ウィスタは障壁を眸に映し、顔をしかめた。リアイス本家当主《ランパント》の眼は、強固であるはずの守りを裂く、見事な切り口を捉えていた。
墓に余人はいない。従者たちはついてこようとしたが、入り口で待機させている。数多くの墓標だけが、ウィスタを見守っていた。
ひとまず修復かと呟いて、杖を手のひらに当てる。鋭い痛みが走り、傷口から血が溢れ出た。
「……黄金のグリフィン、天舞う鷲、踊る穴熊、白銀の蛇」
紡ぎ出した詠唱が、魔力を帯びていく。ぽつ、ぽつ、と滴る血が紅に、青に、黄に、緑にと輝いた。
地に落ちた命の水が、光輝を纏い、魔法そのものとなって障壁を駆け上がる。眼を瞑り、最後の一文を唱えた。
「四家の血を捧げ、四つの意志を現出させん」
障壁の傷口が、速やかに繕われ塞がった。ウィスタはため息を吐く。実に二十数年ぶりに術を行使したが、疲労感が半端なものではなかった。以前と違い大規模な強化ではなく、一部の修復だというのに。
――年かね
思わずくつくつと喉を鳴らす。四十になろうかという年齢だ。若い頃よりも気力体力が衰えていても不思議ではない……。
ほぼ純血といっていい血筋であり、魔法族の長命な特質も強く継いでいるはずだ。であるから、まだまだ現役のはずなのだが。
障壁を撫でさすり、修復が完璧に成されていることを確認する。しかし、何者かに破られた以上、なるべく早いうちにリアイス八家当主を召集し、儀式を行う必要はある。数年内に……と考えていたからちょうどいい。
――だが
生徒がいなくなる時期でないと、儀式は難しい。ホグワーツにリアイスが深く関与していると喧伝もしたくなければ、リアイスが創設者の血筋であると広く知られるのも面倒だった。第一、学び舎に部外者が出入りし過ぎるのはよくないのだ。
これは後でマクゴナガルと相談だな、と問題を棚上げにする。少なくとも敵は目的を果たした。さっさと墓だけ荒らしてさようならしたわけだ。今すぐに危険が迫るとも思えない。
なるべく城の守りは固めたい。リアイスとしての務めでもある。少なくとも、一族はそのように主張するだろう。創設者の血と志を受け継ぐ正統なる末裔なのだから、と。
ウィスタとしては末裔がどうのはどうだっていいのだが、あまり学校が荒れると困る。なにせ子どもたちが通っているのだ。どちらかというと父親としてホグワーツのことは気がかりだ。
――それに
問題が起こりすぎると、理事としての仕事が一気に増える。恐ろしいことに。
呻き、顔をしかめた。火種を見つけて処理し、問題を事前に防ぎたい。ならば……一族の誰かをホグワーツの関係者として送り込むことも検討したほうがいいのかもしれない。
――ナイアードとか
「いや、ないな」
浮かんだ考えを即座に否定した。親愛なる第二分家当主殿は一族の重鎮だ。若い頃ならいざ知らず、ほいほいとホグワーツに出かけてもらっては困る。
――これも持ち帰りの課題だな
マクゴナガルや一族と協議すれば、いい考えも浮かぶだろう。学校に直接害がないとわかれば、ホグワーツに関しては放置できることだし。けれども、奪われたユスティヌの問題は別だ。なんとしても取り返さなくてはならない。
ウィスタは密やかに息を吐き、己の『眼』に力を込めた。
――時を
遡れ、と念じる。遙か昔の祖先から引き継いだ過去視の力が顕現し、双眸が燃えるような熱を帯びた。
障壁が裂ける――影が現れる……頭巾で顔はわからない。刺すような魔力。
眼を凝らす。背はウィスタより低いだろうか。体格は華奢に思えた……靴音は軽い。
――女か?
