港町ウェラポリ。
そこは『聖地レイライン』から汽車で半日程の距離にある港町だ。
大陸東部の海原に隣接しており、豊かな海の資源が名産。
漁だけではなく、貿易も盛んな町。
それが『港町ウェラポリ』。
漁師の気迫と、商売人の熱気が入り乱れる賑やかな町なのだ。
だが、そんなウェラポリは今……静かで、鬱屈した空気に満ちていた。
太陽が沈み始めているからだろうか?
いいや、違う。
ウェラポリには酒場が沢山ある。
船乗りが入り浸っており、昼も夜も騒がしい程だ。
しかし、酒場で酒を飲んでいる船乗りの顔に覇気はない。
その酒を提供する店主すら、表情に笑みがない。
原因は分かっている。
先日、海上で『悪魔』が目撃されたからだ。
大きさは住宅程で、海上を滑るように走っていたらしい。
脅威としては、海上での戦闘難易度を考慮しても『中位』の『悪魔』と認定された。
もし地上で発生した悪魔ならば、『下位』だったかもしれない……少なくとも司祭もそう認識している。
だが、『悪魔』に対して有効な対策を取れない漁師や貿易業者達は、船を出す事も出来ずにいる。
「…………」
汽車から降りた私とユーリは、そんな光景を目にしていた。
ユーリの顔は少し険しくなっている。
……人の痛みを悲しめるのは、人として美点だ。
だが、まぁしかし、ここで同情をしていても彼らが救われる訳ではない。
「足を止めないで欲しいんですけど〜?ほら、この町の教会まで行くから」
「あ、えっ……と、うん」
手持ちの鞄でユーリを小突き、彼の前を歩く。
町の喧騒も無くなっているが、まだ『悪魔』の被害者が出た訳ではない。
だから、私の知っている『悲劇』に比べれば……この町はまだ平和だ。
気負う必要も、必要以上に義憤に駆られる必要もない。
それにしても──
「……辛気くさ〜い」
漁に出られない。
貿易が出来ない。
確かに、仕事が出来なければ不安にもなるだろう。
だが、それを顔に出して酒場に入り浸っているのはどうかと思うが。
理解は出来る。
同情も出来る。
それでも憎まれ口を叩く。
それが今の『私らしい』言動だからだ。
私の言葉にユーリが反応した。
「エルシー、『悪魔』が出たんだから仕方ないよ……町の人は困ってるんだから。そんな事言わない方が──
「はいはい、ご忠告どーも」
適当に返しつつ、私はユーリの前を歩く。
ちょっとやそっとの失言では、彼は私を嫌いにならない。
だから、こうして定期的に好感度を下げなければならない。
私が敢えて失言をする。
その度にユーリは、私を諌める。
それが私達、
折角、今、ユーリに嫌われているのだから……現状を維持しなければ。
石畳の坂を下る。
この港町ウェラポリは街全体が坂道のようになっている。
海に近付く度に下がっていく形だ。
そんな町の、海が見えるほど近い場所に……目的の建造物があった。
白塗りの建物には、聖葬教会のシンボルが掲げられていた。
だが、その白塗りの壁は所々、剥がれているように見えた。
「あれが、ここの教会?貧乏くさ……」
「……あー、うん。確かに、ちょっと……廃墟みたいだね」
そう、ここが港町ウェラポリの教会だ。
つまり、聖葬教会の所持している地域拠点だ。
ここに在籍している司祭は聖葬教の信徒を増やすべく布教したり、今回のような悪魔の目撃情報を『聖地レイライン』まで届ける役目がある。
と言っても、直接、『聖地レイライン』まで情報を運ぶ訳ではなく、手紙などの郵送になるのだが──
教会がある地域では
何故なら、装備の補充が現地で行えて、宿泊施設を用意する必要がなくなるからだ。
こうして、ある程度の規模の町には教会が建っているのだ。
私は勝手知ったる顔で教会の戸を開けた。
「おじゃまします……」
律儀に挨拶をしているユーリを横目に、無言で室内を見渡す。
