愛をねだる獣
抱えた包みは驚くほど重く――そして軽かった。人間の頭部は重い。しかも瑞々しく、肉もしっかりついている。滲んだ鉄錆が腕を濡らす。じわりじわりと名残のようにまとわりつく。
あっけないものだ。長い年月を共に過ごした。終わる時は一瞬だった。忠実なる従者、エリュテイア・リアイス・リエーフの首はなんて軽いのか。確か従者はウィスタの一部だった。形に添う影のように傍にあった。友人でも伴侶でも恋人でもない関係性。従者が永遠にいなくなったのは奇妙な心地だった。殺したって死なないと思っていた。
――いや
誰だっていつかは死ぬ。殺し殺される。
何年もそんな世界で生きて、生きるしかなくて、わかっていたはずだった。
どれほど失ったろう。リーマス、ネビルと……ハリー。そして妻……。
どれほど手をかけたろう。セドリックに、フェンリールに、ベラトリックスに。忌々しいリアイスどもに……。
従者に。
あっさりと命を、すべてを捧げたのだ。
エリュテイア・リアイス・リエーフは。
黄昏は濁り、くすんだ輝きで室を満たしている。伸びる影は歪に長く、ゆうらりと揺れていた。
ウィスタは剣を引き抜いた。剣身の紅は、瞬く間に消え失せる。
ああ、こいつには血と肉があったのかと今更ながらに思った。
「……な、」
なぜ、と言いたいのだろうか。青白い顔をした「それ」は喘ぐ。見開かれた紅眼は、ひたすらにウィスタを見ている。
「うらぎ……」
それを蹴り倒す。死を逃れんとし、永遠を願ったその身はひどく軽かった。あっさりと吹っ飛び壁に激突する。声も出せずにくずおれた「それ」に歩み寄った。
「耄碌したな?」
こんなやつにウィスタはすべてを奪われたのか。追いつめたと思った。だけれどもあらゆることが噛み合わず……ハリーは殺された。闇の陣営が勝った。闇の帝王は君臨し、ウィスタを追い込んだ。どうすることもできなかった。リアイスは敵に回り、妻を殺した。そしてウィスタはリアイスを滅ぼした。千年余りの歴史は絶えた……。
「俺の従者の忠誠心を嘗めていたな」
剣を片手に闇の帝王という名の、惨めな何かを見下ろす。ああ、反吐が出る。倒すためには懐に潜り込む必要があった。長い……長い間、執拗に執着してくる男に応えた。ウィスタはどこまでも堕ちた。堕ちる様を男は楽しんだ。
「あいつは俺に命を捧げたんだ」
お前にはいたか。そんな人間が。自ら死を選ぶような、殺されるような人間が?
つま先を男の腹にめりこませる。鈍い音とともに骨が折れる感触があった。肉体にこだわるからこうなるのだ。生きているということはいずれ死ぬということ。器を得るということは、いずれ壊れるということ。生きているか死んでいるかわからない、幽冥の狭間にいたほうが、ヴォルデモートという存在は永くあれただろう。
「家族……の、は、」
「どこかだよ」
銀の輝きが一閃する。叫びとともに男がのたうち回る。
「肉欲ばかりのクソ野郎め」
さっさと去勢しておけばよかった。
これはただの鬱憤晴らしだ。こいつには徹底的に惨めに死んでもらう。
「デルフィーにもろくに構わなかったくせに」
またも一閃。片腕が斬りとばされた。
「あわよくば手を出そうとしてたんじゃないだろうな」
「それが、あ」
「お前なんて生まれて来なければよかったんだ」
一閃。残った片腕が飛ぶ。一閃。片足が飛ぶ。一閃……。
「あれは、お前を求め……ぞ」
「黙れ」
何度も何度も剣を振り下ろす。後にはただ、血と肉でしかない何かが残った。
荒い息を吐く。剣を放り出し、膝を突いた。
なんだったのだ。この年月は。払った犠牲、失われたものにあまりに釣り合わないではないか。なにをあっさりと死んでいるのか。謝罪の言葉もないのか。
ウィスタはもはや戻れない。世界は闇に包まれた。裏切り者であり、ヴォルデモートの孫である己はどうあっても帰れない。帰る場所もない。
――もういいのではないか
すべきことはした。騎士団の生き残りは何人かいる。後は任せてしまえば……。どうだっていい……。
軽い足音と、重く湿った音がする。投げやりな気分で振り向けば、白銀の輝きが飛び込んできた。
「やっちゃったの?」
片手には蛇の胴体を、片手には頭を持ち、魔女は首を傾げる。ウィスタと同じ紅の眼がきらめいた。
「そうともオーグリー」
