あなたの終わりを眠りと共に   作:アメフラシ

20 / 38
安寧なる死

 

『おかえり、地上は楽しかったかい?』

 

「はい、とても」

 

『……いつも、君のことをいつも見ていたさ』

 

 

 冥界よりもずっと奥深く、ハデスの構える王宮の更に奥、数多の罪人たち、タイタンのような前時代の支配者たちやオリュンポスの神々に仇なす犯罪者たちが投獄されるというギリシャの深淵、タルタロス。確かにアルテミスの要求を断ったり、アポロンのぼろぼろの名声をおまけ程度に傷つけた経験はあるが、その程度で投獄されるならこの世界の大半の人間はタルタロスにいることだろう。

 ならば何故、私がこの場所にいるのかと聞かれればこの大地が私の実家であるからに他ならない。ニュクスの館とは、夜の女神が住まうその場所はタルタロスというギリシャの深淵、ガイアと同じタイミングで生まれたとされ、タルタロスという深淵の神とも同期である彼女にとって、この場所は勝手知ったる他人の家のような空間とのことである。

 ひさしぶりに帰ったこの場所は、オリュンポスの神々の神域とはまるで違う。撒き散らされる空気が冷気を帯びているだけではなく、私の場合はそもそもが見えていないが一寸先に何があるかも見えない闇の底で導かれるように歩くことになる。神にとって人がどれだけ矮小な存在であるかを身をもって味わうことになる。それでも、温かさを感じられるのは幼少の六年、アキレウスとの日々と同じになったのは偶然か必然か、この大地で過ごしていたからだろう。

 やがて、この深淵で唯一明かりを灯す建物のニュクスの館が目の前に現れる。手を引く父さんがいなければ確実に辿り着けないその場所にて、大きく手を振る人影が一人、二人、それは闇でありながら天を突くような巨漢のエレボスと夜そのものであり妖艶な姿をしたニュクスその人であった。

 ひさしぶりに出会う二人に、積る話もあるだろうと居間に招かれた私は普段地上に出ない祖父と夜の光景しか見ることのできなかった祖母に地上の想い出を語る。少しするとネメシスの姉貴が現れ、良くやったとだけ言って肩を叩いて帰っていき、モロス叔父さんが現れて、お前の話を信じてやれなくて悪かったと頭を叩いて帰っていき、初めて会う家族たちに面白い物語を見せてもらったと頭を叩かれ続けて遂にはこの館に昼が訪れる時、祖母と父が外へ行く時間になるまで想い出語りは終わらなかった。帰ってきたヘメラ叔母さんに終盤は失速してたけどヘラクレスと同じくらい面白い物語だったと微妙な褒め言葉を受け取ってやっと解放された私の頭に浮かんだのは様々な人々への感謝であった。

 前世から続く私の記憶は数多の人々に助けられた歴史の記憶だった。どの欠片が失われたとしても成立しない幾つかの悔いはあれどやり直したいとは決して思わない人生であった。これ程の幸せ者はこの世界の歴史を探しても見当たらないと思えるような人生を歩んできたつもりだ。

 

 

「何か……恩返しでもするべきでしょうかね」

 

 

 ニュクスの館、綺麗に残されていた自分の部屋のベッドで丸一日眠ってから思いついた考えがそれであった。幸いにも一度死んであの島に残された肉体のような老いは消え失せた。全盛期とまでは言い難いが、精神の年齢に合わせた肉体にでもなっているのだろうか……だとすれば私の精神が二十代からまるで成長していない子ども状態になっていることを意味するのだろうか、どうでも良いことで少しだけ落ち込んだ後にベッドから飛び起きる。

 顔を上げるとそこには見慣れた天井、君を起こす必要もないし、君と家を掃除する必要もない。このままでは寂しくて、退屈な日常を送ることになるのは目に見えてる。

 

 

「というわけで、タナトス叔父さんの仕事を手伝おうかと思いまして」

 

『ありがたいが……ここでの生活に慣れてないお前じゃ難しいだろう。ハデスから許しを得るまでは事務の方で働いておけ……カロン辺りの手伝いでもいい』

 

 

 叔父のコネ入社によって冥界の事務をすることになった私を待っていたのが激務の日々だったのは想像に難くないだろう。基本的に年中無休で働かされる冥界は地上で生きる人間よりも多くの死者の中からちゃんと働ける有望な人材を引き抜き続けなければまともに機能しないブラックな組織なのである。そして現代のような識字率があるならともかく、死者の大半が字を書くこともできない、なんなら国の訛りによって何を話しているのかもわからないなんて事態が頻発してまともに人を追加することも許されない。

