【完結】河野春男? いいえハルです   作:和尚我津

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VS阿古谷清秋

 ドームの中心、闘気の爆心地で、二匹の超雄が向かい合う。

 

 破壊者《デストロイヤー》、ハル。

 

 処刑人、阿古谷清秋。

 

 ぶつかり合う二つの最強。己が足でリングを去れるは、しかしてどちらの最強か。

 

 それを暴かれる闘いの火蓋が今――

 

「始っめっえぇぇいっっ!」

 

 ――ここに切られた!

 

「フッ!」

 

 先手を取ったのはハル。

 巨体に似合わぬ超スピードで、一瞬にして彼我の距離を0にする。

 

 それを見てアップライト気味に構えた阿古谷。

 防御を得意とする彼の戦法は、攻撃を捌いてからの反撃に主眼を置いている。

 また彼の雇用主が()()()()()を終えるのに一定の時間を必要とする。

 そのため仕合の序盤は己から攻めることなく、受動的に戦うことを事前に決めていた。

 

 ゆえにハルが先手を取ったのは阿古谷の狙い通り。

 だが想定通りだったのはそこまで。

 

 ハルの初手は――空いた胴体を狙った低空ドロップキック。

 

 いかに腹筋を鍛えこんでいようが、ハルの体重とスピードを考えれば、無防備に受けることはできない一撃。

 とはいえ阿古谷に焦りはない。人類の限界を超えた反射神経を持つ彼からすれば、余裕をもってガードが可能。

 すぐさま腕を交差するように胴部に回し、ハルの蹴りを受け止める。

 

 まるで車が人を跳ねたような衝撃音が、ドームの中に響き渡る。

 

 蹴りの威力は凄まじく、常人であれば腕が折れ衝撃は内臓を貫通していたことだろう。

 されど阿古谷は勢いに抗うことなく、インパクトと同時に跳躍。体をくの字に曲げて衝撃を逃がしつつ滑るように後方へと数メートル移動した。

 

 着地と同時、阿古谷は下がっていた視線を戻し再びハルを睨みつけんとし――その姿を見失ったことに気付く。

 

 回り込まれたかと素早く視線を左右に振るも、目を瞠るほどの巨漢の姿は見つけることが出来なかった。

 視線を切っていたのは刹那の間、その僅かな間にあの巨体が視界から消えたのだ。

 

 

 ハルはどこに消えたのか? 観客たちはその答えを知っている。

 否、彼らはハルの姿を見失っていない。開始から今に至るまでしかとその姿を認めている。

 阿古谷の上空数メートルに浮かぶ、巨体の姿を。

 

 ドロップキックを止められ胴体着陸した瞬間、ハルの四肢の筋肉が盛り上がり、阿古谷を追うようにして大きく飛び跳ねていた。

 恐るべきは不完全な体勢からでも跳躍を可能とした、身体操作と全身のバネ。

 元よりヒマラヤで80キロ近いヤギを6頭も抱えて断崖絶壁を軽々と登った男である。たかだか200キロに満たぬ己が体を跳ね上げることなど造作もなかった。

 

 結果として見事に、ハルは阿古谷の頭上を取ることに成功したのだ。

 

『阿古谷は完全にハルを見失ったっ! 決まるっっ!!』

 

 殆どの観客はハルの勝利を確信した。

 持ち前の身体能力を生かした、高度数メートルに及ぶ前方宙返り。空中での回転も加わった170キロの男が放つ攻撃を無防備に受ければ大ダメージは必至。当たり所によっては落命すら有りうる。

 

 だが彼らの予想に反して、この一手は決着の一撃にはならず。

 誰もが躱せないと思ったこの攻撃を、阿古谷は着弾寸前で横にステップすることで辛うじて回避。

 ハルの右踵落としは地面に罅割れを作るも、ダメージを与えることは出来なかった。

 

 致命の刃、その軌道から逃れることに成功した阿古谷に、一転してチャンスが舞い込む。

 ハルの左側面に回り込む形となった彼は反撃せんと一歩踏み込む。高所から落下した衝撃を逃がすため、ハルが一瞬膠着することを見越したゆえに。

 

