あなたの終わりを眠りと共に 作:アメフラシ
「あらら……思ったよりも早かったね」
「ああ、俺もここまで早くなるとは思わなかったよ……楽しかったぜ師匠」
「いや、死んでないけどね」
神速。
そう呼ぶのが相応しい槍が私を貫いた。
六年、アキレウスが夜の私に勝てるようになるまでの時間、最後まで勝たせるつもりはなかったのだが結局は体の衰えと想定していた成長曲線を軽く超えていった彼の槍を回避することも、受け止めることもできずに負けてしまった。まあ、死んではないため実戦ならまだ戦えるのは確かなのだろうが、どちらかにとっても致命傷に成り得る攻撃の火力が高すぎるためこの辺りで終わらせておいた方がお互いのためだろう。
とはいえ、負け惜しみをどれだけ口にしたところで決められたルールの中で敗北したのは事実、この六年の間に知り合いの死に触れてきたこともあって、自らの生きた証のようなものを誰かに託すことができたのは喜ばしいことなのかと思ってしまう。ヘラクレスは誰かに流派を託すこともなく死んでしまったのだから、それと比較すればアキレウスのように賢く強い少年に私の戦い方を託せ……いや、基本的には待ちの私と違って完全に攻め姿勢である彼に私の技術を継承できたと言えるのか。とはいえ、相手を見る瞳は確かに教えられた。パンクラチオンの技術と引いたら負けるという姉貴に教わった鉄則も教えられただけ良かったとしよう。槍に関しては素人と大差ない、体術の延長線に習得しているだけのそれを変に学ばせるよりは彼なりの最高峰を生み出せただけケイローン先生も喜んでくれるだろう。
……けれど、悔しいものはある。
こうやって敗北した経験というものがヘラクレス以外になかったことは、今世の数少ない後悔なのかもしれない。敗北して学習する度に人は成長するというが、こうやって悔しさを覚えるほどの敗北をしていながら鍛え直すことも許されない年齢になってしまったのは残念だ。あの速さを数字で見ることができても対応できなくなってしまった衰えた肉体、全盛期のアルゴー号で航海をしていた私だったら見てから回避することもできていただろうか。
戦いに酔う愚かさを持つことができないまま、理性的に生きてきた結果が今の私であり、この生き方を選ばなければキルケーさんと出会えなかったのは確かなのだろうが、修羅となった己の姿を思い浮かべてしまうのは一度の転生で調子に乗っているからなのだろう。体こそ星座となったが夢の中で研究に励んでいるアスクレピオスから聞いた60年生きるは冗談だと今になってわかる、死が近づいていることが理解できてしまうのだ。だからこそ二度とない次の転生について考えてしまうのだろう。
「どうだったかい?」
「はい、負けましたよ。盛大に」
「ふふふ、それは良かったね」
「ええ、確かに」
キルケーさんの嬉しそうな笑みが少しだけ腹立たしいが、毎晩あれだけ暴れているというのに子どもが産まれなかったことが不満だった彼女はアキレウスを実の子どものように思っているらしい。こればかりは私に責任があるのかもしれないため仕方がない、私も同じように彼を自分の子どものように思ってしまっていることは確かだ。今世の父親は自由人であり育てられたこともなく、前世の実父にまともに育てられた記憶もない、私の記憶の中にある父親は叔父の厳しさ、何かと辛い思いをさせてしまったのかもしれない……キルケーさんが甘やかしがちだったため、それで良かったとは思っている。それなりに懐かれてはいる自覚はあるためギリシャの子育てはもっと厳しいものだったのだろうか。スパルタでは体の弱い赤子を山の上から投げ落とすとも言われている、ケイローン先生の私塾は優しかったのかもしれない。こうやって過去を回想する機会が増えたのも……いや、こうやってネガティブになっているのはここ数年で一番幸せそうなキルケーさんに失礼だ。何よりアキレウスの旅立ちというポジティブな話題があるのにも拘わらずそれを喜ばないのは勿体ない。
既に朽ちかけの体を無理に眠らせて、明日には迎えが来ないようにと誰にでもなく願う。せめて、見送れなければこの世にて残す未練の重さに死んでも死にきれない。
「自分の葬式の準備を自分でするってのは流石だね…本当は余裕あったんじゃないの?」
大英雄ヘラクレスの最後は呆気ないものだったが、そうでもしなければ彼の伝説を語る吟遊詩人が疲れてしまうのかもしれない、燃えていく彼の体を見て、ふとそんな不謹慎な考えが浮かんだ。盟友であるイアソンが伝説的な最期を遂げて終わったこともあって少し寂しさもある終わりだった……妻の疑心によって自らの先生を殺したヒュドラの毒を塗られたシャツを着て死ぬという誠実な彼の死因とは思えない筋書き。十の試練、それに追加された二つで十二の試練を終えた彼が更に成し遂げていた伝説は吟遊詩人がその町に留まっている間までに語り終えることができないほどにまで膨れ上がっている。
