ハリー・ポッターの息子なのに。そんな声が聞こえ、レグルスは本に落としていた視線を上げた。グリフィンドールの談話室は、クリスマス休暇ということもあって人はまばらだ。
発言したのは上級生の一人で、レグルスの兄セイリオスと同学年だった。
「三ヶ月見てわかったよ。あの子は落ちこぼれだね」
「しかもスリザリンだし」
くすくすと上級生たちが笑い合う。休暇で暇な中、異端児の話題は格好のネタなのだろう。
部屋に上がろうかと思ったが、談話室の暖かさは捨てがたい。ぐずぐずと迷っているうちに話は進む。
「ダンブルドア校長の名をもらっている割に」
「名前負け」
笑いがさざ波のように広がる。レグルスは眉間に皺を寄せた。何か言ってやろうか。
立ち上がりかけて唇を噛む。言ったところでなんになるだろう。ハリー・ポッターの息子があまり成績がふるわないのは事実だし、飛行術はダメだし、内気だ。兄のジェームズのように華もない。レグルスが庇ったところで問題はなにも解決しないのだ。
「スリザリンなんかに組分けされたから」
ため息を吐いて本を閉じた。グリフィンドールは騎士道精神を貴ぶ寮じゃなかったのか、と酷く残念だった。父親や一族の出身寮なのだ。期待していたのに。
「あの」
言葉を放つ。踏ん張って声を出したが微かに震えてしまった。
父や兄みたいに堂々とはいかないな、と感じる。レグルスは一年生で相手は上級生で。緊張してしまうのは仕方ないのかもしれないが。
上級生たちがこちらを見る。三対の眼が向けられるなか、言葉を紡いだ。
――しっかりと背筋を伸ばして
父の姿を思い浮かべる。リアイス一族本家当主《ランパント》。英雄の血を脈々と継ぎ、自らも英雄になった存在。
「スリザリンだからって、なんでそんなことが言えるんですか」
上級生の一人が鼻で笑う。その表情に腸がぐらぐらと煮立った。グリフィンドールに組分けされた割に、なんだこいつは。
「スリザリンは闇の魔法使いの――」
「俺の大叔父はスリザリン出身で、しかもブラック家の出です」
上級生の顔から笑みが消えた。レグルスを――ブラック家の血を引く魔法使いを凝視した。そうして思い浮かべたのだろう。レギュラス・ブラックの名を。スリザリンの名誉を回復した一人。その死が闇の帝王に逆らったからだと公にされ、死後十数年経ってマーリン勲章を授与された。
相手に言葉が染み込んでいくのを確認して、次の矢を放った。
「そして俺の祖母は……リアイスから出た初のスリザリン。そして闇祓いです」
にこりと微笑む。母が相手を牽制する時のように柔らかく。そしてどこか冷ややかに。
「確かにそうだな」
上級生が視線を逸らす。決まり悪げに呟いた。レグルスからなにを感じたのか、そそくさと寮を出ていく。残った面々の好奇の眼を意識しないようにして、ソファに身を沈めた。
お赦しください、大叔父さんお祖母ちゃん、と口のなかで呟く。くだらない話を止めるための出汁に使ってしまったことに、嫌な汗が滲んだ。
――アルバスがグリフィンドールに来ていれば
こんな陰口を叩かれずに済んだのに。なんでスリザリンに組分けされたのだろう。セブルスという名のせいか? そんなはずもないだろう。
アルバスにスリザリンの素質があったのは本当だろう。レグルスだって「どの寮でもやっていける」と組分け帽子に言われたのだ。レグルスの場合は獅子の血がいささか濃いとも言われたけれども。
「みんなポッター家からスリザリンが出てびっくりしてるだけさ」
自分を励まそうと言葉にする。そして再びため息を吐いた。
代々グリフィンドールの出身者を出してきたポッター家。時々レイブンクローやハッフルパフに組分けされた者もいただろうが、スリザリンはいなかったろう。その中で異端になってしまったアルバスの気持ちを考えると胸が塞ぎそうだった。