 そんな地獄で責め苦を受けるよりも地獄な冥界勤務の癒しはペルセポネ様が持ってくる甘い食べ物である。執拗にハデス様の口に柘榴を入れるせいで罪悪感とショックから冥界の王が機能不全に陥ることもあるため、私がお茶汲み係のような扱いとして食事を口に放り込む仕事をさせられていた時期もあったが、事務の多くから貴重な新人をそんなことに使うなと抗議デモが発生したことで今は普通に書類整理に勤しんでいることが多い。そして一部の時間はペルセポネ様のご機嫌取りに使われる、癒しであり確かに人の三倍は働いている彼女だが最近は別に望んでもいない実家への帰省イベントの後には殺意の波動を滾らせていることが多いとのこと。地上の神々から夫の悪口を言われたり、地上の神々からナンパされたり、地上の神々から不倫を持ちかけられたりとストレスが溜まる要素が多すぎることから、この状態で冥界に帰ると春が訪れることになる……春一番のような負の一面の春がだ。

 私も恐ろしかった、いつもは柔和で優しい女神が稲光を走らせながら歩いて冥界に帰ってきた時は半分泣いた。先輩たちがいつものやつかと笑っていた中で抵抗することもできずに捕獲されて私の頭を撫でるマシーンとなった彼女を止められる者は誰もいなかったし、ハデス様も今月に特別手当てを渡すから生け贄になってくれと泣きながら話していた。

 

 こんな冥界、働いている人間の平均睡眠時間が4時間を下回ることが常なこの場所で多くの人々が辞めることなく働けているのは冥界の王であるハデス様の尽力に他ならない。といっても、この冥界で休みなしで働き続けていることが負けず嫌いなギリシャの男たちが悪い根性の悪循環を生み出しているだけである。これ以上死ぬことはないからと自分の体を酷使する人間も多いため欠員も少なくない、この辺は改善しないと詰むことになるとハデス様本人も理解しているのだろうが、その辺りの整備をする余裕すらないのが現状である。それは、誰も幸せになっていない地獄のような、ここは冥界だが、職場環境を変えるためにエリュシオンにいる知り合いを何人か引っ張ってくることでなんとか週一の休日が全体に行き渡った頃のことである。

 

 

『元々は魂を持ってくる仕事を志望していただろう。タナトスに休みを与えるために人員を探していたが適任がいなくてな、頼めるだろうか』

 

 

 ハデス様直々に死神の仕事を頼まれることになった。常に残業していると言っても過言ではないタナトス叔父さんに有給消化をさせろという声が大きくなってきたこの頃、カロン叔父さんもエリュシオンで暇をもて余していた筋肉自慢たちに冥界の渡し船の仕事を変わってもらうことで、トップと次官以外が休みを取れるようにはなった冥界の労働環境改善のために死神にも代役が必要だなと会議で決められたらしい。

 ちなみにハデス様の代役はうちの祖母とキルケーさんの師匠であるヘカテ様が担当するとのことで、数百年ぶりの長期休みだと泣きながら語っていた。この人もこの人で冥界の神をやるには人情が強すぎるような気がしてならない。

 結局、それからも激務だった。基本的には私の父さんが眠らせた人間の髪と魂を冥界へ持っていくのが死神の仕事であり、現代のイメージと違う小さな鎌を持っていた叔父さんの考えがわかった。髪を切るのにも魂を持っていくにも両手が塞がる大鎌なんて持つ余裕がない。私は短剣で済むため必要なかったが、切れ味が鈍ることもあって彼の部屋にはシリアルキラーかと言いたくなるような大量の鎌が飾られていた。

 まあ、私が死神に適任だったのは魔眼こそ失ったものの歌による眠りの力は健在であり、魔術、この時代だと魔法なのだが、で空を飛ぶことができたからだろう。疲れたのならワイバーンくんや銀さんに乗ってしまえばいい……これを自前の羽で飛びながらこなしていた叔父はやはり頭がおかしいと再確認、また、父さんを待たずして業務をこなせるのも便利だったのだろう。それとハデス様もミスをすることはあるため持ってくる必要のない魂もある、その辺りを観察で見抜くことができたのが一番の抜擢理由かもしれない。一度冥界に戻って即座に元の持ち主へ返すのは既に葬式が始まっているなんてことになった時に大変なことになる。

 

 

『こんなところでしょうか』

 

「なんというか……楽しそうで何よりだよ」

 

 

