あなたの終わりを眠りと共に 作:アメフラシ
「私には……見えないものが見えていました」
より正確な表現としては、見えてはならないものが見えていたの方が近いかもしれません。
私がギリシャに産まれ落ちる前に、私の魂とも呼べる記憶の連続性を与える何かが生きていたのは「日本」と呼ばれる国の都会の片隅でした。信じられないかもしれませんがその国では赤子が確実と言っていいほどの確率で出産に成功するので、私は二人の両親にそれなり程度の祝福をされながら産まれ落ちてきました。
その頃から私はそうですね……産まれてから半年を過ぎる前ですから本当に赤子の頃だったはずです。
意識がハッキリとし始めた私の瞳に映る景色は常に文字と数字に囲まれていました。私が今も稀に使うアラビア数字とその前に書かれた短い単語が視界の中にあったのです。けれど、私はそれを邪魔だと思うことはありませんでした。赤子の虚ろな瞳ではそれを捉えることはできず、しっかりと相手の顔を凝視しなければ、ボヤけた瞳はその数字を確かに映すことはないですし、そもそもの意味もまるで理解していませんでした。
それから数ヶ月の時が過ぎて、私は視界に映っているものが何か理解できるようになりました。
『 運動能力 18 』
普段視界に入れているそれは、私の身体能力や成長率、誰かに抱いている感情を数字にして可視化しているのものだったのです。当時の私はそれを特別なことだということを理解できず、興味を抱くことすらありませんでした。
ええ、便利だと思うこともなかったですよ。活用する機会には恵まれませんでしたから。その増減を見て、動くものだったからでしょう、無邪気に笑う私を見た両親は赤子には私たちの見えないものが見えている、そのように語っていたので、これは私が自らの足で立って歩けるようになるまでのものなのかと心の内で結論付けたりもしました。
この時点で理解できたかもしれませんが、私はとても不気味な子どもでした。教えることも必要とせず、ただ両親の動きを数字が合わさるように真似ることを繰り返せば、大抵のことができてしまうのですから不気味に思うのも当然です。一歳という年齢は早熟と呼ぶにはあまりにも早すぎて、それでいて恐ろしいものでした。
このような不気味な子どもを純粋に愛することはできなかったのでしょう。両親の私への愛情の感情は減少していき、新しい子どもを作るための互いへの愛情だけは上昇し続けていました。
一方、私はその事を喜んでいました。私が両親に与える愛情が両親からの愛情を上回り、仲良くしていて欲しい二人の愛情が高まっていたのですから、赤子ながらにそれを嬉しいことだと思っていたのです。両親からの愛情が赤子からのそれに負けるようなことは、あってはならないというのに……。
母のお腹に新たな命が宿ったことに気づくことができたのは、そのお腹に新たな数字が見えたからです。それが不思議なことに思えた私は母にこう言いました。
ママ、お腹に、誰か、隠してるの?
母は驚愕に目を丸くして父へ連絡をしたようでしたが、私という人間が何か特殊な存在であるということを両親の中で確かにしてしまったのは、これが原因だったのでしょう。
二歳、私が保育園に預けられ始めた年齢です。
今世では精神の成長と肉体の成長が吊り合っていたので気にすることはなかったですが、私は心が自分よりずっと年下の人間たちと共同生活を送ることになりました。
対話をすることの許されない相手との生活は困難を極めましたが、彼らを観察してその異常を、例えば空腹や睡眠欲が高まったことを、保育園の大人に伝えることができれば、泣き喚く彼らのオーケストラを聞かずに安眠することができ、大人たちを観察するだけの余裕も生まれるようになった。
両親はお腹の子どもの世話で忙しく、その子がもし産まれたとして私のような教育にどのような影響を与えるのかもわからない子どもを平時から置いておくわけにはいかなかったのでしょう。
私の瞳が映す情報は、相手のことを見て、聞いて、様々な手法を使い観察することで増えていきました。また、私が私を知らなければ、それ以上の情報を得ることはできないようで、私は鏡を見つめて数時間動かないこともあったと保育園の恩師は語っていました。その恩師は……私が特殊であるということを理解しながら、それを利用して子どもたちを世話する狡い人でした、ですが両親からの否定を心の内で理解していた私にとって彼女は初めて見る存在であり……初恋の相手だったと思います。
そのまま日々は過ぎて、私が四つの頃になってからでしょうか。同級生とも会話が行えるようになり、私という人間が特殊な存在であると自分で理解するようになってからのことです。
両親が私をピアノ、そうですね特殊な打楽器のようなものだと思っていただければ、の塾に通わせることに決めたそうです。唐突に手を引かれ、ひさしぶりの両親との外出に浮かれていた私を待っていたのは長い時間を預けることができる、保育園の延長のような厳しい塾でした。
既に子どもが、妹です、産まれていたからでしょうね、彼らは私を家にいれることすら拒むようになってきました。それによって私は初めて自分が愛されていないということを数字ではなく心で理解することになりました。
