足が、固いなにかを踏んだ。黒く煤けたそれを踏みにじればあっけなく砕けてしまう。
――地獄とは
このようなものか。夜闇を切り取って浮かび上がるのは、うずくまる廃墟たち。風は煤と花の香が混ざり合い、胸が悪くなりそうだ。杖明かりがなくてもかろうじてあたりを見回せるのは、ぽつぽつと灯る――いいや燃えている炎のせい。それは花を思わせる。
『谷』が地図から消えたのは随分前のこと。地域が丸ごと吹き飛んだわけではない。山も谷も健在だ。ただ、そこに人の営みはない。連なるのは廃墟だけ。そして、死の谷と化した場所には、炎がある。すべてを灼き尽くすそれが。
とある魔法使いが生み出したものだ。闇の帝王を倒せしもの。二君の一、黒の大君。今の主だ。
一歩、また一歩と進む。供も連れず、彼ひとりで。美しかった村――ゴドリックの谷の中心部は見る影もない。もう、誰も住みたがらないだろう。家々を建て直しても、生け垣や庭を蘇らせても。あちらこちらにある禍々しいまでの紅を見れば明らかだ。黒の大君は誰も、なにも許していない。ゴドリックの谷の復活などけして赦さない。
道――踏み分ける者もなく、草がしげり始めているそこ――をそっと辿る。こんな田舎道などまったく彼の好みではない。整然と整えられた芝に、噴水に、咲き誇る花々がある場所こそ、彼のいるべき所だ。なにが悲しくて磨かれた靴を、ズボンを汚さねばならぬのか。
――仕方があるまい
彼は……ルシウスは、黒の大君に膝を突き、頭を垂れたのだから。
気配が消えた。常にルシウスにまとわりつき、監視していた気配が。弱くなっているとは思っていた。気のせいだろうと頭の隅に追いやった。だが……数時間かけて、それは薄れ、失せてしまった。忠誠の印。犬につけられた首輪。闇の印は。
眼を瞬き、次いで身を翻した。と、と着地したのは、古びた邸――レストレンジ邸。門扉はなんなく開き、ルシウスは広々とした前庭を抜け、邸に入った。
窓から入る陽は暗く濃い紅。流された血を思わせる。足は自然と奥の間へ向かう。事が起こったとしたらその場所しかあるまいと、ルシウスは奇妙なまでに確信していた。
彼の主――闇の帝王ヴォルデモートはしばしばレストレンジ邸に滞在し、奥の間を使った。娘のデルフィーニがレストレンジ邸にいたからだ。闇の帝王はよい父親とは言えなかった。わかってはいたが、ルシウスはもの申すことなどできなかった。小さな子が父親に邪険にされている様は、ルシウスに多少の良心のとがめを感じさせたものだ。けれどルシウスは我が身がかわいかったし、家族の安全が一番だった。そもそも、帝王が良き父親になどなるわけがなかった。どこまでも我欲にまみれ、人間の醜悪な部分を煮詰めたような男なのだから。
デルフィーニがどのように育つのか……と懸念していたものの、数年して問題が消え去った。
『やあご機嫌よう』
闇の帝王。とある日の黄昏時に、解決策がレストレンジ邸にやってきたのだ。奥の間で帝王と話し込んでいたルシウスは眼を見開いた。煤と血の臭いをまとわりつかせ、片手に包みを持ち、片手で女の子――デルフィーニの手を掴んでいる男が、誰だかわからなかったのだ。
顔の造作は変わりがない。片眼が紅に変じ、両眼ともに紅になったことを除けば。衣に点々と血をつけて、ひどくすさんだものを滲ませている男が、本当に彼と――ウィスタ・ブラック=リアイスと同一人物なのか。どこかが決定的に損なわれ、似て非なる者になり果てていた。
彼はちらとルシウスを見て、そして帝王に視線を戻す。無造作に包みを放り投げた。丸く膨らんだ革の袋は、湿った音を立てて絨毯に落ちる。じわじわと紅が滲んでいた。
『どうしたのかな我が孫よ?』
帝王はすぐさま死の呪文を放ってもよかった。ウィスタ・ブラック=リアイスは孫であるが敵でもある。つまり帝王にとっては邪魔者だったはず。そして帝王は死の呪文への忌避感などない。
しかし、帝王は怖気が立つほど優しい声で――あいにく帝王は家族にも愛情にも恵まれておらず、周りは恐怖から従った者か、亡き副官のような狂信者くらい。本人が優しいと思いこんでいる声は、どこか空虚で歪。毒が滴っていた――孫に呼びかけた。
『祖父様に手みやげを』
我が従者の首を。
歌うように言いながら、帝王の孫は血濡れた手を、懐に入れる。取り出したのは黒く艶やかな杖である。彼は無造作にそれを床に放り、靴底で踏みにじる。鋭い音とともに杖が砕けた。
『……リアイスは俺が滅ぼした』
彼がデルフィーニの手を放す。軽く小さな「叔母」の頭を撫で、帝王の前に進み出る。
