■■■ 赤点の回避に向けて ■■■
過去の僕からするときっと意外でしかないのだが、平日の僕は真面目に授業を受けていた。意味不明な日本史を個人解釈で紐解いて、理系科目は授業間に徒凪さんに聞きながらどうにかこうにか理解を深める。
高校時代の僕が見たら『何を今更頑張ってるんだろう、勉強なんて社会に出れば無意味無価値だろうに』とか首を傾げるかもしれない。そう思えば僕の10年は決して無駄ではなかった。年功の甲斐あって勉強の価値を知ることが出来た。少しばかりそれを知るには年を重ね過ぎて遅きに失した感はあるけど、知らぬまま今後の人生を進めるよりは遥かにマシな自分になれていると思う。
授業が終われば家に帰ってまた勉強に励む。試験までは二週間しかない。タイムリミットはあまりない。あまりにも学生らしい悩みに、我ながら本当に自分が高校生になってしまったと勘違いしてしまいそうだ。納期だとかノルマだとか、その手の強制力のある数字に追われたことあれど、試験日に追われたことは一度も無い。ビジネスと学生では考え方が違う。ビジネスはやらねば先が途絶える。学生は逃げても次が与えられる。過去の僕は逃げた。今の僕はどうだろうか。上手くやれている自信はないが、僕なりに努力しているつもりだ。
僕はベッドの上で日本史の参考書を開く。
最近知ったのだが、学生をするにあたり、大事なのはモチベーションと危機感の管理だ。モチベーションは飴、危機感は鞭となる。
ベッドで参考書を開くのはモチベーションのためだ。どうも僕は勉学のため机に齧りつくことに一定のストレスを感じるタイプだったみたいで、ストレスを減らすために図書館やリビングと場所を変え続けて、気付けばずるずるとベッドまで後退してしまった。本当は良くないことだと思う。でも勉強時間をゼロにするよりはマシと考えて、暗記科目だけはこうやって居心地の良い場所でやることにしている。
危機感の管理は沙矢に頼み込んだ。沙矢は僕の頼みであれば大抵は引き受けてくれるから付け込む形になって申し訳ないが、幸いなことに沙矢は喜んでやってくれている。それで時折沙矢は口頭で簡単なテストをしてくれる。大抵は高校一年でも習うような知識問題だ。答えられないと、妹が分かることを兄は分からないという羞恥心が生まれる。これが危機感だ。僕自身の意見として兄は妹の先を行く存在だと思っているから、早いところ頑張って勉学でも兄貴ぶりたい。
要約すれば僕の平日は勉強、勉強、また勉強。
その三連単に尽きる。
■■■ 待ち合わせ ■■■
土曜日。
朝になるとおめかしをした沙矢が先に家を出て行った。前日に聞いていた通りだ。ただ兄妹で出かけるだけなのに何でと問えば『デートだよ?』と答えになっていない返事をもらったのを覚えている。僕に沙矢の考えは分からないけど、予想としては待ち合わせをしてデートっぽさを味わいたいんじゃないかなと思う。考えが可愛い。とても可愛い。こういう妹がいれば僕の人生はもっと明るいものだったに違いない。
沙矢もお年頃だ。恋にデートにと夢を見るお年頃だ。妹の考えを完全に読むことは出来ずとも、何を望んでいるのかは何となく想像が出来た
こういうことをするのは兄妹としてあまり良くないんだろうけど、良い機会だ。
普段から世話になっている分は、こういう日に返さないと。
それで僕は密かに買っていた服を身に付けた。
この日のため僕は沙矢を出し抜いて駅前の服屋で上下揃って見栄えの良いものを買ってきたのだ。残念ながら僕はファッションセンスとは無縁だからマネキンのまま一式揃えてしまったけども。おかげで店員からは苦笑されてしまった。それ以外は特に何も言われることはなかったが。まあ他人からの苦笑と10万円で沙矢の機嫌を買えるなら安いもんだ。