意味もなく、望んでもいないピアノの技術だけは上達していき、コンクールなどでも金賞、一番の成績を修めるようになってから見た両親は私のことをトロフィーのように考えているのだと改めて理解しました、彼らの為の人形でしかないということを、私は利用価値があるから手放さないでいるだけのペット以下の存在であるということをです。
何度もこの瞳を潰そうとしました。
こんなものがなければ、私は学校で出会う友のように純粋に両親に愛され、純粋に彼らを尊敬することができたのですから、私はそれを憎み、私をこのように産み出した世界を憎み、最後にはもっと上手く生きることができなかった自分を憎みました。
他者に押し付けられて様々な理想を混ぜて作られた私は既に人の形をしているだけの願望の器でしかなかったのです。そのことを恐れるだけの心すら失われかけ、数字に従うままに誰かの、全ての理想として完璧な形をし続ける。
ピアノを引く時に心が籠っていないと語った一流のピアニストがいました。
彼の語る心を数字にしたものを出力することで彼を涙させる演奏を披露しました。
私の指ではこの音楽は奏でられないと嘲笑う他称最高の作曲家がいました。
それよりも人間が好む音楽としてアレンジすることで彼を絶望させました。
私の私生活の闇というものを暴こうとした大手のテレビ番組がありました。
人々の理想を描いたような日常を見せることで彼らを糧にしました。
完璧なトロフィーならば両親は私を手放さないだろうという気持ち悪い未練を残して、です。
ある日、両親が死にました。
それは海外で行われる演奏会に呼ばれ、実際に演奏している最中のことだったらしいです。
私はその事実に無感動でした、二人がどのようにして死んだのかもまるで覚えていません。
ただ、私はそれを聞かなかったことにするように伝え、演奏会を中断することなく、彼らの葬式に立ち寄ることもなかったです。
人々の願望の器、その形であるためには、海外からでも駆けつけるような人情が求められたのでしょうが、日本にいる数人の親族の願いよりも、私の演奏を望む世界数億人の願いを叶えることがより完成されたトロフィーになるために求められますから。
私は既に終わったはずの理想に囚われたまま。
「お前は……いや、やりたいこととかはないか?」
「いえ、こうやって世界中の人々に私の演奏を届けることこそが……」
「違う……お前がやりたいことだ。例えば…旨いものを腹一杯に食べたいだとか、好きな女優さんに会ってみたいとか……あと、そうだ、キャッチボールとか」
「大丈夫ですよ、私は。そのように思っていただけるだけでも素晴らしいことです」
「はぁ……こいつは重症だな」
「あなた、そんなことを言っては駄目でしょ。観音くんも……いえ、そうね、何か食べたいものとかないかしら?」
「でしたら……」
そのことに気づくことができたのは叔父と伯母に拾われてからですかね……。
両親が死んだ時に私を引き取ろうとしてくれた人は星の数ほどいました。
音楽の発展に尽力する資産家。
自らの技術の継承を望むピアニスト。
数多の著名人が私のことを望みました。
妹ではなく……です。
それが私には理解できなかった。
私がどれだけ望んでも得られなかった愛を、ただ二人の娘だからという理由で受け取っていた彼女を欲するのではなく、私のことを欲した。
それが恐ろしかった。
それが理解できなかった。
だから私は選びました。
「おお……なんか思ってたよりイケメンだ。こほん、私は鈴音と申します。お兄ちゃんのことはテレビとかで知ってたけど、こうして顔を合わせたのは初めてだったり……あ! どうせなら漫画とかどうですかい、何かインスピレーションになったりしますぜ」
妹を、愛を受け取って生き続けた少女がどのような存在なのかが気になって唯一彼女を引き取ることを選んだ叔父と叔母の養子になることをです。
前のように新しい家族の理想であることを望む私に、三人は笑って語りました。
私たちの前でくらいは自然体でいて欲しい……
それは残酷で、厳しい言葉でした。
既に自我を歪められ、数字の奴隷として、人の願望として生きることが自然体と成り果てていた私に最適解を示してくれないのです。
完璧で、理想的で、誰もが望むような私を。
原型すらわからないままに、私という奴隷は数字を憎みながらも盲信することしかできない。
結局は諦めてしまっている私を三人は何度も、失った心を満たそうとしてくれました。
そして……
ある日のことです。
妹と共に書物を買いに行く時の帰り、それは起きました。星の数ほどある確率の一つ、制御を失った自動車、鉄の塊のようなものです、が現れて人間を轢き殺すという私の世界では典型的な物語の結末。
それが妹を轢殺する数字を見ることなく、いつの間にか、体が動いていました。
この瞬間に、最初で、最後に、数字の呪縛から解放されました。
その時に、微睡みの中に沈んでいく私へ「何か」が語りかけます。ここ以外の世界でもう一度人生を送らないかと優しい声が語りかけます。
貴方は私に何を望むのですか?
