あなたの終わりを眠りと共に   作:アメフラシ

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英雄の死

 

 イオルコスへ帰ってきたイアソンを笑顔で迎えてくれなかったのはその国の王だけであった。その五人の娘たちは従兄弟であるイアソンの偉業を称え、相手がいないのならば自分がと思う程度には彼のことを気に入っており、国民たちの多くも、今の王も悪くはないがイアソンが王になるのだろうと漠然とした期待に胸を躍らせていた。

 

 アルゴー号に乗っての旅、ギリシャにおいて最も人気な女神の一人であるアテナに見送られて始まった旅は数多の栄光を積み重ね、様々な困難を乗り越えて遂には終わったのだ。途中でモルスが離脱することが確定したことで数人の英雄が離脱することにはなったが、メディアが作成した記憶の中の景色をそのままに投射し、動かす魔術によってなんとか復活、これがなければ彼らはこの国まで帰ってくることができなかったかもしれない。

 実際、出港の日の前夜に行われたオルフェウスが演奏し、モルスが歌って踊る芸を披露した光景の記憶を封じた魔術はイアソンたちがイオルコスに辿り着いて少ししてからも、高値で取引されている。仕方がないのだ、アルテミスが着用するような短いスカートを履いて、足を惜しげもなく晒しながら慣れたような表情で歌う絶世の美少年の姿をいつでも見ることができるというのなら彼らは全てを賭ける。一部の下着が見える記憶はメディアが複製しなければ国が買えるほどの値段になりかけた。これには途中離脱した英雄たちも競りに加わっていたことも原因だったと思うがそんなことはどうでもいい。

 

 そうである、そのことがどうでも良くなるような怒りにアルゴー号の船員たちは駆られていた。

 会話の八割が猥談という男子高校性のような性質をしている彼らが、エロに関する要素をどうでも良いと投げ捨てられるほどの怒りに染まっているのだ。これは天変地異が起こりでもしない限りはあり得ない異常事態である。

 

 

「……イアソンを殺せ」

 

 

 それはイオルコスの王の下した愚かな命令によるものだった。金の羊の毛皮を取ってきたのだから約束したように自分に王位を譲って欲しいとイアソンは自分の代わりに王を勤めてくれていた彼にそれなりに敬意と感謝を持って語ったのだが、不可能に近い旅路を乗り越えて本当に帰ってきたイアソンの存在に王位を失くすことが現実味を帯び始めた王は彼を殺し、自らの王位を磐石にしようと企んだのだ。この命令には彼に付き従う兵士たちも許せないと義憤に駆られたが、王の元で私腹を肥やしていた一部の兵士や親衛隊はこれに賛同した。

 イアソンは常々から、人々が自分の下で幸せになるような国を作ると語っていた。これは貴族のような立場を持つものからしてみれば何よりも恐ろしいことである。自らが、水を飲むことすら危ぶまれる下々の人間と同じように扱われると思ったからだ。

 

 計画は実行された、コルキスの王女を名乗る少女を連れて毛皮を持ってきたイアソンに数十の兵をけしかけたのだ。これがイアソンだけであったのなら一巻の終わりとなっていたが隣にいるのはギリシャ最高峰の魔術師であるメディアだ、イアソンに頼まれて君が人を殺す姿を見たくないと言われ続けていたことで、軽く光線を浴びせて脅す程度のことで我慢した彼女を突破してイアソンの元へ向かおうとする勇気ある者はこの場にはいなかった。

 

 ここまでならば愚かな王の計略が失敗しただけで終わったのだろうが、これに酷く腹を立てたのがアルゴノーツである。自分たちの旅の意味を無にして、挙げ句アテナのメンツを潰した王に怒りの感情を向けた英雄は多かった。ヘラクレスにテセウスのような影響力のある英雄もいたが、誰よりも怒りに震えていたのはイオルコス王の息子であった。彼は自らの父の愚行を嘆き、打ち捨てられていたヘラの神殿へ赴き自らを生け贄にしてまでこの国の終わりを願ったのだ。彼の望みは彼が刃を首に突き立てる前にヘラが使いに出したヘルメスによって止められたが、その願いを待っていたと言わんばかりに怒れるヘラの力によって、イオルコスは忽ちにして神の加護の届かぬ不毛の地へと変わってしまった。

 その後、王の息子はイアソンに合わせる顔がないと嘆き、それを慰め共に歩もうと願ったテセウスの側近として彼に付き従うこととなるのだが、こうなってしまうと困るのがイアソンである。

