なにかが擦れる音に、フラーは眼を上げた。整えられた貝殻の家。居間には楽しげな暖炉の火。柔らかな朱色があたりを染め、窓の外には庭と、暗い色の海が広がっている。それらを彩るのは白だ。すっかりいつものこととなった冬の日々と景色……のはずだった。
「どうかしたの」
テディ、と呼びかける。娘の恋人である彼は、日刊予言者新聞を握りしめ、椅子から立ち上がっていた。もしかしてお菓子が口に合わなかったのかしら、それとも紅茶が冷めていた? などという次元の話ではないようだった。テディ・ルーピンは行儀のよい子だ。三時のお茶に招かれて、不作法をする子ではないし、女の子に優しいし、ちょっと人たらしだ。どこかの誰かのように。
お茶の席にはフラーと夫、娘のビクトワールとその恋人のテディ。愛娘はちらと恋人であるテディを見つめ「ほっぺに口づけしたら正気に戻るかしら?」と唇を動かした。隣の夫からひりひりするような気配がする。
――もう諦めたら?
テディはいい子だよ? いい子だけどね。それはもう好かれるじゃないかだいたい美人に。かわいい娘の恋人としてはどうだろう……等々言っていた。まだ言っている。
あのね愛しい人、テディはちゃーんと育てられた子だし、私はいいと思うわよ。デラクールの血筋はけっこう好き勝手にするものなのよ、と何度言ったろう。
「テディ」
話を聞いてくれないならチューするわよ、とビクトワールが言えば、テディはびくりと震え、眼を瞬いた。握りしめた新聞が――号外だ――テーブルに落ちる。くしゃくしゃになったそれをビクトワールの手が豪快に広げる。フラーと夫のビルに似て美の神の恩寵を余すところなく受け取っているが、根は竹を割ったような性格なのだ。誰に似たのだろう。困ったことだわ……。
ビクトワールは沈黙した。
「……行ってきたらいいわよ」
「いや、あの」
「あなたの愛しの義兄様のところに」
「…………三時のお茶、が」
「気になっているんでしょう」
ビクトワールは軽く舌打ちする。立ち上がり、恋人の腕をぎゅーっと掴み、追い立てるように居間を行く。ややあって扉が開いて閉まった。優雅な足取りで娘が戻ってきた。恋人を蹴り出したらしい。
「なんなの」
「顔がいい男ってなんなの」
「いつもそうよ」
「ねえ私と義兄様どっちが大事なのふざけてんの」
ビクトワールはテーブルを……広げた号外を睨みつける。フラーは嘆息し、夫は天井を見上げた。
『ハリー・ポッターとウィスタ・リアイス。ヴォルデモートの娘を討つ』
「テディにとってウィスタは家族みたいなもので」
「ねえあの二人、できてたらどうしよう?」
夫が痙攣した。フラーは沈黙を守った。ねえかわいい私の娘、父親に「私の恋人と恋人の義兄(もはや父親では?)がそういう仲なの」と訊くのはどうかして……いや、ずれて……一周回って面白いけれど。
「ウィスタもテディも異性のほうが好きだと思うよ」
夫はできているどうこうから外れた回答をした。顔がよくて男らしくてなんでもできて最高の夫、さすがに動揺しているらしかった。
「でも、でもね。ウィスタ小父様は顔がいいじゃない」
「いや僕のほうが」
なにを張り合っているのか夫。
「優しいし」
「ねえビクトワール。僕のかわいい娘。頼むからテディにしておこう?」
無駄に張り合うし妙な回答をするところはウィーズリーねえとフラーは感心した。
「テディをとられたらどうしよう?」
この会話を彼の英雄が聞いたら紅茶を噴いてのたうち回りそうだ。珍妙な父娘の会話を聞くともなしに聞きながら紅茶を飲む。すると、こつんという音がした。雪が霰になったのかしらと思って窓を見てみれば、闇色のふくろうが金色の眼を光らせていた。
杖を振る。隔てを取り除かれ、ふくろうは音もなく入室する。滑るようにビクトワールの元へ行き、膝の上に手紙を落とした。ビクトワールは素早く手紙を開き……呻いた。
「そつがないわ……そつがなさすぎて」
腹が立つわ。
「読んでもいいかしら」
応えは差し出された手紙だった。眼を通し、フラーは苦笑する。
