父が去ってからというもの、アルバスとスコーピウスへの嫌がらせは鳴りをひそめた。
――これで終わりとも思えないが
図書館の一画で、セイリオスは課題を仕上げていた。上級生ともなれば、授業の空きコマがある代わりに出される課題の量は増え、複雑だ。空きコマに遊んでいる暇はたいしてない。
手を動かしながらも、アルバスとスコーピウスのことを考える。今は平穏に過ごしているだろうが、そのうち嫌がらせが復活するだろう。「親に守ってもらわなきゃならないやつ」と思われてしまうに決まっている。父の牽制は一時的な措置に過ぎない。
自分もなるべく庇ってやろう。ただしさりげなく……と心に留める。グリフィンドール側にはセイリオスやレグルスがいるが、スリザリン側にはアルバスとスコーピウスの味方はいない。頭の痛い問題だ。
結局、外野がどう味方しようが本人たちの問題でしかないのだが。穏和しく堪え忍ぶかそれとも戦うか。子どもの喧嘩の域を越えたら、セイリオスも出張って相手を叩きのめすしかない。
――俺もたいがい暴力的だ
父の血だろうか、とげんなりした。名門の魔法使いですがという外面をしているが、父の根は騎士だ。向かってくる敵には容赦はしない。
ひとまず自衛のための悪戯グッズをあとで二人にこっそり渡そう……と決めた。レグルスに託しておけば、なんとかしてくれるだろう。
本当はスコーピウスだけなら守ることもできるのだが、どうせ父は考えついているだろう。あまりに酷ければマルフォイ家当主――つまりスコーピウスの父と話し合って実行しかねない。セイリオスとしては弟が一人増えるくらいなんてことない。
父にとって魔法使いを一人救うのなんて片手間なのだ。本当は対処すべきものがたくさんある。
――一族の『敵』とか
ユスティヌの魔女を奪った犯人。尋常ではない魔力で、勘でしかないが父と互角かいささか劣るかの力量だった。あの『敵』が突発的にわいてきた単独犯ならいいが、なんらかの手勢を抱えていれば厄介だ。
考え考え課題を進めていると、いつの間にか片づいていた。じっくりと羊皮紙を読み返し、これでよしと頷いて丁寧に丸める。あと何個課題があったかな……と指折り数えていると、レグルスの声がした。
立ち上がり、本棚の隙間から頭を出そうとしたところで、レグルスが手紙を片手にやって来た。
「誰からだ」
「親父」
フクロウで来た、と言う弟から手紙を受け取る。宛名はセイリオスとレグルス両方だった。さっそく開封し、一読する。
「なんて書いてた?」
「冬季休暇は戻ってこいと」
「イリスの顔が見たいから戻るつもりだったのに」
「念のためだろう」
手紙を畳んでポケットに突っ込む。休暇中の課題はランパント城の蔵書を漁ればなんとかなる。プレゼントの手配は帰る前に済ませておけばいい。帰らない理由はない。
鐘が鳴り、レグルスが「やっべえ」と叫んで走り出す。グリフィンドール二年生の授業は確か魔法薬学だったろうか。今から走っても十分の遅刻は確定だろう。グリフィンドール減点。レグルスのことだから授業で点数を挽回できるだろうが。本人にやる気があれば。自分の減点を取り戻そうとするほどしおらしい性格をしていないのだ。
去っていく背中を見送って、セイリオスは席に戻った。休暇のことは後回しだ。今は山積みの課題をなんとかしよう。
◆
「敵を認識」
「離脱を阻止」
吹き付ける風にも負けず届いた声に、ウィスタは眼を細めた。揺れる足場を踏みしめて、杖を構える。見据えるのは、小柄な影。制服を身につけて、踊るようにやってくる。
「降りようとする者は……」
「さあ席へ戻りなさい」
相変わらずぞっとしない光景だ、とウィスタは思う。なにせ、ここはホグワーツ特急の上。しかも走行中。つまりは揺れが激しい。立つのも苦労する中、よりにもよって社内販売魔女が歌いながら向かってくるのだから。
――下手なホラーより怖い
「悪いがいい子じゃないんでな」
言った途端、魔女の動きが早まった。片手が輝きを帯び、形を変える。長く鋭く――やがて鉤爪を成し、飛びかかってきた。狭い車上で、回避は至難の技だ。ウィスタは小さく呪文を唱え、障壁を織り上げた。固い隔ては魔女の鉤爪を防ぎ、火花を散らす。
――凶暴すぎるな
一歩後退すると同時に、三連撃が襲い来る。障壁に何条もの傷が刻まれ、やがて粉砕された。
「……破壊力も抜群」
仮にも闇の帝王と戦った『英雄』の魔法を、こうも簡単に砕いてしまうとは……といささか呆れた。昨年に魔女の機能を更新したのは誰だったか、と思い返しつつ、攻撃を避ける。だが、狭い車両の上のこと、逃げ場を失い、舌打ちする。強力な魔法をぶちかまし停止させよう、と杖を構えた次の瞬間、紅の光が魔女を打ち抜き、吹き飛ばした。ぱらぱらと足やら腕やらが飛び、固い音を立てて落ちた。
「後で修理が面倒なんだぞ」
ルキフェル、と名を呼んで振り返る。風に外套をはためかせ、金髪に紫の眼をした又従兄弟――第三分家の魔法使いがやってきた。軽やかに杖を仕舞い、にやりと笑う。
「腕が鈍ってるんじゃありません? ランパント」
「闇祓いの長に言われてもな」
昔のようにに戦いに飛び回ってるわけでもなし、と肩をすくめる。ちら、と魔女の残骸に眼をやった。魔法によって作成された精巧な傀儡は、第二分家の手によるものだ。マグル的に言ってしまえば人工知能を搭載したロボット。ホグワーツ特急の安全を守る保安員の役割を果たしている。かれこれ百数十年務めているご老体だ。定期的にこうして戦っているお陰で戦闘能力は衰えることなく、まだまだ現役だった。ただ、昨年戦闘を担当した従者のせいで、傀儡は能力を伸ばしてしまったらしい。こうなってしまえば死喰い人の二人や三人くらい倒せそうな勢いだ