――祖母もそうだったんだろうか
考えても答えは見つからない。唸りながら寮の部屋へ戻った時『炎』が顕現した。紙片と包みが落ちてくる。数日前、兄から手紙をもらったばかりなのに――と考えながら、手紙を開く。崩れた字ですぐにわかった。父からだ。
『メリー・クリスマス。ホグワーツを満喫しているかと思う。プレゼントを贈るから、常に身に付けているように』
はてと首をかしげ、包みをほどいた。覗いたのは深い――黒に見えるほど深い紫色の、ローブだった。
じっと眼を凝らし、瞬いた。わずかな煌めきが混ざっている。
――魔法だ
刺繍がある。魔方陣。それに力ある古代語。あらゆる魔法文字が配されていた。これはきっと強い守りなのだと悟り、ぶるりと震えた。子どもに贈るものではない。警戒せよ、と父は言っているのだ。
――油断するな。身を守れ
父の声が聞こえた気がした。
◆
クリスマスが終わって数日。セイリオスが早めにホグワーツに戻ると言い、夫は頷いた。左右色違いの眼に陰を刷いて。クインも夫と同じく頷きながら、ため息を押し殺した。おそらく、懸念していることは一緒だろう。手元を離れることで、リアイスの庇護が届かなくなる。もちろん理事として赴き、学校に異変がないかどうか探るのだろうが、外の大人が見る世界と中の子どもたちが見る世界は異なる。異変に気づけるかどうか怪しいものだ。だからこそ、夫は不安に思っているのだろう。リアイスの魔女の消息が掴めない今、セイリオスとレグルスを守ってやれないことを。
荷物をまとめると言って、セイリオスが踵を返す。凛とした顔立ちは、年々夫に似てくる。立ち居振舞いはまさしく貴族として生まれ育った優雅さであったが。セイリオスはイリスの手を引いて、食堂を出ていった。
夫は息子と娘たちが消えた扉口を眺め、しばらくぼんやりしていた。エリュテイアが紅茶を淹れ、どこか心もとない仕草で茶器を持ち中身を飲む。クインは沈黙を守った。夫は明朗快活に思われるが、その実違う。情報を精査し、慎重に手を打つ男で、どちらかというとクインの出身寮であるレイブンクローの気質が強い。誰にも言ったことはないが、スリザリンにも通じるところもある。もちろんグリフィンドールらしい果敢さを持ち合わせ、リアイス本家当主としてふさわしい人物ではある。
――そういう風に振る舞ってきたのだ
誰よりもリアイスらしく。当主たらんとして。二十余年を駆け抜けてきた。闇の帝王の残党を狩り、禍根を絶ち、請われて闇祓いとして動き。ダンブルドアの遺言を受けてホグワーツの理事となり。復興に尽力。カリキュラムの改編。図書館や孤児院の設立、孤児の保護を進めて。第七分家が得意とする薬学研究にも噛み――とやってきたことを数え上げればきりがない。ほんの少しでも魔法界が良い方向に進んでいるのは間違いないと思いたい。夫のためにも。
「クイン」
不意に呼ばれ、夫に顔を向けた。
「ご婦人方は、アルバスのことをなんと?」
「くだらない男たちがなにか言ってるわ。やあねえってところかしら」
なるべくさらりと口にしたが、夫は一瞬固まった。ややあって苦く笑う。
「確かに、体面を気にするのは男かもしれないな……ご婦人方が深刻にしていないならいいが」
「スコーピウスの噂だってくだらない話だって言っているもの。アストリアが伏せっているのに不謹慎だわ」
アストリアの名前を口にした途端、胸が塞いだ。痩せ細ってしまった幼馴染み。アルバスがスリザリンに組分けされたお陰でスコーピウスに関する噂は少し落ち着いた。アストリアの負担は軽くなっただろう。呪いにゆっくりと蝕まれている中、それがどれほど力になるか分からないけれど。
「アルバスやスコーピウスが悪いわけじゃないからな」