ヘラクレスの威光というものは彼の機嫌を損ねさせたイオルコスの王を噂話だけで失脚させるほどになり、彼一人が率いた軍勢が数多の国を下したほどだ。
ヘラクレスというものはある種の災害にまで達していた。人として見られることを何よりも望んだ彼の意思に反してその功績が大きすぎたのだ。
イアソンがヘラクレスが王になる前に自分の国へ招きたかったと嘆いていたのを思い出す。こうやって灰になりオリュンポス山の頂へ運ばれる彼の姿は満足には程遠く、その苦しみを支えられるような友と出会うことすら許されなかったその王としての生き様はどうにも息苦しいように思えた。
「君が投げ出すと叫べば力を貸す者は、少なくともアルゴー号で共に過ごした英雄たちは迷わずに手を差し伸べただろうに……」
貴方は真面目であったから、その手を払い除けたのかもしれない。それでも、どこか吐き出せるような人間がいれば旅立つ時にヒュドラの毒による燃えるような痛み以外の悲しみに満ちた表情を映すことはなかったのではないかと、そのように思うのは……その苦悩を知りながらアイアイエーの空を眺めるだけの日々を送ってた私がそのように思うのはきっと卑怯なのだろう。
彼が普通の力で、何の使命も持たずに産まれたのならばどうなっていたのだろうか。女神に狂わされることもなく、幸せな家庭を築いて、ただの人として子どもたちに後を惜しまれながら床についていたのではないのか、そのような妄想が頭を廻る。
確かに君の死に、君が自ら集めた丸太の棺に火をつけた息子は涙を流しているとも。けれど、星の数ほどの運命の糸の中でこの険しい道のりを選び、この地上の多くの人間に尊敬され、遂には十二の試練を果たし王となった。そんな君のために流されている涙のどれほどが真実なのだろうか。私にはそれがわかる、けれど目を閉じて笑うことにした。
ヘラクレスの友人であるピロクテテスが流す真の涙を見てらしくもない考えが頭を過った。この場にいる人間でヘラクレスの死にある種の無関心を持つものの何と多いことか、彼らに見えているのは一人の絶対者によって作られたような今の国から、利益を貪ることのできなくなるその国から逃げることだけだ。自分の私腹を肥やすことしか考えていない。利己であることを否定することは絶対にしてはらない。それは人間である限り生きるために必要な本能のようなものなのだから。
ヘラの栄光、その終演は女神ヘラとの和解。
最後までイアソンに加護を与えるような見る目のある女神があのような暴挙を働いてしまったのは間違いなくゼウスの愚行によるものなのだが、ヘラが彼を許すことが結末とすればどうにも納得がいかない。ヘラクレスは徹頭徹尾神の被害者であり続けたのだから。ギガースを倒すために生まれたにも拘わらず、神々の女王に恨まれて家族を失った彼が許す側であるべきだろうに。
ここまで長く生きての結論がこれなのは幼稚なように思えてならないが神というものはどうにも理不尽だ。絶対者であることは確かでも、見返りを渡すだけの慈悲はあるとしても、このあり方はタナトスの語っていた災害を引き起こすだけの矮小な神と何が違うというのだろうか。
「……ままならないね」
息を吐いた。オリュンポスの頂にまで届くほどの深いそれは、彼の灰を少しだけ散らした後に空気の中へ消えていった。
「ふふふ、キュケオーンをお食べ」
「ああ、そっか……なんつうか、その」
「……おかわりもあるからね」
朝、歳を重ねると起きるのが早くなるというのが通説なのだろうが、私はどうやら逆のようだ、日課の掃除ができなくなる程度には起床時間が遅くなってしまった。二人が仲睦まじく朝食を食べているところに出くわすことになるのも日常となりつつある。別れの朝なのだから早々に目を覚ませと言われてしまえばそうかもしれない、けれど私がいないところでなければ話せない話題もあるだろうと耳をそばたてて息を潜める。お互いに長い時間を共に過ごしただろうにどうにも緊張が抜けていない二人は、少しだけ塩味が強いキュケオーンを口に含んでは言いたいことを掻き消してしまう。
やがて、食べるものがなくなったアキレウスが自然と口を開くことになる。
「……なあ、かあ……いや、キルケー……さん」
「なんだい?」
「その、あれだ、今日も……いや、今更だって思うかも知れねえけどさ」