 別に特別欲しかったわけでもない国だったが、一応は治めるだけの覚悟をしてきたつもりだ。それが一年も経たずに滅びてしまっては治める国も何もないではないか……。

 

 とはいえ、自分が王になるよりもメディアの呪いを解くのが先であると考え旅に出たイアソンは共に付いていくと決めたメディアと共に様々な冒険をすることとなった。

 大半はメディアの功績だと彼は語ることになるが、東に呪いに詳しい魔術師がいると聞けば東へ向かい、西に聖なる力を持つ仙人がいると聞けば西へ向かい、北にアフロディーテが現れたと聞けば北へ向かい、南にエロスが現れたと聞けば南へ向かった。

 道中で様々な出会いと別れ、激しい争いに巻き込まれることもあれば、華やかな祭りに出くわすこともあった。美人にイアソンが誘われればメディアが顔をはたき、ロリコンにメディアが連れ去られそうになればイアソンが力の限りでメディアを押さえ、この旅にてメディアは誰一人として殺さなかったと伝えられる程度には平和に終えることができた旅であった。

 

 やがて、二人の名がギリシャにも知れ渡ったある日のことである。イアソンたちはコリントスという国へ立ち寄っていた、特別な理由はない、ただひさしぶりに屋根のある宿に泊まりたいと思っていた二人の意見が一致しただけに過ぎない。

 けれど、有名人である二人に会ってみたいと考えた王によって二人は王宮に招かれる。そこで様々なもてなしを受けたのだが、イアソンはマナーに厳しい人間とケンタウロスに色々と教わっていたため、メディアは生まれが王族であるため、礼儀正しく、王の好感を受けたのだ。

 二人をこの国に留めたいと思っていた王は、二人に城の近くにある豪邸を与えた。呪いを解く手段が見つからずに一度本気でアフロディーテとエロスを探すべきだと考えていた二人は、情報を集めるため、全てを終えた後の安住の地として、コリントスに住まうことを決めることにしたのだった。

 

 この中で、イアソンは王の娘であるグラウケーに好意を寄せられることとなり、メディアにとっても姉のように接してくれる彼女のことを嫌いになることはなかったため、彼らの交際を認めることとした。胸にチクりと刺さるような感覚があったメディアだったが、無二の友であり親友であるとも思っているイアソンの結婚が羨ましかっただけだと何もなかったことだと流した。

 二人の結婚生活は幸せなものであり、メディアも家事や料理が得意なグラウケーからの恩恵を大いに受け取っていた。そして、三年後に二人の間に子どもが産まれることをデルフォイの信託から受け取った彼らは、チャンスは今しかないだろうとアフロディーテとエロスを探す旅に出ることとした。無論、イアソンとメディアの二人でだ。

 

 二度目の旅は三年という短い時であったが、その過程でイアソンたちは遂にアフロディーテと対面することが叶ったのだ。

 彼女にメディアにかけられたそれを解くようにと頼み込むイアソンであったが、女神は意味のないことを頼み込むなんて愚かな人間だと笑って相手にもしなかった。

 あまりの怒りに眼前の女神に殴りかかろうとしてしまったイアソンはヘラの仲裁によって何の成果も得られずに帰ることとなってしまった。ただでさえ数年の時を幼気な少女から奪ってしまったという事実は、比較的良識な彼の心に影を落とした。後に出会ったエロスは自分はこの件に関与していないと首を横に振った、哀れな二人に対して鉛の矢を打ち込もうかとも提案してくれたが、二人はそのことは拒んだ。嫌いになりたいとまでは思わないし、神に意思を縛られている状態から脱することができていない。

 二人はお互いを親友だと認識しており、その関係を除くようなことは決してしたくなかったのだ。

 結局、解決法を見つけ出すこともできぬままに二人はコリントスへ帰ることとなった。この時、イアソンは術の対象である己が死ねば、メディアにかかっている呪いを解くことができるのではないかとも考えたが、今の幸せを手放す覚悟はこの時の彼にはなかった。

 

 やがて、コリントスの王は息を引き取り、王女の伴侶であるイアソンが王位につくこととなった。

 メディアを呪いから救いだすこともできずに、悩んでいたイアソンの尻を叩いてくれた妻と彼女には感謝してもしきれない。イアソンは一先ずは王としての責務を果たすことにした。

