唸りが聞こえる。膨大な熱量が、灼熱が生み出した風が吼えている。
――ああ
燃えている。薔薇の香かぐわしき谷と謳われた故郷が燃えている。彼は余所者だったけれど、それでも谷は故郷も同然だった……。
天をも焦がさんばかりの紅蓮の中に、白が混じる。夜空に輝く星のように澄んだ色。しかしながら、それは
谷は――ゴドリック谷は、人の住める土地ではなくなるだろう。いついつまでも炎がくすぶり、人が留まることを赦さないだろう。
どうにもできず、どうにもならず。彼はぼうと立ち尽くし、頬を冷たいものが流れるに任せた。
「……間に合わなかった」
膝を突く。
彼はいつだってそうだ。
シリウス・ブラックはただの一度も間に合ったことがない。
『――もういい』
うんざりだ、とさめた声で息子は言った。群青の色を――彼が愛した女の色を喪い、両の眼を深紅に染めて。
やっとのことで追いついて、息子の腕を掴んだ。息はすっかり切れていた。いいや、震えていた。
濃厚な血の臭い、積み上がる屍。じわりじわりと熱を帯びる空気。生まれる炎。
生きてきて、惨いものなど見飽きてきたと思っていた。それこそ子どもの時から。慣れているはずだと思っていた。だが、そんなシリウスでさえ、聖堂広場前に転がる焦げた「なにか」と転がる「誰かの」の胴体、そして息子が抱える首を前にして、息を呑んだ。
「彼女たちを連れて脱出するんだ」
そう口にしながら心が痛む。息子の伴侶は殺された。あまりに惨く……。ちらと見ただけでも、それを成した者の悪意が窺える。息子は伴侶に護衛をつけていたようだが――その者もまた焼け焦げてしまっている。
惨たらしく殺された彼女らの傍らにあるのは、胴体。それは息子の従者のものに他ならない。息子は平然と忠実なる従者の首を片腕に抱いている。滴る血が異様に鮮やかで、従者の首と胴が切り離されたのが、つい先刻のことだったと知れる。
「嫌だね」
そもそも、俺の生み出した炎だ。俺の意に従うさ。
「俺が燃やしたいものを……」
どこかで、身の毛もよだつような声がする。炎に呑まれつつある村の、どこからか。あちらこちら――そこら中から、臭いがする。肉と脂が、髪が燃える臭いが。
「燃やすだけさ」
リアイスどもの生き残り? 脱出なんてさせないさ。俺の伴侶を殺した罪は重いんだよ。
息子は高らかに笑う。怪物の、ヴォルデモートの嗤いを思わせるそれに、固く眼を瞑った。
――駄目なのか
もはや希望は潰えたのか。
「来いウィスタ」
掴んだ腕を引っ張る。たとえ怪物になっても息子は息子だ。犯した罪はあまりに重いが……そうさせたのは誰なのか。とうに成人したとはいえ、息子を守ってやれなかったシリウスのせいでもあるだろう。
「復讐は済んだだろう」
これからどうすればいいかなんてさっぱりわからない。わからないなりに、確信していることがある。
これ以上、息子を一人にしてはいけないということだ。
「ロンもハーマイオニーも心配してる。駆けつけてくるはずだから」
だから。
「一緒には行けない」
いや違うな。
「行かないよ」
ここでさよならだ。
静かな声とともに、衝撃がはしる。何を言う間もなく、意識が闇に閉ざされた。
気づけばあたりは紅蓮に呑まれ、シリウスはただ立ち尽くすしかない。怒りの具現たる炎は、シリウスと――亡骸たちを避け、村を咀嚼している。保護範囲から踏み出せばどうなるかわからない。それよりなにより、シリウスの心は折れてしまっていた。
正気を失えば楽になれるとわかっているのに、残酷なまでに思考は正常で。しかし次の一手を出せるほどの気力はない。結果として立ち尽くし、間に合わなかったと膝を突いている。もうどうしようもないのに。
吸魂鬼がいれば今のシリウスはまたとないごちそうに見えるだろう。ひたひたと絶望に満たされて、苦い記憶にくるまれて、悔いという名の針で全身を貫かれている。
――アズカバンにいなくとも、人は絶望できるのだ。
◆
降ってわいた幸運を素直に喜ぶには、シリウスは絶望し続けていた。無為に過ごした日々が、シリウスの精神を少しずつ、少しずつ……滴る水が岩を穿つように傷を入れていたのだろう。
打つ手などもはやなかった。どこかで
それがいつからのことなのか……最初からすべて間違えていたのかもしれない。信用してはいけない者を信用した。ジェームズがワームテールを信じたように。ハリーが、ウィスタがセドリックを信じたように。
いいや、とシリウスは笑みを刻む。ジェームズが信じたのはシリウスだ。そしてシリウスが推薦したからワームテールが守り人になったのだ。いつだってシリウスは間違える。
冬の空は灰の色。草は白く濁り凍っていく。一歩二歩と踏み出すたびに固い音が響く。輝ける星の名を与えられた男の笑声は、風の唸り……迫り来る吸魂鬼の歓喜に呑まれていく。