 そこから、このアイアイエーで人が寿命で死んだ時のみこの地にいることを許されたのはハデス様の過去が関係しているのだろう。

 昔、ゼウスと相談して自分で拐ったペルセポネをゼウスの頼みで地上に返さなくてはならない事態に陥った不憫な彼は、冥界と地上で離ればなれになってしまった夫婦の関係に弱い。失敗こそしたが、オルフェウスが妻を冥界から連れ戻そうとしたことを許可したのもそれが理由だろう、あの人はあれで情に厚く涙脆い。

 

 

「それで、こんなに長くここにいてもいいのかい?仕事があるだろうし、約束も破っているけれど」

 

『そうですね。オリュンポスは機能不全になっていますが冥界は長期休暇のようなものなので、暫くは自由にしていいとのことです』

 

 

 ティフォンによる滅び、最近はモイラの三人がこそこそと何かを企んでいるため結局は終わりを迎えることになりそうだが、それを受けても冥界は平常運転であった。しかし、タナトス含め死神が外に出れば殺されることは想像に難くないため、魂を冥界へ運ぶ存在がいなくなってしまった。つまり、仕事をする必要がなくなってしまったのだ。

 自由にしろと言われてすることのなくなった冥界の面々は思い思いの趣味に励んだりしているのだが私はキルケーさんが心配でならなかった。ティフォンに補足されない時間に最後の魂を運んでからアイアイエー島に足を運べばまだ貴女がそこにいたのだから肝が冷えた。オリュンポスの神々が逃げ、ヘスティア様を冥界に匿う必要が出てくる程度にはイレギュラーな現象、冥界へ逃げるように頼んだ私に貴女は照れながら語っていた。

 

 

「君がこの島に帰るとき、誰もいなかったら寂しいだろう。君から受け取った形見もあるし、逃げるなんて考えもしなかったよ」

 

 

 少しでも喜んでしまった自分の愚かさを呪い、彼女が梃子でも動かないと理解している私は、こうやって昔のように肩を並べて釣り糸を垂らしている。

 懐かしい日々、吹き荒れる嵐によって多くの命が失われていくのを嫌でも感じる。運んであげなければならない魂たちの嘆きが聞こえる。

 やがて、モイラの策略と帰ってきたゼウスによってティフォンが封じられるまで続いた生活は終わり、再び三十分の短い逢瀬へと逆戻りとなったが、私が死んだことで素直になったキルケーさんの破壊力が凄まじかったために数十年は供給がなくとも生きていけるだけのものはあった。

 

 

 その後は

 

 アマゾネスの死体を相手に欲情していたアキレウスを注意したり、トロイアの将軍を辱しめていたアキレウスを注意したり、余計なことをしたアポロンをしばき、その寵愛を受けていた少年にエールを送ったり、キルケーさんとの逢瀬をアテナに愛されてまくっているオデュッセウスくんに見られたり、愛妻家な彼の旅路を応援することになったりと死後にも様々な出会いをすることとなった。

 

 

 そして……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あはは、今度は立場が逆だね」

 

『はい……貴女が私の終わりに語ったように寂しくなってしまいますね』

 

 

 別れが訪れることとなった。

 ギリシャの滅び、数多の英雄たちを産み出した神話の土壌が崩れ去ろうとしている。一部の神は名前を変えて生き延びることが許されたが、既にその中に組み込まれてしまった矮小な土着の神などはなす術もなく消えることを余儀なくされた。

 

 

「うん……信仰は途絶え、アイアイエーを訪れるような力強い英雄は既にいなくなった。流石の大魔女でもどうしようもないかな……」

 

『なら、そうですね。仕方がないです』

 

 

 貴女は別れに涙を流さなかった。

 故に、こうやって笑顔でいる。最後には貴女が最も気に入った表情を見せてあげたいから。

 

 

「それと、君が死ぬときにもらった武器なんかはこの島に埋めてあるから必要なら掘り出してね」

 

『必要ありませんよ、そもそもあれは貴女に贈ったものですから』

 

 

 貴女は他に生者のいないこの大地で、温もりもなく消えてしまうのだろう。それが無性に悲しくて、吐き出した息は冥界の凍えるようなものになっていた。

 

 

「それじゃあ、君と同じように餞別タイムだ。冥界は寒いだろうし、特製の首巻きだよ」

 

『ありがたく、頂戴いたします』

 

 

 貴女の髪と同じ鮮やかな色のマフラー、所々に鷹の羽根があしらわれている正に特別製だ。

 

 