 彼の政治は非常にシンプルだった。王という地位以外の上下関係を十年かけて希釈させていき、様々な地位の人々が政治に参加するように仕向けさせたのだ。けれど、競争による争いや差別の可能性を考慮して、イアソンとメディアの二人が見定め、問題を起こそうものなら即座に厳しい罰を下した。イアソンに気に入られようとすればメディアに見抜かれ、メディアに気に入られようとすればイアソンが見抜き……けれども、このような政治体制は、嘘や悪意を見抜く魔術の使えるメディアがいなければ成り立たないことを理解していたイアソンはこれを急拵えの策でしかないことを知っていた。しかし、それでも自らの国の国民が笑ってすごせるようにするために足掻き続け、メディアもそれに従った。

 多くの知識人を集めたことによってその糸口が見え始めた時のこと、既に立派になった息子たちを見てイアソンはいつかの考えを実行することとした。

 

 二人は再度旅に出た。

 冥界に住居を構えるヘカテの元へ呪いを解く手段を聞きに行くことにしたのだ。魔術の神である彼女にどうすることもできなければ、己の死で幕を引くことを選んだのだ。

 既に二十年近い時を奪って、自分に縛りつけてしまった。彼女がこれから生きる時を自由に終えられたのなら、既に王というか国の象徴として半分置物になりつつある自分の命なんて惜しくはないとイアソンは決心していた。

 そして、ヘカテにも解決する手段がないとわかってからイアソンは自らの計画を口にした。

 

 自分が自殺するのが一番早いがそれでは誰も納得することなく終わってしまう、かといってギリシャは平和であり自分が死ぬような出来事はない。

 確か、お前にはドラゴンのペットがいただろう。それを使って私を殺してくれれば、それを追い払っただけのお前も、私も、誰も不思議に思うことなく終えることができる、頼めるだろうか。

 

 メディアは首を横に振った。

 呪いなんてもの、私が耐えていればいいのだから、貴方が気に病む必要なんてないと今までの旅を否定するような言葉を吐いてまで拒絶しようとした。

 けれど、彼の意思は固かった。呪いによってイアソンに肯定するだけの機械になりかけていたメディアの必死の反対も結局は呪いによる肯定の言葉に変わってしまった……それが、呪いによる意思の反転がイアソンの心に更に強い覚悟を芽生えさせてしまったのは皮肉しか言いようがない。

 

 その前夜、二人の息子が働いているのを見ながら、妻であるグラウケーにだけそのことを打ち明けた。これ以上ないほどの罵声を浴びた後に、あんたが決めたことなら、そんなに震えずに胸を張ってやり遂げなさいと涙ながらに背中を押された……イアソンは朝を迎えた。

 

 

 ドラゴンの訪れに数多の人々が逃げ惑う、隊列を組んで戦いを挑もうとする戦士たちを制止してイアソンは矢面に立った。メディアと肩を並べて、魔術を体に付与してもらう演技をする。

 そして、そのまま竜の吐く炎の中へ飛び込んだ。古今東西様々な英雄がいる中でも、火の中に二度も飛び込むことになる男は少ないだろう。

 

 体が焼ける。

 

 皮膚は爛れて溶ける。

 

 数打ちの剣は既に刃しか残っていない。

 

 それでも、イアソンは、英雄は、確かに剣を振り上げ竜の喉元を突き刺した。

 

 無論、その程度で竜が死ぬはずがない、けれど、打ち合わせた通りに痛みで踠き、竜は飛び去っていく。

 

 イアソンは、灰となった彼は既に死んでいた体でタナトスが魂を持っていく前に剣を振り下ろしたのだ。

 王が、自らの命と引き換えに竜を、火を吐けるほど強い竜を追い払ったことに民たちは涙ながらに感謝した。

 こうして、英雄イアソンの命は終わった。彼の物語は彼の妻や息子たちへと受け継がれていくのだろう……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ああああああああああああああああああああ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 残された魔女は慟哭した。

 その灰になりかけている肉体を抱き締めて大粒の涙を流した。落ちる涙が彼の形を消していくのを理解していながら涙を止めることができなかった。

 無理もない、人々は口々に呟いた。二十年以上の時を共に過ごしてきた友人が死んだとなればあのような姿を去らしてしまうのも仕方がない。人々は乙女の涙を隠すために外を向いて人垣となりその姿を彼らの秘密とした。

 

 