ルシウスは息を呑む。ありえないことが起こっている。帝王は「孫」を追い込もうとした。手にしたかった。だから出自を暴露し……「孫」は一族に疑われ、秘密が明らかになったのだろう。そうして彼はここにいる。
『あなたの軍門に加わりたい』
リアイスは膝を突かぬ。頭も垂れぬ。そのはずだった。孤高にして不恭、弱き者には慈悲を、悪しき者には死と罰を与える存在。誇り高い魔法騎士の一族。その直系が、闇の帝王に屈したのだ……。
『よかろう』
帝王はにんまりと笑う。粘るような眼で堕ちたグリフィンを眺め、立ち上がる。骨のように白い手を上げた。杖がじわりと輝く。
彼が袖を捲る。傷だらけの腕を、帝王に差し出した。
『お前は我が孫。我が血を引く者……歓迎しよう』
帝王が、伸べられた腕、肘の内側に杖先を押し当てた。
『我々は家族なのだから』
肉の焦げる匂いとともに、堕ちたグリフィンに、闇の印が刻まれた。
それから数年、とルシウスは思い返す。あのリアイスには裏があると思っていた。帝王が喜んでいたので、わざわざ言いはしなかったけれど。リアイスあらためブラックには、一族を滅ぼすだけの理由があった。妻を殺されたのだ。己が一族に妻を殺された男がどうするか? 復讐である。苛烈なるそれは『谷』を灼き尽くし、一族をことごとく殺してのけた。男の怒りは炎となって、『谷』に未だくすぶっているのだという……。
帝王は身内に甘い。いや、異様に執着しているというべきだろうか。ルシウスだったらブラックのことは信用しなかったろう。いかに己の一族滅ぼした男であろうと、己が従者を手ずから始末した男だろうと、己が母の杖を破壊してのけた男だろうと、どこかで疑ったはずだ。しかし、帝王はブラックを片腕とした。側に置き――あれは侍らせるといったほうがいいか――重用した。ブラックは淡々と仕事をした。
ハリー・ポッター亡き後の世界、リアイスが滅びた後の世界における、反乱分子を潰し、それ以外の民衆の不満を抑えた。
表向き、世界は平穏だった。物流が滞ることもなく、疫病も流行らない。飢えた子どもたちもさしていない。普通に、慎ましく暮らす分には不自由がない世界。
ただマグル生まれは排斥され、ホグワーツから組分けが消えただけ。眼を瞑れる程度のことだ。己の平穏が脅かされるよりはいい。反乱分子たちは悪だ。平和を乱すものだ。マグル生まれは仕方がない。我々と違うものだ……。
反乱分子は他ならぬ民衆の手で突き出されることがあった。反乱分子を匿う者には処罰を下すと布告を出したせいもある。誰だって平穏や金銭は魅力的に感じるものだ。正義よりも。善よりも。
このまま、ずるずると何事も起こらないままなのか……と思っていた。
奥の間、その扉の前に立つ。軽く扉を叩けば、わずかに開く。ルシウスは隙間に身体をねじ込んだ。
さあ、流された血はどちらのものか?
「機をみるに敏、というやつか」
お前が一番乗りだよルシウス。静かな男の声。ルシウスは伏せていた眼を上げる。
――やはり
黄昏に染まった室。その奥には椅子が二脚。片方には黒髪の男が座り、足を組んでいる。どこか苦々しげで投げやりな様子だった。もう片方には銀髪の女が優雅に腰かけ、輝かんばかりの笑みを浮かべている。頬が紅潮し、どこか夢見るような眼をしている。
帝王の姿はどこにもない。
消えたのだ。世界のどこからも失せてしまったのだ。ルシウスの眼前に在る男は、ついにやってのけたのだ。ハリー・ポッターの敗北から十数年かけて、帝王を討ち取ったのだ。
ルシウスは状況を見て取ると、ためらいなく膝を突いた。いつか男がしたように。次の主に乗り換えることに良心の呵責など感じない。元々、喜び勇んで死喰い人になったわけでもない。帝王に個人的な思い入れもなく……ひょっとしたらさっさとくたばれと思っていたのかもしれない。本音は慎重に隠していたので、自分でもわからなくなっているが。
ひとつ明らかなのは、男が帝王よりもまともであろうこと、無闇に死喰い人をいたぶらず、その家族をもてあそんだりしないことだ。
――ルシウスの守るべきものは決まっている
だから、この男に付く。
「古きは滅び、新しき風が参りました」
この老いぼれをなんなりとお使いください。
「黒の大君、オーグリー様」
二君に忠誠を捧げましょう。
「吸うか?」
はっと我に返る。ルシウスはいつの間にか主の元へたどり着いていた。元聖堂、今は廃墟。天井は崩れ、壁には穴が空き、あちらこちらに残り火がある。ちろちろと燃える火、そのうち一つの前に主はいた。なにをするでもなく壊れかけた長椅子に腰かけ、紫煙をくゆらせている。
