到着、インド
***
―――
カーテンの隙間から朝日が溢れる。
鳥のさえずりが窓の外で歌っている。
白鳥葵はベッドの布団から顔を出すと、開ききらない双眸のまま身を起こした。
カーテンを開け、窓も開け、少し冷えた風に身を委ねているうちにだんだんと意識が覚醒してくる。
(……そういえば私、なにか……)
白鳥は違和感に気付いて思考を巡らせる。意識が覚醒する前、なにかやっていた気がする。けれどもそれが思い出せない。
白を基調とした家具の並ぶ自室の中、魚の小骨が喉に引っ掛かったような心地に白鳥葵はただ小首を傾げていた。
「おはよう、白鳥くん」
「おはよーさん、白鳥」
部屋を出て洗面所で髪を整え歯を磨いてからリビングに入ると、アヴドゥルとポルナレフがすでにそこにいた。アヴドゥルはキッチンに立って目玉焼きを作っているようで、ポルナレフはそれをテーブルの椅子に座ってのんびり待っているといった状況だ。
「おはようございます。アヴドゥルさん、ポルナレフさんも」
「白鳥ィ〜、聞いてくれよ!アヴドゥルの野郎、俺の朝食リクエストを通してくれないんだぜ〜ッ!?」
「朝からスパゲッティなんて重たいものはよせと忠告したただけだ!」
ジューっと卵の焼ける音とポルナレフの声が重なる。アヴドゥルが嗜めるように声を張り上げるのを聞いて、ポルナレフは冗談混じりに肩をすくめた。
「いーじゃん!俺の胃は元気そのものよ!白鳥も食いたいよな〜?スパゲッティ」
にやにやしながら白鳥に同意を求めている。アヴドゥルの反応を面白がっているのだろう。それを読み取り白鳥も反論しようとしたが、お腹は正直なようでグーっと鳴き声を漏らした。
「ほぅら!白鳥も腹減ってるってよ!それに白鳥なら朝食にスパゲッティなんてそれこそ朝メシ前ってヤツじゃあねーのか?」
「ポ、ポルナレフさん…ッ!!」
ただでさえ腹の虫が鳴いて恥ずかしいのに、自分の大喰らいを引き合いに出されてさらに顔が真っ赤になってしまう。しかしポルナレフはそれすらも面白いのだろう、手を叩きながら笑い声を溢している始末だった。
「白鳥くんまで巻き込むんじゃあないッ!まったく……日本の朝食といったら白いご飯に味噌汁、目玉焼きに焼き魚と相場が決まっているものなんだ。スパゲッティは昼にしろ、昼に」
アヴドゥルが呆れたようにため息を吐き、気を取り直すように白鳥に「もうすぐ出来上がるから座りなさい」と席を勧めた。
「に、ほん……?」
しかし、白鳥はその地名に疑問符を浮かべたまま立ち尽くす。
日本。己の故郷の国。それは分かっている。
しかしなぜいまその地名が出てくるのだろう。
「なんだ?どしたァ?白鳥」
「白鳥くん、大丈夫か?よく見たら顔色があまり良くないような……」
ポルナレフとアヴドゥルの声が遠くに聞こえる。
思い出してきた。これはおかしい。おかしいはずだ。
「わ、私たち、まだ旅の途中ですよね?アンちゃんとお別れした後、列車に乗って、船に乗って……これからインドに入るって……」
「インドォ?」
いまの正しい状況は確かこうなはずだ。白鳥がおろおろとこれまでの旅路を振り返りながら2人を交互に見るが、やがてアヴドゥルが目玉焼きを皿に移しながら喉奥で楽しそうに笑い始め、ポルナレフも釣られて小さく笑い声を溢した。
「なーんだ!白鳥、あの旅がよっぽど楽しかったんだなァ〜!カワイイ奴!」
「え?え……?」
ポルナレフが急にぽんぽんと頭を撫でてきて、白鳥はさらに困惑する。
「フフ。あの旅で我々は意気投合して、この日本でジョースターさんが用意してくれた家でシェアハウスしてるんじゃあないか、白鳥くん」
「……え!?」
アヴドゥルが1から説明してくれたのを聞き、驚きでそんな短い音しか出てこない。
じゃあ、あの旅は終わった?
DIOを倒して帰国し、そんな感じでいまは6人でここに暮らしている?