夫が呟く。ちらりとクインを見て、気まずげに眼を逸らした。惚れ惚れするような深紅と群青の虹彩は、いささかくすんでしまっている。夫が『呪いの子』の噂を流したと察知した日、クインは夫に贈り物をしたのだ。寝室で、平手打ちという名の。夫ならば避けるくらい簡単だったはずだが、あえて避けずに潔く受けていた。自分のしたことを重々わかっているのだろうとクインは嘆いた。不器用にもほどがある。いいや、手段を選ばないにもほどがある。なんとしても矛先を逸らしたかったのだろう。夫の――夫の母親、リーン・リアイスの出生の秘密が漏れるのを恐れて。
夫は治療もせずに、頬の腫れをそのままにした。お陰で当主ご夫妻に亀裂が……とあちらこちらで噂されたが、放っておいた。夫とクインが本気で喧嘩をすれば、居室の一つは吹き飛んでいるだろう。平手打ちで済ませたのだからまだ妥協したのだ。あれでも。
数ヵ月前の回想から今に意識を戻し、夫に囁いた。
「大丈夫よ。あなたの言うご婦人方は、別の話に夢中だったから」
「どこかのバンドの若いやつが素敵、とか、かわいいとか?」
夫は気が抜けたのか、かなり適当な言を返した。張り詰め通しで疲れているのだろう。子どもの前ではおくびにも出さないだけで。
「エイモス・ディゴリーの姪が美人らしいってね」
ディゴリー、と夫が呟いた。その名は夫にとって特別だった。クインの親友にとっても。
「今は姪とやらが世話を? ディゴリーの系譜は絶えたかと……」
「エイモスさんの姉だか妹だかの子らしいわ。必要ならディゴリー家を残すこともできるでしょうね」
「で、その姪とやらがなんだって?」
「伯父の世話をしているよくできた娘。しかも美人でぜひうちのお嫁に……とか」
なるほどな、と口にして、夫は眼を瞑る。どこか訝しげでもあった。他家のこととはいえ、大抵の家系のことは頭に入っている。夫もクインも。だが、ディゴリーに姪がいただろうか。いてもなんらおかしくはないが――家系に誇りを持つあのエイモス・ディゴリーが、姪を養子にして系譜の断絶を防ごうとしなかったのが解せない。大体息子を亡くして傷心し、ディゴリー家の親族との交わりを断っていたのだと思っていた。
「そのうち会うかもしれないな……その子の名は?」
クインは皆が囁いていた名を思い起こした。確か――。
「デルフィーだそうよ」
事態が進行しないまま、冬が過ぎ夏が過ぎ秋となった。ウィスタの子どもたちは進級し、今年も紅色の特急に乗って旅立って行った。
「声明を出してくれ」
張り詰めた声に、ウィスタの明るい気分は吹き飛んだ。子どもの見送りを終え、本来ならば姿くらましでその場を後にしているはずなのだが。キングズ・クロス駅の混みあったホームの上で、ウィスタは嘆息した。父方の又従兄弟にあたる魔法使いと、これもまた親戚筋にあたり、なおかつ戦友である魔法使いをちらりと見る。ちょうど三角形を描くような形で向かいあっていて、間違ってもこれからランチ――という雰囲気ではない。ちらちらと視線が向けられているのは感じている。魔法法執行部長官と、マルフォイ家当主、リアイス一族の一人にして、闇の帝王を倒した英雄が揃えば誰だって注目するだろう。まったく嬉しくないことに、自分達は衆目を集めすぎるのだ。無言呪文を行使して、三人いっぺんに背景にとけ込ませる。同時に幻影を生み出した。何事かを語らいながら、ウィスタ、ハリー、マルフォイが姿くらましする様子を。
なんだ行ったのか、と誰かが呟く。あちこちからぽんぽんと音がして、魔法使いや魔女が消えていく。ウィスタは花咲か豆が弾ける音を思い出しながら辛抱強く待ち、ホームが空っぽになったのを確認して呪文を解除した。
「ところ構わずわめくんじゃねえよ」
マルフォイが鼻を鳴らす。くっきりと眉間に皺を刻み、ハリーを睨んだ。