虚ろな意識でいつもの言葉を吐き出しました。語りかけた「何か」は私の質問に人理のために、獣との戦いのためにと呟き私に一つだけ望みを叶えると口にしました。
この数字に支配される私を、数字の奴隷として生きることを選び、定められた生き方を最悪の形で望んだ私のこの呪縛を、解き放って欲しい。
「形すらなくなった私に、新しい本物をください」
願いは一つの形となって叶えられました。
ギリシャ神話において人間と交わることのないニュクスやエレボスに肉親として認められるような未来ではあり得ない「新しい英雄」の形を与えられました。
この瞳を、観察するための五感の一つを封じることを正当化させてくれる都合のよい瞳を与えられました。
そして数字の力を完全に閉じ込めることができる都合のよい力を持ったゴーグルを作り出せる神との縁を与えられました。
そして、私は気づきました。
結局、こんなものは数字の奴隷だった頃と何も変わらないのです。ただ声の望むように生きて、望むように死んで、全てに忘れられる頃に私は「何か」の望みを叶えるために戦うことになるのでしょう。
それが嫌だった。
それが怖かった。
二度目までも誰かの望まれた形として生きることになるのが怖かった。まだ、三人との約束を果たせていないのに、私という人間が三人の願いを叶えていないのに。
私は……
「私は……」
『私はこの数字に、貴女の語る魔術の産物に、従わないで生きていたい。定められた起源であるだろうこの数字によって生きていたくない……』
ふぅ。
「こんなところでしょうか?」
キルケーに彼の話は理解できなかった。
ギリシャにおいて輪廻転生というものを理解するのは後に生まれるオルフェウス教くらいである。
全ての言葉を脳内に保管して長期記憶の檻に閉じ込めることはできても、それはきっと理解からは程遠いだけの記憶でしかない。勿論、女神に記憶してもらえることは光栄なことだろうが彼が望むのはそれではない。
結局は他の英雄にもてなしの際に口にする慰めと変わらない、そのことを、人間と長く関わってきたキルケーは知っていた。
だから……
「君の言葉の全ては理解できなかった」
「ええ、それを望んで話したわけではないので……ただ吐き出したかっただけです」
「でも、一つだけ理解できるものはあったよ」
求められる形であり続けて、自分という存在が歪められて希釈していく。
「それは、私たち神と同じだ」
古く、キルケーという女神は月の女神であったと伝えられている。月というものは古来の人間にとって昼を照らす太陽と対になるような存在だった、太陽の光を受け取って輝く紛い物でありながらだ。
キルケーは数多の人間にとって崇拝の対象であり、数多の願いを受け止めて返していた。
月という清廉な存在の象徴だった。
彼女の役割はセレネという女神に奪われた。
時が流れ、彼女よりも月という象徴に相応しい女神が現れたのだ。ヘリオスと対になるほどの強力な女神を人々は求めたのだ。
そしてキルケーは堕落し、月の女神としての神性は夜の女神として……醜い、ふしだらな形としての愛を司るものへと変じた。それでも、彼女は人を愛し続けた。
どれだけ忌み嫌われようと、彼女はひたすらに人を愛し続けたのだ……いつかのように人に畏れられ、強く信仰されるようになると信じて。
そして奴らが現れた。
遥かな空から現れたその女神によって、キルケーの存在は完全に信仰を失うこととなった。
アフロディーテ、美の女神であり、オリュンポス十二機神の中に夫を持ちながら、他の神との不貞を繰り返す女神が。彼女はキルケーに残された最後の信仰を奪い去った後に、ただの美の女神であるとでもいうような顔をしている。
キルケーは人を愛することをしなくなった。
キルケーは自らを謁見する時に人が見せる恐怖と勇気を混ぜたような複雑な感情が好きだった。人々に忘れられながらも摩耗しながらも、その心だけは、人間の輝きだけは愛していたいと願っていた。
けれど、アイアイエー島に現れる英雄たちは自分のことを忘れてしまった。女神としてではなく、ただの魔女として扱うようになったのだ。
それが嫌だった。
だから、豚にして、獅子にして、鷹にして、彼らを手元に置いて満たした。なけなしの自尊心を、彼らから感じられる恐怖で満たしたのだ。それは畏敬ではない、単純で純粋な恐怖でしかなかったのに、キルケーはそれにすがった。
「私もそうだ、それが本当に恐ろしかった。自分が自分でなくなっていく恐怖が耐えられなかった」
でも。
「君は取り戻した」
君から感じられた畏敬は私に昔を思い出させた。
「例えそれが今際の際であったとしても、君は歪められた自分から心を取り戻した」
だから。
「君はとっくに自由なんだ」
誰かに定められた?