にしても高い服……か。
高価な布切れが僕の人生で必要になることがあるなんてね。
袖を通してジャケットを羽織る。違和感。ラフなシャツと違ってあちこちが引き締められる。制服とも違う閉塞感だ。自分が格好つけてるみたいでほんのりこそばゆい。でもこれも沙矢のためだ。必要経費。僕は浅く息をついて、ジャケットの襟を整えた。
慣れない感覚を纏いながらも沙矢から15分遅れて僕は外に出た。荷物は財布と携帯のみ。
待ち合わせ場所と一方的に通達されたのは駅前広場にある交番だった。
今日の天気は都合がよく、晴天だった。少しずつ残暑が薄れてきた今日この頃。
何だか歩くだけで視線が集まっている気がする。気のせいか。気のせいじゃないな。
思わず今の僕の状況を考える。
僕の顔立ちは美形というほどではない。モデルの勧誘をされたことはなかったし、女の子から告白されたこともなかった。前の世界では、という注釈付きではあるけども。
となるとやっぱ服装か。そこまで派手なつもりじゃないんだけど、整然とした服装をした男が一人で歩いていると注目されてしまうらしい。面倒だな。この世界は。
粘っこい視線を振り切るように早足で歩けば、駅はすぐそこだった。
目で沙矢を探す。
いた。交番の前で手持ち無沙汰に携帯を弄っている。
朝に一回見ていたけど、随分と気合が入った服装だ。長丈の桜色のスカートに、フリルのあしらわれた白いシャツの上から水色のショールを羽織っている。何と言うか、清廉さを感じるというか。妖精みたいというか。うーん。非常に形容し難い。沙矢の魅力を語るに僕の語彙力が足りていない。これは僕に学が無いからだな。うん。勉強しよう。勉強する意欲が湧いてきたぞ。
帰って教科書を開きたくなった衝動を一旦心に仕舞いこみ、僕は沙矢に声を掛ける。
「待たせたみたいだね、沙矢」
「もう~遅いよお兄っ……!?」
顔を上げると、沙矢は僕の姿を見て言葉を失ったみたいに動きを止めた。これは驚いてるな。驚いてる。あと喜んでいる。なら作戦成功だ。僕も視線に耐えながらここまで来た甲斐があった。グッジョブだ僕。
「どうかな。似合っているといいんだけど」
「似合って……似合ってないし! 全然似合ってない!」
「その服、似合ってるよ。いつもより可愛いし、綺麗に見える」
「誤魔化されるもんか! 今日はお兄ちゃんの甘言に簡単に屈するわたしじゃないからね!」
僕から日常的に可愛い可愛いと連呼されている沙矢は今日くらい意趣返ししたかったのかもしれないが、顔を赤くしながら言っても信憑性がない。まあ、そういうところも可愛いと思ってしまう僕はもう駄目なのかもしれないな。僕にとって沙矢はもう欠かせない妹だ。妹依存症だ。
「じゃあ屈させてあげないとね。デートなんだろ今日は」
「お兄ちゃんがデートって言葉を使うのも禁止! なんか悔しい!」
「理不尽すぎる」
頬を膨らませて主張する。ハムスターかな。
別に沙矢に負けて失う尊厳なんてないけども、これ以上言論統制をされたら学の無い僕は話す言葉に困ってしまう。
言葉狩りに会う前に沙矢の手を引くと、僕は改札へと歩き出した。
■■■ 繰り返す自己嫌悪 ■■■
30分ほどモノレールに揺られた。珍しいことに僕の地元にはモノレールがある。しかも懸垂式。つまりレールが一本あって、そこに乗り物がぶら下る形で進むタイプ。全国でも3つと無い方式とか言われているが、住民からすれば日常に溶け込み過ぎて希少例であるという実感が無い。
