑らかな動きだ。息を殺し、杖を構え、女はじりじりと動く。ウィスタが見守る中、過去の影は、気配を探り続け、放たれた光に撃たれ倒れた。ウィスタは視線を走らせる。襲撃者の姿を見届けなければならない。魔女に放たれたのは失神光線だ。ならば殺害が目的ではない。こつ、と靴音がかすかに響く。黒い影が現れたかと思うと、失神していたはずの魔女が素早く起き上がり、眼を爛々と輝かせ、呪文を立て続けに放った。とりどりの光が溢れたが、襲撃者の姿はわからない。頭巾がその顔を覆っていた。
――誰だ
影に楔を打ち込もうとする。これを基点に追っていけば、敵の目的が分かるかもしれない。
だが、過去に亀裂が入り、魔力が膨れ上がった。雑音がウィスタを飲み込み、押し戻す。現在へと。
気づけば床に膝を突いていた。鉄錆の臭いに導かれ、頬に手を当てれば、深々と切れていた。
「ウィスタ様、何事が」
従者の張り詰めた声に、意識をはっきりさせる。
「邪魔が入った」
それだけを告げ、舌打ちする。
「ただの魔女拐いじゃねえな。どうやら相当に厄介だ」
おそらくなにかの魔法を仕掛けていたのだろう、とまで考えて眉間に皺を刻む。誰かが過去を覗くことを前提にしなければ、仕掛けを施すなど無理な話だ。
「まさか……いや」
ありえないことだ。過去視の力を持つ者はウィスタだけ。ユスティヌは滅んでいる。ウィスタの力を知り、リアイスと敵対していた闇の帝王も滅んでいる。死者にはなにもできない。
「《ランパント》。私は視たの」
クロードの眼には躊躇いと別の何かが浮かんでいた。
「どこかの未来で、闇の帝王を」
ウィスタの胸に去来した感情の名は。
――恐怖、だった
過去視を発動させた翌日、ウィスタはランパント城の深部・地下廟堂に足を踏み入れた。
本来は《ランパント》しか立ち入ることのできない聖域であるが、彼は客人を伴っていた。
クリスマスも近い深夜、廟堂の薄闇にかすかな呼吸音が響く。ひしひしと緊張が伝わってくるなか、ウィスタは杖を振った。主の命に応え、廟堂が目覚め、仄かな灯が客人たちを照らし出す。
「いいのかしらウィスタ。ここはリアイスにとって……」
ハーマイオニーの茶色の眼に射抜かれ、肩をすくませた。
「盗聴の危険がないならどこでもいいんだが?」
「確かにここなら大丈夫だろう」
静かに言ったハリーは、眼を細め廟堂と並ぶ彫像たちをじっくりと眺めていた。ある一点で止まり、揺れた。漆黒のローブの裾を揺らし、ハリーが一体の彫像へと歩み寄り、膝を突いた。
「ここには死者と僕らしかいないんだから……」
シリウスという密かな呟きは、中空に解けて消えていく。
「先日の件は話したと思う」
嘆きを断ち切るように言葉を放てば、それぞれ次期魔法大臣、次期魔法法執行部長官と目される秀才たちは頷いた。
「リアイスの魔女が行方不明の件ね。私たちの網にも引っかからないわ」
ウィスタは頷き、左手中指にはまる至宝『冬の吐息』を撫でた。
「おおむね話した通り。だが、一点だけ……」
言葉を切る。声が震えぬよう、気を張った。
「『先視の魔女』が、闇の帝王を視たと」
片方が、もしくは両方が、鋭く息を呑んだ。
「やつは死んだ……君と僕とで、滅ぼした。そうだろう?」
「そのはずだ。だが、」
「どこかの未来で――ヴォルデモートが存在する」
ハーマイオニーの声に、廟堂の彫像たちが身じろいだ気がした。
――敵なる者
――忌まわしい血を継ぐ者
リアイスにとって闇の帝王ほど憎い者はいなかったはずだ。ウィスタとて父を殺され母を殺され、祖母も――公の祖父も殺されたのだ。一体何人のリアイスや、反抗する者が殺されたことか。屍を山と積んだ悪逆の帝王であった。