「……」
「俺は、あんたとモルスさんのことを家族みたいに思ってる。俺が息子で、二人が親父と御袋でな」
「うん」
「だから、こんなに遅くなっちまったけど……俺に二人の子どもだって名乗らせてはくれねえか?」
「……うん!」
ああ……いや、立ち会っておけば良かったかもしれない。こうやって妙なお節介をしてしまうから、大切な場面を見逃してしまいそうになるのだ。
とはいえ、ニコニコで抱擁するキルケーさんとアキレウスの姿を見てしまうと出てくるタイミングを逃してしまったのはいただけない。けれど彼を送り出すのを布団の中で済ませるのは、私のなけなしのプライドが許さない。顔を洗ってからつい先ほど起きたかのように居間へ向かえば、当たり前ではあるが既に朝食を終えていた二人が私を待っていたようだ。
眠りの神の息子らしい起床時間になったじゃないかと笑う彼女に父さんも僕の息子らしくなってきたと笑っているだろうさと返して腰を下ろせば少し間を置いて決心したような顔のアキレウスがいる。あれをもう一度話すともなると羞恥はあるのだろう、そそくさと台所へ行ってしまったキルケーさんを横目で眺めながら決心を固めた彼は鼓膜を破壊するほどの大声で叫ぶ。
「俺に、あんたを親父と呼ばせて欲しい」
「許す、そこまで名のある英雄ではないし君に背負わせるには軽い荷物だろうが」
「そんなものが欲しい訳じゃねえよ。あんたと母さんと嘘偽りなく家族だって言ってやりたいだけだ」
ヘラクレスはケイローンが死の淵にいた時に、アキレウスが彼を父と呼んでいたと語っていた。彼の偉大なる英雄たちの師と同じように思ってもらえたと考えれば、私の教えというものが報われたように感じる。この若い英雄の未来が素晴らしいことを願う。けれど、彼のような、勇者のような華々しい終わりは必要ない。鮮烈に生きて花火のように消えることは望まない。
もしそれが彼の運命だというのなら……ねじ曲げてしまえばいい。神の言うことが運命だというのは人の思い込みでしかないと言い聞かせる。
「ドラゴンと相討ちね……旅の相棒であったメディアと共に国を襲う悪竜を撃破して死ぬ、君らしくない死に様だよ、本当に」
ヘラクレスの葬式を寒々しく感じたのは、この温かさに触れたからかもしれない。英雄イアソンの死に様は竜の吐いた火の中に飛び込んで剣を突き立てることによる相討ちだった。
彼の葬式は、既に灰となった彼の体ではなく彼の身に付けていた王冠を形代として行われた。彼は決して有能な王ではなかった、政治手腕においては彼に王位を譲らなかった先代のイオルコス王の方が優れていた、尤も、彼は怒れるヘラとアルゴー号の祝福したアテナのメンツを丸潰れにしたことでタルタロスで責め苦を味わっていることだろうが、けれど、イアソンは自身が特別に優れた存在ではないことを誰よりも知っていた。故に多くの知識人を顧問として取り立て政治に参加させた。多くの人々を取り込んでゆっくりと国を成長させた彼は数多の人々に慕われた。
王になったその経緯がその国の王に気に入られたところから始まったとは思えないほど多くの人間が彼の死を悲しみ涙を流した。我らの賢く、勇ましく、愚かな王、ほぼ完全な議会による政治をしていながら頑なに自分が王であると、この国は王政だからと語るだけのユーモアも彼が人気の王としてこの国に根付くことになった理由のひとつなのだろう。
「許してもらえるとは思っていないわ……」
「……その雰囲気からして、前までの記憶がないなんてことはなかったのだろうね」
「ええ……」
「許すもなにも、あいつの選んだ道なんだから私に謝る必要はないよ。寧ろ私の方が君を疑ってたことを謝りたいくらいだ」
イアソンの死がメディアの呪いを解くために必要なことだったと知るのは、彼の妻であるグラウケーと私の目の前にいる彼女だけとのことだ。グラウケーさんともお話をしたが気の強い女性でイアソンが好きそうな人だった。
メディア、私の知る限りでは最高峰の魔術師の一人である彼女が呪われるわけもないと思い疑心に駆られる気持ちもあったが、その呪いをかけたのがアフロディーテ、神であると聞かされてからは納得ができた。
数多の冒険を共に乗り越えて、エロスやアフロディーテと出会いながらも当の神はそのことを覚えていなかったことで結局どうすることもできず……愛の呪いに焦がされていた彼女はイアソンとの関係を友情だと捉えていたらしく、彼も同じように思っていたようだ。