内部の状態もあまり良いとは言えない。
潮風による風化が早いのか……それとも、修繕費に金銭が回らないほどお布施が少ないのか。
それとも、両方か。
木目が剥き出しになった長椅子を手でなぞり……視線を逸らせば、礼拝堂の奥に白髪の混じった初老の男を見つけた。
初老だが、背中は大きい。
漁師か何かと見まごうほどに筋肉質だ。
その男に近付きながら、私は口を開く。
「……アンタが、ここの司祭?」
そう背後から問いかけると、初老の男は驚いたように振り返った。
……少し着崩しているが、確かに聖葬教の祭服を着ている。
『聖地レイライン』なら指導対象になる。
あまり、敬虔な司祭ではなさそうだ。
「えぇ、はい、そうです。貴方達は──
「
「おぉ、来て下さったのですね!」
満面の笑みで握手を求められた。
私は視線を手に、そして司祭の顔に向ける。
……ちょっと汗ばんでいる。
私は頬を引き攣らせながら、手を伸ばした。
司祭はその手を強く握り、上下に振った。
他人との距離が近く、無遠慮で無配慮。
私の苦手なタイプだ。
心の中で悪態を吐きかけていると、目前の司祭が口を開いた。
「私はウェラポリ教会の司祭、オーヴェンと言います」
「ふーん、そう」
自己紹介を適当に遇らう。
そして、今度はユーリが手を握られていた。
苦笑していた私と違って、ユーリは愛想笑いをしていた。
彼は真面目だ。
私はこっそりと修道服の裾で手を拭い、視線を司祭オーヴェンへ戻した。
「それで、現状は?依頼書を発行した時と変わってないの?」
「えぇ、はい。被害者は出ていません。ですが──
司祭オーヴェンが指を立てた。
「海に現れた『悪魔』。それが目撃される度に、少しずつ陸地に近付いて来ています」
「……ふーん」
私は自身の顎に指を当てた。
『悪魔』は人間の負の感情と、人体が発する
奴らは人間から生まれ、人間を食らって成長する。
現在は海上で目撃されているが、最終的な目的は──
「この『港町ウェラポリ』に上陸するのも時間の問題でしょう」
「そうね」
何の事なく私は返事をしたが、ユーリは少し顔を強張らせた。
『悪魔』が町に来る。
即ち、『悪魔』と人間の接触が起きる。
……間違いなく、死人が出る。
それを懸念しているのだろう。
「……如何しますか?エルシーさん」
ならば、私の判断は──
「どうもこうもないわ。来るなら来てから叩けば良いでしょ」
町に上陸後、迎撃する。
そう告げれば、ユーリが目を見開いた。
「エルシー……」
「なに?」
「町の人も困ってるし、早めに討伐した方がいい、と思うけど……その、上陸されたら町の人に被害が出るかも知れないから」
なんて言われた。
……まぁ、私も当初はその予定だった。
海上にいる『悪魔』を討つ予定をして、この町に来た。
だが──
「地上に来るなら、話は別。海上で相手しなくて良いなら、しない方が良いでしょ。船の上じゃ『悪魔』と戦うのも大変ですし?」
「それは、そうだけど……」
「……ねぇ?いつから、そんなに偉くなったの〜?」
ユーリの脛を軽く蹴った。
「ゔっ」
当たりどころが悪くて、膝を抱えてしゃがみ込んだが……気にせず、話を続ける。
「『悪魔』を舐め過ぎなんですけど?確かに目撃された『悪魔』は、海上という討伐難度を考慮しても『中位』程度……でも、それが正しいと決まった訳じゃなくない?」
実際、原作と同様の『悪魔』ならば、実際の位階は……『上位』なのだ。
海上で相手するのは堪える。
腕を組んで、指を立てる。
「常に最悪の事態を想定して、周到すぎる用意で迎え撃つのが鉄則なんですけど?焦った
そう説教すると、ユーリは頷いた。
少し涙目だ……蹴られた膝が余程、痛かったらしい。
「ごめん……エルシー。僕が間違ってた」
……まぁ、さっきのユーリの発言は褒められた物じゃなかったけれど。