「そんなものギリシャでは当たり前のことだ」
運命の三女神によって決められている。
「でも、稀にその糸から逃れるものもいる」
君に諦めてほしくない。
「この大魔女が……」
いや。
「女神が、君だけの信仰で生きる女神が」
この私が。
「このキルケーが保証しよう」
いつかの英雄たちのように。
「君ならその糸から抜け出して、君だけの物語を紡ぐことができるようになると!」
それは青年にとって救いであった。
「私は……でも」
けれど。
「でも、じゃないよ」
青年は。
「いや、違うんです」
彼女を。
「何がだい?」
女神を。
「神が人に歪められるのだとしたら、私だけの信仰で生きる貴女は既に私の望むような女神になってしまっていることでしょう」
キルケーを。
「私が、貴女を歪めた!」
不敬にも。
「貴女を都合のよい存在にした!」
悍ましくも。
「あなたを……わたしがゆがめて、わたしが、わたしがだれよりもおそれたことを」
望み。
「あなたにねがいをおしつけた」
歪め。
「わたしのすきな……あなたというきょぞうを」
愛してしまった。
女神を愛した者の末路は救いのない絶望だ。
その命は神の前では朝露が枯れるような短い時間の愛でしかない。けれど人は強欲だ、その愛を永遠にしたくて、数多に愛されることで育つ女神の命を一人に留めてしまう。
これがただの女神であれば、この物語は彼の死と共に女神がゆっくりと枯れて死ぬことになる。
けれど……
「君は、好きな人と出会う時に化粧をする女に自分が彼女を歪めたと嘆くかい?」
女神は滴り落ちる雫を拭う。
「え……」
青年は首を横に振った。
「人間は、相手が誰であったとしても理想を押し付ける。君はそういう人間だと、君はそういう神様だとね……けれど、それは当たり前のことだ」
女神は笑った。
「誰だって人の心はわからない、だから推測するしかないし、常に百点を出すことはできない」
それは白く清廉で。
「君にはそれが見えていたから、そんな当たり前のことを自らの罪として抱え込むことになった。でも、君がそれを恐れる必要はないんだ」
まるで。
「私は、君に愛されたい、君が愛してくれるような私でありたい、これはそのためのお化粧さ」
夜空に満ちる月のようだった。
夜の闇がアイアイエーの空を支配する。
この美しい夜にはきっと。
この素晴らしい夜にはきっと。
月明かりだけで十分だろう。
二柱はただ、心に抱えた闇を晴らしたら青年を、幸せそうな表情で眺めていた。
夜の闇が更けていく。
今宵、ただこの一夜でだけ……
女神はもう一度、月を司った。
『運命の三女神の次回予告のお時間です』
『前回はしてやられましたが今回こそは』
『我々の使命を果たしましょう』
『さて、物語はエピローグのような雰囲気に』
『ここから先は蛇足かもしれませんが』
『どうぞお楽しみください』
次回 巨人と青年期
『『『さて、今日も糸を紡ぎましょう』』』
妹ちゃんは刑部ちゃんから美しさを少しだけ削って生活力を足したら完成です。ちなみに、本作の設定はダゴンくんによって作られました。
あと、感想に千里眼持ちがいて焦りました。
どちらが先?
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一話完結のギリシャ異聞帯
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短編のオケアノス
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幕間の二人