パキスタンは1974年にインドから独立した新しい国家である。
しかし日本人が原始の生活をしていた頃、既に文明があった。
インダス文明、モヘンジョ=ダロ、そして中国とヨーロッパを結ぶシルクロードの中心がガンダーラ。
インド大陸5000年の歴史を今に受け継ぐのがここ、"パキスタン"である。
そんなパキスタンに無事到着し、一夜を過ごした翌日。
「白鳥ねーちゃん、元気でね。無理しちゃだめだよ」
「アンちゃんも元気でね。手紙、必ず書くわね」
飛行機に乗り込む直前、アンは振り返ると白鳥に駆け寄って勢いよく抱きつき、白鳥もそれを受け止め彼女を抱き締め返す。
トータルでほんの数日一緒にいただけの家出少女だったが、彼女が家に帰ってしまうことでもうこの旅で会うことがないと思うと寂しい気持ちになる。
「絶対だよ。絶対生きて日本に帰りなよ!」
もう一度ぎゅっと強く抱き締めてから離れ、アンはニッと笑い承太郎へ顔を向けた。
「承太郎も!絶対ねーちゃんのこと幸せにしてやんなよ!」
「フン。なんのことか知らねーが、てめーのようなガキに言われなくても分かっている」
フイッと顔を背けた承太郎だったが、ほんの少しだけ口角を上げているようにも見える。一応見送りの意味は籠っているようだ。
「ジャーナリスト、がんばれよ。応援してる」
「また家出したりすんなよ〜ッ!」
「飛行機を降りた後も気を付けて帰るんじゃぞ!」
花京院、ポルナレフ、ジョセフも思い思いに彼女の搭乗を見送っていた。
「…………」
アンは白鳥たちの姿が見えなくなるまで窓の外を見ていたが、やがて本当に見えなくなってしまうとシートに座り直してリュックから一枚の写真を取り出して眺める。
写真の中で微笑んでいる自分の姿と、5人の男女。先ほど白鳥が持っていたカメラで撮影したばかりの写真だ。
「……また絶対会うんだ。絶対あっと驚かしてやる!」
カッコいいジャーナリストになる。
そして、この5人の旅路を取材してやる。
「がんばるぞー!」
声高らかに両手を挙げる姿は居合わせた乗客も思わずくすくすと笑ってしまうほどに希望に満ちていた。
―――
アンの見送りを終え、整備に出していたランドクルーザーを引き取るとジョースター一行は再び車を走らせた。
パキスタンから船に乗り、アラブに向かう。そのため海の方に向かって車を進めるが、立ち込める霧が荒地続きの道では不安要素になっていた。
「だんだん霧が濃くなっていくな……ちょっちアブねーかもしれない」
なにしろすぐ横はガードレールもない崖だ。超安全運転とはいえ、前が見えないようでは意味がない。
「すごいですね……霧なんて幻想的です」
「言ってる場合かァ?横の崖から落ちたら大惨事だぞ」
こんな時でもマイペースな白鳥に若干呆れつつ、ポルナレフは止むなしと前進を続けている。
「フムゥ……まだ15時前じゃがこの調子では進行は難しいな。あそこに見える町で今日は宿を取ろう」
崖下に塔のようなものが見える。まるで霧が包んでいるかのような町が広がっていることに気が付き、ジョセフはそれを指しながらポルナレフに提案した。
「そーだな、俺もそれがいいと思うぜ。見たところそう大きくはなさそうだが、ホテルくらいあるだろ」
彼もその提案にむしろ安堵したかのようにひとつ頷き、町の方へ下りれる道へと入る。
「いいホテルがあるといいですね」
「おう、もちろんいいトイレがあるホテルだ!いいホテルにはいいトイレがついてるのが相場ってモンよ!」
ポルナレフはよほどインド方式のトイレにトラウマがあるらしく、ようやく普通のトイレと巡り合えそうな予感にワクワクしているようだった。
「……!!」
そんな和やかな雰囲気の中、承太郎は窓の外に一瞬見えた異様な光景に目を見張る。
それはすれ違いざまのほんの一瞬だったが、妙に目を引く――というより、一度目にしたら忘れられない、特に白鳥なんかは叫び声を上げながら飛び上がるだろう。
(犬の死体……いま、犬の死体が道の脇に突き刺さっていたように見えたが……)
「承太郎先輩、どうしました?」
そこで不意に隣の白鳥が声を掛けてきてハッと意識が戻ってくる。彼女はきょとんと不思議そうにしていて、あれを見たのは己だけだったのだと理解すると「なんでもないぜ」と首を横に振って誤魔化した。
やがて町に到着し車から降り、辺りを見渡す。
相変わらず霧が深いが、町の中は人通りもそこそこある。