そして自分は、といつも思考が止まる。自分は――帝王の血を継ぐ一人であり、伝えてしまったのだと。
「ウィスタ、大丈夫よ」
ハーマイオニーが微笑む。
「あなたは巧くやった。ヴォルデモートの遺体は消滅し、どこにもない。最後のユスティヌも死んでいる」
証拠はないの、と言い切った。ハーマイオニーの眼に冷ややかな光が躍って消える。
「君がなにを恐れているか、僕たちは知っている」
彫像の前に膝を突いたまま、ハリーが呟いた。
「僕は君を――君にとって大切なクインや子供たちを守る。そのつもりだ」
「あらハリー、私を仲間外れにしないでほしいわね」
ふ、とハーマイオニーが微笑み、唇を引き結んだ。
「あなたは秘密を打ち明けてくれた。だから私とハリーとロンは、破れぬ誓いを結んだでしょう?」
「あんたらは本当に馬鹿野郎だよ」
ウィスタは苦く笑う。ホグワーツ戦役が勝利で幕を閉じた後、彼らは誓いを結んだ。秘密を漏らさない。破れば――心臓が弾けて死ぬように、と。
友人たちはウィスタの不安を知り、生きている限りそれに悩まされることに気づいていた。だからこそ破れぬ誓いを結んだのだ。友人たちの申し出を断れなかった自分を恥じ、誓いを結ばせた己の弱さを噛みしめたものだった。
善であろうとし、正義であろうとしてきた。世間はリアイスを賞賛する。これぞ魔法界を支える一柱、名門リアイスと。そうして身内は善であり正義であるウィスタに満足するのだ。脈々と続いてきた《ランパント》の号を継ぐ者、闇の帝王を倒した英雄として。
ウィスタ自身は知っている。本当は、正義や善を成すために、それだけのために戦ったわけではないのだと。
父母や養父を殺された復讐であり、生きるためであった。闇の帝王が存在している限り、いつ秘密が漏れるとも知れなかった。漏れてしまえばほかならぬ同族の手によって始末されていただろう。実の娘を殺そうとするほど冷酷なのだ。《ランパント》というものは。
「勇猛果敢と言って欲しいね」
「仰せのままに、英雄殿」
軽く一礼し、顔つきを引き締めた。今は己の愚かさや弱さについて考えている場合ではないのだ。
「やつは死んだ。確かに死んだ……俺の手は、首を刎ねた感触を覚えている。だが、再び現れる可能性が存在している」
「ありえない……と言いたいところだけど、ありえないなんてことはありえない、とダンブルドア先生なら言うでしょうね。蘇り、あるいは――」
「後継者が現れたか?」
ハリーの言にため息を漏らす。
「俺の過去視が妨害された。ならば、今回の戦の相手は過去視の存在を知る者……あの部屋で過去視が行われると推測できる者だ」
「つまり君か、リアイスの中に、過去視の力を持つ能力者がいると知っていた……」
そうなるな、と返し沈黙する。
「敵は未来視もあらゆる占も妨げているでしょう。強力な相手なのは間違いないわ……ヴォルデモートの後継であっても……子であってもなんら不思議はない」
時間や予知に干渉することは、恐ろしく高等な魔法だもの、とハーマイオニーが続ける。
「そして力の強さを証明するのが――ほかならぬ俺だからな」
第二分家当主ナイアードのような識眼を持たず、筆頭分家当主クロードのような先視の力も持たないリアイス。引き継いだのは魔法族としての血の濃さと、それによる魔力の強さ。そして、過去視と蛇語の能力だった。
自分で口にしていて背筋が凍る。父母や養父のお陰で今の自分は在る。情を知り愛を知らなければ、闇の帝王となり魔法界を支配し、屍の山を築き上げていただろう。ほんのわずかな、しかし決定的な違いがウィスタの路を定めたのだ。
――もし、やつの志を継ぐ者が現れたとしたら? それがやつの血を継ぐ者なら?