女に違いない、と強く思った。敵は障壁の傷を背に、墓へと向かう。立ち並ぶものの中では比較的新しい墓標。ウラニア・ユスティヌの下へと。
敵が杖を振れば、墓標は破壊され、暗い穴の中から柩が浮かび出た。きぃ……と蓋が開き、陰が一つ滑り出る。
――ユスティヌ
一族最後の一人。ヴォルデモートの娘であり……ウィスタの母の姉妹。ただ眠っているようにしか見えない娘。
やがて敵は去り、ウィスタは過去視を解いた。手がかりといえるものはない。どうやら敵は単独で障壁を破ったらしいことぐらいしか。
ウィスタは考え込みながら、破壊されたユスティヌの墓の前に陣取り、座り込んだ。
「お久しぶりね、獅子の子よ」
女の声に瞬いた。夜の闇の中――冴え冴えとした月光に照らされて、淡い影が浮いていた。月の精とやらがいれば、彼女のような姿形をしているのだろうか。ウィスタは立ち上がり、魔法騎士の礼をとった。
「ご挨拶にも伺わず失礼を。レディ」
「よくってよ。ウィスタ」
レイブンクロー寮のゴースト・灰色のレディはひらりと手を振った。ドレスの袖が優雅に流れる。
「夜の散歩ですか、レディ? 騎士の供はご入り用でしょうか」
「誰かを必要としているのは、あなたではなくって? 黄金のグリフィンよ。誰かに話せば考えはまとまるもの……」
束の間、言葉に詰まった。灰色のレディ――ウィスタの祖先でもある魔女をじっくりと眺める。
さてどれからいくか、と思案して、障壁へと眼を向け、レディに視線を戻した。
「ヘレナ」
レディの名を呼び、続ける。
「この千年……障壁がたった一人の手によって破壊されたことは? ごく一部だけ、あるいはすべてが」
「ないわ。敵がホグワーツを攻めようとするとき、必ず複数の者によって壊された……壊されそうになったものよ」
「もし――単独での行為だとするならば?」
「人の枠を越えた魔力の持ち主か――」
ヘレナの淡く輝く指が、ウィスタの心臓のある位置を示した。
「ホグワーツを創設した四つの血筋の……極めて正統な血筋の者だけ」
翌日、ウィスタは墓場にいた。昼間は理事の仕事や障壁の補修およびホグワーツの警備体制について話し合い、マクゴナガルの仕事も少し手伝い、夜になってやっと時間が取れた。昨日と同じく生徒の就寝時間も近い頃。あたりは静まり返り、ウィスタ一人だった。
ポケットから煙草を取り出し、火をつける。自分の手が小刻みにふるえていることに気づいたが無視して煙草をくわえた。紫煙で肺を満たし沈思する。
――ホグワーツを創設した四つの血筋の
「極めて正統な血筋の……者だけ……」
呟き、煙草を噛む。四家すべての血を引くウィスタが、当代で最も『正統なる血筋』であろう。創設者の意志を継ぐ末裔という観点で言えば、リアイス一族――リアイス姓を持つ者も該当すると言えるだろう。ただし、一族に障壁をわざわざ破壊して、侵入するような動機はない。正面から堂々と入り、墓場に行って墓を掘り返し、ユスティヌを奪えばいいだけだ。隠蔽さえすればユスティヌの柩が空だなんて何年も気づかれないだろう。少なくともウィスタならその手を打つ。
従者に命じ、一族の者が障壁破壊時にどこでなにをしていたか洗い出させている。ウィスタ自身一族の犯行とは思っていないが、万が一のこともある。念には念を入れるべきだった。
敵はどこの誰なのか。リアイス一族以外の正統性を持つ血筋……。ユスティヌは死んだ。過去視の魔法具はウィスタに引き継がれ、歴史書である『死の書』もまた同じ。もはやユスティヌ姓の者はこの世におらず、解釈によってはウィスタこそがユスティヌの後継とも言えた。ならばヴォルデモートが生きていたのか。それとも復活したのか……と思考は巡る。もう何度も何度も考えて、打ち消してきた推測を。推測ともいえない妄想を。