こうして自分が間違っていると理解出来たら、素直に謝れるなら問題ない。
世の中には「『悪魔』憎し!」だけを原動力にして動いてる
そういう
理屈で感情を飲み込む事。
それは
ユーリはそれを持っている。
だから、ユーリに足りていないのは経験だ。
物事を判断するには知識と経験が必要だ。
……私が居なくなるまでに、出来るだけ経験を積ませないと。
ため息を吐いて、ユーリから目を逸らす。
「ま、分かれば良いんですけど〜」
司祭が居る手前、あまり説教を長引かせたくない。
切り上げて、司祭の方を見ると……何だか、少し微笑ましいものを見る目で私達を見ていた。
私は眉を顰めた。
「何で笑ってんの?」
「いえ、良い信頼関係だと思いまして」
更に眉を顰めた。
今のどこに『良い信頼関係』があるというのか。
ちら、とユーリを見ると少し照れていた。
……ほら、変な勘違いをしたじゃないか。
「コイツは私の奴隷なんですけど?」
「……ふふ、そうですか。そうですか」
なんだこの司祭、うっざ。
久々に本心からの「うざい」という言葉が口から飛び出そうになる。
「うっざ」
飛び出た。
我慢出来なかったのだ。
その瞬間、ユーリが私に目を向けた。
「その、司祭さんに……そんな事言わない方が──
「分かってるんですけど?それを配慮しても尚うざいから、うざいって言ってるの」
確かにユーリの言う通り、司祭とは友好関係を結んでおくべきなのだ。
単純にどちらが上だという話はない。
故に、立場は対等なのだ。
例え、私が『上位』の
だがまぁ……幸いな事に、こうして悪態を吐いても司祭オーヴェンは気にしていないようだ。
彼はそのまま会話に戻った。
「では話を戻しますが、『悪魔』の討伐用に船は用意しなくて良いと?」
「ええ、地上で迎撃するから」
「分かりました。でしたら、滞在期間は長引きますね……上陸までの間、宿泊部屋を用意しましょう」
私とユーリが頷いた。
この町は貿易が盛んだ。
他に宿泊施設もあるだろう。
貿易相手が一時的に泊まる施設があるからだ。
だが、手配するのも面倒だ。
教会内に派遣された
どこの教会にも内部に客室を──
「あぁ……言い忘れていましたが──
「なに?」
「この教会に宿泊できる部屋は一つしかありません」
用意しているもの……で、あれ?
「ベッドも一つしかありませんので、譲り合って下さいね」
「「え?」」
ユーリと声が被ったが、仕方のない話だろう。
◇◆◇
「はぁ……最っ悪、なんですけど」
教会内で割り当てられた部屋の中で、悪態を吐くエルシーの姿を見た。
それを咎める余裕は、僕にはなかった。
部屋の隅に机が一つ。
大きなベッドが一つ。
そんな簡素な部屋に、僕とエルシーは二人っきりだった。
というのも、司祭のオーヴェンさんは教会外に自宅があるらしく……夜も更けたからと帰ってしまったのだ。
エルシーと二人っきり……という事を別に意識している訳ではない。
だから、部屋があるだけマシで……いや、部屋の中だからこそ拙いのか?
安全な場所で二人っきりになるという事は、外敵に対する緊張感もなくて、逆に意識してしまうような──
「ユーリ」
「え?うん、どうしたの?」
突然、声を掛けられて慌てて思考から現実に戻る。
エルシーはタオルを持っていた。
「水、浴びてくるから」
「あ、うん……分かったよ。行ってらっしゃい?」
「……フン」
彼女は鼻を鳴らして、部屋の中にあった木桶を持って出て行った。
それに対して何も考えず返事をしたのだけれど……。
隣室から水が流れる音が聞こえた。
汲み上げポンプの稼働する音も聞こえる。
……うん?
水浴び用の部屋って隣だったんだ。
へぇ、と思いながら……思考の隅に、何かが入り込んできた。
エルシーが、隣の部屋で水浴びをしている。
隣の、部屋で?