交通手段はともかくとして、目的の水族館は海沿いにある。
「久しぶりだなぁこの辺も!」
沙矢は楽しそうに辺りを見回してさながらお上りさんだ。そんな遠い場所じゃないんだけどなここ。
駅前は観光地として整えられている。近くに陸橋から行ける島があって、この周辺のメインディッシュはそこだ。水族館も有名だが、それよりも島の方が人が多いだろう。
沙矢が軒を連ねるお土産屋の一つを指差す。
「お兄ちゃんタコせんべいお兄ちゃんタコせんべい」
「はいはい」
買ってあげた。放っておいたら何回『お兄ちゃん』と言うか数えてみたくもあったが、小さな好奇心で沙矢から嫌われるのは本意じゃない。
「はい半分こ」
買ってあげた大判のタコせんべいを沙矢は二つに割った。片割れを僕へ差し出す。一緒に食べたいってことかな。
「ありがとう。僕も散策するなら食べ歩きしたいと思ってたんだ」
「ち、違うからね! お兄ちゃんのお金だから半分くらい渡した方がいいかなと思ってあげただけなんだから!」
何も言っていないのに沙矢は言い訳をした。僕はどこで沙矢の言い訳スイッチを押してしまったんだろうか。或いは沙矢が勝手に勘違いして自爆したのか。今回は全く自分に非が見つからないので後者を推してみる。
タコせんべいを食べつつ水族館を目指す。歩いて15分くらいと散歩に丁度いい距離だ。
少しして道路が開けて、太平洋が姿を見せる。ギラリと刺すような太陽の下で穏やかに砂浜へ波打つ白波を見て沙矢が声を上げた。
「ん~潮の匂い~! 海だね~お兄ちゃん。何年振りかな。小学生ぶり?」
「どうだったかな」
久しく感じていなかった罪悪感を刺激されて、反射的に覚えていないふりをした。波のさざめきに気を取られてか沙矢は僕の様子に気付かない。
僕の知らない"この世界の僕"は今日と同じく沙矢と海に行ったのだろうか。多分その時も両親は不仲だったろうから、僕と二人きりで。考えるだけで脂汗が出そうだ。
僕はこの事を抱え込み、まだ消化せずにいた。
違う世界の未来の僕は2013年にいる。では過去の僕は何処に行ったのか。この一カ月の間で何度も僕は考えたことがある。考えても解決することは絶対に無いし、実際、未だに何も判明していないのに。
この世界に戻り、困惑が渋滞した最初の頃と違ってある程度余裕が出てきた僕は、可能性について何個も思考した。この世界の僕が消滅した可能性、元々僕がいた世界に飛ばされた可能性、etcetc。
見方によれば僕と"この世界の僕"は別人物だ。
可能性の一つとしてだが、僕は平凡な男子高校生の存在を上書きしてしまった。魂を消してしまった。そうも取れる。
そして、それは殺人と何が違うだろうか?
僕は人を殺してしまったのだろうか?
悪い方向に転げ落ちた思考は滑落し続ける。
でも、真実は誰の手にも明かすことは出来ない。
それはとても残酷なことだ。
無実かもしれない。冤罪かもしれない。
その余地がある限り僕は無実に縋りそうになって。
同時に、罪であるかもしれないと怯懦に震えて。
「───っあれお兄ちゃん。そんな立ち尽くしてどうしたの? 顔色悪いよ?」
「……何でもないよ。さ、水族館行こうか可愛いお姫様」
「ちょっとそういうの恥ずかしいから止めてよね! 私だから許すけどお兄ちゃんにそんなこと言われて嬉しくなる妹なんてこの世界に1人も存在しないんだからねそれを肝に命じて次は蹴る!」
下手な口車になった自覚はある。慌てて取り繕ったが、僕は呆然と海を眺めていたらしい。
僕はいつも通りの姿を見せられただろうか?