――もし生きていたならば
――もし蘇ったならば
「もし……がいたなら……」
紫煙を吐き出した。顔をしかめ煙草を放り、焼き尽くす。緋色がぱっと閃き、消えた。
次の煙草を取り出してくわえて火をつけた時、ウィスタは墓場の闇に視線を投げかけた。
「生徒が夜の散歩と洒落込むか……不良だな」
月明かりに、小さな影が輪郭を露わにする。ウィスタは緑と銀のネクタイを身につけた生徒をじっと見つめた。
――害はないと思って通したか
従者たちの判断は正解だ。できたら、適当に魔法でもかけて城に帰してくれればよかったのだが。
「そういうあなたは、学生時代散々校則を破っていたみたいじゃないですか」
「最近ボケが激しくてな。んなことあったの? こんなボケジジイと密会してないで早くお帰り、スコーピウス」
「僕の父と同じ年じゃないですか」
父ねえ、とスコーピウスを眺める。容姿はそっくりだ。眼だけがブラック家の灰色。だが――纏う雰囲気はどこか繊細そうで、柔く見えた。スコーピウスの父は、若い頃はそれはもう『クソッタレ野郎』だったので、息子にその傾向がないのは喜ばしいことだ。
――母親が病気じゃあな
高慢に振る舞おうにも振る舞えない。父親の――ドラコ・マルフォイの時代は、マルフォイ家は権勢を誇っていたものだ。マルフォイは両親ともに健在でかなり大切に育てられていたし、思い上がってもいた。学生時代、鼻っ柱をへし折ったり鰐だかなんだかの心臓を顔面にぶつけた過去が懐かしい。ともかくもそうしたくなるほどに嫌な奴ではあった。闇の帝王の時代を経験し、人間的に改心したのは良いことだ。
ウィスタは黙って煙草をふかし続けた。煙がスコーピウスの元にいかないように風を制御するのも忘れない。
「小父様」
「なんだ?」
「……あの遺体は……」
どうしたものか、とスコーピウスを眺めた。
「セイリオスかレグルスに訊け」
「あなたに訊けってレグルスに言われた」
あの野郎丸投げしたな、と煙草を噛む。紫煙を吐き出しがてらに答えを口にした。
「あれはユスティヌ家の魔女だ」
「あの『紫薇戦争』の?」
「魔法史じゃ、まだそのあたりは習わないはずだが……勉強家だな」
「歴史が好きで」
「なら話が早い。その有名なユスティヌだ。なぜか知らんが強奪された。今わかっていることは以上……用心だけしておけ」
「そういうことを言うのは、セイリオスやレグルスにじゃ」
煙草をくわえ直し、数秒スコーピウスを観察した。夜の闇に滑り出し、単身で墓場まで赴く度胸がありながら、どこか頼りなく見えた。
「俺の息子たちは『英雄の子』だから……よくないことに巻き込まれると? 自分は勘定に入らないと? お前は目撃者の一人なんだぞ。自覚を持て」
くっ、とスコーピウスが唇を噛んだ。光る眼で、ウィスタを見据える。
「だって僕は」
「死喰い人の息子……もしかしたら帝王の息子かもしれないから……誰も心配しないと?」
ゆっくりとスコーピウスが頷く。ウィスタは指を振った。
「お前の父や祖父が死喰い人だったことは事実だ。ただし、お前の父は誰も……誰一人として殺してないが。死喰い人としては三流もいいとこだ。ナルシッサさんの血かね。あれは……」
それで、と言葉を継ぐ。
「死喰い人に関しては処理が済んでいる。ドラコ・マルフォイは闇に与していたとはいえ、殺人やその他の罪は犯していなかった。ルシウス・マルフォイはアズカバンに投獄。ほかの大勢の死喰い人も処刑か監獄行きだった……」