 しかしハルの攻勢は未だ終わっていなかった。

 着地の衝撃に負けたように軸足となるハルの左膝が崩れ落ちる。沈み沈んで、ついには左手を地面に着けるほどに深く沈みこむ。

 

 その瞬間、ハルの左足が強く地面を蹴った。

 不利な体勢からの跳躍を可能としたバネが、今度は水平方向に巨大な推力を生み出した。

 地に着いた左手を軸に、体が大きく旋回。伸展した状態の右足が大地と平行に振り回される。

 2メートル40センチの男が放つ、足払いであった。

 

 威力は十分。しかし余りに大きい動作のため、阿古谷でなくとも本選出場者であれば余裕をもって回避が可能。

 阿古谷は後方へと跳躍。ハルの右足は阿古谷の下を勢いよく通過し、そのまま半円を描く――かと思われた。

 

 振り抜いた右足の慣性を、ハルは己が筋力で無理矢理止める。

 急制動。直後、右踵が跳ね上がり鋭角を描いて阿古谷へと向かう。足りないリーチは軸となった左腕で体を投げ出すことで稼ぐ。

 狙いは右脇腹、肝臓。

 

 意表を突いた一撃は空中にいて身動きが取れない阿古谷に着弾。しかしこれも右肘を下げることで防ぎ切った。

 もとより無理な繋げ方で放った一撃。止められたのならダメージには成り得ない。

 

 阿古谷はバックステップで距離を取り、ハルは立ち上がるも間合いを詰めたりはしない。

 互いに一息吐き、最初の交錯は終わりを告げた。

 

 両者、間を測ることで生まれる奇妙な静寂を迎え、息を飲んで両者の戦いを見ていた観客の歓声が爆発した。

 

「ッフ、ッフ、ッフー。うーん、(うえ)からの攻撃で決まったと思ったんだけどな。ッフー。気付かれるとはね」

 

 ハルは呼吸を荒げながら予想外といった態度で言葉を漏らす。

 事実、攻撃に次ぐ攻撃で終始攻め立てていたが、本人としては踵落としの段階で決まるものだと考えていた。

 意表を突いた自信はあったが、空中という身動きできない場所に自ら飛び込んだのだ。カウンターを貰うリスクを飲み込んだ上での一撃だったが故に、あれで決めたいのが本音であった。

 

「笑止。悪に屈する正義などない」

 阿古谷はハルの言葉を一蹴すると、再びアップライトで防御を固めた。

 大楯に見立てた左腕を前に出すのが彼の流儀である逮捕術だが、それでは防ぎきれぬと判断し、よりディフェンシブな構えを取る。

 

「ッフ、ッフー。同感。屈するのは、正義じゃない。ッフー」

 それを見てハルも構えなおすと、今度は一転ゆっくりと間合いを詰めていく。

 

 間を読みあいながら、両者は先ほどの攻防を脳内で分析する。相手のクセ、特徴を僅かでも読み取り、戦局を有利に進めるために。

 

 

******

 

 

 同じことは観客席でも行われている。

 

(危なかった。あと少し遅ければ阿古谷は負けてたかも)

 

 阿古谷の雇用主である若桜生命の檜山瞬花は、手元の発信機に目を向ける。

 完璧に決まった空中からの奇襲を阿古谷が回避できた要因がこれである。

 阿古谷の頭部には対応する受信機が埋め込まれており、特定の信号に紐づけられた行動を、阿古谷は思考を介さず反射と同等の速度で取ることが出来る。

 この発信機を使い阿古谷を操作したことでハルの攻撃を凌いだのだ。

 

(まさかこんな使い方をするとは思ってなかったけど、結果オーライってやつだね)

 

 一秒の狂いもない絶対的な体内時計を持つ檜山が対戦相手の行動を分析し、それに対応する行動を阿古谷に行わせる。発信機はその時のために使われるものであり今回は全く想定外の使用だったのだ。

 当事者ではなく部外者の目線を持ち、空中に跳ぶという分かりやすく時間的ゆとりもある攻撃だからこそ可能となった、偶然の回避である。

 

(恐らく今後使うことはない避け方だろう。なぜなら阿古谷は――)

 

 

******

 

 

「――阿古谷清秋は常軌を逸した反射神経の持ち主だ」

 

