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―――
薄く開いた視界には砂埃と瓦礫、そして己の足元だけが見えた。
ゆっくりとその視界を上げると、カイロの町の損害の規模があまりにも大きすぎることに息を呑む。
「…………ッ」
その場から動こうとしてみたが、手が壁に張り付いて動かない。横目にして見ると手のひらにナイフが突き立っていて、もう痛いという感覚はなかった。
「…………」
ああ、私はもう死ぬんだ。
磔にされている白鳥葵は漠然とそう思った。
「まだ、死んでいなかったか」
刹那、影が差したかと思うと上から声が降り掛かり、視線を目一杯上げた。
「…………」
心の中心に忍び込んでくるような凍てつく眼差し。
黄金色に光る頭髪。
男とは思えないような妖しい色気。
「……DIO」
白鳥がその名を口にすると、彼はニヤリと口角を上げた。
「私はいま、とてもいい気分だ。ジョースター御一行を始末出来たのだからな。……承太郎にはちと手こずったがなァ」
何を言っているんだ、こいつは。
白鳥はそう思いながらDIOの背後を窺う。
「…………ッ!」
少し遠くの方。あの見慣れた学ランに包まれた大きな体躯が地面に倒れ伏している。
「じょ、たろ……せんぱい……!」
ちょうど頭の部分はDIOの体に隠れて見えないが、顔を見なくたってそれが誰だか分かる。
白鳥は懸命に脚を動かして名を呼んだ彼に駆け寄ろうとしたが、磔にされた手のナイフがしっかり壁に食い込んでいて動けなかった。
「ククク……駆け寄っても無駄よ。見つめあってみるか?いまここで、愛しい男と」
本当にこいつは何を言っているんだ。
再び白鳥は思いながら悄然と視線を落とす。
「…………ッ!!」
その過程で、見えてしまった。
彼の左手には血塗れの道路標識が握られており、右手は見慣れた頭部の髪を鷲掴みにしていたのが、見えてしまった。
「ン〜、待ちきれなくて先に見てしまったか!結構せっかちなものだなァ、白鳥よ!」
DIOがそうやって嘲笑うのが遠くのことのように聞こえる。
空条承太郎だ。
承太郎の頭部だ、あれは。
承太郎は死んだ。
死んでいるのだ。
絶望。
白鳥葵の中に侵食するかのように、その感情だけが渦巻いていく。
目の前が真っ暗になりかけたが、磔にされていた手が突然軽くなりそのままへたりと瓦礫の中に腰を落とした。
「いい顔だ、白鳥。どれ、きさまには私からひとつプレゼントをやろう」
前髪をギュッと掴まれ頭を上げさせられたかと思うと、DIOは白鳥の手に突き立てていたナイフで己の手首を斬りつけ、その傷口を無理矢理彼女の薄く開いた唇に押し付けた。
「んんッ!!んんぅ…ッ!!」
「クハハハハッ!!さあ飲めッ!飲み込めッ、白鳥葵ッ!」
苦しそうに呻く彼女を見て愉快そうに高笑いしながらグリュッと更に手首を押し付けるが、それを嚥下する様子が見られない。
もう大量に血を口内に流し込んだはずだが。DIOは痺れを切らして手首を離し、白鳥の顎を掬うように持ち上げるとそのまま唇に己の唇を押し付ける。
「ふッ!うぅ…ッ!!」
まさかキスされるとは思ってもみなかったのだろう。
ゴクリ。指先で触れた喉が確かに動いたのを感じて、DIOはほくそ笑みながらついでに彼女の口内に舌を捩じ込んで蹂躙した。
「…ッは……どうだ?承太郎とはもうそこまでしたのか?」
ようやく白鳥を解放するとペロリと己の唇をひと舐めしながら彼女を見下ろす。
白鳥は口内の不快感と上がった息に吐き気すら感じて唇を手の甲で擦るが、もっと違う何かが己の体内を駆け巡っていく感覚に血の気が引いて体がフリーズしたかのように固まってしまった。
「答えなくていい。承太郎などじきに忘れるさ。もうすぐきさまは私と同じになるのだ。そしてこれからはこのDIOの館で暮らすのだ。……2人きりでな」
そんな白鳥の肩を抱き、DIOは囁く。それが恐ろしく甘美に聞こえて、ゾワリと体の奥底が疼く。
それでも。
「……ああ。やはりか」
DIOは抵抗するかのように鋭く睨みつけてきたその女に別の女の姿を重ねる。
「……その目は本当によく似ている」
―――
***
「……り、白鳥……!」
遠くの方で声がする。
その声の主を確かめようと覚醒した意識の中でゆっくりと瞳を開けた。
「……!!白鳥!」
「白鳥ッ!よかった〜、もう目を覚まさないんじゃあないかってヒヤヒヤしたぜ……」
視線の先にいたのは2人の男――承太郎とポルナレフで、己は横たえた身を承太郎に抱き起こされた状態だった。
「白鳥さん、具合はどうですか?」
「白鳥くん!ああ、よかった……」
それに混ざるように花京院とジョセフも視界に入ってきて、2人も安堵の表情を浮かべていた。
「えっと……私、なにがなにやら……」
気持ち悪い夢を見た気がするのに、起きた瞬間に霧散したかのように記憶から消えてしまった。
なのに、口の中はなぜか血の味と生温かい舌のような感触がこびりついているような気がして口許を手で覆う。
承太郎はそんな白鳥の上体を起こしてやると、持ってきた彼女の荷物から水の入ったボトルを出して渡した。
「飲みな」
「あ、ありがとうございます……ってか、それ私の水……」
口の中をゆすぐように水を流し込み、自分で床に座り込むと辺りを見渡す。
