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ゆっくりと目を開くと、そこは知らない部屋だった。
風を操るスタンド使いの少女――レイラ・タァイルは覚醒しきらない脳内を無理矢理起こすように頭を左右に振る。
(あたし……あたしは、たしかカルカッタに来て、ホル・ホースに会って、それから……それからどうしたっけな)
思考をまとめるために下げていた頭を上げてみる。と、そこには唖然としながら立ち尽くす少女の姿があった。
「あ……え?なんであたしの部屋に人がいるんだよ!しかも縛られてる!?」
少女は黒髪を揺らしながらレイラに近付くと、慌ててロープを外しにかかる。
(縛られ……ああ、思い出してきた)
確かホル・ホースと会って、鬱陶しいから別れた後で承太郎と白鳥を見つけた。もう少しで彼らを倒せるところだったのに、ジョセフに邪魔されて気を失った。
「あたし……失敗したんだ」
このことがDIOに知られたら。しかも気絶させられてこんな状態になっているということは、敵に情けをかけられたんだ。
恐怖で目の前が霞む心地になる。このままエジプトに帰ったところで、DIOは許してくれるのだろうか。
「あんた大丈夫?顔色悪いよ?」
俯けた顔を少女が覗き込んできて、レイラはハッと驚いたように顔を上げる。
「あたしはアン。世界中を旅するのがいまの夢!あんたもそうなの?あーっと…名前は?」
少女――アンは名乗るとレイラを縛っていたロープを完全に解いて床に放った。ようやく自由になった体を準備運動のように動かし、レイラは息をつく。
「レイラ。……別に、あたしは旅をしているわけじゃあない。ここには目的があって来たの」
「へえ、なにしに?おつかいとか?」
アンの目から見ても、彼女が現地人でないことは一目瞭然だ。加えて彼女がこんな場所で監禁されていた事実もあって、なにか訳アリであることは十二分に伝わるのだが。
「……まあ、それと似てるかしら」
レイラにとっても"おつかい"という表現はあながち間違いではない。現にDIOからの命令でジョースター一行を殺しにきたのだから、"おつかい"だろう。
レイラは短くそう告げてこの部屋を後にしようと椅子から降りて出入り口へ向かう。それを引き留めるようにアンは彼女の手を取った。
「ねえ、そのおつかいってもう終わり?よかったらあたしと旅しない?」
「は?」
急に突飛なことを言い始めたアンを思わず立ち止まって振り返る。
「旅よ、旅!いままで上手いことやってきたけど、やっぱり女の子1人って不安よ。でも2人ならこわいことなんてないわ!レイラ、一緒に行こう!?」
「はあ?ちょっと、正気?」
有無は言わせないとばかりに両手を握って迫ってくるアンにレイラはたじろいでしまって後退りするが、壁に追い詰めるかのような勢いでさらに迫られて困惑していた。
「正気も正気!ね、いいでしょ?おつかいから帰るついででいいからさ!ねッ?」
帰る。その言葉にレイラはぴくりと肩を揺らした。
(このまま帰る……DIO様に怒られる……最悪殺されるかもしれない)
先ほども考えたが、やはりDIOが簡単に己を許してくれるとは思えない。やはり帰るのは怖い。自分はどこにも行けない。
だけども、目の前の少女は期待を込めた瞳を己に向けていた。いまここで知り合ったばかりだというのに、穢れを知らない瞳で見つめている。
「…………しょうがないな。わかったよ」
「ホント〜ッ!?やったぁーい!」
ついにレイラが折れると、アンはよほど嬉しかったのか部屋中をぴょこぴょこ跳ね回っていた。その様子を見て早々に頷いたことを後悔しかけたレイラだったが、どのみち助かる方法はないのでため息を飲み込んだ。
「さっきも言ったけど、ここから先の聖地ベナレスまでだからね」
「わかったわかった!もう、レイラは厳しいな〜ッ」