「でも僕は……死喰い人の子だと言われる」
「気の毒だがな。世間はそんなもんだ。だからといって俺がお前を案じない理由にはならない。だってお前は、ただのホグワーツ生で、マルフォイ家の家名や、帝王の息子だとかいうアホなゴシップのせいであんまり楽しくない学生生活を送ってる。誰かの子だからってレッテル貼られてやってらんねえだろ」
一気に口にして、スコーピウスの反応を楽しんだ。彼は眼を白黒させてウィスタを見つめている。
「あなたも……そうだったの?」
肩をすくめて頷いた。
「あのリーン・リアイスの息子だの、あのアリアドネ・リアイスの孫だの、あのアシュタルテ・リアイスの曾孫だの……よりにもよってスリザンに組分けされたリーンの子だの……よりにもよってグリフィンドールに組分けされた、ブラック家の血を裏切る者の子だの……多方面から好き勝手に散々な評価を受けたな。人間、いたいけな子にだろうがなんでも言うもんだ」
いちいち傷ついていたかどうかも今となっては曖昧だ。勝手なもんだ世間ってやつはと、この年になっても思うものだけれど。
「少なくとも、死喰い人の息子という陰口は一生つきまとうかもしれない」
ゆっくりと、スコーピウスに言い聞かせる。数秒間をあけて囁いた。
「お前自身がそんな悪評をはねのけるか……逃げるか」
――逃げてもいい
かつて、父に言われたことを思い出す。いつだったか……あの短い年月の中で、一等星の名を持つ男は言ってくれたのだ。
――逃げてもいいと
言ってくれた者たちがいたから、ウィスタはここまで歩んで来れた。
「……そんなことが」
スコーピウスの眼が揺れる。
「できなくはないぞ」
煙草を放り投げ、燃やす。闇夜に光が散って消えていく。
「リアイスの……俺の養子になればな」
「え、は……はあ!?」
「おお、そんな顔もできるんだな」
くつくつと喉を鳴らす。
「お前を取り巻く噂を封じこめるのなんて簡単だって話だ。どうしようもなくなったら言いに来い。親父さんと話さなきゃならないが」
半ば本気の提案だった。スコーピウスは眼を細める。
「どうしてそこまで?」
いささか考え込み、一番しっくりきた回答を投げ返した。
「リアイスは、迷える魔法族のためにあるからな」
子どもたちに別れを告げることなく、早朝にホグワーツを発った。生徒は誰も起き出しておらず、静まりかえった城の中を従者とともに進む。玄関ホールから校庭へ滑り出そうとしたとき、真珠色の影が現れた。ウィスタは軽く一礼する。
「お早いことですね。ヘレナ」
「血肉ある者ならばおはようとでも言うべきかしら?」
祖先の一人であるヘレナ・レイブンクローはどこか悲しげに言った。自ら死を拒んだとはいえ、生者に交われないのは辛いのだろう。微かな哀れみを覚えたが、ウィスタは綺麗に感情を押し隠した。
「おはようと言わなければならない法などありませんよ――なにかご用ですか? ヘレナ」
「用がなければ会いに来てはいけないのかしら? 獅子の子よ」
苦笑が滲んだ。まるで妻のようなことを言う。この手の切り返しがウィスタは苦手だった。
「あなたならばいつでも歓迎ですよ」
本当かしら、と呟きながらヘレナはするすると近づいてくる。気をきかせたのか、従者の気配が遠ざかった。
「杖を」
ヘレナの一言で、なにを言わんとしているのか察した。緩やかに杖を振り、障壁を展開する。
「……時がねじ曲がるでしょう。お気をつけなさい……」
何かを『視た』のだなと直感し、居住まいを正した。ヘレナの淡い影は、神秘的な光を放っているように思えた。彼女の――ひいてはその母のロウェナ・レイブンクローに流れる時を視る者の血がウィスタにも流れているのだと思うと奇妙な気がした。そもそも千年前の祖先とこうして対話していること事態が異常なのだが。