残暑に照らされて朱色に染まった沙矢の頬を、バレないように僕は横眼で盗み見た。
■■■ 初めての水族館 ■■■
水族館に到着してすぐにチケットを買った。高校生2枚、合計して3400円。論点は僕を高校生としてカウントしていいかというところだったが、例え40歳だろうが学生証を持った大学生は学割の恩恵を受けられる。そんな大人の詭弁を施して自分自身を誤魔化すことにした。もし大人1枚で購入したら沙矢から追及を受けるなと思ったのもある。いずれにしても姑息な真似をしている点は疑いようもない事実であった。
「久しぶりだね水族館!」
僕は初めて来たんだよな……。
呑気に隣で言う沙矢にハラハラが止まらない。
ゲートを通り抜けて最初に現れたのはテーマ水槽。暗めの照明にライトアップされたそのコーナーは、時期が10月ということでハロウィン仕様となっているみたいだ。
どこか怪しげな空気に包まれた魚を照らすランプはジャックオーランタンの形をしていて、思わず僕は感心してしまう。水族館っていうのはただ無機質に───というと職員に失礼かもしれないけども───魚群を水槽に並べているだけという偏見を抱いていた。だがここまでユーモアに富んでいるなんて。まるで学園祭みたいな空気感だ。
「わぁ……綺麗な魚たち」
沙矢も水槽の中に見惚れている。泳いでる姿が気になって手元に設置された解説板を読むと、ヒカリキンメイダイらしい。何でも目が光るとか。何でだろうか。興味深いな。
かなり覗き込んで、仄かに魚眼が主張するのが見えた。
「───バァッ!」
水槽を覗き込んでいると唐突に沙矢の顔が正面に現れた。カットイン妹に驚くこと1秒。すぐに気を取り直して僕はふざけた妹の頭を軽く叩いた。念入りに3回叩いた。痛いと言われても知らん。抗議されても僕は悪くないぞ。
沙矢を無視して進む。近隣の海域に棲む魚、深海に棲む魚、ウミガメの砂浜と見ていく。僕の無視に沙矢は懲りたのか、はたまたへそを曲げたのか、僕から離れると水槽の中をぷかぷかと幻想的に浮遊するクラゲを見ていた。
魚を見ていた僕は視線を外して気付く。
多くの客が同性の友達同士で来ているようで、カップル連れや家族連れはほぼいない。如何せん客層が僕の想像と違う女性ばかり。違和感だ。だがこの世界では当然なんだろう。
そう思って、不意に去来した安堵の念に自分で驚いた。
……少し安心したのは本音だった。
違和感があるってことは僕はまだこの世界の常識に染まっていない。前の世界に戻っても苦労することなく元の日常を享受できる。
でも、それが良いことかどうかは分からない。沙矢がいるこの世界で生きるのであれば、もっとこの常識に浸透すべきなのではと思っている。
それで、それで、それで。
結局何が言いたいんだ僕は。また思考の迷路に閉じ込められた気がする。
僕は迷っている。迷い過ぎてる。
矛盾を抱えながらこの世界で生きている。矛盾を見なかったことにして生きている。
流石に良い加減道筋を決めるべきではないだろうか、僕。
「……もしかしてあの男の人1人かな?」
ふと、そんな声が背後から聞こえてきた。
現実に回帰する。
僕は間抜けな顔をしたカクレクマノミを眺めていた。昔この魚を主人公にした映画があったのを連想して、馴染み深い、と言うほどじゃ無いけど引き寄せられてしまった。
映画のストーリーを思い出そうとしていると、再び話し声。
「声、かけてみる? 私、海洋学部だから解説して仲良くなっちゃたりして」
「天才すぎ」
いや、あり得ないだろ。
普通であれば水族館みたいなアミューズメント施設でナンパなんて言語道断だ。恥を知るべきだ。だがこの世界は男女比が狂っているから、その辺りのモラルも若干緩いのかもしれない。
だが僕には安心と信頼の妹セキュリティーがある。
「お兄ちゃん! なに波に打ち捨てられたビニール袋みたいにふらふらと漂流してるの! ほらほら次行くからね」
ずっと視界の端で捉えていた沙矢がピコンと旋毛を立たせるなり、タタタタと僕の下へと帰ってきた。それを見たのだろう、背後の2人は特に未練も見せずに別のコーナーへ声が遠ざかる。
兄として情けないばかりではあるが、僕は女性からのナンパや告白を今も苦手としていた。こればかりは長年の人生の中で人並みの経験値を獲得できなかったことに起因する、和紙に垂らした墨汁みたいに染みついた弱点だ。今後もきっと変わらないだろうな。
だからこういう気遣いは本気でありがたい。
「沙矢、ありがとう」
「これくらい妹として当たり前だよ」
一瞬だけ満面の笑みを浮かべて、即座に沙矢は恥ずかしそうに顔を背けて誤魔化した。
3月が終わる…