霧のような雨が降る。頬に触れ、誰かが流した涙のようだと思う。
――泣いているのだろうか
彼女の夫は。
いいや、と思い直す。泣くよりも怒っているだろう。それはもう、かつてないほどに。
さようならと言えただろうか。なにせ慌ただしかったから、自分でも何を言ったか覚えていない。
「あーあ」
拗ねた子どものように言う。あーあ、と。育ちの悪い誰かのように。たまにはいいだろう。自分がレディ・リアイスで、マグダラ家の娘で、二児の母であることを忘れても。ここにいるのはただのクインで、愛する夫がいる身の女だ。多少拗ねたって構うまい。
「……逃げてもいいんだぞ」
声に、ちろりと視線を投げる。若い――といってもクインと同年代くらいだろうが――男が立っている。腕を組み、大扉にもたれて。灯し火の眼が印象的な「護衛」だった。リアイス本家当主夫人への敬意などみじんもない。へりくだらず、しかし魔女一人に何ができると見下すこともなく。クインの決断をあざ笑うこともない。まるで兄のようだ。クインに兄はいないのだけど、そんな風に思う。
「無理でしょう」
『谷』に入ることはできても、出ることはできない。去り際にエリュテイアが魔法を発動させたのだ。
『……よいのですね?』
常は彫像のように感情を面に出さない白百合の騎士は、この時ばかりは眼を潤ませていた。緊急事態だというのに、クインは思わず笑った。主にしか忠を尽くさないとされる白百合の騎士の心に、ほんの少しでも波紋を起こせたことに。妻と護衛。まるで同志のような不思議な関係だった。白百合の騎士は、多少なりともクインに情を持ってくれていたらしい……。
『頼んだわよ』
それだけを言った。命に換えてもと答える白百合の騎士に笑んで、クインは失神している夫の頬に口づけを落とした。きっと最後になるだろう接吻を。
「だからあんな男はやめておけと言ったんだ」
護衛がぶつぶつ言う。今にも敵が殺到してくるだろうに、呑気なものだった。お陰でクインも落ち着いていられる。そう、闇の帝王の孫を討たんとする連中を相手にできる。
いつかは露見する問題だったのだわ、とクインは胸中で呟く。闇の帝王の孫という出自が。それこそ帝王が一言告げるだけでいい。実際にそうして露見した。夫は知らぬ存ぜぬを貫いたが、入り込んだ間諜――分家の者に吐かされたのだ。
あとは火を見るよりも明らかで、リアイスが暴走し、ここに集おうとしている。夫もクインも、子どもたちも殺そうと。闇の帝王の血統を絶やそうと。
「言っておきますけどね」
鼻を鳴らす。
「リアイスのほうがよっぽど「あんな一族」よ」
「……一緒にしないでもらいたいな」
護衛はたいそう渋い顔だ。その昔、夫との結婚を反対したときも同じ顔をしていたのだろうか。とある夜、夫――当時は婚約者だったが――のもとへ行こうと廊下を歩いていると、声が聞こえてきたのだ。
今この状況で――ヴォルデモートに敗北したというのに――リアイスと結婚するのは自殺行為だ。お嬢さん、やめておいたほうがよろしい。お嬢さんならいくらでも良縁があるはずだ。
あんな男と結婚したら巻き添えで殺されるだろう荊の路だ等々。
誰よあなたと返し、すっこんでなさいと誰もいない場所を睨みつけた。両親にも反対され、父親を倒し、家を出て。親友のチョウにも反対されるし……でクインの堪忍袋の緒は短くなっていた。
――仕方がないじゃないの
俺と一緒になってもいいことはないだとか、あんたを不幸にしたくないだとか、俺はあんたが殺されようものなら気が狂うだとか、ああだこうだと言って結婚どころか婚約まで漕ぎ着くのにも苦労した。
自ら身を引こうとした夫の手をとったのは……むしろ掴んで引きずり寄せたのはクインのほうだ。好いていたのもあるが、犯してもいない罪のせいで、ただ望まれて生まれてきただけで、なんでこの人が業を背負う必要があるのかと腹が立った。
きっと夫の父も――シリウス・ブラックも似たような気持ちだったのだろう。無性に悔しくて、腹が立って、あって当然の幸福から背を向けようとする相手を引きずり寄せて、掴まえた。