「魔法省が逆転時計は全て破壊されたと宣言さえすれば――」
「否定すれば却って火がつくだろう。それほどやっきになっているということはやはり『ある』のだと」
「だからといって、のらりくらりと煙に巻くような真似はどうかと思うがな」
マルフォイの声に苦さが滲んでいる。双方を見守っていたウィスタは舌打ちを堪えるつもりが盛大にやらかした。チッ、というリアイス本家当主にあるまじき品のない音を立てて、睨み合う馬鹿どもの注意を引いた。
「逆転時計についてなにも知らんバカなんて放っておけ。心配しなくてもお前の息子はマルフォイの血統だよ」
闇の帝王の血が入ってるとは思えん、と付け加える。
「あることは証明できてもないことは証明できない。逆転時計については打つ手なしだ。息子だなんだというのは……」
ちらりとハリーを見て、肩をすくめた。
「衆目は英雄殿の息子殿に向いているようだし、あとはくだらん戯言を言わせないように、マルフォイ家の子息が実力行使でもなんでもするしかないな」
「悪魔かお前は」
マルフォイの顔が引きつった。
「まだ子どもだぞ」
ウィスタは眼を煌めかせ、淡々と返す。
「世間はそう見てくれはしないだろう。子どもだって戦わなければいけない時が来る――少なくとも俺はそうだった」
苦いものが込み上げる。まだ子どもだ。ウィスタの息子や娘も、友人たちの子も、マルフォイの子だって。平和な時代が続き、もう二十年にもなる。だが、いつまでも続くと限らない。陰りが見えている。
「子どもが子どもでいられればそれが一番だ。けれど……守って危険から遠ざけるのが……」
そこから先は言葉にならなかった。ただ首を振った。
「ホグワーツでのことは子どもの管轄だ」
そうして、マルフォイを見据えた。
「このあとお前の邸に寄るぞ」
アストリアを看たい、と言外に匂わせるとマルフォイは頷いた。
さっそく姿くらまししようとして、ハリーを振り返った。彼の息子が気にかかった。陰った眼をした子ども。昔のハリーというよりも――恐らくウィスタの幼年に似ている。あのままにしていてはまずいと直感が告げていた。
「アルバスについてまた話そ――」
ふ、と空気が動いた。鋭い声が飛んでくる。
「ウィスタ様」
話が聞こえない位置に陣取っていた従者が固い靴音を響かせ、やってきた。冷ややかな光が躍る灰緑の眸を見た瞬間、不吉な予感が胸を刺した。
彼女は折り畳んだ紙片を差し出してくる。半ば無意識に受け取り、開いた。飛び込んできた文字に息を詰める。
「マルフォイ、悪いが約束はなしだ。後日必ず訪ねる」
言うや否や、姿くらましを開始する。とりどりの光が渦巻く中、ウィスタの胸中は荒れ狂っていた。
――やってくれたな
報せはイルシオンからのもの。
『魔女発見』
『遺体に眼に見える損傷はなし』
一滴残らず血を抜き取られていることを除けば。
「賢者の石を研究するにあたって、私は血液に注目した。それはある記述に触れたからだ」
とつとつとフラメルが呟いた。蒸気が立ち込める中、彼の姿は滲み、かすんだ影として見えた。時折、首から提げた金属盤が炎を受けて煌いた。
「聖ヤヌアリウスの血に関するものだ。保存された彼の血は普段は固体だが、年に何度か液状化する、といわれている。そもそも血自体が魔法なのだ」
爆ぜる炎さえも息を潜めてしまうような、不思議な力が彼にはあった。手が留守になりかけるも、なんとか作業をしながら耳を傾けた。
「過去の偉大なる魔法使いの血を浴びた者の眼が癒えたなどという話もある。一角獣の血も強い力を持っていることは証明されている。あの血は人間にとって触れてはいけない禁忌であるが……古くの契約も血によってなされ、血の流れにそって継続される。魔法にとって非常に重要な要素だ」