さて、と気を取り直す。
「ご多忙なルキフェル殿がなんの用だ? アラディアの縁談でも持ってきたか。そうかそうか。気が早いな……。俺はどっちかというとイリスの旦那をお前のところから――」
「ランパント、大層お疲れなところ申し訳ないが」
ルキフェルが苦笑し、ウィスタに身を寄せた。
「――家が、逆転時計を持っている可能性がある」
「……闇祓いの出番は必要か?」
ウィスタは闇祓いの資格を有している。今でこそ出番は少なくなったが、若い頃はよく臨時の闇祓いとして各地を転戦していたものだった。出番かと暗に問いかけたが首を振られる。
「《ランパント》もウィスタ・リアイスも穏和しくしておいてくれ……。まだ可能性だ。これから証拠を集めていく段階だからね」
「適当に他の罪状で踏み込んで、逆転時計だけかっぱらって来てくれたら、俺は何も言わないさ」
「なかなか尻尾を掴ませてくれないからね」
数ヶ月は先の話だろう。そして、ルキフェルならば巧くやる。罪状に関しては魔法法執行部長官なんぞをやっているハリーが根回しするだろう。ウィスタに懸念はない。
「逆転時計……ね」
かつて魔法省に保管されていた逆転時計は、すべて破壊された。後に作成された痕跡もなく、またリアイス一族に依頼もなかった。だとすれば今回の標的になっている逆転時計は裏で作成されたものに違いないだろう。
「どうやって作られていることやら……」
口の中に苦いものがこみ上げるのを感じながら、ルキフェルの紫の眼を見つめた。
「――家の関係者は生け捕りに。俺の頼みはそれくらいだ」
承知しました《ランパント》と、ルキフェルは優雅に腰を折った。
冬期休暇がやってきて、セイリオスたちはゴドリックの谷に帰還した。城に着けば、玄関ホールで妹のイリスに出迎えられ、セイリオスとレグルスは、何ヶ月かぶりに会う妹と抱擁した。
「イリス、父上は?」
城のどこにも父の気配がない。さすがに冬期休暇くらいはいるかと思ったが、外れだったようだ。
「クリスマス前だってのに相変わらず忙しいのな」
レグルスが半ば呆れたように言って、セイリオスも同意する。さてはてどんな『お仕事』なのだか。
「キングズクロスのほうへ行くって言ってたけど」
思わず、イリスの深紅の双眸を見返した。父の片眼と同じ、燃えるような色彩に、セイリオスの姿が映り込む。
――キングズクロス?
ロンドンにある駅を、セイリオスたちは通過してきたのだ。迎えには第三分家のアラディアが来てくれた。曰く手が空いているから引き受けたと言っていたが――父にだって可能だったのではないか。
「キングズクロス……仕事か……」
ホグワーツ特急に関することか、キングズクロス駅に関することだろう。セイリオスたちに会わずにどこかに行ったのなら、きっとホグワーツ特急の整備をしているに違いない。父が出張る必要があるとも思えないが。帰ったら聞いてみようと頭に刻み、セイリオスはトランクに浮遊呪文をかけた。
◆
父は夜になって帰ってきた。顔には疲労が濃かったが、セイリオスたちの姿を認めると、鋭い双眸に安堵の色がよぎった。食堂には家族が揃っていて、父が座ったとたんに卓の上に夕食が現れた。
「休暇中はゆっくりしていけ」
「イースターも帰るかもしれませんが」
「俺はどちらでもいい、セイリオス。課題自体はホグワーツでもこっちでもできるだろうしな」
帰るにしろ残るにしろ、報せだけは送るようにと言われ、頷いた。
「父上、今日はキングズクロスへ行ったようですけど」
ちら、と父がセイリオスを見る。軽くため息を吐いた。
「悪いな。迎えに行くよりも大事な件があって。クインも今日は手が空かなかったし」
「いいよ。仕方ないじゃん。それよりどんな仕事だったんだ? 親父」
セイリオスがずばり訊きたかったことを、レグルスがさらりと問いかける。天真爛漫と言えばいいのか、はたまた無邪気と言えばいいのか迷うところだ。父は、ふと考え込むように眼を伏せて「ホグワーツ特急の防衛 強化だ」と口にした。
「そんなことまで、リアイスの仕事なのですか? てっきり整備だけかと」
「あれはマグルの工場から『借りて』きたもので、実のところ質はいいんだよ。魔法で改造してはいるけどな。整備自体は第二分家の領域だ……防衛機構はきっちりと組まなきゃならない」
「いつ襲われるか分からないから」
「それもある。お前たちの祖父母の代に一度襲撃があったらしくてな……」
父が遠い眼をする。セイリオスたちにとっての祖父母、父にとっての父母の話をする時、いつもこんな眼をするのだ。もう亡い影を追う眼差しを。
「あれこれと機能はあるんだが、お前たちが条件を満たさなければ知ることもないだろうな」
どこか心配げな眼で、なぜかレグルスを見ていた。
――悪戯をしでかさないだろうか
そんな懸念が伝わってくる。
「……それよりも」
父が指を鳴らす。細長い包みが卓上に現れた。
「少し早いがメリー・クリスマス」
イリスがわっと声を上げ、父に許可をもらって包みを開ける。セイリオスとレグルスも妹に倣った。
そっと包みを解き、露わになった箱を開ける。鎮座していたのはよく手入れのされた、艶やかな杖だった。
はっと眼を見開く。この杖には見覚えがあった。確か……。
「セイリオスには我が曾祖父の杖を。レグルスには我が母の杖を。イリスには我が祖父の杖をそれぞれ授けよう」
厳かに父は告げた。
「杖に恥じない使い手になりなさい」