首を横に振った。
邪な考えを振り払うように。
「……別の事を考えよう」
持って来た道具を、床に並べて整理する。
『聖水』や縄、固定用の留め具や、投擲用の小さな銀杭、ついでに『聖書』も。
海上での戦いを想定して色々、持って来た訳だけれど……どうやら無駄に終わりそうだ。
「……はぁ」
さっき、エルシーの「地上で迎撃する」という案に反論したけれど……あれは失敗だったな。
町の人が困ってるし、上陸されれば町の人は危険に晒されてしまう。
この二つから、海上で早く討伐しようと焦ってしまった。
……僕は無意識のうちに『悪魔』を舐めていたのだろう。
自分が危険に晒されても、それでも誰かを守れたら良いと思ってしまっていた。
だが、それは危険に晒されても死なないという甘えた考え方なんだ。
そんな根拠のない無謀に、
僕達が死ねば……町の人も危険に晒されるのに。
僕達が死んで新たな
「……情けないな」
ダメだな、僕は。
最近はフロイラさんに鍛えて貰っているから、少しは強くなれたと思っていた。
だけど、強くなっただけではダメなんだ。
『悪魔』に対する判断力が足りていない。
戦えるだけでは
一人、反省会をしていると……ふと、水浴びできる隣室側の壁で……少し、濡れている箇所があるのを見つけた。
「……何だろう?水漏れかな」
立ち上がって、壁に近付く。
心臓に悪い水音を聞きながら、その濡れている箇所に目を向ける。
人差し指ぐらいの、穴が空いていた。
水がそこから漏れているようだ。
……まぁ、この教会は老朽化している。
壁に穴が空いて水漏れしていても、おかしくはない。
だけど、その穴の先は隣室の──
「っ……!?」
慌てて、僕はその穴にタオルを詰めた。
穴が埋まって、水漏れもしなくなった。
そして……穴の先にある光景も、見えなくなった。
心臓がバクバクと鳴っている。
息が荒れる。
覗いてないし、見えてはいない。
だけど、その、穴の先に……エルシーの姿が──
頭を床にぶつけた。
大丈夫。
平常心、平常心、平常心平常心平常心……。
落ち着いた。
うん、落ち着いた。
へいじょーしんだ。
僕は男で、しかも16歳。
そういう事に興味がない訳ではない。
だけど、それはそれとして覗きなんて、そんな事がしたい訳じゃない。
だから大丈夫。
それでも煩悩が脳裏を駆け巡る。
勝手に脳内でエルシーの、水浴びをしているイメージが──
頭を床にぶつけた。
脳が良い感じに揺れて、思考が掻き乱されて──
「……何してんの?」
気付けば、エルシーが部屋に戻って来ていた。
普段着の修道服ではなく、白い薄手の布地を使った服を着ていた。
寝巻き、なのだろう。
そんな彼女は、床に転がっている僕を見て訝しんでいた。
「な、なんでもないよ……」
なんて言いながらも、僕は彼女から目を逸らした。
薄手の生地は少し湿っている彼女の肌に張り付いていて。
普段見る彼女とは違う一面が見えて。
何だか妙に意識してしまって。
ドキドキしてしまって。
僕は、彼女を直視出来ずに居た。
「まぁ、いいけど。ユーリも水浴びしてきたら?汗くさいし」
「……あ、うん。そうするよ、うん」
気まずい。
僕は急いで自分の寝巻きを荷物から出して、部屋を出た。
軋む廊下を踏み締めて。
目を瞬く。
口からため息。
「……はぁ」
自分の中にあるモヤモヤとした感情を全て吐き出すように、深く息を吐いた。
だけど、それでもモヤモヤとした感情は渦巻くばかりで消えはしなかった。