 秘書の吉沢心美にそう解説するのは、医者でありながら帝都大学の代表闘技者も務める(はなふさ)はじめ。

 この僅かな戦闘において彼は阿古谷の特性を見抜いていた。

 決定的だったのは最後の肝臓蹴りを防いだ場面。奇手を難なく防ぐ姿を見て、彼はそう診断を下した。

 彼の鉄壁の防御力は人類の限界を超越した反射神経を生かした、究極の後の先によるものだと。

 

「だが驚異的という意味では対戦相手のハルも負けていない。むしろ彼の方が余程人間離れしている」

「そうなんですか?」

「考えてもみたまえ。彼の体重は171キログラム。これは幕内力士の平均体重すら超えている。それほどの体重を数メートルもの高さまで跳躍させるなど、常識外れもいい所だ。特に注目すべきは関節。同体重の者が数メートルの高さから着地した場合、膝や腰といった主要な関節に与える負荷は甚大。場合によっては即座に故障してもおかしくない。だが彼の動作からは着地による影響が微塵も感じられない。関節の強度が人知を超えている。私見になるが恐らく体重が200、いや300キログラムを超えたとしても同等のパフォーマンスを発揮し続けることが可能だろう」

 

 ハルの身体の分析を終え最後に彼は一言、笑顔でこう零した。

 

「ああ、早く解剖したいなぁ。この仕合で死んでくれないかなぁ?フフフ……」

 彼の台詞に背筋を凍らせる吉沢だが、英の言動に慣れてくる日はそう遠くない。

 

 

******

 

 

 彼らの考察などを置き去りに、ドーム中央では両者の戦いが続いている。

 その展開は一見、一方的なものとなっていた

 猛攻を仕掛けるは変わらずにハル。

 仕合当初の大胆かつ派手な攻撃はなりを潜め、オーソドックスな構えから繰り出されるコンパクトな打撃が阿古谷を襲い続ける。彼の巨体に似合わぬ回転の速い左右のパンチが絶え間なく降り注いだ。

 時折ローキックなどのコンビネーションも絡めつつ、バリエーションに富んだ攻撃が続く。

 

 防戦一方であり全く攻勢に移らない阿古谷の消極的な姿勢に、無知な観客からヤジが飛ぶ始末。

 されど見識に富んだ者、闘技者たち、なにより戦っている当事者たるハルには分かっている。如何に阿古谷が高度な防御を行っているのかを。

 ボクシングのジャブのように一打一打は軽いが、あくまでそれはハルから見た場合の話。彼の恵まれた肉体から放たれれば、並みの闘技者をそれだけで昏倒させる一撃となる。

 まともに受け続ければ、どれほど防御を固めようがいずれ綻びが生まれ致命的な一撃を受けることは必至。

 阿古谷はそんな致死の連打を、芯をずらすことで全て捌き切っていた。恐るべきラッシュを的確に防ぎきる驚異的な防御力は、かの初見泉が闘技者随一の守備能力と評するだけのことはある。

 それは同時に敵のスタミナを削る攻撃的なディフェンスであると、見る目のある者たちは舌を巻いた。

 

 手応えのない攻撃を続けてはいるが、しかしてハルに焦りはなかった。確かに驚嘆すべきディフェンスではあるが、攻め手を欠き反撃に移れないのもまた事実。

 己がスタミナが切れるまでに鉄壁の防御を崩せるのかどうか、根比べの勝負をしているのだと認識したハルは攻勢を保ち続けた。

 

 勢いが衰えることのないハルを見て、観客たちは彼の勝利を半ば確信しつつあった。何ら陰りを見せない猛攻の前にいずれ鉄壁の防御は崩壊し、阿古谷が倒れることになるだろうと。

 

 

『お待たせ阿古谷。解析が終了したよ』

 一種の膠着状態に陥った戦場を変えたのは闘技者の二人ではなく、リング外の姿見せぬ協力者。

 

 その瞬間、阿古谷の動きが変わり、ハルの腕から鮮血が舞いあがった。

 

 

******

 

 