何を考えておいでですか、と従者に問われしばらく考え込む。目の前には書類が山積みで、考え事をしている暇はあまりない。だが、そろそろ仕事も疲れてきた頃だ。ほんの少し他愛のない会話をするくらい、いいだろう。
「あいつらに子どもらしい贈り物をしたかったな……と思って」
「お子さまたちは喜んでおりましたよ?」
「俺の気持ちの問題だ」
本当は洒落ている魔法道具や、衣服や、好きそうな本を贈りたかった。だが、今年贈ったのは杖だ。
――念のためだ
強く言い聞かせる。何が起こるかわからないのだ子どもたちには杖が――戦うための武器は必要だ。ウィスタの末子・イリスに持たせるにはまだ早いかと思ったが、やはり持たせておいたほうがいいと思った。もしも何事かあった時、杖があるとないのとでは大違いだからだ。
「我が君。わざわざ亡き方たちの杖を選んだのは……何か理由が? 無論、使い古された杖には強い力が宿りますし、血族であればその力を引き出せる確率は高いですが」
先代様ならばともかく、先々代の婿様や、アシュタルテ翁の杖を出してきた時は驚きましたよ、と従者は言う。ウィスタの知り得ない知識どころか、お前は一体いつから生きているんだと思うほど、魔法に通じている従者の話には興味をそそられる。杖に関しては杖作りの領域だというのに。やはりウィスタの従者は謎めいている。どうせ訊いても答えてくれないのだが。
「――曾祖父様の遺言だよ」
曾祖父アシュタルテ・リアイス。アルバス・ダンブルドアの従兄弟であり、筆頭分家の当主を務め、時の本家当主《ランパント》と婚姻し、支え続けた。そして子のすべてを闇の帝王に殺され、孫のほとんども殺され――リアイス一族の最長老としてウィスタの後見となった。
どんな気持ちだったのだろう、と亡き人を思う。リアイスに仇なす者の血が本家に混ざったことをどう受け止めたのだろう。
――複雑だっただろう
曾祖父は秘密を抱えたまま死んだ。リアイスとリアイスの娘とされていた偽りの子を始末せず、後見となって見守った。そうして偽りの子――ウィスタの母が長じ、シリウス・ブラックと婚姻したいと伝えた時も一族の反発を抑えてみせた。ある筋の情報によれば『アシュタルテ翁は少し手助けしただけで、後はお嬢様が全部黙らせましたよ』らしいが。『私を《ランパント》の座につけた癖に、私の隣に立つ者に否を唱えるなんて。黄金のグリフィンの婚姻に知ったような口を利くな』とそれはもう静かに口にして、一族を沈黙させたそうだ。それを聞いた瞬間、ウィスタは負けたと思った。当主としての器量がウィスタとは段違いだ。さすがリアイスで生まれ育った生粋のリアイスだ……と。
そんな先代の後見を務めた曾祖父は、死の床で言い残した。
『私の杖は、埋葬せずに持っておけ。いつか……役に立つ……』
それは予言ですか、とウィスタは訊いた。曾祖父は数多くの占者を輩出してきた筆頭分家の直系。わずかにでも先視の力があるのかもしれないと思ったが、曾祖父は首を振った。
『ただの勘だ。私にはそちらの才能はない』
最も血が近いリアイスの肉親を喪い、ウィスタは心に虚ろなものを抱えたまま過ごした。数多くの教えを授けられ、リアイスにおいての親代わりとして頼っていた。ウィスタは何も知らない若造で、曾祖父がいなくなった時、言い知れない不安が忍び寄ってきたものだった。地下廟堂に頻繁にこもるようになったのも、この頃からだった。
子どもたちに杖を授けようと考えた瞬間、曾祖父の杖のことを思い出したのだ。そして亡き者たちの杖を三人に授けたのだ。彼らを守ってくれそうな、あるいは導きとなるような杖を――。
「……俺の杖は曰くつきだからな」
従者に聞こえないように呟く。そっと腰に手をやり、杖の柄を撫でた。ウィスタの二本目の杖の素材は、闇の帝王と同じイチィだ。しかも芯はバジリスクの鱗。まさしくスリザリンの血統そのもののような杖だった。このことは誰にも話していない。妻にさえも。ウィスタが死んだら処分するように遺言するつもりだった。闇の帝王を倒した『英雄』にはふさわしくないものなので。
「ウィスタ様」
従者の呼びかけに、物思いから覚めた。どうした、と言う間もなく白い封筒が差し出される。手にとってみれば、差出人はハリー・ポッターだ。
厄介事かと封を破いて眼を通し、顔をしかめた。
「エリュテイア。ハリーに返事を。明日そっちに行くってな」
いらっしゃい、とジニーに出迎えられ、ウィスタは土産の酒と菓子を差し出した。
「夜遅くに悪いな」
いいのよ、とジニーが首を振る。燃えるような赤毛に青い眼を持つ魔女は、年々モリー小母に似ている部分が目立つようになった。例えば話し方や仕草、愛情深い気質が。
――年を重ねるごとに
親に似てくるのだろうか、と思考を遊ばせながら、ウィスタはポッター家に踏み入った。子どもたちはもう寝ているのだろう。ジェームズの騒がしい声が聞こえない。嬉しげに微笑むリリーの声も。アルバスは訪ねても自室に引きこもっていることが多いのだが。
「ハリーはそろそろ降りてくるから」
玄関から廊下を進み、客室に至る。ソファにすとんと腰掛けて、ジニーを見上げた。
「アルバスはどうだ?」
「元気いっぱいというわけじゃないわね」
だろうな、と返す。ホグワーツで会った時のことを思い出した。スリザリンのネクタイをつけた『ポッター』。英雄の息子は暗い眼をしていた。ポッター家の子が必ずグリフィンドールに組分けされるわけではないのだが、周りはそんなことお構いなしに嫌がらせをしているのだろう。どうにも放っておけないのは、先代《ランパント》である母親を思い浮かべるからだろう。他人であるウィスタが出しゃばる問題ではないとわかっていても、つい気にかけてしまう。