「過去を視る者の俺に、なにができると?」
「――影を視ました……」
ヘレナの囁きに、墓場を渡る湿った風を想起し、身を強ばらせた。未来を予言する者は時には不祥を口にする……神話のアンドロメダのように。そして、不吉な予言ほどよく当たるのだ。
――俺は違う
何を告げられようとも受け止めよう。それが務めなのだから。
「――どのような」
沈黙が満ちる。ヘレナの眼がウィスタを射抜いた。整った形の唇が、吐息とともに言の葉を押し出す。
「深紅の眼……禍つ星の彩を持つ――ええきっと、あれはあの男でしょう……いずこかの『時』に出現するのです」
歯を食いしばる。認めたくなかった。だが――認めるしかないのだろう。ウィスタはヘレナの手を取った。ひやりとした感触。冷水を浴びせられたように全身が冷える。もはや朧な影でしかなく、地上を永遠にさまよう運命の女に告げた。
「当代の先視も似たようなことを申しておりました……ならば真なのでしょう」
じっとヘレナを見つめる。答えを探すように。
「やつが現れれば……俺が仕留める。何度でも。絶対に」
「あなたが本当に恐れているものは……やつそのものではないのですね」
「ではなんだと」
「分かっているでしょう。獅子の子。己の心を見つめる勇敢さがあなたにはあるはず」
「きっと母の方が勇敢でしたよ」
呟いて、眼を伏せる。諦めて思いを口にした。遙か遠くの祖先に向かって。
「悪徳の血が妻や子どもたちに災いを運べば……俺は……生きていられない……失うくらいなら死を選ぶ。だから、どんな未来も覆したい。それだけです」
ヘレナが微笑んだ。
「あなたの中に、リーンやシリウスの欠片を感じるわ。大丈夫。少なくとも、城にいる間はあなたの子どもたちは見ておいてあげましょう」
「感謝いたします」
魔法騎士の礼をとる。ヘレナは衣の裾を翻し、宙へ身をとかした。
「子を思う親の顔をしているのですもの。助けたくもなるわ……さあ行きなさい、獅子の子よ。天狼の子よ。また会いましょう」
真珠の影が消えていく。最後の一欠片が見えなくなった頃、ウィスタもまた踵を返した。
◆
深い闇の中、眼を瞑り頭を垂れる。
ホグワーツを去り、所用を済ませ帰還すると同時に地下に潜ったが、もはや何時間籠もっているか見当もつかない。ただ、ウィスタにはこの闇が必要だった。誰もいない静寂が。
私は正しかったのだろうか。どうかお許しください。どうか答えを……自分はリアイスを率いる器なのだろうか。そんな声が聞こえる。時の彼方の聲だ。本来ならば誰も聞く者はいなかったはずの。
――代々
迷ってきたのだ。己の正しさ。至らない自分。ランパントという地位。『あぁ、どうか』
貫くように声が響き、ウィスタは眼を開けた。漆黒に覆われていたはずの地下廟堂は明るく、祖先たちの白い像が立ち並んでいる。『誰』の過去だと眼をこらせば、白金の輝きがちらついた。
『お、赦しください……』
震える声音が哀れを誘う。まさか、と思った。ウィスタが伝聞で聞く『彼女』はこれほど弱々しい声を出さないはずだ。かつての《ランパント》、闇祓い局創設者――勇猛果敢な黄金のグリフィンであるはずの祖母が……打ちひしがれ、祖先達の前で懺悔しているとは。
正面に回り、俯いた祖母を見やる。間違いなく祖母だ。年の頃はウィスタよりも十ほど若いのだろうか。
『私は裏切りました。血に背きました……』
忌まわしき者と、肌を……と彼女は囁く。ウィスタは息を飲み、祖母を見下ろした。自分は偽りの物語の始まりを見ている。母や自分が生まれる原因となった偽りを。