どうする、と自身に問いかける。
「……ともかくも調査を頼む。あらゆる不穏な動きを掴んで欲しい」
平坦な口調とは裏腹に、腹の中に冷たい炎が満ちていく。
リアイスが抱く一つの側面が。
――もし見つけたら
答えなど決まっている。
クリスマス当日。夕食の席は、祝い事にはふさわしくない張りつめた空気に支配されていた。
セイリオスはチキンを口に運びながら、父親を窺う。深紅と群青の眼は何事かを考えているように物思いに沈んでいる。
無理もない。リアイスの魔女が姿を消して未だに見つかっていないのだ。手を出されて黙っているような性分の父ではあるまいし《ランパント》としても行動が求められている。クリスマスを祝う気になれないのも当然だった。
母が父に何事か話しかけ、父は頷く。刹那、至宝『冬の息吹』が煌めいた。
「レグルス兄様はどうしてるかな」
イリスが言えば、父がくつくつと笑った。
「休みのホグワーツを堪能しているだろうな……」
視線を投げかけられ、セイリオスは眼を逸らした。ホグワーツ入学当初、セイリオスはジェームズとともに『堪能』したものだ。透明呪文を自分たちにかけて、夜の城をうろつき……図書館の禁書の棚に忍び込もうとした。そしてまんまと捕まったことがある。ホグワーツ理事である父が直々に施した呪文のせいだった。学校を訪問した折に校長に頼まれて緩い守りを強化したのだそうだ。
警報に引っかかり、捕まって校長直々に説教を受けた時に聞かされたものだ。
『つまり、蛇の道は蛇なのですよ。リアイス、ポッター。まったくもって……あなたがたの父親は私の頭痛の種でしたからね。祖父もですが』
どこかげんなりした様子だったのが印象に残っている。
校長が父に手紙を送り、返信には「まだまだ甘い。要修行」と書かれていたのが懐かしい。
「夜にうろつくのはやめておけ、とは手紙に書いておきました」
まったくクリスマスになんてことだ、と父は苦く笑う。一転して顔つきを引き締めた。
「学校への影響はないだろうが……気をつけることだ」
セイリオスは、イリスを見た。妹の前で話していいものか迷い、言葉を呑み込んで頷いた。セイリオスの迷いを見抜いたように「後で来い」と父が言う。
「食後のティータイムといこう」
◆
「リアイスに敵意を持つ者がいるのは間違いない」
執務室に茶を持っていき、茶器を置くか置かないかのうちに切り出された。
「父上の話せる範囲で構いません」
返せば、父の顔に笑みが浮かんで消えた。両の眼がひたとセイリオスに向けられる。
「まだ確定している情報は少ない。リアイスか、魔法省が行方不明の我が魔女を見つければ問題はない。ただの旅行とかな」
ありえないが、と父は言い切った。
「お相手は魔女を連れ去った。しかし身代金の要求はなし。なにがしかの要求もなし。腕やら耳やらぶった斬って、うちの玄関先に放り込むこともしていない」
さらりととんでもないことを言う父だが、世間一般とは感覚がずれてしまっているのは仕方ない。闇の帝王が生きていた時代、リアイスには幾重もの苦難があったのだから。
「今のところ、大したことはわかっていない、ということしかわかっていないわけだな」
「リアイスに敵意があるとして、なぜ筆頭分家の魔女を? 英雄である父上ならともかく」
「さてな。俺には護衛が張り付いているから……ひとまずリアイス姓の誰かを手始めに拐って挑発しようとしているのか……」
父は振り向き、控えている『護衛』を見る。エリュテイア・リエーフ。リエーフ本家当主であり、父の従者であった。
「だとすれば愚かなことです。我が君やご子息に手を出そうとしたら最後ですのに」
にこりともせず言い放つ。セイリオスは心底ひやりとしながら、唾を呑み込んだ。黒髪に灰緑の眼のエリュテイアを御せる父は恐ろしい人間だとしみじみ思う。
「――というわけで、だ」
ぱん、と手を打ち鳴らし、父が眼を細めた。
「俺は心配ない。お前は学校に戻ったあと、あのやんちゃ坊主から眼を離すなよ」
「そして不審な動きがないか――ホグワーツ内部をよくみておけ、と」
「――標的になる可能性がないわけではないからな」
父の声に、刃を思わせる鋭さが宿る。セイリオスは背筋を伸ばした。
グリフィンドール、ハッフルパフ、レイブンクローの末裔であることを聞かされたのはいつのことだったか。みだりに明かしてはならないとも告げられた。そして、こうも言われたのだ。
『リアイスはいつの時代も、戦うことを宿命づけられている』
自分の母や祖父母はリアイスであるから殺されたのだ、と静かに――酷く静かに――父は言った。
『俺はなりたくて英雄になったわけではない。先代もそうだったろう。戦う理由に関しては……そのうち話してやれるかもしれないが。ただ、相手は待ってくれない。リアイスを好く連中もいれば、憎む連中もいる』
でも、父上や闇祓いたちは死喰い人の残党を倒したじゃないか、と返したと思う。なにをそんなに心配するの? と。
『よく覚えておけ。セイリオス。天狼星の名を継ぎ、ブラックでもある子』
光輝く存在には、多くの影がまとわりつくのだと。
かつての会話を思い返しながら、父に告げた。
「弟は守ります。必ず」
「お前が弟を守るんじゃない。お前たちは背中を預けあい、互いを守りなさい」