「ウィスタ、アルバスの味方になってくれてありがとう」
「俺の自己満足だよ……たいしたこともできてないし。戦友の息子だ、気にもするさ」
それでもよ、とジニーは言いながらテーブルに酒瓶を置く。ごゆっくりと言い置いて、客室を出て行った。
いつの間にか出現していたグラスに酒を注いでいると、ハリーがやってきた。
「ちゃんと休み取ってるのか? 酷い顔だぞ」
「久しぶりに会うのにそれかい」
「鏡をちゃんと見るんだな。長官殿」
グラスを差し出すと、ハリーは一気に飲んだ。おいおいと思うものの、止めはしない。友人は酒に強い方だ。杯を置き、出し抜けにハリーが言う。
「君、省に入るつもりはない?」
「ねえよ。我が又従兄弟殿がいるからいいだろうが」
人手が足りないんだとハリーはぶつぶつ言う。心配せずとも魔法法執行部や闇祓い局はいつの時代も手が足りない。これでも戦争期に比べればマシになったほうだ。
「なんならネメシスを呼び戻して、お前は窓際に行ったらよ」
「あの人が素直に戻ると思う?」
ふ、と笑った。第六分家当主ネメシス・リアイスは元魔法法執行部長官だ。二代前にその座に就いていたが、後任のハーマイオニーが育ったとみるや、あっさりとその地位を譲って省を辞した。今は第六分家の当主として、一族の事業に力を入れている。
「戻りたければ省に乗り込んでどうにかするしな……」
そういう人物だ。ウィスタとハリーの親の世代の人間なので、どうにもやりにくい。物事をはっきり言うし非常に誇り高い。もし戻ってきてもらうなら、ハリーが直接交渉に行くしかないだろう。ルキフェルと違って。
「ぼちぼちリアイスの人材も育っているし、そのうち何人か省に行くだろう……」
先の戦で一族も損害を被っていた。二十年以上かけて、ようやく次世代も育ちつつある。ウィスタとしたら、省に行きたいなら勝手に行けばいいし、それぞれのやりたいことをやればいい。本家当主《ランパント》として、一族を縛るつもりもない。
「で、俺を呼びだした理由は?」
話題を変え、ハリーを見つめる。覇気の無い緑の眼がウィスタを見返して、すっと煙草を差し出してきた。
「ディゴリーさんから何度も連絡が来ていてね」
思わずくわえた煙草を強く噛んでしまう。ディゴリー。エイモス・ディゴリーのことだろう。今は聖オズワルド魔法老人ホームにいるはずだ。確か、姪とやらが付き人をしているんだったか……。
紫煙を吐き出して、続きを促す。
「ディゴリーさんがどうしたって?」
ハリーは顔を歪め、後頭部に手をやった。髪をくしゃくしゃにしてしまう。元からくしゃくしゃなのに大惨事だ。
「逆転時計だ」
セドリックを救って欲しいと言ってるんだ! とハリーは叫んだ。
セドリック・ディゴリー。ハッフルパフ生で、顔立ちは整っていて、親切な男だった。ウィスタはどこからともなく滲み出す感情を、紫煙とともに吐き出した。そう、親切だった。右も左もわからないホグワーツで、ウィスタはセドリックに助けられていた。
――今から思えば、彼に憧れていたのかもしれない
リアイス一族という名の重みを実感し始めた頃だったか。ゴドリック・グリフィンドールの末裔。魔法界を支えてきた魔法騎士の家系に君臨する者として生まれ、正直なところ戸惑っていたのだろう。目指すべき姿も分からずに、どこか右往左往していたのだと思う。先代《ランパント》――母の背を無意識に追いかけていたが、きっとセドリックの背も追いかけていたのだろうと思う。弱きに手を差し伸べ、勇敢だった……本来ならば、死ぬべきではなかった男。
「エイモスさんの気持ちも……分かるんだ」
自分で酒を注ぎつつ、ハリーはぼやく。緑の眼は陰っていて、ウィスタではなくグラスを見つめていた。
「子どもを亡くせばな。しかも殺されて……」
胸がざわつく。セドリックは不幸にもその場に居合わせただけの第三者だった。優勝杯を掴まなければ、今も生きていたかもしれない。優勝杯さえ掴まなければ……寿命は確実に延びていただろう。
「自分だって訳の分からない状況にいた癖に、俺やお前を案じて――」
喉が鳴る。軽い吐き気が込み上げた。セドリックを殺すように命じたのは闇の帝王――祖父にあたる男。自分にもその悪徳の血が流れているのだと、ことあるごとに思う。
「僕だって、子どもが死んでしまったら助けたいと思う。きっと思う……だけど」
「できないよな」
下手に過去を改変すれば、どんなことが起こるのか想像もつかない。ウィスタの父を助けた時は『鍵を開ける』『ヒッポグリフを連れ出す』の二つだけで綺麗に辻褄が合ってしまった。強引に介入する必要はなく、過去は書き換えられた。しかも――改変前の世界において、父は廃人にはなったが生きていた。魂を吸い取られてはいたものの、世界から消えていなかったのだ。ダンブルドアが過去改変を決意したのも、このあたりが原因だろう。きっと書き換えても世界に影響がないか計算し、実行したのだ……と言いたいが、案外あの爺さんは情に脆いところがあった。不遇な教え子をただ救いたかったのかもしれない。真相は今となっては藪の中だ。
「何年も経って――もう二十年以上か……落ち着いたと思っていたのに……このところ急に言い出して」
ハリーの呻きに頷いた。
「逆転時計の噂があったとしても……」
気が弱っているのだろうか。弱っているのだろう。心も身体も。もう長くないと思って、亡くした息子のことを思ったのかもしれない。
「あまり避けていても面倒になるだろ。どこかで時間を作ってホームを訪ねるか、招くかしないと爆発するんじゃないか」
「そりゃウィスタ、君が正しい。君はたいてい正しい」