息を吐く。涙のような雨は止まない。空を見れば、雲が薄く光っていた。ジェローム聖堂、その頂点には旗が翻っている。敵を呼び寄せるそれ。リアイスの紋『剣と蔓薔薇』の旗。そしてグリフィンドールの旗。
彼らは怒り狂うだろう。穢らわしい落とし子が、存在してはならない者が、誇り高き魔法騎士の旗を、グリフィンドールの旗を掲げるか。
馬鹿らしいったらない。なにが誇りだ。魔法騎士だ。血統で選別することを拒んだのがグリフィンドールだ。だというのに末裔のありさまときたら。
クインは小さく歌う。あれやこれや罠を仕掛け、あとは待つばかり。刻々とその時が近づく中、囁くように。
――闇のなかにまなざしが光っているような気がする
――おののきながらあなたはわたしを道づれに選んだのだった
前方に、影が現れる。
――わたしはそのつらい旅路をことほいだ
黒々とした染みが、形を露わにしていく。
――それほどにあなたの足どりとあなたの声音はわたしの心をうごかしたのだ
悪魔の群がやってきた。
肉の焦げる臭いがする。胸の悪くなるそれに、吐こうとしても吐けやしない。焼けるように熱いそれに抱きすくめられ、クインは小さく息を吐く。視界は閉ざされて、全身が炎になったようで。
ああきっと髪はもう残っていないだろう。かろうじて息があるのは護衛のお陰だ。クインを庇って、庇い抜いて息絶えた。かわいそうに、彼も酷い様だ。
――二人して
惨い有様だ。
もとより承知していた。無事では済まないと。身体をばらばらにされてないだけマシだろうか。
クインは喉を鳴らす。鳴らしたつもりになる。きっと馬鹿だと思われるだろう。損な結婚などしなくてよかったのにと。こんな末路になってと。幸せを捨てたのだと。
『別れてくれ』
今なら間に合う、と絞り出すように言った夫。あれはホグワーツでの戦いの後。傷だらけで、血塗れで、夫は泣いていた。膝を突き、顔をうつむけて。
『あんたを死なせたくない』
愛しているからこそ、と。
「……しあわせ、に」
掠れた声が出る。まるで老婆のような声。醜く惨めな声だった。
「すると」
私があなたを幸せにすると、言ったのに。一緒に幸せになりましょうと言ったのに。
震える彼の背を撫でて、囁いたのに。
幸福への路は閉ざされた。踏みにじられた。すべてはヴォルデモートのせい。リアイスのせい……。
闇の中に蘇るのは、紅の色。夫は呪われた眼だと気にしていたけれど、クインは綺麗な紅だと思っていた。もっと言ってあげればよかった。
今頃、星のように、小さな小さな紅が灯っているだろう。種火だ。時間は限られていたが、なるべく仕込んだ。
――滅びるべきだ
リアイスなんて。
きっと、夫がこの星火を業火にしてみせるだろう。クインは夫が戻ってくることを疑っていない。今この瞬間にも駆けつけているはず。
多少は討ち漏らしていても、業火がすべて灼き尽くす。夫はそうする。クインを愛しているから。入れても出れはしない封殺地となった『谷』で、リアイスは息絶える……。
酷い女だろうかクインは。だが、だが……夫が本気で復讐に走るためにはこれが必要だった。クインの惨い死が。どうせ二人の幸せは壊された。逃げたってリアイスは追ってくるし、ヴォルデモートだって追ってくる。ならばまとめて滅ぼすしかないではないか?
「ヴォルデモート」
喘ぐ。ひょう、と息が漏れる。
ヴォルデモート。人の幸せを壊し、世に血と涙を溢れさせている怪物め。
「お前は」
滅ぼされる。
惨たらしく死ぬだろう。
それがお前の代償だ。
『俺は、』
あんたの人生を、なにもかもを奪い取るだろう。
夫の声が蘇る。一緒に幸せになろうとしてできなかった人の、すすり泣きが。
『酷い男だよ俺は』
離さないといけないとわかっているのに。
『どうしても』
離せない。
「ウィス、」
夫の名を囁く。彼女が怪物にしてしまっただろう夫に告げた。
「わたし、先に、逝……けれ、ど」
愛している。
鐘が鳴る。鐘が鳴る。
一つの一族の終わりを告げる。
――闇の時代の幕開けを歌う
※作中詩は『ゲオルゲ詩集』より引用