(し、信じられない……そんな……私、まだなにも……)
白鳥は絶望した。
自分はまだなにもできていない。力の意味も、承太郎への気持ちの答えも、なにも成し遂げていないのに。
いつのまにか旅が終わっている。
「おおっと、白鳥くん!?大丈夫かね?」
ショックでふらついた白鳥をリビングに出てきたジョセフが受け止めてくれた。なのにそんな感触でさえ薄気味悪い。
「朝メシ食ってないから貧血でフラついたんじゃあねーの?ほれ、食え食え!」
「それはアヴドゥルさんが作った朝食だろ?きみが得意げに勧めるんじゃあない」
白鳥に茶碗に入った白飯を差し出すポルナレフと、シラーッと呆れた目を向ける花京院。彼の隣には承太郎が「やれやれ」とため息を吐いていた。
「白鳥」
料理がそこにあるのに、食欲がまるで湧いてこない。
みんなが笑ってる。なのに自分は笑えない。
「白鳥」
もう一度承太郎がその名を呼んで、両頬を片手で挟むとグイッと己の方を向かせた。
「起きろ、白鳥」
「っ、え……?」
承太郎が見つめている。
「起きろ」
ただ一言、そう囁いて。
―――
***
「…………ッは!!」
白鳥は目を醒ますと勢いよく体を起こした。
薄暗い部屋の中。軋むような錆びついた音が鳴り、かすかに全体が揺れている。船の中のようだった。
肩を上下させるほどに呼吸が乱れ、全身から滝のように汗が滲んでいるのに気付き、肌に張り付いた寝間着に隙間をつくる。
「白鳥、大丈夫か?」
背後から落ち着いた低音に呼ばれ振り返ると、空条承太郎が隣のベッドに腰掛けながら見つめていた。
「承太郎、先輩……」
「なかなか起きねえから心配したぜ。とても魘されていたしな。悪い夢でも見たか?」
承太郎が彼女に手を伸ばし、汗で額に張り付いた前髪を退けてやる。
悪い夢。そうか。いままでのは夢で、こちらが現実だ。列車を乗り継ぎ、船に乗り、もうすぐインドに入れる。それがいまの旅の状況だ。
しかし――
「よく思い返したら……悪い夢というわけではなかった気がします」
旅を無事に終えて、6人で仲良くシェアハウス。みんな笑っていたし、これほどいいことはないだろう。
承太郎にも夢の内容を話すと、おかしそうにフッと短く笑っていた。
「そりゃあ確かに悪い夢じゃあなさそうだな。ちと距離が近すぎるとは思うが」
ひとつ屋根の下。きっとこのメンバーなら喧嘩も絶えないだろうが、悪くはない。
「けど、お前が意外に意志をハッキリ持っている女だということはわかったな。その夢受け入れ甘えていたら、一生眠ったまま……だったかも、な」
今回は敵のスタンド使いの仕業ではない。承太郎がすぐそばで白鳥を見ていたから分かる。しかしそんな甘い誘惑をしてくる敵がいないとも限らない。
その時彼女がどちらを取るのか――
(もしその時が来るなら、俺たちであってほしいが)
ひぇぇ、とその喩え話に顔を青くさせる白鳥を見ていると、どんなに彼女が強くても守ってやりたくなる。もちろん、信頼していないわけではないし寧ろ頼りにしているところではあるが。
「さて、明日にはインドだ。もう少し互いに寝ておいた方がいいだろう。こんな硬いベッドでは、また夢見が悪りぃだろーがよ……」
承太郎はベッドに横になり薄いボロ布のような掛け布団の中に潜り込む。実際、寝れる場所があるだけでも儲け物だ。
「……でも、シャワー浴びてからにします」
「……そうか。なら俺もついててやる」
びっしょり濡れた体のまま眠るわけにもいかない。白鳥が床に足をつけると、承太郎も起き上がってシャワールームに同行した。
***
翌日。
ついにインドの港がすぐそこというところまで辿り着き、ジョースター一行は下船の準備を整えて舷門の扉に全員集合していた。
「もうすぐインドなんですね」
「日本を出て2週間……長いようで短いようでもあったが、まだ先は長いですね」
初めて行く国。白鳥がそわそわしながらインドに着くのを待っている傍ら、花京院もその様子を眺めてフッと微笑ましそうに表情を緩める。
「しかしインドという国はどうも……カレーばかり食べていてすぐ病気になるイメージしかないな。わしは実はインドは初めてなんじゃよなァ……」