「過大な評価をありがとう。ポッター殿」
言ってハリーに煙草を差し出す。細かな傷のある指が、煙草を摘んだ。
「正直避けたい」
「避ければ避けるほど、あっちは熱心になっていくぞ」
「本当に正論をどうも」
互いに顔を見合わせ、なぜだか笑いがこみ上げる。不毛な会話だ。やるべきことは決まっているのに。
「――とにかく、なるべく時間を作るようにして、なんとかエイモスさんと話すよ。ただまあ……逆転時計はないって言っても信じてくれるか分からないけど」
「証明しようがないしな」
短くなった煙草を、灰皿に押しつける。新しい一本に火をつけながら、眉間に皺を寄せた。
「厳密に言えば――どこかにあるだろうな」
「調べは進めているし、人員も動かしているよ」
「大変だねえ、魔法法執行部長官殿」
「ほんっと君は他人事だね」
「ある一点を除いて他人事だ」
片眼がじわりと熱くなる。燃えるような紅色に――禍つ星の色に輝いているだろう。
「逆転時計の素材によっては」
敵は必ず後悔するだろう。
◆
「――ああ。分かった……やっとか」
スマートフォンを耳に当て、呟きを返す。静かに通話を切り、眼を瞑る。ポケットに滑り込ませ、執務室に佇む従者を呼んだ。
「出かける」
「御意に」
季節は冬を越え春を過ぎ、夏になっていた。セイリオスとレグルスは『谷』に戻っている。仕事ならば同行させようかとも思ったが、この件は私用に近いものだった。
足早に廊下を進み、あちこちに仕掛けられた魔法の階段や扉をくぐり抜け、数分足らずで城を抜ける。従者と二人、杖を抜いてくるりと回転した。景色が飛び、竜の飾りが施された門の前へ着地する。杖を一振りすると、門柱へ巻き付いている竜が眼を開いた。
「マルフォイ。俺だ。開けてくれ」
竜はウィスタを見て、眼を閉じる。ゆるゆると門が開く。するりと身を滑り込ませると、静かに閉まった。ウィスタは庭園を眺める。常ならば色とりどりの花が咲く、マルフォイ家自慢の園は見る影もない。草花が枯れ、侘びしい姿をさらしている。
「――魔法が作用していない? いいや……」
言葉を濁したウィスタの後を、従者が引き取る。片膝を突き、折れた花に触れる。
「世話をしていないようですね」
「アストリアが好きだろうに……」
窓から庭園を眺めることが、アストリアの慰めだった。彼女の呪いは刻々と身を蝕み、弱らせ、散歩すら苦痛にさせていた。
――だが
その日々も終わるはずだった。早く知らせてやりたいと直接訪ねたというのに。
心臓が脈打つ。息を殺して、ウィスタは歩を進め玄関ホールに辿り着く。『谷』からマルフォイ邸へ跳んだ時の昂揚は跡形もなく失せていて、代わりに黒々とした予感がとぐろを巻いている。
邸の主の出迎えはなく、迷ったが、階段を上っていった。何度も訪ねた邸のこと、足は勝手にアストリアの室へ向かう。ゆっくりと扉を叩くと、細い隙間から薄青の眼が覗いた。
「……入ってくれ」
掠れた声に頷き返す。扉の内に入り、顔をしかめた。空気が澱んでいる。嗅ぎ慣れた臭いが臭覚を刺激する。冥府に下る者が発する香だ……。
「――今日、報せがあった」
一歩、二歩、と寝台へ近づく。だが、距離を縮めるにつれ、動きが鈍る。頭も手も足も痺れていく。見たくない。だが見なければならない。葛藤を抱えたまま、床に膝を突き、寝台に横たわるアストリアを覗き込んだ。
「適合する血が……見つかったと……そう、報せが――」
返事はなく、喘鳴が聞こえるばかり。枯れ木のようになり、呪いに食い尽くされようとしている魔女が横たわっていた。
唇を噛む。痛みとともに、血の味が広がった。
「俺は――遅かったんだな」
振り向く。マルフォイは片手で顔を覆い、苦痛に呻いた。
「なんとか……ならないのか」
震える問いかけに、ウィスタは頷きたかった。心から思い――しかし首を振った。
「移植に時間が……体力も――」
「魔法でも、か」
「お前もよく分かっているだろう。魔法は万能じゃない。移植を魔法でするにしろ……もう身体が保たない」
間に合わない。アストリアは早晩いなくなってしまう。手を尽くしたのだと言い訳をしても、この罪悪感は薄れないだろう。
――結局間に合わなかった
アストリアの手を握る。折れそうに細く、触れれば呪いが伝わり痺れた。ウィスタの封じもあまり効かなくなっているようだ。どれほどの苦痛だろうか。
「生ける屍の水薬を……ほんの少量……一滴でいい」
与えてやれ、と口にする。痛みと苦しみにまみれたまま、アストリアを死なせたくなかった。
「邪魔をした」
刺すような胸の痛みに気づかないふりをして、室を出る。扉が閉まり、廊下にうずくまる小さな影を見つけた。
「……母上は――」
ウィスタは、スコーピウスを見下ろした。こういう時、心優しい者ならどう言うのだろう。大丈夫だよと言ってやるのだろうか。奇跡は起こるのだと励ますのだろうか。だが、ウィスタは知っている。
――奇跡は起こらないからこそ奇跡なのだと
「アストリアについていてやりなさい」
無力な子どもはしゃくり上げる。頬を伝う涙を見た瞬間、痛感した。
――この子は
世界でただ一人の存在を、喪ってしまうのだと。
この独特の湿っぽさには、いつまで経っても慣れないな……とウィスタはため息を吐いた。マルフォイ邸の庭園は喪服を身につけた魔法使いと魔女たちで埋められている。スリザリン系純血名門マルフォイ家と結びついている家門の者たちだろう。縫い取り――家紋を見ればどこの家かは分かるものだ。
運ばれていく白い柩を眺めていると、あちらこちらから囁きが滑り込んできた。
――何故リアイスが
――ドラコとそれほど仲が?