「イアソン様、貴方が死んだというのに……この気持ちが、燃えるような熱が消えてくれません。貴方は全てが終わった後に残るのは友情であると、今の熱とは似て非なるものだと語っていたそれが見当たりません。だとすれば私は貴方のことを愛していたのだとでも言うのでしょうか、貴方が魔術を使える私に嘘をついていたわけがない、貴方の言葉は本物のはずです。ならば、この感情をどのように説明すれば良いのでしょうか!」

 

 

 その叫びの意味を民たちが真に理解することはなかったが、人々は乙女が王に焦がれていたことを本人たちよりも深く知っていた。王は男たちですら魅了するほどのカリスマに満ちていた、ならば最も近くで彼に触れ続けてきた彼女が王に好意を向けないわけがないとすら思っていた。

 それが、友情として誤魔化し続けてきたそれが爆発するのを誰が責められようか、誰が愚かだと笑うだろうか、少なくともこの国にそんな人間はいなかった。

 

 

「メディア、イアソンの葬式の準備をしてやらないと駄目だから今は少し落ち着きなさい」

 

「そのような言葉……貴女は……!イアソン様の死に……!何も感じないのですか!」

 

 

 遠慮のない、冷たいグラウケーの言葉にメディアは怒りを見せる。私の次に彼の近くにいて、そのような言葉が出てくるなんて……赤子のように嘆き、悲しむ彼女と対照的な姿に怒りを覚えた。

 

 

 ぱちん……

 

 

 頬に熱が生まれた。

 それが、彼女の頬を叩く音であり、痛みであると理解したのは彼女の瞳の奥に隠された……化粧の裏に隠された涙の跡を見つけてからだ。

 

 

「あんたの悲しみは人一倍わかってるつもりよ。それでも、死んだあいつが最初に望むのはずっと泣いてる私たちよりも、立ち直って笑ってる私たちでしょう」

 

 

 そうだ……そのはずだ……イアソン様は派手なものが好きで、人々の笑顔が好きで、何よりも自分とその近くにいる人が笑っていることが好きだった。

 

 ならば、笑っていなければ……

 

 不格好な笑みは今にも壊れてしまいそうで、繋ぎ止めるためにグラウケーは妹分を抱き締める。それでも頼りないそれを二人の侍女たちが抱き締める。彼女たちの夫が、彼らの友人が、人々は集まり、恋を自覚して、愛を教えられて、それを理解した瞬間に奪われた少女の心を抱き締めた。

 

 もう一度だけ、メディアは大粒の涙を溢した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ……また、寂しくなるね」

 

 

 キルケーが夫であるモルスの死期を悟ったのは彼がこうやって眠りつく一年前のことだった。アキレウスとの生活にも慣れて、彼がうっかり母さんと口にした時にはお祝いのキュケオーンを作ったものだ。

 その頃には彼とアキレウスの実力は拮抗していたと本人が語っていた。長い時を二回の人生を歩いたことで生まれた老獪さがなければ神速の槍に貫かれて死んでいたことだろうと笑っていた。

 君の寿命はこれから生きて一年だと口に出してしまったのは私の一番の後悔だ。君は笑ってなんとなく察していたと語っていたが、これが君の運命を決めてしまったような気がしてならない。

 

 その日からアキレウスとの訓練は厳しさを増していった。既に激しく動かせるのが不思議な体を使って、若い英雄に、私たちの息子に全てを託さんと体を蝕む老いと戦っていた。アキレウスの槍が彼の首を掠めたと聞いた時に、私は喜びより恐怖が勝ってしまった。愛おしい息子が愛おしい夫を殺すのではないかと眠れぬ夜を過ごした。

 

 君が日課の掃除すらできなくなったことを悟られないようにアキレウスが起きる前に私が魔術で掃除をしていた。新品のように輝く床や壁見て、あの人は元気すぎだろとぼやいていた彼に口を開きたくなった。あの人はお前のために死ぬ気で足掻いているのだと伝えたくなった。

 毎回、あと少しで堪えていたそれが吐き出されていたのなら運命は変わっていただろうか。

 

 私を釣りに誘うことすらできなくなり、半ば消えかけていた瞳の光も消え失せ、遂には魔眼を使うこともままならなくなっていったにも拘わらず、アキレウスは君のことを強くなっている気がするとぼやいていた。その命を削ってまで届けた息子はどこまで旅立つことができるのだろうか……。