軽く剣を振る。誰かだったなにかは、白に覆われ砕け散った。
「俺を殺すか?」
お前から父も母も奪った俺を。
問えば、魔女は首を振る。
「母様のことは覚えていないし、父様は私を見ていなかったもの」
モノとしか思っていなかったもの。
抱きしめてくれたのも、魔法を教えてくれたのもあなただけ。
「愛してくれたのはあなただけ」
娘が――ヴォルデモートの娘がナギニだったものを放り出す。打ち付けられた蛇の亡骸から鱗と紅が跳ね飛んだ。
つ、と娘の白い頬を紅が飾る。
娘は膝を突く。好んで不吉な鳥の名を名乗る娘。父親に愛されなかった娘は、ウィスタをそっと抱きしめた。憎い敵から生まれた娘のはずだった。手をかけて育て、引き入れ、父親殺しに荷担させた今、娘を殺してやるべきだった。ここにいるのは人たらしのろくでなしだ。どうやらウィスタを「家族」と慕っているらしい娘に、お前を利用していただけだと伝えるのは……。だが……だからといって殺してもいいものか。
「私たちは家族よ。誰よりも濃い繋がりと絆があるのよ」
うっとりとした声だった。
あなたが■■■の。
「待て」
娘を引きはがそうとする。こんな馬鹿なことがあってたまるか。いかに堕ちようとも、ウィスタに正気の欠片くらいは残っている。
心臓が跳ねる。恐ろしい予感がする。ああ、ヴォルデモートがなんだというのか。この予感に比べれば。
「私たちはゴーントの裔だものね」
喉が干上がる。思考が空転する。ありえない。デルフィーニのことはできうる限りまっとうに育てたはずだ。それこそ家族のように接したはずだ。どこで間違えたのか。なにもかも間違えていたのか。幼い頃に事故に見せかけて殺すべきだったのか。それはあまりに……人の道に……。
「父様も母様もいないのだから」
もう私にはあなたしかいないの。
声を出そうとして出せない。美しい旋律が呪いを紡ぐ。
伏したまえ、と。
「私を愛し、側にいてくれるはずだろう」
鈍色の空を女の声が渡る。黒の大君と呼ばれ畏れられる男は肩をすくめた。
「いてやったろう? オーグリー」
身体が重い。ずっとそうだった。心から笑った日はいつだったろう。希望もなにもかも踏みにじられ、堕ちて、堕ちて。復讐を果たしたところで何も戻らなかった。魂は欠けたまま。
挙げ句に小娘に屈服した。いくらヴォルデモートを倒して気がゆるんでいたとして、もうどうとでもなれと思っていたとして、失態だろう。
「愛し合ったろう?」
家族だものな。ふふ、と笑みがこぼれる。ゆがみ、かすれ、醜悪な声。
――なにが愛なものか
禁忌を犯してしまったのだ。正気に戻った時、なにも言えなかった。取り返しがつかなかった。やはり、デルフィーニはヴォルデモートの娘であった。どこまでも……愛を知らず、間違ったやり方でしか求めることができない獣。人間になろうとしてなれない獣。
「裏切り者め」
黒衣を身に纏った女が、眼を爛々と輝かせる。呪われた紅を。禁忌の色を。共にヴォルデモートを討ち果たし、闇の世界を支配した。投げやりになった彼は、デルフィーニ……オーグリーの求めに応じた。そも、禁忌の一線はとっくのとうに越えていた。堕ちることに底などない。
しばらくは……黒の大君とオーグリーが倒れるまでは、世界の闇は晴れまい。世界をひっくり返すのが至難だとわかっていた。そんな気力もなく、さしたる動機もなかった。
同時に、騎士団の生き残りを粛清する気力もなかった。好きなだけあがけばいいと思っていた。
戻ってきなさい、と願った恩師の言葉があったからか。ヴォルデモートの孫だと知れても、リアイスを滅ぼしても、あの老婦人は彼を責めなかった。ただただ泣かれた。
彼を殺しにきたはずなのに、彼女は泣いていた。
おやすみなさい先生。
小さくささやいて、彼女の記憶を消したのだ。殺したように見せかけてそっと逃がしてしまった。生きているのか死んでいるのか分からない。海外で穏やかに過ごしていればいい。
「俺は最初から裏切っていたよ」
軽く凍った草地に立ち、デルフィーニに告げる。いつからもなにもない。彼が手を下したのはリアイスどもと、何人かだ。あとは周りが勝手にやっていた。
「侵入者どもを逃がしたな」
「庭に入ってきた吸魂鬼を駆除しただけさ」
お前は趣味が悪いなデルフィーニ。いやオーグリー?