「せっかくですが」
主の怒りの顕現である残り火に、あまり近づきたいものではない。ましてや煙草に火を点けるなど。死体を焼く火で煙草をたしなむよりはマシだろうか……本能的に訴えかける不気味さや恐ろしさではたいして変わるまい。
「つれないやつだよ」
「友人というわけではありますまい」
配下ですので、とルシウスは言う。主――ルシウスの息子と同年の主は――鼻を鳴らした。
「何の用だ」
シャックルボルトが見つかったか? それとも……と主は言う。温度のない声。少年時代の彼を知る者からすれば、信じられないほど虚ろなそれ。
――こんな世界を
望んでいたのだろうか。ふ、と兆した問いをルシウスは退ける。平和な世界だ。ルシウスの息子も妻も孫も健在だ。マグル生まれは哀れなことだがどうしようもない。助けてやる義理はない。それに、民衆がマグル生まれを排斥しているのだ。いつの間にか勤勉に、自ら働くようになった。マグル生まれどもはろくな教育を受けられず、時に暴走しマグル界には「事故」が蔓延している。
眼を瞑れる程度の不幸。ダンブルドアもハリー・ポッターも失敗したのだ。世界はこうなるしかなかったのだ。
「見つけたら」
引きずって参りましょうか。手練れの闇祓い、反乱分子の首領――キングズリー・シャックルボルト。なかなか尻尾を掴ませない男で、手を焼いていた。
「できるとでも?」
主は煙草を放り投げる。小さな影は、紅い火とともに虚空へ失せた。
「大君のお望みならば」
「……いや。どうせあっちから来るだろう。正面切って相手をせず、通してやることだ」
何人死ぬかわからん。シャックルボルトは俺が処理する。
明日の天気の話をするように言って、主は疲れたように眼を閉じる。
「シャックルボルトの件でなければなんだ」
「オーグリー様がお呼びです」
ルシウスがもう一人の主の名を挙げれば、彼は顔をしかめた。二君と呼ばれ、共に英国魔法界を治めているが、仲が良好かどうかは神のみぞ知る。互いの認識にずれがある。それも重大なずれ、致命的なずれが。
――かもしれない、だが
オーグリーの大君に向ける眼と執着。ゴーントの忌まわしき血統と……今は亡きヴォルデモート卿のゆがんだ思想。
どこか投げやりだった大君。輝かんばかりの笑みを浮かべ、頬を紅潮させたオーグリー……。
おそらく二人は、一線を越えている。しかとその場を見たわけではない。ただの推測にすぎない。だが、ありえることだと頭のどこかが囁いている。
二人は禁忌を犯したのだと。しかもそれは継続しているのだろう。時たま主がルシウスのもとに駆け込んでくる時は、前夜だか昼だか朝だかに「動揺すること」があったからだろう。主は「ただの雑談だ」「部下への聴取は必要だろう。俺は主なんだから」「福利厚生は大事だ」等々言い訳をしていたが。実際、主は時間をとって部下――死喰い人と茶を飲んだりどうこうしていた。お優しい主。ヴォルデモート卿の時より働きやすいとそれなりに好評である。なにせくどくど説教を垂れるわけでもなく、さらりと茶を飲み、さらりと雑談をし、期待していると言って去っていくのだ。生活費にと金貨の詰まった袋を置いていって。
ヴォルデモート卿の時など、やれ食事がまずいだの、冷めているだの、我が儘だったものだ。部下の提供した資金で生活し、部下の邸を転々とし、時に居座っていたくせに。
あのときに比べれば今の主は最高に近かった。よく働くし文句は言わないし、食事は美味いと言うし。料理長は感動していた。つまり悪に堕ちようとも育ちがいいのである。
そんな主がよくお茶をしているのがルシウスである、というだけだ。だけなのだが。
「あの我が儘女め」
主が長椅子を蹴るように立ち上がる。力の加減を間違えたのか、哀れ長椅子は崩壊した。
「行くぞ」
言って、主は廃墟出口に向かう。ルシウスも後に続いた。なんとなしに、上を――崩れた天井から覗く空を見やる。
千年の栄華を誇った一族が絶え、多くの血が流されたというのに、天は変わりなくそこにある。憎らしいほど眩い輝きを放つ星々は、神が戯れに宝石を振りまいたかのよう。
どこまでも、世界は無情だ。正しく在った者は踏みにじられ、堕ちてしまった……。
ルシウスは天を睨み上げた。
「もう手遅れだ」
主は引き返せない。どこまでも堕ちていくだろう。
「私ができることは……」
堕ちてしまったグリフィンが、禁忌を犯してしまった彼が……もはや輝くことのできぬ
いつか来る最期に、安らぎを覚えるようにと祈ることだけだ。