『そちらでうちの愚弟がお招きに預かったとか。だというのに途中で退席したと聞いた。せっかくの時間をぶちこわして申し訳ない。愚弟は叱っておくのでビクトワール嬢におかれては機嫌を直していただきたい。ついては愚弟を送り返すのでよろしく』
等々。急いで書いたのだろう。筆跡が乱れがちだ。ついでに言えば…………。
フラーは立ち上がる。外套を羽織り、帽子を身につけ、手袋をはめた。
「
察しのいい夫だ。
「そつのないウィスタは放っておくわ」
軽く眼を瞑る。できる英雄。手紙の筆跡は弱々しかった。きっと臥せっているのだろう。
だとすれば。
「私のかわいい妹のところへ」
行ってくるわね。
◆
百合や獅子、盾が隙間なく繊細に彫り込まれた門扉を杖で叩く。心得たように門が開き、邸の敷地内に入った。散歩気分で前庭を抜け、邸の大扉へと。これもまたひとりでに扉が開く。男がひとり、待ち受けていた。
「やあ久しぶりだね。相変わらず女神のように――」
「口説くのならあなたの奥さんを口説きなさいよ」
すらすらと紡がれた「挨拶」を切って捨てる。「相変わらず」軽い男であった。友人としては楽しいが、つきあいを続けるのはどうしようか……と迷っていた頃が懐かしい。
「ああそうだった。あなたってば最低な場所でプロポーズしたんだっけロジャー」
ちくちくといじってやる。フラーの妹に結婚を申し込んだのはいい。ロジャー・デイビースは悪くない男だ。が、やっぱり殺人現場でプロポーズはどうなのかと未だに思うのだ。いじり倒すのが楽しいだけだが。
「酷くない? 仕方ないだろうぽろっと言っちゃったんだから。僕だってロマンチックに海辺の――いやいや。僕は一生いじられるのか?」
そうですとも。
軽く笑い、
「案内してくださる?」
とロジャーを促した。
「――心配しすぎですよ」
妹――血のつながりはないが――は顔をしかめた。案内された寝室は整えられ、あたたかい。ロジャーはいそいそとフラーと妹ことエリュテイアに茶を運び、すっと去っていった。
「ロジャーが喜々としてあなたの世話を焼いているんだから」
相当だったんでしょう、今回の事件。
椅子に腰かけ、膝かけで足を覆い、フラーは薬草茶を口に含む。甘めに味付けしてあっておいしい。きっと子どもでも嫌がらずに飲むだろうそれに、ロジャーの甲斐甲斐しさを感じ取った。本人曰く「普通の家庭」で育ったロジャー。
――化け物だ
――まるで人形だと
言われたエリュテイアが心を開いた相手。ただの男だからよかったのだろう。フラーと別れて正解だったのだ、ロジャーは。互いに好感は持っていても、それが強固な結びつきになるとは限らない。つまりフラーとロジャーは友人――恋人止まりで、その先には進めなかった。フラーは恩寵を賜った身だけれど、それは呪いの一面も持っている。特に色恋関係では障害になりやすい……。
妖精混じりとか魔性の女とか、ふしだらな……とか陰口を叩かれていたフラーはそれなりの名家の家柄だった。かつては宮廷に仕えていたと聞いている。
ボーバトンでは不快な思いもした。羨望というより嫉妬。この異端めと向けられる眼。
孤高であるしかなかった。それか魅了するしかなかった。どちらにしてもフラーは……寂しかったのだ。
『あなたは誇り高い』
ボーバトンの花咲く庭園で、エリュテイアはそう言った。よってたかって囲まれて、心ない言葉を投げつけられたフラーを助けてくれた騎士。白百合の騎士。
妖精――ヴィーラ混じりを嫌悪することなく、自然に接してくれたものだ。
ヴィーラの祖母から受け継いだ力を、エリュテイアは肯定した。魅力的なのはあなたの罪ではないでしょう。それに、あなたは自分にも他人にも厳しい人だ……。
「ロジャーでよかったじゃない」
「あなたも真実の愛を見つけられてよかったですね」
昨今なかなか聞く機会のない言葉だ。妹はお疲れらしい。とても。とっても。
「私たち、色眼鏡で見てこない人が必要だったものね」