「よし!君に後追いとかをしないように言えば、言い残すこととかもないし、釣りでもしよっか」

 

『……わかりました。それと言われなくてもそんなことはしませんよ』

 

 

 明るく、私との別れを想起させないような、これからも生きることを余儀なくされる私にそのような想い出を残さないように明るく、貴女はいつもと変わらない表情を見せる。

 

 

「そうだね、二回目になるけど君と出会ってからの、君の人生に刻まれた、君が刻みつけた『私』は確かに幸せだった……そのことを忘れないでね」

 

『……はい、決して』

 

 

 少しずつ、貴女の姿が光に消えていく。

 蝶のような極彩色の翼と同じ色をした光の粒になって消えていく。

 

 

『また会える日を……さようなら』

 

「あはは……そうだね。君に嘘を言わせるわけにもいかないし、私も頑張ってみるよ」

 

 

 寂しい、行って欲しくない、貴女がこの地に留まれるのならなんだってするつもりだった。

 

 

「さようなら」

 

 

 今宵、アイアイエーの魔女キルケーは光へと消えた。不思議と涙は流れなかった、それは貴女が望んだからかもしれない。今の私は神なのだから貴女の望む……この別れを笑って終えられる私へと変じたのかもしれない。

 

 

『寂しく、なりますね』

 

 

 だから、この雫は雨なのだろう。

 拭うこともせずに見上げる空、今はもう見えないこの空へ大きな息を吐いた、纏わりつくような光の粒に貴女を感じる。

 口角を上げて無理にでも笑った、貴女がそこにいるような気がして、貴女が私を呼んでいるような気がして、見えもしない瞳を開いた。

 

 

『ああ、星が……今日は星が綺麗ですね』

 

 

 きっと、空は曇天だ。

 それでも、脳の錯覚でしかない辛うじて感じられる光はこの空に星を見た。

 

 

 あの日の師匠が

 

 

 最高の勇者たちと船が

 

 

 既に消えたであろう素晴らしき兄弟子が

 

 

 そして何よりも

 

 

『そうですか…貴女は星になっていましたか』

 

 

 いつまでも側にいたいと思っていた貴女が、そこにいるような気がした。雨はまだ降り止まない、けれど雨に打たれるのも悪くない。

 

 

 幻覚の星空を見上げて私はただ空を眺めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『その平等な慈愛の心、決して揺るがぬ強い愛の感情、汝もまたローマである』

 

『いえ、ギリシャです』

 

『……その謙虚な心、我が祖先であるヘラクレスの友であり続けた覚悟、それもまたローマである』

 

『いえ、ギリシャです』

 

『いや、ローマである』

 

『ギリシャです!』

 

『ローマである』

 

 

 そして彼は死神となったといわれている。

 一説にはタナトスよりも人気があったことで、ローマの時代には統合されて『モルス』という一柱の女神になったと言われているね。ラテン語の(モルス)は彼がそのまま語源になったとも言われているね。

 

 

『これが歪められる感覚でしょうか……』

 

『ああ、アテナが……今はミネルヴァだったか、が他の女神にお株を奪われて泣いていたな』

 

『ハデス様は……プルトン様はいきなり女にさせられたらどうします?』

 

『どうしようもないな、仕事はそれでもできるから無問題だろう』

 

『ペルセポネ様が男になりそうですね』 

 

『それは困るな……』

 

 

 女神になった理由は複雑なんだけど、夢枕に現れた時にあまりにも美しかったから女だと間違えた説が好きかな……実際に会ってみると本当に女性にしかみえないんだよね。え、ああ、レオナルドが夢枕に見たって言ってたんだよ、イタリアの出身だから縁があったのかもね……ごめん、レオナルド。

 

 

『ふぅ……プルトン様も消えて、みんな消えて……』

 

『大丈夫だろうか、我が主』

 

『うん、ワイバーンくんは魂を捕まえてきて……銀さんは罪人への罰を選んでてね』

 

『了解しました』

 

『人は減ったけど……一人はキツいなぁ』

 

 

 そして、キリスト教の登場と国教にまでなったその影響力で細々とギリシャからの信仰は途絶えてしまったんだ……けれどモルスは変わらず信仰され続けた。

 そもそも、安寧な死という概念が人気だったからね。外見が天使に似てた彼、彼女はキリスト教に取り込まれた。

 神の審判の代行者として裁判を司る存在になっていたかな……。

 

 

『はぁ……人間は本当に』

 

「モルス様……私の息子をどうか」

 

『保証はしないよ』

 

「どうか……どうか……」

 