「なんだか……妙に静かな町だな。今まで来た町はもっとドワァァァ〜〜〜って感じの雑踏だったのによ」
ポルナレフの言う通り、なぜだかこの町は異様な静けさがあった。カルカッタの時のような物乞いラッシュもなければベナレスのような観光地特有のカオスさもない。
皆がひっそりと息をして暮らしている。そんな雰囲気がこの町にはあった。
「きっと霧が出ているからそう見えるだけじゃろう。あのレストランで宿の場所を訊いてみようじゃあないか」
ジョセフが意気揚々とレストランの方へ向かい始めるのを、白鳥は不安そうにギュッと承太郎の手を握り締めながら見つめる。
「……白鳥」
「……えっ?」
突然名前を呼ばれて何事かと彼を見上げてみると、彼は握られた手を見つめていた。
「……えっ!あっ!手ッ!」
完全に無意識だったらしい。白鳥はパッとその手を離そうとしたが、逆に承太郎にギュッと握り返されてそれが叶わなくなり困惑したように彼を見上げる。
「別にいいぜ。不安ならいくらでも握りな」
そのまま指まで絡めて逃げられないように握り直されてしまい、さらに困惑状態になってしまった。
(こ、これじゃあ安心になっても離せないって〜ッ!)
より強固になった手繋ぎに思わず頬が染まる勢いだったが。
「ッ!!」
突如、バンッ!と何か叩きつけられるような音が響いて一瞬バチっと目を瞑ってしまった。恐る恐る目を開けて音のした方を見てみると、レストランの店主が生気のない据わった目でジョセフを見つめながら"CLOSED"と書かれた看板を指している。
「え、な、なに…?」
イマイチ状況が読み込めない白鳥だったが、それは周りも同じなようで一様に目を丸めていた。
「あ…あのじゃな、あはは……なにも急に閉店にすることもないじゃろうに。ちょいと尋ねたいことがあるだけなんじゃ。ここにホテルはあるかな?それを訊きたいだけなんじゃよ」
ジョセフが愛想笑いを浮かべながらもしどろもどろに店主に尋ねている。しかし店主はやはり生気を感じられない目をどこか遠くに向けているだけで、腕を組んだポーズのまま微動だにしない。
「も、もしも〜〜〜し」
もう一度ジョセフが――
「知らないね」
――尋ねようとしてみたところで、店主はぶっきらぼうにそう告げてくるりと踵を返し店の中へ戻っていってしまった。
「な、なんだか……よそ者お断り!みたいな雰囲気……ですか?」
「さあな……じじいの挨拶の発音が悪いのが気に入らなかったんじゃあねーのか」
よそ者お断りにしては町中の視線を感じない。ここに車で入ってきた時から、彼らはこちらに見向きもしていない様子だった。
カルカッタの時の物乞いの様子も異常だったが、ここまで無関心なのもまた異常である。
「もしかしたら虫の居どころが悪かったのかもしれねーしさ。今度はあっちで座ってる奴に訊いてみようぜ」
戸惑っている様子のジョセフを励ますようにポルナレフがそこの街灯の下に腰掛けている男を指してそちらに歩んでいく。
「よお、おっさん!すまねーがホテルを探してるんだ!トイレの綺麗なホテルがいいんだがよー、どっか知らねーか?」
満面の笑顔と気さくな態度でポルナレフが男に声を掛ける。しかし――
「ッ!?おい、お前ッ!どうした!?」
軽やかな声が驚愕のそれに変わったのを聞いて一行が駆けつけてみると、その男はドサリと地面に倒れ込んで瞳孔が開いた恐怖の表情を惜しげもなく晒していた。
「ひッ……!!」
極め付けはだらしなく開いた口からズルリとトカゲが這い出してきて、彼が既に死んでいることを嫌でも解らされて白鳥は思わず口を押さえて息を呑む。
「なっ…なんだこいつッ!!なんで道端で死んでいるんだ!?死因はなんなんだ!?心臓麻痺でもしたかッ!?」
声を掛けたポルナレフですら「信じられんッ!」と声を上げている中、承太郎はスッと彼の手元を指差した。
「かもしれん……が、ただの心臓麻痺じゃあなさそうだぜ」
承太郎が指し示す先を辿ると、そこには拳銃が握られていて全員息を呑む。
「け、拳銃…!ピストル自殺かッ!?」
「確かに銃口からは細いけど煙が上がっている……ほんの5分前というところか?僕らがこの町につくちょっと前だが……ざっと見た感じ体に傷はないし血もぜんぜん出ていない……」
花京院が男の死体を観察してみるが、不可解な点が多すぎる。
なぜ彼は死んでいるのか?
