1989年の戦争 作:すべりひゆ
陰鬱曇らせ杯参加作品
砲弾が落下してくるヒューンという音、音、また音。そして爆発の轟音と振動。
飛び散った土塊が私の背中にバラバラと降り注いでくる。
無理だ。死ぬ。死にたくない。
私はガチガチと歯を鳴らしながら、塹壕の隅にうずくまって必死に小銃を抱きしめていた。
息が苦しい。いつの間にか呼吸を止めていたことに気がついて、大きく深呼吸する。
血の臭いがした。顔を上げると手があった。
「…え?」
人の右手。
見覚えがある。
白くて、指が長くて、ピアノがとても上手だった、いつか羨ましいと言ったらあなたの手も綺麗だと返してくれたクラスメイトの井上さん、の、右手の肘から先だけが落ちている。
「なん…えっ、え?」
反射的にその手を握る。体温はあった。
頭が真っ白になる。次に何をすればいいのか分からない。
まず肘から流れている血を止めなきゃ、と止血帯を手にとる。使い方を思い出せない。授業で確かに習ったはずなのに。
また近くに砲弾が落ちてビリビリと空気が震える。
井上さんの腕を汚さないように持ち替える。指が変な方向に曲がっていた。途端に気持ち悪くなって腕を取り落とす。べしゃっと塹壕の底の水溜まりに跳ねた。
死体。死んだ、人の、腕。井上さん。今私は何をしようとしてた?
急にこみ上げてきた吐き気を堪えようと口を手で抑え、その手でたった今まで掴んでいたモノに考えが及んで耐えきれずに吐く。
「お"ぇ"っ…ぁ…」
吐いた中に朝に食べた糧食が見えてまた吐きそうになる。
制服のスカートの裾に何度も掌を擦りつける。えずきながらふらふらと立ち上がり、
「シズクっ!何してるの!」
誰かに押し倒される。
誰かじゃない。鈴木
「はる、か」
「うん」
ぎゅうぎゅうと上から抱きしめられる。
「目閉じてて。私がいるから。いいって言うまで開かないで。顔も上げない」
その言葉で、さっきの腕は幻覚でも何でもない本物だったんだ、と却って納得がいった。
井上さんは小隊の第1分隊の所属だった。砲弾が直撃したのなら全滅してる。阿部さん。加藤さん。小沢さん。みんなもういない。
それにあまりショックを受けていないことにショックを受ける。
理由を考えてすぐに分かった。遥香がいるからだ。遥香がいれば大丈夫だと、私には無性にそう思えた。
「遥香。その、きたない、から」
一度落ち着けば、泥と涙と鼻水と吐瀉物にまみれている自分が恥ずかしくなってくる。
「うん」
遥香は構わず抱きしめている手の力を強めた。お互いのヘルメットがぶつかって硬い音を立てる。
やっぱり遥香がいれば大丈夫だと感じる。
その感覚は現実になった。一際近くに砲弾が落ちて大きく揺れたのを最後に、砲撃が離れていく。
「…終わった?」
「みたい」
遥香の言いつけを破って目を開ける。腕はまだそこにあった。それを見つめても落ち着いていられる。
大きく息を吸う。臭いはもう気にならなかった。私は大丈夫だ。戦える。戦わなきゃ。
「さっさと銃を取って配置に付け!すぐ連邦軍が押し寄せて来るぞ!」
教官が塹壕を回りながら叫んでいる声が聞こえる。
後ろから味方の砲撃も始まった。連邦の大砲と比べて、数も少なければ音も小さくて頼りないような気がする。
「遥香」
「…うん」
最後にぎゅっと力を込めて、遥香が私から離れる。
その顔を見つめる。緩いアンダーポニーに纏められたた茶色の髪。スッと通った鼻筋。長いまつげ。きらきら輝いている瞳。
遥香が視線に気づいて微笑む。目を逸らした。小銃に弾倉を差し込んで安全装置を回す。
「どうかした?」
「…ううん」
ソレの音は聞こえなかった。何の前触れもなく地面が爆発して吹き飛ばされる。
「え"ほっ…ッげほ…」
全身がひっ叩かれたように痛い。耳鳴り。頭から血が垂れてきている。ヘルメットが無い。どこかに飛ばされてしまっていた。小銃も。遥香。
「遥香!?」
自分の声が頭の中に反響してよろめく。尻餅をついた。ついた手に力が入らない。