あの夜のようではないか。吸魂鬼に囲まれて、どうしようもなくなって。あのときはハリーたちがいたけれど、彼らはもういない。
ハリーは殺された。息子は――ウィスタは闇の陣営に下り、ヴォルデモートを討ち取った。
――討ち取るために下って
戻って来られなくなったのだろう。出自が明かされて、恐怖され、憎まれて。伴侶を殺されて。どうしようもなくなったのだ。どこかの時点で連れて逃げていればよかったのだろうか。父親として、なにもできなかったのだろう。
何度か邂逅して、そのたびに戻ってこいと行った。けれど拒否された。ロンとハーマイオニーが懇願しても無駄だった。シリウスたちを殺さなかっただけ、多少の良心は残っていたのだろう。それでも、ウィスタは黒の大君としてあり、純血主義によって英国魔法界を統べてみせた……。なにかへの復讐のように。それか、すべてがどうでもよくなったように。
馬鹿な息子だと思っても、見捨て切れなかった。それはシリウスの罪でもあるからだ。子どもが欲しく、家族が欲しくて、望んで誕生させた。結局はただの我が儘で、自己満足なのだ。ウィスタは苦しむはめになった。決して平坦な人生ではなく……すべてを奪われ踏みにじられ、この世の善と光から背を向けた。
責めることなどできなかった。伴侶を――妻を惨い形で奪われて、復讐に走るなとはとても言えない。罪だとしても。シリウスもそうするだろう。かつてワームテールを殺そうとしたように。目もくらむような怒りに駆られて。
けれど。
また、笑みがこぼれる。己をあざ笑うためのものではない、皮肉げでもないそれ。
――息子は
希望を得たのだろう。闇のなか、わずかに見えた光。やり直しの機会。情の欠片もない息子ではない。伴侶を――クインを心の底から愛していた。だからこそ闇に堕ち、だからこそ、伴侶の生きる世界を願い、子どもたちを逃がし、オーグリーと敵対した。
――もう会うこともないだろう
別れの言葉も交わしていない。そんな暇などなかった。なによりも吸魂鬼を分散させなければならなかったから。固まって戦う手もあったろうが、共に立つには時間の隔たりは高く、立場を違え、刻まれた溝が深すぎた。
立ち止まり、杖を構える。かつての己の杖は失い、妻の杖もまた奪われ……今、この手にあるのは妻の父、ミスラ・リアイスのもの。妻を慈しみ、育てた男のものだった。
「俺はあなたのように高潔にはなれなかったようだ」
囁く。
「そして、たいしたことはできない」
せいぜいばらばらに逃げ去って、吸魂鬼を分散させるくらいしか。
息を整える。「レグルス」と「スコーピウス」は巧く逃げ切れたろうか。彼らは希望だ。降ってわいた希望。この悪夢を終わらせる者だ。擦り切れた心が、彼らを――希望を信じてみようと囁いた。たとえシリウスが死ぬことになっても。
シリウスの傍らに守護霊が寄り添う。ちらちらと白いものが舞う。見上げれば、灰の空に渦が巻いている。吸魂鬼の群だ。オーグリーはありったけの吸魂鬼を投入したらしい。もっとも、大半は「裏切り者」の黒の大君を襲っているのだろうが。
――生き残れないだろう
きっと息子は死ぬだろうし、シリウスもロンもハーマイオニーもスネイプも同じ末路だろう。覚悟の上だ。
長い長い間、停滞するばかりだった。やっとのことでやり直しの機会を得た。別の時間からやってきた子どもたちを守りきり、送り出せば世界が正されるのかはわからない。知りようがない。それでも賭ける価値はある。
吸魂鬼が渦を崩す。シリウスは行け、と囁いた。行け。お前がすべきことをしろと守護霊に命じる。白銀の輝きが吸魂鬼と衝突する。
どれほど時間を稼げるだろうか。守護霊が消えた時が、シリウスの最期だ。
――おそらく
吸魂鬼が弾き飛ばされる。
「……俺は」
正しい世界では死んでいたのだろう。それがいつ、どこでのことかはわからない。子どもたちは明言しなかった。けれど、推測はできる。あちらではセドリックは死ぬ運命だった。ならば、シリウスは神秘部の戦いで死んだのだろう。あのとき、シリウスはセドリックに救われて命を拾ったのだから。
吸魂鬼がやってきては弾き飛ばされ、時に消滅する。あと何体いるのやら。
はあ、と息が上がる。胸が苦しい。生きているからこその苦しみ。
あちらのシリウスは、ここまでは生きられなかった。ベラトリックスに殺され……どれほど息子は苦しんだろう。ハリーもそうだ。きっと自分を責めたのではないか。
苦いものが舌先ににじむ。
――あちらでもこちらでも
シリウスは父親をやり損ねた。あちらでは早々と死に、こちらでは息子たちを守りきれなかった。
「……後悔、ばかりだ」
いつかと同じように膝を突く。身体が言うことをきかない。そろそろ守護霊は消滅するだろう。頑張ったほうなのではないか、と自分を誉めてみる。本当に誉めたい者はいるのだけど、会えないだろうから。