――いいやあそこの奥方同士は幼なじみで……
――リアイスといえど半分は双狼……
苦笑が滲みかける。喪服の胸元に眼をやった。挿された家紋はリアイス家の『剣に蔓薔薇』とブラック家の『双狼』だ。ウィスタがグリフィンドール系名門筆頭の血と、スリザリン系名門筆頭の血を継ぐことを示している。ともかく、ウィスタは注目の的だった。
「……友人の葬式に出るだけでこれか」
「仕方ないわ。リアイスの人がマルフォイ家の葬儀に出るなんて珍しいでしょうから」
妻に諭すように言われ、頷いた。ウィスタはリアイス家の人間としてではなく一個人として動いているのだが――どうせ誰にも理解されないだろう。リアイス姓を持つとはそういうことで、ウィスタの行動の裏を誰もが読むのだ。たとえばマルフォイ家と親交を深め何かを得ようとしているのではないか……とか。
――助けられなかった
胸の底に渦巻いている無力感は、そう簡単に無くなりそうもない。アストリアはいなくなってしまった。呪いの進行を遅らせただけで、結局治療は間に合わなかった。あれほど生きたいと願っていたのに。
唇を引き結び、前を向く。嘆いても仕方ない。邪推したい者にはさせておけばいい。
「どうするのかしら……ドラコたち」
なんとかやっていくだろう、とは口にできなかった。マルフォイ親子は大切なものを喪ってしまった……。
「ナルシッサさんがいるから――」
支えてくれればいいが、と眼を伏せた。式の最中遠目に見たが、それなりの年齢であるし、心も弱っているようだ。ウィスタと眼が合ったが、すぐに逸らされた。何かに酷くおびえているような、そんな眼差しだった。
――あの人から夫を奪ったのは俺のせいでもあるし
本日二度目のため息を吐く。あの戦の後、あらゆる処理が必要だった。麻のように乱れた魔法省の再構築、闇の帝王の残党狩り、捕縛した死喰い人の処断――。
魔法省の要職に返り咲いたリアイス一族――中でも第六分家のネメシスは、苛烈とも思える裁きを下した。ウィスタはそれに異を唱えなかった。ただの学生であり公職に就いているわけでもない身だ。口を出せるはずもなかった。そして、あらゆる証言を求められ、一部を除いて包み隠さず明かした。
――そして
死喰い人たちは処断された。ある者は投獄され、ある者は処刑された。魔法法執行部長官・ネメシスの名は魔法界に轟いたのだ。
証言したことは間違いではないし、ネメシスの裁きは妥当だった。しかし……夫を、父を奪ったのは事実だ。ドラコ・マルフォイ及びナルシッサ・マルフォイはただの一人も殺していていないと断言し、彼らだけは守ることができたが。
ナルシッサがおびえるのも無理はないのだ。戦に敗れたスリザリン系名門の権威は失墜し、逆風にさらされ続けている。正義の旗を掲げるリアイスと相性は悪いだろう。
舌打ちする。ナルシッサのことは気にかかるが、今はやることが山積みだ。
「……クイン」
妻の藤色の眼が向けられるのを感じながら、言葉を続けた。
「呪術部門にガリオンぶち込むから、任せたいんだが」
片手を掴まれる。妻の方へ顔を向ければ、頷かれた。
「あなたって本当に私情で動くわね」
「金持ちのボンボンなもんで、やりたいことしかやりたくないんだよ」
特に自分の小遣い使うんならな、と片眼を瞑った。
誰が死のうがウィスタの多忙さに変わりはなかった。『谷』へ帰還すれば筆頭分家当主《パッサント》――クロードが訪ねてきていると告げられた。喪服を脱ぎ、服装を改め客間へ足を運ぶ。淡い色の髪と眼を持つ又従姉は優雅に紅茶を飲んでいた。
「逆転時計かほかの何かか?」
挨拶も抜きで切り出したウィスタに、クロードはくすりと笑った。片眉を上げると、首を振られる。
「いいえ……今の言い方、曾お祖父様にそっくりだったものだから」
「移ったかね……」
眼を細めて曾祖父を思い出す。魔法騎士らしい魔法騎士。まさしく世が理想とするリアイスであり、英雄。
――しかし
彼にも瑕はあった。娘の罪を隠し、欺いて死んだ。
こみ上げる感情を呑み下し、着座する。クロードの青灰の眸を見つめた。
「逆転時計に関してではないの……少し、視てしまって」
続きを、と眼で促す。クロードは一つ頷いた。
「イリスの杖選びを」
「そんなことまで視えるのか? 先視の魔女殿」
「元々、一族に関わることのほうが視えやすいから。ともかく、私が視たことを話すわね。場所はランパント城で、どうやらあなたは杖作りを呼び寄せていたわ……。イリスが選んだ杖は――」
クロードが視線を泳がせる。
「……杖材はセコイアだったわ。確か。芯までは分からなかった」
「ありがとう。先視殿の仰せだし、オリバンダーにはご足労願おうかね」
娘の杖ねえ、と呟く。ダイアゴン横丁で学用品を揃えようかと思ったが、こうなれば話は別だ。
オリバンダーに手紙を、と言う前に従者が出て行った。代筆を済ませ確認しに戻ってくるまで数分といったところか。付き合いは二十年以上にもなるが、本当に得難い従者だ。いささか主命なところが玉に瑕だが。
時が経つのは早いものだ、と柄にもなく思い、娘を思い浮かべた。ウィスタの片眼を受け継いだ娘……禍つ星の色彩を持つ者……。今年ホグワーツに旅立つのだ。ウィスタの手元を離れて。
「心配でたまらないという顔だわ」
「末だからな。最近物騒だし」
「リエーフを呼び寄せては」
「ギリギリになるまでは控えるよ」
だいたい今はと呟いて、指を組む。
「波紋ばかり現れては消え……だからな」
そろそろ全軍揃えてお出まし願いたいもんだ、と締め括った。
陽が差し込む客間で、娘の小さな手が杖を掴む。
「樹はセコイア。芯は角水蛇でございます」
オリバンダーが恭しく言うと同時に、娘が杖を振り上げる。淀みのない優雅な仕草だった。ウィスタは強い魔法の気配を感じ取り、瞬いた。すぅ、と室が冷え、わずかに暗くなる。雨が室を濡らしやがて止んだ。
娘が振り向く、燃えるような色の眼が、喜びに輝いていた。
「……おめでとう、イリス」
ありがとう父様と、娘が返す。
――水の性か
次男・レグルスもそうだった。樹は林檎、芯は竜の鱗だ。杖を振った時、イリスと同じように霧のような雨が降ったものだ。長男・セイリオスの場合は樹はハシバミ、芯は竜の心臓の琴線だった。この竜とやらは火竜であったようなので、あながち水の性……というわけではない。だが、ウィスタの三人の子はどうにも鱗類と縁が深いのは確かだった。