『一転攻勢っ! 仕合序盤から守りを固め続けていた阿古谷選手が、打って変わって果敢に攻め立てるっっ!!』

『Amazing! ハル選手の攻撃に合わせた完璧なCounter! 阿古谷選手が相手のMoveを完璧に見切ってやがる証拠デースっ!』

 

 ナックルバードを用いたリッパーという攻撃から始まった阿古谷の反攻は留まることを知らず。

 亀のように縮こまっていた先ほどまでの姿が嘘のようであった。

 ハルも黙ってはおらず反撃を試みるが、ただカウンターを極められるだけに終わる。

 半端な応手では痛い目を見るだけだと悟ったハルは、入れ替わるように防御を固めるしかなかった。それほど阿古谷の読みは鋭く的確であった。

 見る者が見れば阿古谷のおかしさ――まるで誰かに操られているかのような奇妙な動きにも気付くが、その数は多くはない。

 

 先とは違う攻防に、多くの観客は共通の認識を改めていた。二回戦に進むのは、阿古谷清秋であると。

 

「ハルっ!?」

 もはや手も足も出なくなったハルの姿に、遠くヒマラヤから赴いた幼馴染であるヤクは思わず声を荒げる。

 部族最強、いや世界最強と見込んでいた男の思わぬ劣勢を信じられなかったのだ。

 過去に仕合で敗北したとは伝え聞いていたが、幼少のみぎりから共に過ごしていた彼にとってその事実は想像しがたく、なにより受け入れがたいことであった。日本到着後すぐの仕合ということもあって、移動の疲れが溜まっていた所を突かれて負けたのだろうと、認識を歪曲すらしていたのだ。

 ゆえに、敗色濃厚の現状に平静を保てなかった。

 

「案ずるなヤクよ、ハルは待っておるのだ」

 動揺するヤクとは対照的に、部族の長老は冷静に仕合を見届けていた。

 彼は気づいていた。グルカ最強の兵士が猛攻の最中にあって試みていたことを。守りを固める今ですら狙っていることがあることを。

()()()()()()()()()()()()

 その姿は老人の目には、神を降ろさんと苦行に耐えるシャーマンの如く映っていた。

 

 

******

 

 

「フッ、フッ、フッ、フッ、フッ」

 攻め立てられるハルの呼吸はひたすらに荒れていた。

 息も絶え絶えとは正にこのこと。疲弊して見えるその姿に、観客たちはハルの敗北を勝手にも受け入れていた。

(まだだ。もう少し、もう少しだけ待てば)

 行動を先読みされているかのようなカウンターを前に、動けば動くだけ反撃を受けると悟ったハルは、ガードを固めて阿古谷の猛襲にひたすら耐える。

 徐々に蓄積していくダメージ。呼吸は更に浅くなり酸欠へと近づく中、朦朧となる意識の浮かぶは初めての行った仕合の記憶。

 日本に到着し贅沢という毒に蝕まれつつあった中、急遽組まれた対戦カード。

 相手は拳願仕合の帝王。

 

 何もできず圧倒され、無様に敗北した記憶を。

 

 この身を蝕まんとしていた毒を捨て去り、戦士としての己を取り戻した時の記憶を。

 

 耐えて、耐えて耐えて、ついにその時が訪れた。

(――来た、来た来た来たッッ!!)

 思わず浮かぶは、歓喜の笑み。

(俺は、帰ってきたぞっ! ヒマラヤにっっ!!)

 

 湧き上がる衝動のままに戦士は、いや()()は叫んだ。

 

 

******

 

 

 絶叫。

 歓声すら掻き消すほどの絶叫と共に、阿古谷清秋が弾き飛ばされた。

 地面を滑る阿古谷は左腕を立ててハルを睨む。

 それを以って、ドーム内の視線は全てハルに集まった。

 

 彼らの視線の先、ハルの姿は先とは異なる様相を示していた。

 全身の血管は浮き上がり、肌は余すところなく褐色に染まっている。

 絶命トーナメント開催の狼煙となった一戦を見ていた者たちの脳裏には、かつて見た十鬼蛇王馬の姿が過ぎっていた。()()と同じであると

(……いや違うぞ。上手く言えないけど、アレは王馬さんの『前借り』とは違う。)