段々と周りの気が逸れていくのがわかったが、リーンは逆に引き込まれた。フラメルの言葉の何かが、強烈にリーンを惹き付けてやまない。
「禁忌とされる術も血によってなされるが、またそれを破るのも血だ。血統による繋がりは強固であるが、断ち切る力ももっている」 『黄昏の輪舞』より
「相手の力を取り込む魔術……?」
ぞくりとしながら呟いたウィスタに、父は頷いた。影が、複雑な陰影を生み出し、彼の表情を読めなくした。
「古い時代の言い伝えでな。速き足を得たくば天馬を。高き魔力を得たくば一角獣を。強き身体を得たくば竜を。猛き心得たくばグリフィンを捕らえ食すべし。もちろん食えば死ぬがな。人間にとっては毒だ」 『虹彩の奥底』より
姿現しすると、秋風にコートの裾がはためいた。マグルの街の一画は、リアイスの手の者によって封鎖されている。見事なまでに人がおらず、誰もが無意識に避けていく。
「警察も散らせました」
待ち受けていた第三分家の魔女が一礼する。第三分家当主《シージャント》の実弟の子にあたる。父の名をルキフェル。ホグワーツを卒業して一年か二年の若手だ。
「省への連絡は」
「一報は入れております」
ウィスタは魔女の紫の眼を見つめ、付け加えた。
「しばらく介入させないよう」
「承知致しました」
魔女が軽やかに杖を振る。白い影が飛び出して、虚空へと消えていった。魔女の先導で現場へと辿り着く。そのとき、肩に慣れた重みが加わり、そちらを見た。漆黒の羽根、炎を思わせるゴールデンオレンジの眸を持つ鴉だった。
一歩、二歩と進めば、一族が《ランパント》の姿を認め、脇へ退いていく。路地の突き当たりでウィスタは足を止めた。片膝を突き、仰向けになった遺体を見つめた。魔女は痩せ、肌には血の気がなく、眼を見開いたまま事切れていた。
「助けてやれず、すまなかった」
囁き、唇を噛んだ。生きていればいいと思っていた。しかし、もう救えないだろうとも思っていた。行方不明になっておよそ一年。生存しているほうが奇跡だ。
――リアイス姓を持つから
この魔女は落命したのだ。闇の帝王がいない時代にも関わらず。
「丁重に弔うように」
クロード、と呼びかける。ウィスタを待ち続けていた筆頭分家当主は頷いた。薄い青の眼に憤怒の炎が躍っては消えている。己が庇護すべき一族を拐われ、殺害された怒りは察するに余りある。
「ランパント」
クロードの隣に立っていた魔法使いに呼ばれ、彼を見た。空色の眼を陰らせて第二分家当主《ステータント》――名をナイアードという――は言った。
「お越し頂いたところに申し訳ないが、この魔女については別の場所で」
「検死と検証をぬかりなくやらせてくれよ?」
それはもちろん、とクロードが返した。ウィスタは筆頭分家と第二分家の当主それぞれと視線を絡め、杖を振る。思い描く場所はゴドリックの谷だ。込み入った話をするには、ここは危険だった。
魔女の属する筆頭分家当主のみならず、第二分家当主まで出てきているのだ。ややこしい話に違いない。
◆
ランパント城の奥深く――《ランパント》の執務室に、三人の当主が集まった。ウィスタは肩に鴉を乗せたままだが、下ろすことは諦めた。大体この鴉は年を食っているし、ウィスタが知らないこともきっと知っている。口にしないだけで秘密も山のように持っているだろう。そんな相手を無理矢理動かそうと思うだけの余裕はない。時間の無駄だった。
従者が何重にも術をかけるのを見守りながら「それで?」と口火を切った。
「彼女は殺されていた。どうやら死体の損壊もあまりない。ついでに……」
ふ、と口をつぐむ。ウィスタの迷いを見透かしたように、クロードが言葉を続けた。
「暴行の痕もなかったわ。敵は快楽を満たすためでも支配欲を満たすためでもなく――手に入れたかったのよ」
「血を?」
「ええ」