血だな、と呟きながら、嬉しげに杖を持っている娘を見やる。黒髪の――ウィスタの母によく似た娘。眸は呪われた血統を示す紅色。ふと考えてしまう。《ランパント》の位を誰かに譲り、誰とも子を成すことなく静かに暮らすこともできただろう。一族は混乱しただろうが、きっとできなくはなかった……。
だが、ウィスタはそれを選ばなかった。《ランパント》として位に在り続け、三人の子を成した。
――呪いの血を残すのだと分かっていながら
『躊躇うのは仕方ないかもしれない』
思い出すのは闇の中で輝く藤色の眼。灼熱を宿した声だった。
『呪いの血だからといって……あなたはどこまで縛られなければいけないの』
諦めてしまうの、と問われ感情が乱れた。乱れに乱れ――身を重ねたのだった。
若かったし、と口中で呟く。呪いの血はともかくとしてウィスタは家族が欲しかったのだ。まさか勢いで三人もつくるとは思わなかったが。ああ本当に若かった……。
オリバンダーと楽しげに話している娘を眺め、ため息を吐く。
――俺は違う
娘を道具扱いするような男でもない。疎んじて殺そうとした女でもない。
「子どもたちに平穏を……ゴドリック」
遙か昔に世を去った、偉大な魔法使いに祈りを捧げた。
イリスの杖選びを終えた数日後、ルキフェルから報せがあった。急いで魔法省――厳重に守りが固められた執務室に赴くと、ハーマイオニー、ルキフェル、ハリー、ナイアード、クロードが揃っていた。壁一面が本棚になっている室に声が響く。
「出所はセオドール・ノットだ」
ルキフェルが言い、ひらりと手を振った。流れる袖の先に銀色の逆転時計が鎮座している。
「お勤めご苦労さん。魔法法執行部長官殿、闇祓い局局長殿」
軽く口にし、机ににじり寄る。呪いの類は何もない。出来のいい逆転時計だとナイアードが保証した。ウィスタは逆転時計に触れる。
「中を見ても?」
問えば、全員が頷いた。杖で逆転時計を叩けば、いくつもの切れ込みが生じ、いくつもの部品となって展開する。硬い音を立てて、紅玉が一つ転がり出た。血を思わせる色――いいやこれは――。
「血……だな」
「私が確かめるわ」
クロードが進み出る。険しい顔で、宝玉を睨んだ。杖を向ければ、紅の塊は見る見るうちに姿を溶かし、鉄錆の臭いが満ちていく。机は紅に覆われ、ぽたりぽたりと滴が落ちた。クロードはためらい無く広がった血に触れる。苦痛が白い顔に滲んでいった。
「あぁ……やはり……やはり……この血は」
震える声に眼を伏せた。
「セオドール・ノットにあらゆることを吐かせるようにお願い申しあげる」
魔法省高官の位にある三人に告げれば、ルキフェルはにこりとした。
「もちろんだとも……僕のあらゆる権限を使い、彼には後悔してもらわなければ」
ハリーが首を振る。
「せめて法のぎりぎりの範囲でやってくださいよ」
「どのみち製法その他を明らかにしなくちゃ駄目だし。ルキフェルに任せるわ」
「ひとまずこの逆転時計は、リアイス預かりで構わないな? 解析はこちらのほうが得意だろう。ナイアード、頼む」
「承知した。筆頭分家とともに調べを進めよう」
ナイアードが、震えるクロードの背を叩き、逆転時計を手に取った。ウィスタは両眼の熱を抑えようと、杖を強く握った。怒りが体中を駆けめぐっている。
敵は一族を殺し、その血を魔法具の材料にした。これをもって罪は確定した。
――死あるのみ
光っているように思える、と眼を細める。壁に、床に――鉄格子。あらゆるものが。
ウィスタは壁に触れる。びっしりと刻まれた古代語から熱が伝わってきた。
「ウィスタ様……」
壁から視線を引きはがし、前を見やる。闇色の衣を纏い、すっぽりと頭巾を被った看守がこちらを窺っていた。
「すまない。案内を頼む」
看守が一礼し、歩を進める。ウィスタは後を追った。アズカバン、ヌルメンガードと並ぶ大監獄『九つの塔』の守りは堅固だ。ありとあらゆる魔法がかかっていることは間違いなく、看守も精鋭揃い。前を行く案内役もその一人だ。リアイス一族第五分家・クーシャントに属しており、彼ら第五分家は主に番人としての役目を持っている。各監獄は彼らの管轄だった。
背後で従者が警戒しているのを感じつつ、ウィスタはしばらく歩を進めた。五分か十分か……それくらいの時間が経った頃、看守が足を止めた。
「こちらです」
看守が杖を掲げる。明かりが暗い通路を照らし出し、並ぶ鉄格子の一つ――その奥まで露わにした。
「ウィスタ・ブラック=リアイスじゃないか」
囚人が声を上げる。鎖で手足を拘束され、瞬いていた。ウィスタは肩をすくめた。
「そうとも。ブラック=リアイス家のウィスタが来てやったぞ。セオドール・ノット。同窓とこんな再会をするなんて残念だ」
「いやはや僕もだよ」
ノットの甲高い笑声が幾重にも木霊する。
「天下に名高い英雄殿がどんな御用で? まさか旧交を温めに来たわけじゃありますまい」
「お前のコレクションについて知りたくてな」
ウィスタは懐から煙草を取り出して火をつけた。紫煙がくゆり、ノットの方へゆらゆらと流れていく。ノットの眼が煙草へと吸い寄せられ、かすかに喉が鳴った。
「強盗どもが残らず調べているだろう?」
「もちろん」
ふう、と紫煙を吐き出す。ノットはきつい表情で紫煙を眼で追う。監獄に入れられて一週間余り、世俗のものが恋しいらしい。欠片も同情はしないが。
「直接訊きたいんだよ。俺は。待ちくたびれてな」
背後の看守を振り向く。意を察したのか看守は唇を噛んだ。
「ウィスタ様、しかし……」
「この徽章が見えないか」
胸元を示す。闇祓いでも高位にある者を示す紋だった。看守は深くため息を吐いて、杖を振る。音もなく鉄格子が開き、ウィスタは身を滑り込ませた。ゆっくりと杖を引き抜き、ノットへ突きつける。
「あらゆる尋問にも屈しなかったらしいな。だがお前は――考えるべきだった。どこの、誰の一族に……手を出したのかをな」
「僕は知らなかった。……あの魔女が……大体、僕は……逆転時計の素材なんて! 知るわけがない!! 預かっただけだ!!」
「誰から」
ノットの顔が歪む。ウィスタの両眼を見つめ――震え始める。
「駄目だ。あのお方の……言ってしまえば――」
酷い怯えようだ、と無感動に思う。禍つ星の色がそれほどに恐ろしいか。そうして、今ならば扉を開けるかもしれない……と直感した。ノットはあらゆる尋問に耐えた。ルキフェル手ずからの開心術も無駄であった。薬を試そうともしたらしいが、盛ったら死ぬとノットは宣言した。