隣部屋のドアを開けて、タイルの張られた部屋に入る。
籠に着替えを入れて、タオルを手に取る。
ポンプを動かして水を流させる。
桶に水が溜まって行くのを見つめる。
水面に映った自分の顔は……酷く、ぎこちない笑みを浮かべていた。
◇◆◇
ユーリの挙動がおかしい。
私はベッドの上で胡座をかき、手を顎に当てた。
彼は気弱であがり症だから、ああして挙動不審になる事も多い。
だが、それを考慮しても普段より「変」と言わざるを得ない。
「……何か、あったのかな?」
しかし、彼は私に何も言わなかった。
という事は私に対して隠したい事があるという事だ。
気になる。
私達は
そして、少しの悩みや不調が……命の境目を分ける可能性だってある。
だから見逃せない。
「…………」
ベッドの上に上半身を倒して、寝転がる。
足をベッドから出して、ぶらぶらと揺らす。
先程の司祭とした会話で、割り込んでしまった事を反省していたのだろうか。
あり得る。
ユーリは寝る前とかに反省会をするタイプの人間だ。
必要以上に気にしてしまう小心者だ。
それが悪いとは言わないが……悩みすぎると、必要以上に落ち込んでしまって更にミスが増える。
それは良くない。
どちらにせよ、彼一人で悩むぐらいなら……私から──
いや、だがしかし、私が直接「お悩み相談」するのは違うか。
彼にとってのエルシーとは、気分屋で人当たりが悪い癖に位階が高くて偉そうな
そう思われるように立ち振る舞っているのだから、当然だ。
そして私は陰湿で性格の悪くて傲慢な
「……せめて、悩みが分かれば良いんだけど」
ポツリ、と独り言を呟き、視線を彼がいる隣の部屋へ向け──
「あれ?」
壁にタオルがかかって、いや、刺さっているのが見えた。
何かに掛けられている訳でもないのに、壁からタオルが垂れている。
タオルは小綺麗で、部屋に元からあった訳ではないと推測できる。
なら、このタオルは……ユーリが持ち込んだ物だろう。
「……何のつもりなんだろ?」
ため息を吐いて、壁へ擦り寄る。
そのままタオルに触れて、引っ張れば──
ぽとり、と床に落ちた。
そのタオルは湿気ていたようで、少し重たかった。
視線をタオルが刺さっていた場所へ戻すと……穴が空いていた。
「……穴?」
私がその穴に顔を近づけると……隣室の景色が見えた。
つまり、水浴び用の部屋で……身体を流しているユーリの姿が、見えた。
「……っ!?」
思わず飛び退いて、床に尻餅を突いた。
視界に入った情報を、脳が処理していく……。
今のはユーリの、いや、それは、まぁ、前世では見慣れた物だ。
それはいい、いや、よくはないが。
穴へ視線を戻す。
木のうろか、腐ったのか……自然に空いた穴のように見える。
人工的な穴ではない。
司祭オーヴェンも気付いていない、部屋の欠陥だろう。
この部屋に人が泊まることは稀なのだ。
家具の上の埃を見れば分かる。
だから、故意ではないのは分かった。
これは作られた覗き穴ではない。
だが、この老朽化で出来たであろう穴に、真新しいタオルが突き刺さっていたという事は──
「…………」
私はベッドの上に腰掛けた。
脳裏には先程の景色が渦巻いていた。
……筋肉質だった。
普段は服の下にあるから知らなかったけれど、そうか、彼は普段から鍛えている。
引き締まっていて……それが、濡れ──
振り払うように、私は首を横に振った。
◇◆◇
「……ふぅ」
水浴びを終えた僕は、髪をタオルで拭きながら部屋のドアを開けた。
