退いていく陽、忍び寄る闇の中、決着はついた。
蔓薔薇の隔てがほどけたときには、デルフィーニ・ブラックの存在は失せていた。悲鳴も悲嘆も、落涙も、撒かれた紅が――生命の水とも呼ばれるそれが塗りつぶしたかのよう。
一振りの剣を提げ、闇色の髪に紅と青の双眸の魔法使いが一歩踏み出した。ドラゴン革の靴が血溜まりを踏みつける――踏みにじる。
終わった、と告げた声はひどくかすれていた。顔からは血の気が失せている。まるで死んだのがデルフィーニ……父親を求め、ついに願いを果たせなかった娘――ではなく、彼のほうではないかと思わせるほど。
無理もない、と思い、彼女は帰りましょうと言おうとした。次の瞬間には身体が勝手に動いていた。長い間連れ添ってきたゆえの勘か。それとも虫のしらせというものか。一歩、二歩……最後は跳ぶように距離を詰め、ぐらりと揺れた夫の身を受け止めた。いつかそうしたように。
重い身体をかろうじて支え、彼女は囁いた。
帰るのよ。わたしたちの時間へ。
◆
灰色の空。白い色がちらついて、クインは思わず手を伸べた。深い紅の革手袋に、雪がふわりと舞い落ちる。
冷えるわね、と誰ともなしに呟く。応える者はいない。ゴドリックの谷はリアイスの領地だ。さして危険はないだろう、と護衛は退けた――はずだった。
長靴の踵を鳴らし、くるりと身を翻す。広場に人はいない。こんな冬の日に、好んで外に出る者はいないだろう。皆、家々でぬくまっているはずだ……。
――いる気がするのだけど
クインは眼を細めた。しかし、紫藤のそれは何者も捉えることもできなかった。クインがわからないだけで、護衛がこっそりついてきているのだろう。心配性な夫。
世間では英雄だの魔法騎士だのと讃えられている夫だけれども、その実悩みは深い。それこそ学生の時からああだこうだと苦悩していたのだ。あれこれ心配しすぎる、と笑うことはできなかった。
――彼の恐れは
もっともだもの。
ためいきを一つ吐き、手を伸ばす。年月を経て飴色になった扉は滑らかに開き、クインを招き入れる。
ぼう、と灯がともった。
薄陽を透かしていたステンドグラスが赤味を帯びる。そっと吐く息も、靴音も高い天井に吸い込まれていく。
まるでクインだけが世界から切り離されてしまったかのよう。
そんな馬鹿なこと、と笑おうとする。クインはもう小娘ではない。四十の声も近い。奇妙な心地になるのは、悲鳴が聞こえる気がするからだ。
ベラトリックスによく似た娘が父親を求めていた……もはやない過去。たった一週間ほど前に起こった、いいや三十数年前にあった出来事。ヴォルデモートは三人目の娘の存在を知らぬまま。リーン・リアイスとて異母妹のことを知らぬまま。世界は正常に時を刻んでいる。
つんと鉄錆の香がする。クインは手のひらを握り込む。革手袋がきゅっと音を立てた。
「終わったことよ」
呟き、歩を進める。過ぎ去ったものに心を向けるものか。クインの心はすでに別のものに向けられている。
聖堂の奥へ向かい、扉を抜ける。靴が柔らかな草と雪を踏む。不規則な足跡が裏庭――いいや墓地だ――の奥へと続いていた。
舌打ちしそうになり、こらえる。夫の癖がうつったらしい。悩み多き夫。その昔、クインの手を離そうとした夫。結婚したあとも床入りまでかなりかかったことも思い出した。じわじわと当時の腹立ちが呼び覚まされる。子をつくることに慎重すぎるほどに慎重だったくせに。いわゆる白い結婚で……いや、そうだったからこそあの手この手でクインを……なんなのかしらあの男……クインばかり悶え苦しみのたうちまわるはめになったのだ。
顔が火照る。墓場でなにを思い出しているのか。誰かに頭の中を覗かれたら終わりだ。あらゆる意味で終わるのだけれど。クインは己に呪いをかけている。秘密が暴かれそうになれば死ぬように。
夫の悩みを減らしたのか増やしたのか。クインは必要だったからしただけなのだ。それでも夫は負い目に思っている。
――自分だって
呪いをかけているのに。リアイスの高位ともなると握る情報も多く、秘匿性が高い。暴かれないように手段を講じるものだ。
足跡をたどる。
そう、秘密……暴かれればただではすまないであろう秘密。クインも夫も現実を見る。いくら夫が英雄だろうと赦されない。夫の存在は火種になるだろう。デルフィーニのように。
身分を明かさなければ、ただの魔女としてあれば、生きられたものを。
少なくとも、ナルシッサはそう意図していたはずだ。姪を殺すなどできなかった。だから出自を知られないようによそへ出した。養女から養女へ出され、転々とし、デルフィーニは生きられたはずだったのだ。
知ったきっかけは過去視か蛇語か。別のなにかか。道筋が示され、デルフィーニのなかに願いがわいてきたのかもしれない。父親に会いたいと。家族がほしいと……。