かくして少女2人の短い旅が始まったのである。
「それでね、さっきのカルカッタではこんな写真をかっぱらってきてさ〜!」
「あんた、結構手グセ悪いね……」
ベナレスへ向かうバスに乗る前、2人は帽子の中に髪をしまったりフードを目深に被り直したりして少年のような装いをし、互いにばっちりチェックし合った。
バスの一番後ろの一番広い椅子を2人で陣取り、レイラはアンがリュックから取り出した写真を覗き込んでブッ!と勢いよく噴き出しす。
「アハハッ!エロ写真だよエロ写真ッ!これをダシにヒッチハイクすれば大抵の男は乗せてくれるんだよ〜ッ」
「…………」
幸先不安になってきた。こんな奴と同類とか、ましてや友達だなんて思われたくない。しかもその手法だと、自分が知ってる男のほとんどは本当に彼女を車に乗せてあげそうな気がしてきて頭痛までするような気になってくる。
「男ってバカだよね〜ッ」
「男ってほんとバカ……」
そんな声が綺麗に重なった車内に乗客がいないことが不幸中の幸いというやつのように感じた。
しかし。
「でも承太郎はどうなんだろ……ねーちゃんの裸にしか興味なさそうなんだよな〜」
承太郎。予想外の人名が飛び出てきてレイラは思わずピクリと肩を揺らす。
「じ、承太郎…?」
「そ、承太郎!あたし…いや、オレが密航した船にいたすっごくデカくてカッコいい人なんだ!でも、承太郎には好きな人がいてさ。白鳥ねーちゃんっていうんだけど、可愛くて優しい人なんだよ!」
密航した、というとんでもないワードをスルーしてしまうほどに、レイラは血の気がサッと引く心地になってしまった。
(こ、こいつ……ジョースターの関係者だったなんて!まさか嵌められたッ!?)
ほわほわと甘ったるい夢見心地のような表情を晒すアンとは対照的に、レイラの表情は引き攣っていた。
まさかジョセフは彼女に己の制裁を任せた、ということなのだろうか。子供には子供、ということなのか。
「ねえ、レイラには好きな人とかいるの?」
ずいっ、とアンがレイラに顔を寄せる。その目は興味津々な純粋な乙女そのものであり、それを見ているとつい今自分が想定していたこととは食い違っているように思えてきてやがてその表情をフッと緩めた。
「あんたはその、承太郎って奴が好きなのか?」
「え?うーん……ねーちゃんの方がお似合いだから、オレは応援する!で、レイラのも応援したいから聞きたい!」
2人で少年の声色を作って演技しながら、足をぶらぶらと揺らす。
たまにはこういうのもいいんじゃあないか。よくよく考えれば、こうして同世代と話す機会なんてそんなになかった。DIOの周りは当然大人ばかりで、そして男が多い。女のほとんどはDIOの食糧になる。
だから、レイラにとってこの状況は稀有なものだった。
「……いるよ。その承太郎って奴より、もっと素敵な人」
DIOへの感情を他人に話すのも、初めてのことだ。
「ぼくのことを救ってくれた人なんだ。すごく歳上だけど、ぼくはその人に付き従うと決めた。ぼくの中で無数の星のようにきらきら瞬くような……そんな人だ」
うっとりとどこか惚けた目をしながら紡がれた彼を想う言葉に、聞いていたアンまで蕩けたように目を細めてしまう。
「レイラは本当にその人のことが好きなんだね」
"好き"なんて言葉では表現できない、そんな彼女の大きな想いにアンの応援の気持ちは膨らむばかりであった。
「あ!見て見て!おっきな河が見えるよ!」
ベナレスへの目印のような存在の大きな河――ガンジス河が窓越しに顔を覗かせる。
すべてを優しく包み、流れ続ける河。
この河には、生まれてから死ぬまでの全てが縮図としてある。
聖地ベナレス――
ここは人が何ヶ月いても飽きないと言われているが、それはここで出会う風景が、きっとその人の魂の内なる風景だと感じるからだろう。
やがてベナレスに辿り着きバスから降りると、2人は街の中をいろいろと見て回ることに決めてアテもなくぶらぶらと歩き回り始めた。