この拳銃はなんのために握られているのか?
彼は恐ろしいものを見たかのような顔で死んでいるが、彼はなにを見たのか?
そしてなにより――
「こんなにミステリーなことが起こっているのに、なぜ町の人は誰も反応すらしないの…?」
人が死んでいる。しかも発砲までしている。これは明らかに異常事態だ。カルカッタの時もアヴドゥルの死体(正確には死んでいないが)には多くの野次馬が詰めかけていたというのに。
なのにこの町を行き交う人々はやはり誰も彼もそれに見向きもしない。
死体は不本意ながら見慣れてしまったが、町の人々の不気味な無関心さに白鳥でなくても不安が募る。
「そこの人、すまない!人が死んでいるんだ!警察を呼んできてくれッ!」
花京院はちょうど目の前を通りがかった子連れの女性に声を掛ける。
――が。
「……ッ!!」
ゆっくりとこちらを振り向いた彼女の顔は蜂にでも刺されたかのような凹凸が複数あり、まるで沸騰しているかのように蠢いたかと思えばウジュウジュと膿のようなものを垂れ流していた。
「失礼致しました……ちょいとニキビが膿んでしまっておりましてェ〜〜……ところでェ、あたくしになにかご用でございましょうかァ〜〜……」
どう見てもただのニキビには見えない。なにか別の病気のように感じる。
しかしこの町で初めてちゃんと話ができそうな人間に出会ったのだからチャンスを逃すわけにいかない。
花京院は意を決して彼女と遠巻きに向き合った。
「警察に通報を頼むと言ったんだ」
「警察…?なぜゆえに〜〜?」
だが女性のあまりにも悠長すぎる態度に苛立ちと焦りが募るのか、比較的初対面の人間には紳士的な面を見せる花京院ですら声を荒げて死体を指差す。
「見ろッ!人が死んでいるんだぞッ!」
「おやまあ……人が死んでおるのですか。それで?わたくしになにかできることは……?」
「警察を呼んできてくれと言ったろーがッ!!」
まるで難聴でも患ってるのかと言わんばかりの会話に彼の苛立ちも限界なのか、とうとう拳を握りながら女性に怒鳴りつけるように言い放つ。初対面の、しかも女性にこんな態度を取る彼を見るのは白鳥も初めてのことで、その怒鳴り声にびっくりしたのか彼女の抱きかかえる赤ん坊がオギャァオギャァと泣き声をあげる始末だった。
「はい、はい。警察を呼ぶんですね……ニキビが膿んでかゆーてかゆーてのォ……」
花京院の怒鳴り声にも動揺する様子はなく、女性は悠長なペースを終始崩さずに子供を連れてゆっくりと霧の中へ去っていった。
その姿を一同唖然としながら見送ることしかできない。
それほどまでにこの町の雰囲気は異常だ。
この静けさも、無関心さも、そして先ほどよりも濃くなっていく霧すらも。霧はまるでこの町を覆い隠すような勢いで濃度を増している。
「なんだか薄気味悪いぜ……見ろよ、なんかあの霧のところ……ドクロの形に見えねーか」
ポルナレフが指した方角は霧が渦巻いているかのようで、彼の言う通りドクロのような気味の悪い模様が浮かび上がっているようにも見える。
「テメーら……下手に動くんじゃあないぞ。こんな中ではぐれたら、たちまちに互いの姿すら見えなくなる」
承太郎が白鳥を引き寄せるのを合図にしたかのように一行は自然と身を寄せ合い、もう一度謎の死体と向き合うのだった。