すると──
「…………」
エルシーがベッドに座り込んで、部屋に入ってきた僕を凝視していた。
心なしか、表情は険しく見える。
「……エ、エルシー?」
思わず、名前を呼ぶ。
エルシーは険しい表情のまま、視線を室内の壁へ向けた。
視線の先には……穴。
湿気たタオルが床に落ちていた。
あっ。
「エルシー、そのっ、それは──
「そこ、座って?」
「……はい」
エルシーが床を指差した。
……何を言っても、言い訳になるだろう。
僕は黙って床へ座った。
「で?この穴は?」
異端審問が始まった。
被告は僕だ。
「その、この部屋に最初っからあったみたいで……僕が空けた訳ではなくて、その……」
「ふーん……で?見たの?」
それは核心を突く言葉だった。
慌てて首を横に振った。
「み、見てないよ!」
「本当に?」
「本当だよ!覗きなんてしてないから、僕は……」
「ふ〜ん……」
僕は目を瞑って、拳を握る。
この発言に信頼性はないだろう。
実際、覗ける状況だったには違いなくて……反論するにも証拠がない。
僕は自分の無実を証明する事が出来な──
「そう。ま、信じてあげようかな〜?」
「……え?」
エルシーの口から出た言葉は、想定していた言葉の反対だった。
彼女は膝に手をつきながら、目を逸らした。
「だって、ユーリは、優し……じゃなくて、覗きをするような度胸はないでしょ。よわよわヘタレですし?」
「ゔっ」
思わず呻いた。
信じてくれるのは嬉しいけれど、言葉が刺々しい。
「だから、まぁ、信じてあげる。良かったねぇ〜、ユーリ。へなちょこ童貞で」
「どっ、童貞……?」
「違うの?」
「いや、その、そうだけど……」
何でそんな事、言われなくちゃならないんだろう。
落ち込んでいると、エルシーがベッドから立った。
そして、僕の前に立った。
「で?いつまで床に座ってるの?」
「え?エルシーが座れって言ったんじゃ──
「アンタ私の所為にするつもり?自己中過ぎるんですけど〜」
聞き慣れた彼女の嘲笑を受けて、頬を引き攣らせつつ立ち上がった。
エルシーが少し、上目遣いになる。
僕が彼女より少し身長が高いからだ。
並べば自然と、彼女の視線は上へ向いてしまう。
「あの穴、埋めるのは明日で良いけど。ベッドはどうするつもり?」
そうだ。
この部屋にベッドは一つしかない。
二人で一つのベッドに寝るなんてあり得ないから、どちらかがベッドで、もう片方は床で寝るしかない。
「あー、そうだね。床に寝るなら、大きめのタオルを一つぐらい貰えると嬉しいかなー……なんて……」
床で寝るのは辛そうだけど、野宿よりマシだ。
それでも、タオルぐらいは欲しいな、なんて口にしたのだけれど……エルシーの顔は強張ったままだ。
「……ユーリが床で寝る前提なの?」
「え?そうだと思ってたけれど……」
エルシーの片眉が上がった。
……あの表情は、不機嫌な時の表情だ。
付き合いが長くなってから気付いた、彼女の癖。
僕は背筋に冷たい物が走った。
「それってぇ、私がユーリより立場が上だから?」
「……え、っと、いや。そういう訳じゃないけど……」
確かに彼女は『上位』の
だけど、ベッドを譲る理由としては考えていなかった。
「じゃあ、何で?」
「それは……だって、エルシーだし」
「はぁ?意味分かんないんですけど?」
彼女に良くしようとするのは何故か。
彼女が怖いからか?
彼女が不機嫌になるからか?
彼女を敬っているからか?