 それに否を唱えるは、王馬の雇用主である山下一夫。言語化できない違和感を彼は覚えていた。

 結論から言えば彼の直感は正しい。

 王馬が『前借り』と呼ぶ技とは、原理からして異なる。いわば、ハルの特異体質によるものだから。

 

 ハルが僅かに腰を落とす。その目線は、阿古谷を捕え離さない。

「長老っ! あの姿は……っ!」

 ヤクは小さく歓喜の声を上げる。

 それこそが、彼が知る最強の漢の姿。否、神の姿。

 伝承に曰くその神は、褐色の肌を備えた戦の神であったという。

「うむ、あれこそがヒマラヤ最強の戦士――」

 

 ハルが動いた。何でもないような所作で。今までとは段違いの速さで。

 

「――闘神(インドラ)の化身、ハルじゃ」

 

 瞬く間に距離を詰めて繰り出される暴風雨のような連撃に、阿古谷はただ飲み込まれていった

 

 

 ハルの腕。リッパーによってつけられた傷口から、どろりとした粘りある血液が、まるで周囲を飾りつけするように、糸を引きながら撒き散らされていく。

 

 

******

 

 

「エリスロポエチンかぁ」

 元医大生である死刑囚、坂東洋平はその粘度の高い血液を見て呟いた。

「エリスロポエチン? 確かドーピング薬の名前だったかな?」

「うんまぁ、そういう用途もあるんだけど、本来は赤血球を増やすホルモンのことだね」

 雇用主である十王通信社長の高田清助の質問に坂東は端的な答えを返し、続けて説明を重ねる。

 

 エリスロポエチン。

 腎臓の間質細胞で生成されるホルモンの一種であり、その働きは体内の赤血球の増産。

 このホルモンが多いほど血中の赤血球濃度は高くなり、比例して血液の粘性は高まり血栓などのリスクが上昇する。

 しかし赤血球の増加はそのリスクを許容するほどの効果を人間に齎す。

 すなわち、酸素の運搬効率の上昇。

 脳。筋肉。全身の至る所で消費される酸素の供給量が増えることで、通常時より高いパフォーマンスを発揮することが可能となる。

 その効果は絶大。

 アスリートが高地トレーニング(合法)ドーピング(非合法)問わず、体内のエリスロポエチンの量を増やそうとするほどに。

 このホルモンは、人間にとって大事な酸素の運び手を生み出す、母のような存在であるのだと坂東は語った。

 

「つまり、ハルはそのホルモンを注入したと」

 

 高田にも坂東の言いたいことが理解できた。ハルの傷口から溢れる粘りのある濃色な血液。全身を皮膚越しに赤く染めあげるほど濃厚なそれは、赤血球が一気に増殖したことを示しているのだと。

 

「うーん、それは違うと思うな。おそらくあれは自前だよ」

「自前?」

「エリスロポエチンは低酸素環境下――つまり酸欠に近くなれば産出量が増えるんだ。」

 その言葉に高田は思い出す。ハルの呼吸がやけに荒れていたのを。

「なるほど。仕合当初からやけに息を切らしていると思っていたが、あれは意図的に己を酸欠状態に追い込むためのものだったか」

「だとしても全身が赤く染まるほどの赤血球を生み出すなんて尋常ではないし、そもそもこんな短時間で急激に増量するようなものでもないんだけどね」

 

 坂東はハルの姿をじっと見下ろす。正確には、ハルの人間離れした巨体を。

 

「でもこれで、標高5000メートル級という酸素が薄い環境であれほどの巨体をどうやって獲得したのかという疑問が解けたよ。その答えはあの全身を染め上げるほどの赤血球を生み出すホルモンの生産量。南米のアンデス山脈に住まう人たちのエリスロポエチンが、平地の人間のそれより多いなんて研究結果もあるとは聞いたけど、恐らく彼は高地在住者の中でも特に抜きんでた数値を叩き出していたんだろう。取り込める酸素の絶対量が少ないとどうしても生物学的に巨大にはなりにくいし、もしなれたとしても常時酸欠状態で強靭な肉体を得ることなどできないはずなんだ。けれどあれほどの赤血球を、血栓などを生み出すことなく活用できていたのなら、彼の巨体にも納得がいく」

 