友との冒険、その果てに辿り着いたはずの到達点でも呪いを解くことが許されなかったイアソンは遂にはその呪いの対象である己が死ぬことでしか、それを成し遂げることができないことを悟り、息子たちが成長するまでの間、メディアと最後の想い出の冒険の旅に彼女の師であるヘカテの元へ向かった。その終わりに自らを殺すようにメディアへ語ったそうだ。
友人の長い時を奪ってしまった贖罪として、その表情に未練も恐怖もなかった……らしい。きっと震えていたのが乙女のフィルターには見えなかったのだろう。
メディアを誰も恨まぬよう、彼女が祖父から贈られたドラゴンを使っての手の込んだ自殺によって彼女は解放されたとのことだ。
後味の悪い後悔を残して。
「私はこの国を守り続けるわ……彼が残してくれたものを守るために……」
「そうかい……私は嬉しいよ。あいつが多くの人々に好かれて、死を惜しまれて逝ったことが」
「私は悲しいわね……彼が逝ったことが」
魔女、私の姪になった彼女ともに燃えていく棺を眺める。誰もいない棺に手を合わせて涙を流す人間の美しさを見た。
「エリシュオンで待っていてね」
彼の勇気と努力が生み出したこの光景。
やがて、流す涙も枯れ果てた人々が口角を上げて笑う、きっと彼ならそれを望むだろうと。
「それじゃあ、行ってくる」
「うん、頑張っておいで」
「辛いときは帰ってきてもいいんだよ?」
別れの時が近づいている。
砂浜、浮かべた小舟に乗った私たちの息子が巣だって行く、一日にも満たなかった家族としての関係はこれからも続いてくれるのだろうか。
「いや、帰らねえ。帰るにしても何かデカイことを成し遂げてからだ」
「そうかい……」
「私が死ぬ前には立ち寄ってくれるなら嬉しいよ」
決意を固めたアキレウスは波を掻き分けるように、この島から遠ざかっていく。せめて、その影が見えなくなるまでは……。
「あはは……初めて貴女の前で嘘をつきました」
「構わないさ、ここまで良く頑張ったものだよ」
アキレウスとの日々は確かに美しいものだった。
既に年老いた私の体を蝕むような戦いの日々は、少しばかり無茶なものだったようだ。
女神が人の死期を悟れないわけがない、私が明日にでも終わることを彼女は誰よりも理解している、けれど彼女は気丈に笑ってみせた、あの日の誰かと同じように。
「何か、何か貴女に残せるものがないかと探していたんです」
「いいよ、君からは貰いすぎなくらいだもの」
お互いに貰って、お互いに満たして、彼女へ渡すものなんて何一つないくらいには近くで生きてきた。この日々が続くだけで満足だった。
「いえ、貴女に教えてもらったことで必要なくなったものなので、受け取っていただければ」
死の淵、既に感覚すら手放した肉体を動かして瞳を抉る、彼女に渡せるものなんて何もない。
「この瞳は、この眠りを呼ぶ瞳は、私が自らの業を静めるためのものでした」
けれど私は傲慢で、強欲だ。
貴女に私を忘れないで欲しい、貴女に私を愛したままでいて欲しい、そのために必要のなくなったガラクタを、貴女が私を覚えてくれるための道具にして繋ぎ止めようとしている。
「貴女が「私」の瞳に許しをくれた。私の咎を晴らしてくれた。ですから、この瞳はもういらない」
既に見えていなかった瞳だ、何が惜しいというのだろうか、君の悠久に続く寂しさを紛らわすことができるのなら、この身の何を奪われようと、例え魂が消えようと惜しくない。
「この人生は……素晴らしいものでした」
「……そうかい、私もそうだよ。君と比べたらずっと長い命だけど、君と出会ってからの、君の人生に刻まれた、君が刻みつけた『私』は確かに幸せだった」
君の声も聞こえない。
君の姿も見えない。
君の香りも感じない。
君の温もりも感じない。
『お休みだ、僕の愛おしい息子よ』
『……迎えに来たが、未練はなさそうだな』
「さようならキルケーさん……また会える日まで」
「……ああ、そうだね。信じるよ、私も」
このギリシャの大地を生きたモルスという男はこの日に死んだ。多くの人々に慕われながらも葬式をあげられることもなく一人の魔女に埋葬された彼の遺物は、この時代のものとしてはあり得ないほど正しい形で残された。その甲斐もあり、ギリシャの英雄の中ではローマでも改変されることなく残り続けた数少ない原型のままに、その司る概念からローマで随一の知名度と人気を持つこととなった彼はローマの時代に『モルス』という安寧な死を意味する言葉の語源となった。
『おひさしぶりです』
「あ……ああ……」
けれど、その死に気づく者も、その死を悲しむ者も、ただ一人だったと伝えられている。
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