『知らなかったのです。欺かれて、いたのです……なんということ……』
もし、この胎に子が宿っていれば。どうすれば……ミスラに知られれば。どうか宿らないで。どうかお願いだから。
掠れ、震える声に、ウィスタは痛みを感じた。
――宿らないでと願われた子
それが母なのか。誕生を喜ばれず、疎まれた呪いの子。そして憎まれた……。
――生まれてきたのは、子のせいではないというのに
強く思った瞬間、幻は消え去った。あとには闇だけが残る。ウィスタは再び片膝を突いた。
「……我々に脅威が迫っています」
とつとつと言葉を紡ぐ。《ランパント》でいる必要はない。ただただ思いを吐き出した。
「敵の影はあるものの、その主は分からないまま……最後のユスティヌが奪われてしまいました。なにもかも、曖昧模糊として……」
言葉を切る。
「一族の魔女が殺され……もし、子どもたちに害が……と思えば」
嫌な予感がする。そして、ウィスタの予感はあまり外れない。
セイリオスもレグルスも一人前の魔法使いとは言い難い。末の子であるイリスに至っては半人前ですらない。ウィスタは学生時代であろうがなんだろうが実戦をくぐり抜けてきたが、子どもたちは平和な時代に生まれ育ってきた。戦い慣れていなくて当然で、むしろそれでいいのだと思っていた。
再び立ち上がり、ある像のところへ歩み寄る。唇を噛み、杖を像の足下へ向けた。方陣が浮かび上がり、床が割れていく。ぽっかりと開いた空間に柩が二つ。描かれた紋は“双狼”“剣に蔓薔薇”“黄金のグリフィン”“天秤を咥えた獅子”。ウィスタは片方の柩を開け、中を見つめた。
「……ごめんな、親父」
呼びかけても、灰色の眼が自分を見ることはない。父――シリウス・ブラックは眠りについているのだから。
もう一つの柩を開く。横たわる年若い娘の姿に、瞼が震えた。随分前に、彼女の年は追い越してしまった。だからこそ思ってしまう。あまりにも早い、と。逝くのが早すぎたと。
父の組み合わされた指から、漆黒の杖を抜き取った。
「どうか……お守りください」
祈りを口にして、そっと柩を閉じる。床下の空間も閉じて、次の像へと向かった。同じ手順を繰り返し、柩を出現させる。描かれた紋は第七分家を示す紋に“剣に蔓薔薇”、“交差する剣と杖”。二つある柩の片方を開き、眠る死者を眺めた。
母を育てた男。ウィスタの公的な祖父にあたる人物だった。名をミスラ・リアイス。薬学に優れ、第七分家が主導する研究の中でも『脱狼薬』に没頭したといわれている。薬を改善し、一定の効用を付与した。その薬を一段階進め、さらに効果を高め、薬価を落としたのが母だった。
「あなたの……というより第七分家の研究は実を結びました」
ようやくと言えばいいのか。数年前、人狼の完全治療薬が完成した。開発者代表はウィスタということになっている。研究にも噛んでいたし、そもそもが莫大な資金を研究所に投下していた。この病の治療はリアイスにとって――特に第七分家にとっては悲願であった。
「母は立派な魔女でしたし、俺も恥じないような男でありたい……あなたは俺の祖父です。誰がなんといおうと」
だから、と続けた。
「どうか雛をお守りくださいますよう……」
そっと杖を引き抜く。杖材は糸杉、芯はグリフィンの羽根なのだと聞いている。高潔なる者が持つ定めにあるのだという。
元の通りに死者を眠らせ、ウィスタは二本の杖を持ったまま立ち尽くした。
「俺は守ってやれないから」
もし死者の魂がこの世に残っているなら、何度だって祈ろう。
どうか子どもたちをお守りください、と。