屋台のものを一通り食べ比べしてみたり、そこらへんで風呂敷を広げている商人が売っている変なものを眺めたりと、アンもレイラも未知のことに興味津々な様子だった。
「へへ!買っちゃったね〜!」
アンとレイラは今しがたお揃いで買ったばかりの手のひらに収まるサイズの奇妙な人形を眺める。
くまのような、うさぎのような、はたまた猫のようなどうとも取れる形をしたそれを互いに懐にしまい込んで、次は何をしようと辺りを物色していく。
「ねえ、今度はあれやってみようよ!」
「どれ?」
アンがレイラの手を引いて連れて行ったのは先ほどバスの中で見たガンジス河で、人々はその水を浴びている。老若男女問わず大勢の人間が水浴びをしている様子は圧巻だった。
「沐浴ね……」
「もくよく?」
「身を清めることよ。お風呂みたいなものだけど……」
よく見てみれば、川の水はお世辞にも綺麗とは言い難い。ここにいるのは皆なにかの教徒なのだろう。
「……男装がバレてもいいなら好きにすれば」
余程の健康体かこの水に慣れ親しんでいる者でなければここでの沐浴は難しそうだ。レイラは自分はお断りだと顔を背ける。決してアンを気遣うわけではない。――決して。
「えー!じゃあオレもやめるッ!レイラと一緒がいいし!」
「なにそれ……」
もしどこかに宿泊するとしたら、一緒に風呂でも入るつもりなのだろうか。いまのアンはそれくらいレイラにべったりで、思わずため息が出てしまう。
「次いこ、次!」
「はいはい」
再び街中へ戻ってきてみればそこはいつの間にかパトカーが数台サイレンを鳴らして巡回をしているようで、すれ違う回数の多さに2人もさすがに怪訝そうな表情を浮かべてしまった。
「なんだか騒がしいね。どうしたんだろう」
沐浴の様子を眺めていたほんの数分前まではこんな感じではなかったはずだが。
「あのじじい……どこに行きやがったんだ」
「まさかホテルに戻れなくなるとは……」
「見事に追い出されちゃいましたね……」
雑踏の中、不意に聞き覚えのある声が聞こえてきて反射的に振り返る。
「あっ!承太郎だ!」
「!!」
その後ろ姿。背格好。特徴的な帽子。
間違いない。あの黒い大きな塊のような男は――
(空条承太郎ッ!!ベナレスに来ることは予想していたけど、こんなに早く会うなんてッ!!)
レイラはサッと血の気が引く心地になる。ここでまた遭遇してしまったら、今度こそ己は殺される。
しかもその両脇を固めているのは白鳥葵と花京院典明だ。
3人。さすがに3人は相手できない。しかもいまはアンも一緒だ。無関係な人間を巻き込むわけにいかない。
「おーい!承太郎ー!白鳥ねーちゃーん!花京院さーん!」
「あっ!ちょっと待ってッ!!」
大きく手を振りながらいまにも駆け出していってしまいそうなアンの手を強く引っ張り、レイラは路地にあった木箱の陰に身を隠した。
「ち、ちょっと!レイラ、どうしたの!?」
「しっ!いまは黙って!」
むぐっ!とアンが苦しそうに呻くのを無視して、レイラはその喧しい口を手で塞ぐ。
「どうしたんですか?承太郎先輩」
「いや……いま俺たちを呼ぶ声が聞こえたような……」
「ジョースターさんかい?」
「わからん……子供のようにも聞こえたが」
3人のまばらな足音がレイラたちのいる路地に近付いてくる。
「承太郎たちはいい人だよ!おっきくて怖いかもしんないけど!」
「もーすこし黙ってて…!」
さすがに息苦しくなったらしいアンがレイラの手を退けて小声で話すが、こちらとしてもいま彼らと会いたくない理由がある。彼女に話すことは決して叶わないが。
レイラは今一度アンの口を手で塞ぎ直し、子供2人が隠れられるようにローブを広げて覆い被さった。
やがて足音が1人分、ゆっくりと路地に入ってきて近付いてくる。
「確かこの辺りだったはずだが……」