 

 日常が非日常に変わり、非日常が日常に変わりつつある中でも君は少しもそれを見せなかった。

 既に動くだけでも五体が罅割れて、火炎の中に身を包むような痛みがあるだろうに、それを息子に見せることなく君は最後まで強い師であり続けた。

 

 そして、彼の旅立ちを見送って役目を終えたとでもいうように瞳を閉じている。

 

 ずるい。

 

 アキレウスは大切だ、目に入れても痛くないと思えるような愛しい息子だ。けれど、それによって君が奪われた、私の好きだった潔癖な君をあの子は嘘で隠した鎧の中に押し込めた。憎い、でも愛おしい、その相反する感情で狂ってしまいそうだ。

 

 君に一番愛されたのは私だ。

 

 あの子じゃない、そんな暗い感情が、醜い感情の発露が行われる。許せないなんて何様のつもりだろうか、君が望んだのに、どうして私を選んでくれなかったのかと今も嘆いている。

 

 

「いつから、こんなに女々しくなってしまったのやら……いや、君と出会ってからに決まってるけどね」

 

 

 私は……

 

 君に生きて欲しかった。

 人は死ぬものだと理解していながら、命は終わるから尊いのだと理解していながら、私は君にみっともなくても、豚の姿になっても生きて欲しかった。

 信じられないくらい愚かで、どうしようもないくらい遅くて、あんまりにも格好悪い。

 

 君が見ていなくてよかった。

 

 ……涙が枯れるのに長い時はかからなかった。

 数日、君の信仰だけで生きている女神に長い命なんてものはない。あと数十年も生きれば消えるだけの矮小な存在だ。すぐにでも消えてしまうことだってできる、けれどそんなことができるはずもなかった。

 君に生きてと望んだ私が、自分勝手に消えることになるなんてプライドが許さなかった。何よりも君を忘れることが怖かった、消えることとは何も残らないことだから、君を消したくなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一年が過ぎた。

 君が見たら幻滅してしまうだろう、食事も喉を通らずに化粧もろくにせずに、君の残してくれた瞳を眺めては声を出さずに虚ろな目をしているだけだ。

 勝手に立ち直っているものだと君は思っていただろうか、そんなことはなかったよ、私は君に囚われたままだ。

 

 死臭がした。

 数ヶ月世話もしていなかったピグレットたちの誰かが死んだのだろう、無感動にそう考えてそのまま動けない、既に消え失せた君の香りにすがっていた私の体は動かなかった。何もする気力が湧かないのだ、共食いでもして勝手に消えることを期待して眠る……今はもう、動きたくもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『おひさしぶりです』

 

「え……あ……ああ……」

 

 

 君がいた。

 あり得ないことだった、偽者を疑うけれど私の本能が君が本物だと告げている。

 

 

『貴女のピグレットたちは元々人間ですからね、死神である私が連れていく魂のひとつです』

 

「は……いや……でも……」

 

 

 死神という言葉、そしてあり得ないはずの光景に昔の自分が口にした言葉を思い出した。君が冥界で働く時の手伝いをする、だったろうか。なら君は冥界で働いているはず、あそこはどこも忙しくて人手が足りないのに……君がここに来ることができる手段なんてタナトスと同じ死神になることだけだろうに。

 

 

『きっかり三十分、ハデス様から貴女のピグレットが寿命で死んだ時にだけここで過ごすことを許されました』

 

「そうかい……って、今すぐ目隠しをしたまえ!今の私は君に見せられる格好をしていないのだから!」

 

『遅いですよ……まあ、持ち直してくださったようで何よりです』

 

 

 それからは君と一週間に二回くらい、合わせてたったの一時間だけの逢瀬が始まった。私は今までのように魔女としてこの地を訪れる人々をもてなし、獣に変えていった。

 時には気に入った英雄に助言をして、気に入らない無礼者はその場で獣に変えて豚の餌にした。

 出会う前の生活に戻ったと言っていいだろう。悪い魔女のキルケーは数多の英雄を獣に変えた。

 

 

『今日は何をしましょうか』

 

「そうだね……キュケオーンでも食べるかい?」

 

 

 それは……大魔女キルケーが消えるまで、ギリシャという世界に根付いていた神話が消えるまで続いたとされている。

 





 次回、最終回です。

どちらが先?

  • 一話完結のギリシャ異聞帯
  • 短編のオケアノス
  • 幕間の二人
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