クロードの表情に眼を凝らした。氷の仮面を被り、痛いほどの殺気を滲ませている。
――欲しかったのは
リアイスの血なのか。それともたまたま拐ったのがリアイスだっただけか。ほかの理由があるのか。そもそも一滴残らず血を抜き取ってなにがしたいのか。
「バーサ・ジョーキンズの事件を思い出すな」
二十年以上前の悪夢。一人の魔女が行方不明となり、血を一滴残らず抜き取られた遺体となって発見された。その血は闇の帝王の仮の肉体をつくるための材料となったのだ。
息を吐き、二人の当主を睨み付ける。
「あんたたちの予測を聞こう。なぜ彼女は拐われ、血を奪われた? 我らが誇る筆頭占者殿、錬金術師殿の見解が聞きたい」
クロードが眼を細める。感情が弾けて消え、苦痛を帯びた声が溢れ出た。
「敵が欲しかったのは、リアイスの血じゃない……先視の力を持つ血、時という神秘を宿した血よ」
どういうことだ、と口を開きかけ、ナイアードに制された。
「ランパント。逆転時計を生み出したのは誰か知ってるか?」
ゆっくりと首を振る。予感に瞬きすら忘れていた。ウィスタから視線を外さないまま、ナイアードが続けた。
「我々の先祖にあたる人物……筆頭分家と第二分家が作成したんだ」
「逆転時計やら神秘部へ噛んでいるとは聞いてたが、そこまでとはな――で? ステータント、その我々の先祖とやらは……どうやって逆転時計をつくったんだ」
ナイアードは「わかっているだろう」と言わんばかりに肩をすくめた。
「神秘の血と錬金術によって」
ウィスタは固く眼を瞑った。
「リアイスであったばかりに……先視の血をもっていたために」
彼女は殺されたのか。
ねえランパント、時間とはなにか考えたことがある? とクロードは問いかけてきた。本家の城の奥深く。ウィスタの執務室で。リアイス本家当主《ランパント》、筆頭分家当主《パッサント》、第二分家当主《ステータント》は向かい合っていた。紅茶から立ちのぼる湯気を眺め、ウィスタは視線を泳がせた。本来は紅茶を飲んでいる時間も惜しいが、三人には頭の中を整理する必要があった。そうでなければ判断を誤ってしまうだろう。それぞれ当主を務める身で、己の匙加減であらゆる物事が進むのだとわかっている。その影響力も。
ウィスタは眼を細め、クロードの顔を見つめた。どこかに答えが書いてないだろうかと思ったが、思うままに言うしかないようだった。
「物質として眼には見えない。変化する事象によって、時間はあるのだと認識しているだけだろう」
例えば天体の運行で。例えば植物の成長で。時間の流れを感じ取っているだけだ。
クロードは頷き、そっと息を吐く。薄青の眼が、紫紺の影をまとった。
「本来触れることができない神秘。それが時間という概念。生死と同じくね。けれど、時間を覗くことが赦された特権者が存在する」
「俺やあんたのように」
過去を視る者と未来を視る者は眼差しを交わし合った。クロードは続ける。
「ただ私たちは視るだけで干渉はできない。そうよね?」
確かにそうだった。ウィスタもクロードを時の彼方を覗き視ることしかできない。だが、時を飛び越えるだけでも難事なのだ。現在と時を隔たるほど、必要とする力も増える。
「干渉なんぞ万が一できても死ぬぞ。視るだけで下手したら死ぬのに」
その昔、千年ほど過去を視た時も大変だった。当代一の占者であるクロードはともかく、ウィスタは先達もおらず手探りで、幼年から訓練を受けたことがないのだからなおさらだった。過去視の最後の能力者はウィスタだけだ。
いいや、と頭の片隅で声がする。ウィスタとあと一人いてもおかしくないのだ。過去視を妨害した『敵』が。
沈黙し、顎をさする。クロードを促した。
「さて『視る者』はいても『干渉する者』はいない。これは明白……だからこそ逆転時計をつくったのか?」