軽口を叩く。叩きながら呪文を交わす。壊れていようがヴォルデモートの娘だ。ついでに――今思えば余計なことだったが――あれこれと仕込んだのは彼だ。憎んでもよいはずなのに、どうも憎みきれなかった。それだけの感情を失っていたのだろう。
ウィスタ・リアイスは、妻を失ったときに死んだのだ。
「それともなにか」
切断呪文がデルフィーニの肩を裂く。同時に、彼の腕が刎ね飛ばされた。
――利き腕か
耄碌した。吸魂鬼の群を一掃したのだから仕方がないか。
膝を突く。デルフィーニが満面の笑みを浮かべた。
「これで反抗する気にもなれまい?」
デルフィーニが、踊るようにやってくる。どこからか光が射しているかのような、明るい顔。
昔はそんな顔をしていなかった。よくしょげていた。
綺麗な花を見つけたの、と泥だらけの手で持ってきたこともあった。実の父親にも持って行って、くだらないと笑われたのだと……涙をこぼしていた。
――あの子たちのようでは
違う『時』から来た子どもたちのようではなかった。あの子たちは愛され健やかに育ったのだろうと察せられた。彼が失った青を持つ「レグルス」は……黒の大君の息子――彼の「レグルス」とは随分違った。
――逃がせたのだからいい
失った幸福の欠片たち。世界はあるべき姿に戻るだろう。妻は幸福に在るはずだ。ならばいい。
「ずっと一緒にいよう」
いつかのように抱きしめられる。人の道に反し、悪を極め、禁忌を犯し、甥の片腕をはねておいて、縋るように言うのだからどうしようもない女だ。
彼は共犯者の背に、残った片腕を回した。
「いいとも」
この命くれてやる。
どん、と軽い衝撃とともにデルフィーニが硬直する。同時に、彼の腹を灼熱が貫いた。
「な、ど……し……」
「ここは目覚める前の、悪い夢だ……」
なかったことになる夢だ。
身の奥から灼熱が駆け上がる。鉄錆の香とともに、口からこぼれた。
ぐらりと揺れる。もつれ合うように倒れる。剣を握ったまま離せない。
ひどい、とデルフィーニが呟く。それはむしろ囁きに近い。風にまぎれて消えそうなほど、か細い声で。
見つめ合う。デルフィーニの眼から輝きが失せた。
一撃でしとめてやればよかった。痛みを感じる間もなく。だが、そんな力は残っていなかった。己もろともに剣で刺し貫くしか。
どうせこれもなかったことになる。黒の大君も世界も消え失せる。
悲鳴が聞こえる。誰かが彼の側に膝を突く。かすみつつある視界に、灰色が映った。
「……おや……」
親父、と言えたのか言えなかったのか。不出来な息子だった。共に戦えなかった。
今更間に合ったところでもう遅い。吸魂鬼を滅した結果、父は命を拾ったらしい。だがそれはたまたまでしかない。
なにを言おう。言えばいいのか……。まともに話したのはいつだったか。
ああ、謝らなければならないことはあった。
「かあさん、の杖……悪かっ……」
ヴォルデモートへの忠誠の証に、彼は従者の首を持って行き、母親の杖を破壊した。これでお疑いにはならないでしょうと。
父がどれほど母を思っていたか知っていながら奪い取り、この世から消したのだ。
「馬鹿が」
情けなくも震える声。頬に冷たい滴が落ちる。
「なんでわざわざ、こんな……馬鹿息子……」
癒しの呪文が囁かれる。あたたかいものがそそぎ込まれ、消え失せていく。もはや間に合うまい。
視界が霞む。冬の空がにじむ。彼が継がなかった灰の色もあせていく。
「たとえ、夢でも」
罪は、罪だから。
吐息が耳にかかる。
「最後に」
お前は正しいことをしたよ。
よくやった、と囁かれ。
うんとほめられた子どものように、でも照れくさくて素直に頷けない子どものように、ぶっきらぼうに返した。
「ああ」
そして、世界は閉ざされ精算された。