 そして、と坂東は言葉を続け。

 

「ヒマラヤでは取り込んだ大量の酸素は彼の肉体の成長および維持に使用されていた。それを平地で、万全の状態で使うと、一体どうなるのか」

「その答えが目の前の光景、というわけか」

 

 視線の先。彼らが話している最中も続いていた闘神の颶風。目を凝らせば霧のようなものを纏っているようにすら見える。

 

「恐らく彼の体内では莫大な酸素を用いたカロリー消費が行われている。それに伴い体温は上昇していく。あの霧は発汗による体温調整が行われ蒸発した水分が再凝結したものだろうね」

「まるで雲を纏っているかのようだな」

「雷神風神みたいに?」

 

 であるならばその攻撃、さながら神の踊り。

 常人なら既に体力の限界を迎え収まっているそれは微塵も勢いを落とすことなく、むしろ更なる加速を以って阿古谷という岩の身体を叩き続けていた。

 

 

******

 

 

 攻守が仕切りに入れ替わり、転回の激しかった一戦。

 その仕合の、終わりが近づいていた。

 

 守りを固め続ける阿古谷。再解析を試みる檜山。

 その二人の思惑をぶち壊すは破壊者(デストロイヤー)、否、闘神(インドラ)の化身、ハル。

 堅牢なる防御、それを上から叩き壊すような悪魔的なラッシュ。

 今までとは質の異なる打撃は、衝撃を受け流すことを許さず。徐々にダメージは蓄積し阿古谷の腕から感覚を奪っていく。

 それゆえに、神速の反射神経を持つ阿古谷の反応が、一手遅れた。

 

 阿古谷の両腕が、門を開くように大きく広げられる。

 

 両手首を掴んだハルによる、力技での開門であった。

 

 流石というべきか。認識するや否や、刹那の間に阿古谷は蹴りを放つ。ハルの胸部を狙った前蹴り。

 阿古谷の最速の反撃は、しかして当たることはなかった。

 

 ――パアンっ!

 

 腕を掴むより早く引き絞り放たれていた、ハルの一撃が、阿古谷の顎を蹴り抜いたが故に。

 

 大きくのけ反る阿古谷。そのまま背後に倒れ込み――反らされた肉体を助走とし、大きく身を前に投げ出す。

 

 掴まれた腕を引きこむことで彼我の距離を潰していく。割れた顎の痛みを無視して口を大きく限界まで開かれた。

 阿古谷が最後に選んだ一手は噛み付き。阿古谷が秘める衝動、その発露。

 表の格闘技ではお目にかかることないその攻撃には、試合経験の多いものほど意表を突かれる。

 ハルの首筋目掛けて進む様は、さながら獣の如し。

 

 ――そして、獣狩りはハルの得意分野である。

 

 弾かれるように動きだすハル。獣の反射神経すら凌駕するその動きに対応できず背後を取られた阿古谷の太い首に、ハルの太い腕が絡みつく。

 動脈を絞めて落とす裸締め(スリーパーホールド)ではない。

 気道を絞めて窒息させて殺す、裸締め(チョークスリーパー)であった。

 

 そして体格の差を利用して、顔面から阿古谷を地面に投げ落とした。

 

「がっ…あ…せい、ぎは……まけ、ない……」

 拘束から逃れようともがく阿古谷。

 地面に叩きつけられようがその意識は途絶えることなく、未だ戦意も衰えず、だがしかして肉体は言うことを聞かない。

 酸欠により徐々に意識を失う中、ハルの声が最後に耳に届く。

 

「そりゃそうだ。弱肉強食(ヒマラヤ)なら、勝った方が正義だからね」

 

 闘神が漏らす勝者(正義)の戯言。それを聞き届けて敗者()の意識は暗転したのだった。

 




・経歴
寿司とかゲームに嵌りつつあった所、加納アギトとの仕合を組まれ、完膚なきまでに敗北。
贅沢という毒に染まりつつあったがそれを切っ掛けに初心を取り戻し、打倒アギトを目標に実力を磨き仕合を重ねる。
そして満を持してトーナメントに参加した。
名前は河野春男に変更しているがリングネームはハル。義父との関係はそれなり。

体重とか戦績は増やしました。
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