『……少しだけだよ』

 

 

 そして神への不信が広がるような時代に信仰を取り戻すこともあった。天使を崇拝する思想が広まったのは彼が影響しているとされているからね。雑に堕天させられることもあったそうだけど、十字軍の時なんかは全盛期に近い信仰を集めていたともされている……らしいね。

 

 

『うん、よく頑張ったよ本当に……誰も君を責めたりなんかしないだろうさ』

 

「神よ」

 

『ん?』

 

「帝国を失う皇帝を許し給うな」

 

『……』

 

「都の陥落とともに、われ死なん。逃れんとするものを助け給え……」

 

『わかったよ……』

 

「死なんとするものはわれとともに戦い続けよ」

 

『最悪の責め苦を用意してあげる』

 

 

 そして、ローマの完全な滅びと共に信仰は失われて消えてしまったとされている。ギリシャの神々への敬意を忘れ、神として歪められ続けながらも彼は人を愛していた。

 人間の揺るがぬ善性と勇気を誰よりも信じていた、だからこそ、妻であるキルケーが人々に忘れ去られてもこの世に残り続けたのだろうね……。

 

 

「どうだったかいマシュ、これがギリシャで最も異色な英雄の物語だよ」

 

「はい、とても面白かったですドクター……ですが、モルスさんはどうして人を愛していられたのでしょうか。存在を歪められて、時には堕天させられて……」

 

「……そうだね、これは僕の考察なんだけど」

 

 

 忘れたくなかったのかもしれないね。

 

 

「自分以外に全てを覚えている存在がいなかったんだよ。大英雄ヘラクレスの栄光も勇者イアソンの最後も、彼しか覚えていない歴史が沢山あった」

 

「……キルケーさんの記憶もでしょうか?」

 

「うん、だから彼は忘れないために生き続けたんだと思う。星座となった友人たちも時の流れに消えていった妻も、皆彼の記憶に有る限り生き続けていたのだろうね」

 

「だから、どれだけ苦しもうと人を愛し続けて」

 

「見返りとして信仰を受け取っていた、こんなことを言ったら同僚のギリシャ神話オタクに怒られちゃうかな……それでも、理由はなんであれ最も長く人間を愛し続けた神様だ、このくらいのことは許してくれるかな」

 

 

 安寧であり平等なる死の女神。

 生前の自分は珍しい存在程度の認識しかなかった。何も見えないからこそ全てを見ているという逸話から冠位キャスターの資格を持ち、死神であり死を超越した存在であることから冠位アサシンの資格も持つ異色な英雄。

 人間になって初めてわかったのは彼が愛情深く人間としての心を持ち続けたこと、神となり歪められてなおその記憶をなくさなかったこと、どれも素晴らしい偉業だ。

 

 

「もし、出会うことができたのなら、その愛の答え合わせをしてもらいたいところだね」

 

 

 ぼそりと呟いた言葉の後には、紫苑の香りが付け加えられた。答え合わせのつもりだとしたら出来すぎているような気がする。

 

 

「この香りは……」

 

 

 死神は、残り少ない命の彼女への慈悲として答えを教えたのだろうか……既に消えたであろう神に願う。彼女が、マシュが貴方の寵愛を受けませんように。

 

 返答はなかった。

 ただ、部屋を満たす程の紫苑の香りがどこからともなく現れて消えていくだけだけ……追想、それに籠められた想いがいつか僕の直面する試練となるのか、それはきっと、神のみぞ知るといったところだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 ここまで読んでくださった皆さん、お気に入りや評価に感想でモチベーションをくれた皆さん、誤字報告でこの小説を良いものにしようとしてくれた皆さん、本当にありがとうございます。

 最初はキルケー様ヒロインのほのぼの作品を書きたいの一心で色々と練っていましたが、いつの間にかギリシャ神話の二次創作になってしまって……長々と書かせていただく中で作者も様々なことを学ばせていただきました。
 ちなみにモルスは実在するローマの女神様です。作者が名前を検索した瞬間にこのお話の終わりがわかるなんて話してたのはこれが理由だったりします。
 ここからはマテリアルを書いて望まれるならFGOを書いて、次も望まれるならApocryphaやZeroなんかも頑張ろうと思っています……ApocryphaとZeroは小説を未履修なのでその後になりますが。

 何はともあれ、英雄モルスの旅路を見守ってくださった皆様、本当にありがとうございます!

どちらが先?

  • 一話完結のギリシャ異聞帯
  • 短編のオケアノス
  • 幕間の二人
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。