その日の朝は、比較的常識的な出勤時間に近かったと彼は思う。誰かが喫っている煙草の紫煙が、風向きで彼――
寝不足である。所謂「社畜」の彼は、終電で帰り始発で出勤すると言う日々をこの数か月続けていた。今朝は遅めに起きても許されたが、蓄積された寝不足による疲労は確実に彼の体を蝕んでいた。
そういうわけで、今時ホームドアも設置されていないそこで突っ立っていた彼は、ぼんやりと空を見上げていた。
空は青い。季節は晩秋を迎えた頃で、冷えが身に沁みてくる。秋物のトレンチコートを無意識に体に巻き付けながら、黒川は息を吐いた。臓腑が冷えるようだ。彼がそんなことを鞄を肩にかけながら思ったとき、彼は不意に目眩を覚える。――黒川の昔からの性癖だ。寝不足に疲労が重なると、質の悪い目眩を起こす。彼はこれがまずいとわかっていた。ここは駅のホームで、目の前には線路。しかも電車が入って来るアナウンスが――
「ちょっと!」
――倒れかけた黒川の腕を、誰かが掴んで引き留めた。そこで彼はハッと我に返る。
その瞬間、ゴッと電車が通り過ぎた。黒川の髪をその風が掠めた。黒川がゾッとした中、周囲から悲鳴じみた声が起きる。そして黒川は気付いた。自分の腕をまだ掴んでいる存在がいることに。
「大丈夫ですか?! 轢かれるところでしたよ!」
どうやら少年らしい声に、黒川は振り返る。
――鮮やかな赤毛。
白い顔の、異国の風を感じさせる少年がそこにいた。制服を着ているし、男子高校生だろうか。
黒川が思わず見惚れていると、少年は心配そうに顔を覗き込んでくる。心なし、彼の顔は青ざめて見えた。
「具合悪いんですか? おじさん」
――気遣いは嬉しかった。しかし黒川は、最後の言葉に眉を顰める。
「……僕は一応20代だ」
「あ、すいません! もう少し老けて見え……いえそのそれより、体調悪いならそこのベンチで休んだ方がいいですよ。また落ちちゃいますよ」
「いや、それは」
気遣いは、本当に嬉しかった。しかし黒川は社畜だったので。電車が発車しそうになるのを見て少年の手を振り払った。
「有難う、ごめん、仕事があるから」
「あ」
そして車内に駆けこんだ。扉が閉じてから、振り返る。少年は、まだ手を伸ばしていた。
黒川は、それにずきりと胸が痛む。ガラス越しの少年の顔は、置いて行かれた仔犬のようだった。
(……僕は悪くないよな)
黒川は思わず自己弁護した。
その日の黒川は、帰宅もいつもに比べて早かった。それは今朝の自己弁護への内なる法廷での猶予だったのだろうか。
しかしそれは勘違いだったようで。
「あ」
――偶々乗った路線。そこに、今朝の少年が乗っていた。そう言えば同じ駅のホームで待っていたのだ。同じ路線に乗る可能性は高かった。
黒川は気まずくなり顔を背けるが、少年は意に介した様子もなく黒川の方へと歩み寄って来る。周囲にはあまり乗客はいないが注目は集めていた。
「あの、おじ、じゃないお兄さん。今朝から身体大丈夫ですか、あのまま仕事に行かれたみたいですけど」
「あぁ、あの、まぁ大丈夫だから……」
「せめて家まで送らせてください、心配です」
「えっ」
少年の言葉に黒川は目を剥く。初対面の人間にそこまで言われるとは。このときの黒川は、男同士なので自宅を知られることに忌避感はなかった。ただ、あったのは戸惑いだった。
「なんでそこまで……」
「今朝、あれだけお仕事に急がれたってことは仕事、忙しいんでしょう。体調回復してないんじゃないですか。自宅に行きつくまでに倒れたらことですよ」
「……それはそうだけど……」
その間にも衆目が集まって来る。黒川は次第にそちらに耐え切れなくなり、気が付いたら少年の申し出に頷いていた。
少年は、心なしか嬉しそうだった。その理由は、黒川にはわからなかった。このときは。
……自宅マンションの前に辿り着く。さすがに自室にまでは初対面の人間を上げられなかったので、黒川は「ここまででいいから」と少年に告げた。そもそもそこそこ遅い時間だ。秋の日は釣瓶落とし。昨今は男性でも夜道は危ない。ましてや少年だ。黒川はそれを気遣ってのことで、少年はそれを了承した様子で頷いた。
「わかりました。でも、本当にお体大事にしてくださいね。それじゃぁ……」
腹の虫。
黒川からではない。踵を返しかけた少年の腹から、それが盛大に鳴った。それはまるでギャグ漫画のように。少年の横顔は、恐らく白人との混血なのだろうためか耳までくっきりと赤く染まった。
笑ってしまったのは、黒川の方だ。それで警戒心が解れてしまったのだ。
「……よかったら、ウチで何か食べていくか。炒飯ぐらいでよかったらすぐ作れるから」
「え! マジですか! あざっす!!」
少年は喜色満面と言う様子で先走って礼を述べてくる。黒川はそこでふと気付いた。
「あ、でも家で夕食出るかな」
「それは大丈夫です」
少年は、寂寥を滲ませて笑った。
「ウチ、誰もいないんで」
その言葉に、黒川は再び胸が痛む。その間にもマンションに入り、エレベーターに乗る。3階のボタンを示したところで、黒川はようやく尋ねた。
「そう言えば、君の名前は? 僕は黒川。黒川省吾」
「あ、名乗ってませんでしたね」
少年は無邪気に笑った。
「
Next......