それは確かに理由に少しは含まれているかも知れない。
だけど、そうじゃない。
「……えっと、何でだろう?ごめん。僕も分からなくなってきた、かも」
彼女に良くしたいと思っているのは、きっと……僕が彼女を好ましく思っているからだ。
本当は優しい彼女に報いたいと思っているからだ。
だけど、そんな事を言えば彼女は不快に思うだろう。
だから、口にはしなかった。
「…………はぁ」
すると、エルシーが大きなため息を吐いた。
そして……僕の肩を殴った。
結構、力が込められていたけど、手加減を感じた。
「エルシー……?」
「……身体をキチンと休ませるのも
「そ、そうかなぁ……?」
あまりにも支離滅裂な理論に、思わず頬を引き攣らせた。
これは、彼女が自身の優しさを悟らせたくなくて、露悪的に振る舞っている証だろう。
「何?私の言ってる事に逆らうつもり?」
「あー、いやぁ……」
これで誤魔化せているつもりなのだろうか。
思わず、視線を逸らす。
「じゃあ決まりね。今日はユーリがベッドで寝て。明日は町で寝具買うから」
自信満々に彼女は鼻を鳴らすが……これ以上、反論しても無駄みたいだ。
僕は頷いた。
そして、夜は更ける。
『悪魔』の目撃情報から、エルシーは上陸を少なくとも五日は先だろうと見立てた。
今日は安心して眠れそうだ。
……と、思ってたんだけど。
床にエルシーを寝かせて、僕はベッドの上。
その事実が僕の安眠を妨害していた。
申し訳なさが睡眠の邪魔をする。
それでも時間が経てば……少しずつ眠気が来る。
今日は汽車に揺られて、町の中も歩いた。
肉体に蓄積していた疲労が、睡眠欲を掻き立てる。
ゆっくりと意識が朦朧としてきて──
ギィ、と軋む音がした。
……エルシーがドアを開けた音だ。
ちらと、暗闇の中視線を向けると……厠に向かったようだ。
僕は慌てて視線を逸らした。
少しして、水の流れる音が聞こえて──
また戸が開く音がした。
戻ってきたんだな、なんて思っていると……ベッドが揺れた。
誰かが、いや、誰かがじゃなくて、エルシーが……ベッドに入り込んできたのだ。
な、なんで!?
思わず声が漏れそうになる。
慌てて、顔をエルシーの方に向けると──
彼女の顔が、近い。
だが、その目は瞑られている。
……寝ぼけていたのだろう。
床じゃなくてベッドに来てしまったのか。
そう納得して、僕はベッドから抜け出そうとする。
寝ている彼女を起こすのは悪いし、このまま彼女を寝かせようと思った。
だけど、彼女の位置は近い。
それに寝巻きが何かに引っ掛かって……いや、彼女に握られていた。
抜け出すのは不可能に近い。
そうして硬直している僕は、彼女の顔に視線を戻した。
……エルシーって、こんなにまつ毛が長かったんだ、なんて考えてしまう。
静かな吐息が聞こえる。
心臓が高鳴る。
壊れてしまいそうな程、鳴り響く。
この心臓の音が彼女に届いて、起こしてしまうのではないかと疑う程に。
これ以上、この状況が続けば死んでしまう。
何とか穏便に抜け出そうともがいて──
「…………行か、ないで」
ポツリと言葉が聞こえた。
エルシーの声だ。
起きているのかと驚いて、彼女の顔に目を向ける。
いいや、寝ている。
だからこれが寝言か。
だが、彼女はうなされているようで悲しそうな顔をしていた。
「……エルシー」
思わず名前を小さく、彼女を起こさないように呼んだ。
普段は苛烈な彼女だけど……それでも。
本当は誰よりも優しくて、面倒見が良くて、こうして……弱気な面もあるのだと。
僕は知っている。
そして彼女はまた、掠れて、揺れるような声で寝言を呟く。
「……シェリ」
それは名前だった。
僕も……知っている名前だ。
彼女の師匠であるフロイラさんから聞いた名前だ。
エルシーの元・
僕より前の
彼女といた頃のエルシーは今のような振る舞いではなく、誰にでも優しい献身的な振る舞いをしていた……とフロイラさんから聞いた事がある。
そう、彼女が変わってしまったのは……きっと。
彼女の
死んでしまった事が原因、なのだろう。
彼女の寝顔を見る。
目元が薄らと濡れていた。
少しして、僕の服を握る力が強まった。
「…………」
すると、少しだけ……表情が穏やかになった。
きっと、彼女はその手の感触から、シェリさんが側に居るのだと思えたのだろう。
……もう少し、このままで居よう。
彼女が目覚めるまでの間、側に居よう。
僕は彼女の
翌朝、目が覚めたらエルシーのビンタで、僕は目覚めた。
随分と苛烈な言葉を吐かれたけれど……彼女はベッドに間違えて入ってしまった自覚もあったようで。
少しすれば落ち着いて、少し申し訳なさそうな顔をしていた。
……ちょっとしたハプニングだ。
僕は叩かれたし、よく眠れなかったし。
それでも僕はあまり後悔していなかった。