承太郎だ。すぐそこにいる。
自らも息を止め、バクバクとすぐ近くで心臓が鳴っているかのように響く緊張感が走る。
「承太郎!先に車の確保をした方がいいんじゃあないか?」
「ジョースターさんのことが落ち着いたら、すぐに出発できるようにしておいた方がいいと思います」
それは長いようにも感じたし、短かったようにも思える。花京院と白鳥の声が路地の外から聞こえてきて、承太郎は踵を返す靴音を響かせながら足音を遠退かせた。
「それもそうだな。この調子じゃあホテルでゆっくりはできなさそうだしな……」
「車の中で5人で雑魚寝……窮屈そうだ」
「大きな車が手に入ることを祈りましょう」
3人の声が遠くなっていく。完全に聞こえなくなったところで、レイラはアンの口を塞いでいた手を退かしてローブも外した。
(一難去った……)
内心ホッとしながらローブを羽織り直す。それをアンは呆気に取られたように眺めて、彼女の腕をそっと握り締めた。
「なに?」
「…………」
アンはどこか浮かない顔をしていて、先ほどまでとはまるで違う雰囲気に思わずレイラも首を傾ける。
少ししてからアンは歯切れが悪そうにしながらも、彼女の腕をそっと撫でた。
「……見ちゃった。レイラ、腕にも脚にも、たくさん怪我した痕があるわ」
「…………」
ローブを被せた時だ。レイラはローブの下は簡素な衣服しか纏っていない。その隙間から彼女は見てしまったのだろう。
「その……つらいことがたくさんあったのね。あたし、気付いてあげられなくて……」
隠していたのだから当然だ。
奴隷時代に主人から付けられたこの無数の傷痕は、適切な処置をしなかったからずっと残り続ける。
だからDIO以外の人間には絶対に見られたくなかった。彼女のように察しのいい人間には、レイラがどんな人生を歩んできたのか一目瞭然だからだ。
そしてそれはジョセフ・ジョースターも同じだっただろう。アンが先に解いてしまったが、彼が縛ったロープは子供の力でも解けるくらいに緩かったからだ。
「……これを見るとね。みんなあたしを見る目が変わるんだ。可哀想だって、こいつにはなにしてもいいって、それが一番イヤだった」
腫れ物扱いされたり、ストレスの捌け口にされたり。ボロ雑巾のような見た目の己に、人々は勝手に哀れな目を向けるのだ。
(でも……DIO様だけは違ったんだ)
彼だけはあの目で己を見なかった。彼だけはいつも慈愛に満ちた目を向けてくれた。ありのままのレイラを受け入れてくれて、言い付けるのではなく、優しく諭してくれる。
彼だけは、レイラに生きる理由をくれた。
「あっ!レイラ!」
気付けばレイラはスタンドの像である白く巨大なカラスを出現させると、その脚に掴まって空に浮かんでいた。
任務に失敗してしまってDIOに会うことが恐ろしかったが、自分のことを信じてここに送り出した彼のことを思うと、逃げるなんてできるはずがなかった。
ケジメはつけなければ。本当はいまここで承太郎たちを追って仕留めるのが一番いいやり方なのかもしれないが、アンは己を追ってくるだろう。無関係な人間を巻き込めない。
(あの様子だと、このカラスはあいつには見えていないようだしね……)
己を見上げるアンの顔は「空に浮いてる!」と驚愕に満ちていて、彼女がスタンド使いではないことは手に取るようにわかる。
「レイラ!あたし、あたしは!どんなレイラでも好きだよ!傷だらけでも、つんけんしてても!」
アンが空に向かって声を張り上げるのが聞こえる。それをじっくりと見下ろして、レイラは微笑むように目を伏せた。
「アン。……悪くなかったよ。あんたとの旅は」
その声は彼女に届いただろうか。
レイラは空へ向かってさらに上昇すると、やがてエジプトに向かって空を駆けていった。
「……また、会えるよね…?」
ほんの数時間、一緒に旅をした奇妙な友人。彼女が飛んでいった青い空を、アンは数分の間眺めていた。