ナルシッサの打った手が裏目に出たのだろう。いっそナルシッサが育てたほうがよかったのかもしれない。そうすればデルフィーニには家族ができたろう。海外に連れて行き、静かに暮らす分には夫も……リアイスも見逃したろう。
その昔、敵対していたゴーントに手を貸したこともあるという。夫の高祖父にあたる男が、ゴーントの魔法使いが英国を出るのを助けたらしい。きっとそのゴーントは「まとも」だから助ける気になったのだろう。
デルフィーニは願いのあまり道を踏み外したのだ。父親が怪物だとも知らずに追い求め、その手を血で染め、時をゆがめ、世界を改変しようとした。死ぬしかなかったのだろう。
怪物。
つきりと頭が痛む。怪物……デルフィーニと、夫と。彼らはとある過去、あるいは未来に英国魔法界に君臨していたという。オーグリーと黒の大君として。
リアイスは滅ぼされた。そうしたのは夫だという。
クインがリアイスの者に殺されたから。惨い有り様だったらしい。
――夫は壊れたのだろう
きっとクインは命がけで夫を、子どもたちを逃がしたのだ。そして殺された……。
――なぜリアイスがそうしたのか
「感謝するわよハーマイオニー」
決定的なことは漏らさなかった。違う時間から来た子どもたちに明かさないようにしたのだ。
レグルスたちは、隠れ、あちこちを転々としていたクインたちがリアイスだと知られ――引きずり出され、他ならぬリアイスたちの手によって、まるで鬱憤を晴らすように、クインを殺したのだと思っているだろう。
夫はブラックでリアイスだから。ヴォルデモートに負けたから。惨めな負け犬など、ブラックとリアイスの混ざり子など不要だと思われたから……いくらでも理由はつけられる。
ハーマイオニーたちが伏せたのは、ウィスタの……ひいてはその母親リーンの血筋だ。自ら選んで怪物になった男の血を引いていると。
――夫は
黒の大君は怪物になることを選んだのだ。きっとそうすることしかできなかったのだろう。一欠片の心だけは残っていたけれど。
彼は子どもたちを助けてくれたのだという。この未来――現在――のために。クインが生きている時間のために。
「もう消え失せたろう世界のあなた」
小さく囁く。そんなあなたもまた、私の夫だったのだと。
最後の足跡を踏む。膝を突く影がある。無理矢理寝台を抜け出して、なにをしているのかと思ったら。
「ウィスタ」
夫の名を呼べば振り向いた。とっくに気づいていたくせに、クインが呼ぶまで待っていたのだ。
「なにかな俺の奥さん」
「……黙りなさいこの不良」
「あんたの前ではいい子にしてるんだが?」
夫の声はかすれている。顔は青白く、眼はどこかくすんでいる。だからまだ寝ていろというのに。馬鹿なのか。馬鹿なのだ。
「なにがいい子よ。いい歳でしょうに」
くっ、と夫が喉を鳴らす。ああ、マフラーも巻いていない。膝を突いているせいで、ズボンも、コートの裾も濡れているだろう。
冷えるじゃないの。ちらと、かなり離れた場所にいる護衛――エリュテイアに視線を投げる。彼女は彫像のように微動だにせず、灰緑の眼には諦めが浮かんでいた。それとも呆れだろうか。
「なんでまたこんなところに」
いるのよ、と夫に言おうとして、言を止める。墓石が除けられ、穴が口を空けている。
「あなたの母君は地下におられるでしょう?」
墓は空のはずだ。リアイス当主の亡骸は、地下に弔われる。『表』の墓は当主の知己たちのためにある、詣でるためだけのものだ。
夫は沈黙したまま、穴へ手を入れる。軽い音とともになにかを出す。
それは布で包まれた……骨のようだった。
「誰の」
言いかけ、息を呑む。そうだ、行方知れずの亡骸がひとつあった。
夫が包みを置く。杖を振れば、そこに娘が現れた。ユスティヌ。ヴォルデモートに歯向かい殺された娘。夫の伯母。
ただ眠っているかのようなその人の片袖には膨らみがない。
――デルフィーニが切り落としたのだ
死者への冒涜。杖が必要だったから、デルフィーニは異母姉の亡骸を傷つけた。必要だったからというだけで。
「……申し訳ない」
こんなことが起こる前に、気づけばよかった。
夫は囁き、いたわるようにユスティヌの頬を撫でる。そうして己の外套を脱ぎ、優しく彼女を――もはや永遠に眠っている娘を――くるんだ。
死者を辱めたデルフィーニと、死者を労る夫。怪物と、怪物になるかもしれない者。
――大丈夫だ
夫には心がある。黒の大君になっても、欠片だけは残していた。
クインは夫に近寄り、己の外套を脱いで着せる。
秘密を抱えた夫、自分のことには構わない男。
彼が堕ちる未来など認めない。クインがさせるものか。
「……愛してるわ」
ぽろりと言葉がこぼれ、夫が眼を見開いた。まるで初めて言われたかのように。
数瞬して、夫は口を開く。まるで初心な男のように。
俺もだよ、マイ・レディ