まだ地面が揺れているような気がする。確か爆圧で三半規管が狂うとそうなることがあるって授業で、違う。本当に揺れている。砲弾じゃない。ゆっくり近づいてくる地響き。
木々の向こうで巨大な影が動いていた。突進してくる何十両という戦車。怖い。動けない。何も考えられない。決めたばかりの覚悟はとっくに離散している。
「シズク!」
声が聞こえた。遥香。塹壕から飛び出してくる。
引きずられるように塹壕に転がりこむ。頭の傷に手を当てた。
「シズク。血が…」
「遥香こそ」
遥香もボロボロだった。防弾チョッキには大きな破片が刺さっている。破片自体は止められても衝撃は受け流せない。この大きさなら肋骨を折っていてもおかしくない。
平気だというように遥香が笑った。ほっとする。
「さっきの、何…?」
「たぶん多連装ロケットだと思う。授業のビデオで見たでしょ?突撃する直前に一気に撃ってきたんだ」
戦闘が始まっていた。そこいら中で銃声と砲声が響いている。
聞き慣れた64式小銃。自衛隊さんが使う重機関銃と無反動砲。知らない重い銃声と、年に数回の演習でしか聞いたことのない戦車砲の轟音。味方に戦車はいないから、たぶん連邦のT-72。
「動ける?戦車は自衛隊で何とかするっていうから、歩兵の気を引かなきゃ」
「私、小銃を」
「待ってて」
風のように消えた遥香がもう一丁の小銃を持って戻ってきた。血塗れだった。肉片を拭った痕がある。
「…ごめん。シズクは私の使って。私がこれ使うから」
「平気。遥香の方が射撃の成績よかったし、慣れてるやつの方がいいでしょ」
どうにか立ち上がって遥香から小銃を受け取る。誰の銃かは考えない。考えたくない。
塹壕はもうぐちゃぐちゃになっている。連邦語の叫び声。突撃が来る。
ドンというお腹に響く爆発。連邦の戦車の1台が砲塔を吹き飛ばされて燃えている。
自衛隊さんの対戦車ミサイルだ。その発射点に他の戦車からの反撃が集中する。人影が粉々になって消えた。
「シズク…!」
遥香の押し殺した叫び。土煙に紛れて連邦側から数人の人影が走ってくる。
ほぼ同時に撃った。一斉に倒れる。当たった訳じゃない。伏せただけだ。こっちの居場所もバレた。移動しないと。
遥香と走り出した次の瞬間、塹壕の周りに連続して銃弾が撃ち込まれる。機関銃がいる。その支援を受けてまた突撃が再開される。
顔を覗かせて引き金を引く。距離はない。連邦兵たちももう伏せたりせずに撃ちながら突っ込んでくる。一人が地雷を踏んだ。何人が私たちの銃弾で倒れる。
引き金を引く。弾が出ない。故障。最後の一人と目が合った。ほんの数m先だ。驚いたような顔で、横から遥香に撃ち倒された。
息が荒い。自分の鼓動がうるさく聞こえる。手汗で滑る小銃のグリップを握り直す。
「シズク。小銃の──」
落ち着いてトドメを刺した遥香に言われ、急いで直さなきゃいけないと思い出す。
まだ終わっていない。故障排除のやり方は、
「弾倉変えて」
一瞬意味が分からなかった。
それでも何度も練習した手順に沿って身体は自動的に動く。カキンと空っぽの弾倉を外し、新しいものに入れ替える。
ただの弾切れ。自分で自分が信じられない。
「パニックになるのは大丈夫だから。大丈夫」
無言で頷く。
「大丈夫。ほら、押し返してるよ」
遥香の言う通りだった。もうこっちにはあまり銃弾は飛んできていない。自衛隊さんの攻撃でまた別の戦車が撃破されている。
潮が引くように、連邦軍は応射しながら撤退していった。
生きてる。
今は、かもしれないけど。私は生きてる。
いつ死んでもおかしくなかった。今更になって身体の震えが治まらない。遥香が背中を撫でてくれる。
私たちのところまで来た教官が生きてたか、と意外そうに言った。
「急いで下がるぞ。補給も再編成も後だ」
連邦軍から逃れられるなら何でも良かった。
遥香が青ざめていた理由を知るのは、このすぐ後のことだった。