「俺、カルチャーギャップで体調崩さねーか心配だなァ」
旅慣れしているであろうジョセフとポルナレフでも未知の領域。敵のスタンド使いのこともそうだが、この旅はいままでも香港やシンガポールなどたくさんの文化に触れてきた。本当なら飛行機一本でエジプトのはずだったが、随分と回り道をしたおかげで知見が広がったともいえるが。
「フフフ。それは歪んだ情報ですよ、ジョースターさん。心配いりません……みんな、素朴な国民のいい国です。わたしが保証しますよ」
アヴドゥルだけは得意げな顔をして皆を振り返る。彼はインドに馴染みがあるようで、スッと控えめに己の胸に手を置いてから白鳥を見る。
「白鳥くん、本場のインドカレーを食べたくはないかね?インドのカレーは多数のスパイスを調合して作るのが一般的で、日本のカレーとは少し違うんだ」
白鳥は想像してみる。
日本とは違うカレー。銀色の食器にさまざまなカレーとナンが並んでいるのを思い浮かべた途端食欲がそそられるが、すぐに気を取り直すと短く咳払いをした。
「なんでアヴドゥルさんまでごはんの話するんですか……私がたくさん食べるからですか?」
「フフ。いいや、からかっているんじゃあないさ。きみを"美食家"と見込んでの質問だ」
実際、白鳥は香港でもお粥の他にカエルの丸焼きや点心、シンガポールではカヤトーストにラクサ、チキンライスと舌鼓を打っては品良くたくさん食べていた。列車内でチェリーを「レロレロレロレロ」と舌の上で転がしていた花京院のような真似は決してしない(しかしその一芸は白鳥には結構ウケていたらしい)。
白鳥はその言葉にきょとんとしていたが、意外にも言われ慣れていなかったそれに満更でもなさそうに頬を掻く。
「まぁ……そういう観点で言うなら……楽しみです」
そんな彼女の口からぽつぽつと呟かれる声に、アヴドゥルは安心したように表情を緩ませる。
「ああ!お楽しみがいっぱいさ!さあ、行きましょう!カルカッタへ!」
ザッ!と彼が先陣を切るのに続くように一同も舷門へと向き合う。
しかし――
「ねえチップくれよ!」
「入れ墨彫らない?きれいね!」
「荷物運ぶよ!」
「毒消しいらない?おなか壊さないよ!」
「ホテル紹介するよ!」
まるでジョースター一行を待ち構えていたかのようにインドの国民たちが群がってきて、たちまちに囲まれ逃げ場がなくなってしまった。
「ど、どうしましょう、進めません!」
「うわあ!牛のうんち踏んづけちまった!」
「僕はもう財布をすられてしまった」
もはや彼ら一人一人の言葉に耳を傾ける余裕もない。花京院の言葉にポルナレフと白鳥は改めて自分の荷物を両手で抱え直すが、すでに自分も同じ目に遭っているのかもしれない。
「チップチップチップ!」
「チップくれないと天国いけないぞ、にーちゃん!」
子供から老人まで見境なく囲ってくる。親切なのか金がほしいだけなのか全く見分けがつかない。
「ア、アヴドゥル!これがインドなのかッ!?」
ジョセフがたまらず声を上げてアヴドゥルを見ると、彼は慣れ親しんだ風ににこやかな微笑みを湛えながら彼らを振り返った。
「ね?いい国でしょう?これだからいいんですよ、これが!」
インド――カルカッタ。
20世紀のこの時の人口は1100万人。
都市に渦巻いているのは、凄まじいまでのエネルギーである。
「ねーちゃん!歌とダンスをやるからチップくれよー!」
「こっちこっちー!」
収まるどころかますます勢いを増していく群衆に目を回していた白鳥の腕を、子供数人が引っ張っていっては背中まで押し始める。
「えっ!?えっ!ちょ、ちょっと待って!!」
「白鳥ッ!!」
群衆から離れていく白鳥に承太郎は腕を伸ばすが寸でのところで届かず、追いかけようと脚を動かそうとするとすぐに人が前を遮った。
「にーちゃん探し物?探すよ!」
「なにが必要?用意するね!」
ただの一般人を突然殴るわけにもいかない。急ぎの旅の中、余計な騒ぎは無闇に起こせない。
「くそッ…!」
ただ遠くなっていく彼女の背中を、承太郎は歯軋りしながら見つめることしかできなかった。