視界に靄がかかる。思考が霧に覆われる。死が忍び寄り――空が白に染まる。高く澄んだ音とともに、世界から不浄が祓われた。
一、二、三と数を数え、そろそろと立ち上がる。吸魂鬼はどこにも見あたらない。
「馬鹿力め」
息子は犯した罪がどうであれ、突出した実力の主なのは間違いない。力を磨かざるを得ない環境にいた。名門の放蕩息子であることは許されず、また本人も己にそれを許さなかった。
――努力家だった
要領はよく、頭も良かった。けれどそれ以上に努力していたのを知っている。こんな世界でなければ、きっと弱き者を助けるために、あちこち走り回っていたろうに。
杖を握りしめる。大の字になって眠ってしまいたい。なにもかも擲ってしまいたい。それくらい疲れていたが、シリウスが手を差し伸べるべき者がいる。
一歩、二歩と踏み出して、鉛が詰まったような身体を動かす。駆け出す。轟音が響く。力と力が激突し、濃厚な魔力が渦巻く場所へと。
――息子のところへと
「間に合え」
弱った身体でも、オーグリーとの戦いに割って入ることはできる。息子をむざむざと殺させてなるものか。
そう、思っていたのに。
「その場所」へたどり着き、シリウスは声を失った。禁断の森のほど近く。鉄錆の香が鼻腔を塗りつぶす。
草地にもつれ合う影がある。白銀が引き抜かれ、血が飛沫く。一つの影は二つになって、横たわった。紅が緑を侵していく……。
喉の奥から悲鳴がほとばしる。どこにそんな力があったのか。飛ぶように駆け、膝を突く。
ああ、認めたくない。これが夢――終わるべき夢だとわかっていてもなお。
己の終わりは覚悟していた。誰も彼もがおしまいになるのだとわかってはいた。それでも、息子のこの有様を見てしまえば、覚悟など脆かったのだと知れる。
「ウィスタ」
仰向いた息子の片腕はない。傷口はあまりに深く、その身を貫き通している。
――己で貫いたのだ
オーグリー諸共に。
なにを叫んだかわかりやしない。震える手で杖を構える。力を振り絞り、癒しを唱える。注がれる力よりも、流れ出て行くもののほうがはるかに多く、息子は刻々と終わりに向かって滑り降りていく……。
悪かっただと? そんなことはもはやどうだっていいのだ。愛する妻の杖を奪われ、壊されたことをシリウスは許した。ずっと前から許していた。息子の苦しみも、復讐を果たしたいという願いもわかっていたから。
「たとえ、夢でも」
罪は罪だから。血にまみれ、息子は囁く。黒の大君と畏れられた男はとても思えない、か細い声だった。
紅の片眼が――群青の色を取り戻す。シリウスは息子の残った片手を握った。してやれることはあまりないとわかっていた。だから最期にうんと誉めてやった。ろくでもない父親にできる精一杯で。
ああ、と安堵したように息子は呟き、逝ってしまう。握った手から力が抜ける。
「親より先に、死ぬやつが……あるか」
呻く。震える手で息子の瞼を閉じる。この世界は終わる。なかったことになる。それでも、息子の側にいられたことは幸運なことだったのかもしれない。
ふ、と息を吐いたその時。
「無様に死んでくれたわね」
高く、ねっとりと甘い声がした。振り返る。弾むような足取りで、魔女がやってくる。どこにでもいそうな女。美しくも醜くもない、平凡な容姿。だが、ねばりつくような声と、毒をはらんだ眼が、それが人間のふりをした獣だと――獣にも劣るものだと知らせる。
うふ、うふふ。とびきりのクリスマスプレゼントをもらったかのように、それはひどく機嫌がよかった。転がる腕を――シリウスの息子の腕を蹴り飛ばし、踏みにじる。胸の悪くなるような音がした。
「死んだ死んだ。死ーんでくれた!」
ざまあない、オーグリー、黒の大君。お前たちは死ぬしかなかった。力だけは有り余った化け物どもめ。
「偉そうに。私を見下して」
「邪魔者はいなくなったのだもの」
今度は私が魔法界に君臨するわ。どこかに潜んでいる穢れた血も一掃してやる!
何度も何度も腕を踏みつけて、けらけらと笑うそれ。シリウスは、あらゆる悪を見たけれど、今このときほど思ったことはない。
ああ、これぞどこにでもある、しかし極めて醜い――悪なのだと。
人の死を喜び、冒涜し、すかさず玉座をかすめ取ろうとする悪。惨めな敗北者であるシリウスなど眼中にもなく、ただただ嗤っている。
立ち上がる。転がる白銀、その柄を握る。本来ならばシリウスに扱えないそれは――リアイスの宝剣は、澄んだ輝きを宿す。
ここは夢。終わるべき世界。こんなことをしても意味はない。だって「なかったことになる」世界で、精算される夢なのだから。
それでも。
一歩、二歩、三歩と距離を詰める。その昔、散々剣術を仕込まれた。リアイスの婿になるのだからと。
流れるように剣を振りかぶる。人の姿をした
悪を滅する刃が。
音もなく、優雅に、その首を絶ち切った。