今回は主人公の回想的なものです。
朝、目を覚まして朝食を取ると、俺はいつものとおり会社へ車で出勤した。
菓子の卸問屋で営業職として働いている俺は、自分のデスクで今日回る得意先のリストを確認する。
いつも訪問しているところばかりなので、場所は頭の中に入っている。車載ナビなど必要ないほどだ。
「おいっ!今日も元気出して行けよ!(バシッ!)」
塩田係長が俺の背中を叩く。本人は軽く撫でているつもりらしいが、手首のスナップがかなり効いていて痛い。
「かんべんしてくださいよ係長。いたいっすよ」
「冗談言って。そんなことはいいとして、今日の夜は大丈夫だよな?」
いや、本当に痛いから。それに、今日の夜か…。
一見すると飲みでも行くように聞こえるが、そうではない。
「いつもの体育館で”分解”ですね?」
「そうだ。古川さん達も来るから来てくれよ」
「了解です」
”分解”これは空手の型の分解のことだ。塩田係長はK真空手の指導員をしている。
仕事が終わった後で、普段は学校の体育館を借りて小中学生相手に空手の指導をしているのだ。
そして、この分解は指導とは別の活動で、流派を超えて主にベテランの空手家が集まり、趣味の一環で行われている。
若い空手家は、大会のために身体を徹底的に鍛えているが、指導員となった一部の空手家が、自分の技術のルーツを求めて型の意味を研究しているものだ。
空手は琉球を発祥としており、”手(てい)”もしくは”唐手(からて)”と呼ばれていた。
一説によれば琉球に伝わっていた”手(てい)”に、中国拳法が加味されて”唐手(とうで)”になったという。
空手の型は、本来の武術の性質から急所攻撃や関節折りなど危険な技が織り交ぜられていたが、明治期に存続を図るため、ピンアンなど武術から体育的性格へと変化したものが広まった。
しかし、その本質は効率よく人を倒すための技であることから、現在伝わっている古来の型にはその意味の説明が難しい動きがあり、それを解明しようとしているのだ。
俺はガチの武道系ではないが、子供の頃からテレビでプロレスやK-1などを見ているため格闘技全般に興味がある。
そのため、塩田係長からの夜のお誘い(分解)にもよく応じている。飲みに行くよりこっちの方が喜ばれるようだ。
うちの会社は、菓子の卸問屋なのだが社員の構成が少し、いや、大分普通とは違うのではないかと思う。
それは、社長が柔道、専務(社長の息子)が柔術をしている他、武道系の経験者が多数そろっているのだ。
決して、警備会社をやりたくてこんな構成にしたのではないと思うが、社員が揃うと見た目はかなり異質だと思う。
だって、社員旅行で向こうから来たあっち系の男性が、急いでわき道へ逃げたのを見たんだよね。
それに、強いのは見た目がゴツイ男性社員だけじゃないし…。
「○○君、最近ご無沙汰ね」
「やめて下さいよ武田係長。人聞きが悪いじゃないですか」
「だって、最近うちの稽古場に顔を出さないじゃない」
「いろいろ予定があるんですよ。今度お邪魔しますから」
武田係長は俺が新入社員の時にお世話になった女性係長だ。実はこの人も武術をしている。大東流合気柔術だ。
日本武術に詳しい方なら、すぐにピンと来るかもしれないが、武田係長は大東流合気柔術の中興の祖、武田惣角の一族である。
大東流合気柔術は、会津藩の殿中武術を参考に編纂された武術とされており、合気道の創始者も武田惣角から影響を受けている。
女性と思って、甘く見てはイケナイ。握力は50kgを超え、70~80kgの男性を軽く投げ飛ばすのだ。俺もその一人だったりするが。
合気柔術には興味があったので、入社当時から、何度か道場へお邪魔して手ほどきを受けている。まあ、完全に趣味の域なのでそれほど修練はしていない。
けっして、合気系な為か女性の門下生も多く居たのがお邪魔する理由ではない。偶然である。
「おい、武田くん。うちの子にちょっかい出すのはやめてくれよ」
「何言ってるんですか塩田さん。○○君は元々うちに来ていたんですから、ちょっかいを出したのはそっちじゃないですか」
「まぁまぁ、お二人とも。両方行きますからケンカしないで下さいよ」
「「本当だな(ね)」」
うわっ、この人たち薄笑いうかべてるよ。さては、墓穴を掘ったのは俺なのか…。
まあ、いいか。身体動かすのは嫌いじゃないし。痛いこともあまりないからな。
それに、合気柔術をやったおかげで型の分解でもいいアイデアが浮かぶんだよね。相乗効果ってやつ?
俺は、こんな日常が唐突に途切れることになるなんて、夢にも思っていなかった。