「過去が変われば運命も変わる……」
堅く口を閉じていたナイアードが囁いた。
「数百年前、《パッサント》と《ステータント》は時に干渉し、運命を変えようとしたんだ」
ウィスタは眼を閉じた。今のレグルスと変わらぬ年だった頃、ある男の運命を変えた。その名はシリウス・ブラック。ウィスタの父だ。そのときはダンブルドアが過去改変に備えあれこれと仕掛けをしておいてくれたお陰で成功したのだ。それとも、過去の改変すらも運命だったのだろうか――と唇を噛む。結局は神秘部の戦いで父は殺されてしまった。
「自分の? それとも他人の?」
ナイアードは微笑んだ。
「愛する者の」
「死者を蘇らせることはできない。だから――」
言葉を切る。続きをクロードが引き継いだ。
「過去を書き換えることにしたの」
考えても実行しようとは思わないだろう。だが、強い思いと、試すだけの力と知識があったのだ。かつての《パッサント》と《ステータント》は。ウィスタの直系の先祖である《ランパント》はなにをしていたのだか。止めればよかったものを。
ともあれ、大方わかってきた。高度な魔法には媒介がつきものだ。たとえば宝石、たとえば金属、たとえば植物。たとえば――血。殊に血は強い力を持つ。
「視る者《パッサント》の血を封じ込めた時計。それが逆転時計の原型といえるものよ」
「――それで?」
ウィスタは冷ややかにクロードを見つめた。結果はどうなったのかと問いかける。先視はいくつかある中で最も可能性の高い未来を覗く。明確な魔法理論が存在しない分野であり、謎の多い分野でもあった。基本的に覗けるのは自分が生きている間の未来とされ、それ以上を補足できるのは飛び抜けた力を有する者だけだった。クロードのように。祖先のヘレナ・レイブンクローも該当する。
だが、未来――あるいは時間というものは眼に見えず、不安定なものと相場は決まっている。
クロードは肩をすくめた。
「魔法具に数百の術式を封じ――過去に遡ることはできた。『現在』に《ステータント》が残って碇の役目をしてくれたお陰で戻ってくることもできた」
そして死んだわ、とクロードが付け加えた。
「時の彼方を覗く能力があっても、負荷に耐えられなかった」
そうだろうな、と返した。自らの血を入れたものを魔法の核としたのだ。なんらかの影響はあってしかるべきだった。
「最初の逆転時計はあまりに強力で、その方法は自然と闇に葬られた。より安全な方法を模索して改良されていくのだけど……今は関係のない話ね」
「暇ならいくらでも聞くんだが」
「あいにくと我々には時間がない――と。いや、いつもか。なんて忙しいんだろう」
ナイアードが嘆く。ウィスタは首を振った。
「当主なんて一族の雑用係みたいなものだ。仕方ないだろう……つまり? 敵さんは先視の血を奪って使ったんだろう? 悪趣味だなまったく。一人分の血なんて結構な量だろう。何個か時計が作られたと考えてもいいか」
「逆転時計の製法は――つまり祖先が試みた方法は断片的にしか伝わっていないし、敵は独自に考えたのでしょうね。だからきっと試したかったのだと思う」
一年かけてじわじわとか、と呻く。生かしたままで少しずつ血を取り、つくってみた。成功したとは思えない。単に道具をそろえただけでできる代物でもないだろう。手近なところに『時を視る者』がいたので、それを捕らえて材料にすればいい――そう考えたに違いない。
「パッサント、先視たちに警戒を怠るなと伝えておけ。下手に材料にされたらかなわない。強力な逆転時計でもできてみろ、俺たちに勝ち目はなくなる……」
「ランパント、あなたも気をつけなさい。過去を視る者なのだから」
鼻を鳴らす。
「俺が気をつけたことがないとでも? だけど残念――学生のときからそんなもん無駄だって思ってるよ」