ウィスタは低く呪文を唱え、ノットの顔が引きつった。
「やめろ……やめてくれ……心を開かれたら――」
「――開心」
呪文が終わり、ノットが絶叫する。心の防壁が脆くも崩れ去り、どっと感情が流れ込んできた。冷えた恐怖。恐れ……そうして過去の欠片が見え始める。
いくつもの影、銀色の逆転時計、白い杖。
――燃えるような紅い……
その瞬間、熱い痛みがウィスタを襲う。現実に引き戻され、ふらついた。ウィスタ様、と声がして、従者が身を支える。鉄錆の臭いがあたりに満ちている。どこからか、滴が落ちているようだ。瞬く。熱を持つ片腕を押さえながら――ノットがいた場所を見た。
生首と、肉片、夥しい血が残るのみだった。返り血で身を濡らし、ウィスタは眼を瞑った。呪いだろう。ある程度まで知られそうになれば、こうなるように仕込まれていたのだろう……。
「御身が……」
従者が清めの呪文を唱えようとするのを制す。宙に炎が現れ、紙片を落とした。ひらりと舞うそれを掴み取り、文面に眼を通す。煙草を強く噛んだ。
「ノット家――全滅」
死亡時刻はセオドール・ノットと同じ。連動型の呪いだろう。ノット家は見せしめとなったのだ。
「……まったく、厄介な敵だ」
吐息とともに、ゆうるりと紫煙が流れた。
従者がウィスタの身を清め、傷の手当てをした。慌ただしく走り回る看守たちに後は任せ、牢を出る。
歩くたびに右腕が脈打つように痛むが、泣き言を口にしても始まらない。事態は動いている。死ぬような傷でもないので、ランパント城に戻ってから本格的な手当を受けるか、途中で第七分家に立ち寄ってエルセにでも看てもらえばいい。
「ルキフェルに報せは」
「既に……追ってルキフェル様ご本人か、配下の者がやって来るでしょう。加えて、私の手の者で呪いに明るい者を派遣する手はずを整えました」
冷えた通路を進みながら、早口で従者が続ける。灰緑の眼には憂いが深かった。
「手がかりが……消えましたね」
「ノットは仕方がない。恐らく真実薬を飲ませたところで、同じ結末だっただろう」
鉛を飲み込んだような心地だ。ノット一人を消せばよかっただけのはず。妻子を始末したところで益はなかっただろう。脅しとしては効果的だが――『本当に』仕掛けるとは。
考え込みながら足を速める。ただの時間稼ぎに過ぎないとわかっていたはずだ。いずれ誰かがノットの内面をのぞき込み、暴いただろう。今回はウィスタが成功させただけのことだ。筆頭分家の魔女を始末し、時を視る者の血で何を為そうと――作ろうとしているか、悟られることも分かっていたはずだ。
「エリュテイア」
なんでしょうか、と従者が顔を向けてくる。
「牢に残ったノットの血、消さずに回収するように伝えてくれ」
返事は杖の一振りだった。彼女は、静かに告げた。
「せめてお帰りになって、一休みしてからお願い致しますね」
どうやら何をするのかお見通しらしい。苦笑し、分かっていると応えた時、塔の出口に差し掛かった。
塔を出ると、待機していたアラディアが顔を上げた。父親譲りの紫の眼を細め険しいものを滲ませた。
「一体何事が? ランパント」
中の騒然とした空気を感じ取っていたらしい。ウィスタは肩をすくめ、アラディアを促す。年若い娘は素直に従った。父親であるルキフェルからウィスタの護衛としてつくように言われているらしい。その前から、自主的に護衛をしてくれてはいるのだが。実際のところ、従者一人と第四分家の若作りの爺がいれば守りは堅い。だが、アラディアの護衛を退ける気はなかった。分家との繋がりは保っていたかったし、ルキフェルの厚意を無碍にするのも嫌だった。
――それに
アラディアを見ているとなぜだかトンクスを思い出す。顔立ちもなにもかも違うというのに。きっと闇祓い志望で、昔のトンクスと同じ年頃だからだろう。トンクスが生きていればルキフェルになんて言うだろうか。闇祓いを志しているのだから黙って応援しろとでも言うのか。それとも、あなたは正しいと言うのか。永遠に分からない、虚しい妄想だ。
ため息の代わりに言葉を放つ。
「ノットが死んでな。事情はおいおい話そう」
杖を片手に敷地を突っ切る。隣を静かに歩くアラディアを眺めた。
どうせならウィスタの護衛としてではなく、ホグワーツに教師として送り込みたい人物だ。だがそれはできない相談だ。危険な匂いがするとはいえ、今の時代は平和だ。そんな中でランパントの候補のために、分家の人間を派遣する道理はない。昔、ウィスタが《ランパント》となる前に自由奔放な第二分家当主殿――又従兄弟のナイアードが教師としてホグワーツにやってきたこともあったが、今とは状況が違う。第一に、ウィスタはリアイスで育った人間ではなかった。第二に、闇の帝王が生存していた。第三に、当時ウィスタは只一人の本家直系であった。であるからこそ、ナイアードの派遣も承認されたのだ。あの時は護衛としてではなく次期《ランパント》がどういった人間か見極めるためのものだったが。
数分黙々と歩き続け、ようやく塔の敷地を抜ける。ようやく姿くらましを使えると息を吐き――止めた。
「我が君」
従者の声を聞く前に、杖を構えていた。どこからともなく飛んできた光を弾き、舌打ちする。
肌がぴりぴりする。久々の感覚だった。身の内を血潮が荒れ狂う。五感が研ぎ澄まされ、杖を持つ指先が冷えていく。
薄闇の中に、影が滑り出してくる。そうしてふっと消えた。姿くらましを駆使した接近戦を挑むつもりか――と身構えた瞬間、両眼が燃えるように痛んだ。同時に、片腕から全身へと灼熱が広がる。
「我が君!」
従者が悲鳴を上げる。ウィスタは膝を突く。紅いなにかが視界によぎる。紅い――帯。影が杖を掲げる。こちらを攻撃するわけでもなく、佇んでいる。
帯ではない、と気づく。あれは血だ。誰のだろうかと考えて、ウィスタは自らの身体が急速に冷えていくのを自覚した。季節は夏。だというのに、真冬のようだ。なぜ息が凍り付いていないのか、不思議なくらいに。
視界が明滅する。紅い色。掲げられた杖。影は微笑んでいるように見えた。片腕に眼を落とす。ウィスタの血が流れ出している……。
従者が遠く離れた影に、呪文を放つ。だが、影は優雅に回転し――そして消えた。
「古き血――もらっていくぞ」
その声を最後に、意識が途絶えた。