エリュテイアは愛だの恋だのを切り捨てているところがあった。ボーバトンの秀才。そつなく動く白百合の騎士。泣いている女の子がいればハンカチを差し出す人たらし。下級生にとびきり慕われている一方で、上級生からは恐れられていた。英国からやってきた得体の知れない魔女。下級生のくせにあまりに「できる」と。
フラーとエリュテイアが行動をともに――学年が離れているので常にとはいかなかったが――したのは自然な流れだった。二人は突き詰めれば、孤立していたのだ。
「あなたも魅了になびかない人を捕まえられてなにより」
「ロジャーも悪くなかったのよ。たまにぼうっとしてたけど」
それに、と呟く。
「セドリックも」
口にして、なんだか切ない気分になる。たまたま居合わせたばかりに殺されてしまった彼。フラーの魅了にちっともなびかなかった、心の強い彼。
セドリック、とエリュテイアが呟く。寝台に半身を起こした彼女は、小さく小さく息を吐いた。
「……どうか」
したの。
昔に亡くなった人を悼むにしては、エリュテイアの面に刷かれた感情は陰鬱で、生々しい痛みを帯びている。フラーだって彼を忘れたわけではない。今でもその死はひりひりとした痛みを思い起こさせる。代表選手で好敵手。華やかに幕を閉じるはずだった祭典の、終わり。同時にそれは、闇の時代の到来を告げた……。
「彼は、」
生きていてはいけなかったのでしょうか。こぼされた問いに眼を瞬かせる。もちろん、生きていてほしかった。だけれどもそれは終わったことで……取り返しがつかなくて。
取り返せなくて。そのはずなのに。
「彼は墜ちてしまったんです」
ここではない世界。違う時間ですら。
セドリック・ディゴリーは。
幸福を赦されなかった。
口を挟まずにエリュテイアの話を聞き、頭が痛くなってきた。ああなるほど逆転時計。時間のゆがみ。世界のひずみ。
「……不器用だったのよね、彼」
あえて過去系で話す。屈辱を味わい、挫折し、闇へ下ったセドリック。聞けば聞くほど信じがたい。だけれども心のどこかが囁いている。ありえることだ、と。
「ウィスタも転落か……」
妻を殺されてのことだ。無理もない。名家の重圧というものはフラーも多少なりともわかる。しかもウィスタは英国魔法界に名高い――世界での知名度もある――リアイスだ。妻という「半分」を喪った絶望はいかばかりか。
世界は正された。闇の時代はなかったことになった。大仕事だったろう。エリュテイアも「主」のウィスタも寝込むわけだ。
――仲がよかった
あの二人は。セドリックとウィスタは。兄と弟のようにも見えて、フラーはなんだか微笑ましかった。
きっと二人は殺し合ったろう。そして勝ったのはウィスタ。セドリックは、どこかウィスタに甘いところがあった。もしかして殺されてやったのかもしれない。
セドリックはそういう運命だったのだ、と切り捨てることなどできなかった。今でこそ名誉は回復されたけれど、あの事件当時なんてセドリックは事故死扱いだった。その死は不名誉なこととされた。彼にはなんの落ち度もないのに。
違う時間では闇に墜ちた。きっと苦しくて苦しくて、そうするしかできなかったのだろう。それを弱いと言っていいものか、フラーにはわからない。ただ、残念に思う。別の路を生きてくれればよかったのに。苦しんで、苦しんで、それでも闇へ下ることを選んだのはセドリック自身なのだ。
「……バカねって、私とクラムではり倒してやればよかった」
別の世界の私たち。三人の代表選手。クラムもセドリックのことを好いていた。親切なひとだと言って。
きっとはり倒すのが間に合わなかったか、止めきれなかったか。まったくふがいないではないか、フラー・デラクールは。
「仕方がないとは言わないけれど、終わったことなのよ」
セドリックの旅は終わったのよ。理不尽だけれど。尊い犠牲なんて美化しない。それはあまりに惨い話で、あまりによくある話だった。
生者にできることなんてたかが知れている。亡き人を悼むこと。生を楽しみ、情熱を燃やすこと。そして。
「世界はいくつも分岐するって学説もあるわ」
もしかして、セドリックが幸せに生きて、みんなも幸福な世界があるかもしれないじゃない。
それが夢だって幻だって。
祈り、願うのは自由よ。