すると、床に突っ伏して倒れているエンヤ婆とホル・ホースの姿が見えて先ほどまでのピンチはなんとかして乗り切れたのだと理解した。
「あのエセカウボーイから全て聞いたぜ。お前を守ろうとしてくれたことも、ババアのスタンドについて教えてくれたことも感謝しているが……とりあえず全員で一発ずつぶん殴っておいた」
ということはこの巨漢たちの拳を4発喰らったのか。
彼らがホル・ホースを殴った理由はこの体を弄ったからだろう。白鳥はすぐに思い当たり承太郎たちに「おい起きろ」と無理矢理引っ張られている彼を見つめる。
「ンンッ!…………ハッ!ア、アオイッ…!」
ホル・ホースは目覚めるなり白鳥を視界に入れて安堵したようにパッと表情を明るくさせたが、次にはサッと青ざめながら床に額を打ちつける勢いで彼女に向かって土下座を始めた。
「す、すまねえッ!アオイッ!操られていたとはいえ、アンタの体をあんな…ッ!許してくれとはとても言えねェ…!だが謝らせてくれッ!!」
滝のような勢いでぶつけられた謝罪に白鳥は面食らった。そのまま呆けたように土下座するホル・ホースを見つめていたが、そんな彼女の肩を承太郎はポンと叩く。
「あとはお前が決めればいい。俺たちは関わってねェからな」
承太郎は立ち上がると彼らを静観する体勢に入る。ホル・ホースはその間も土下座したままピクリとも動かなかった。
「アンタが言うならなんでもするしなんでも奢ってやる……いや、なんでもさせてくれ、奢らせてくれッ!本当はそんなんじゃあ償いきれねェが……」
いまのホル・ホースの言葉からはインドで出会った時に感じたあの胡散臭さは感じない。白鳥をまだ誑かすつもりならもう一発殴ってやろうと承太郎は考えていたが、本心から謝罪している彼を見て当事者である白鳥に委ねることに決めた。
白鳥もそんな承太郎の意を汲み取ったのか、土下座を続けるホル・ホースに近付いてしゃがみ込み、彼と同じ目線になる。
「……本当に、なんでもしてくれるんですか?」
「ああ……なんでもだ。この際本当になんでも」
彼の答えに、白鳥は深く息を吸い込んで覚悟を決めたように吐き出す。
「……では、私たちのスパイになってください」
「…………えッ?」
白鳥が意を決して下した命令に、思わず頭を上げたホル・ホースだけでなく承太郎たちもどよめいた。
「ス、スパイって!ホル・ホースにやらせんのかッ!?」
「白鳥くん!彼に肉の芽は埋め込まれていないッ!本心からDIOに忠誠を誓っておるんじゃ!いつ裏切るか分からんのじゃぞ!?」
ポルナレフは声を裏返し、ジョセフは戸惑いの色を見せながら声を張り上げる。花京院は絶句したように口を半開きにさせ、承太郎も呆れたのか帽子の鍔を摘んで顔を伏せていた。
「アオイ、それだけはだめだ!本当にそれだけはッ!俺にできるわけがねェッ!」
ホル・ホースもあたふたと手をばたつかせながら反対の意を唱える。しかし、白鳥は正座をすると再びホル・ホースと向かい合う。
「"できない"というのは"忠誠を誓っている"からですか?それとも、"DIOが怖い"からですか?」
「…………!!」
以前アヴドゥルがDIOについてこう言っていた。
彼の言葉は甘く優しく、心が安らぐ気持ちになる――と。危険な甘さがあるのだと。
花京院もポルナレフも、同じ手口で肉の芽を埋め込まれていた。
それほどまでに彼は強大な力とカリスマを秘めている。そしてそれは、近くにいればいるほど恐怖に映ることもある。
言うなれば、畏怖――強すぎるが故に、離れられない。
離れたらどうなるか理解しているから。
「…………」
ホル・ホースは俯いて黙りこくっていた。
己がDIOの側につくのは彼が強くて羽振りがいいからだ。ただそれだけのことで、己は嘘も得意だし金が貰えればそれでいいので口先だけで忠誠を誓った。
だからこそ、素面で見るあの男は甘くも冷酷にも見えるのだ。
人の心の隙間に入り込むのが異常に上手い。凍てつくような優しさで掌握される心地。たまらなく気味が悪い。
「俺は……俺は……どうしたらいい……」
ようやく紡いだのはそんなか細い声だった。
目の前の白鳥葵にはすでに"なんでもする"と宣言してしまっているのだ。男に二言はない。いつもならクールにそう言っているところだ。
しかし、いまここで彼らの味方をするのは明らかに悪手だ。いままで築き上げてきた絶対的な存在との関係にヒビが入ってしまう。下手したらヒビどころか殺される。
安易になんでもなんて言うから。安易にヤバい奴の下につくから。安易に、安易に、安易に。
「私は、DIOなんて怖くありません」
周りすら見る余裕のない暗闇の中、凛とした声が響く。
顔を上げると、そこには力強く己を見つめる白鳥葵がいた。澄みきった青空のような瞳。吸い込まれそうなほどの希望を纏うそれを、ホル・ホースはいつの間にか見つめていた。
「だって、怒った承太郎先輩の方が絶対怖いですから」
次には彼女はそうやってニッコリと微笑み、ホル・ホースは呆気に取られたようにあんぐりと口を開けていた。しかし、フッと目を伏せて笑みを見せるとテンガロンハットの鍔を指先で撫ぜる。
「やれやれ……こんな時も惚れた男の名を口にするのか。そこの番犬が怖ェってのは同意してやるがよォ」
彼女の後ろにいる承太郎がムッと眉間に皺を寄せたような気がしたが、敢えて見ないフリをして立ち上がる。
白鳥葵はもう、あの時のフラフラに弱っていた雛鳥ではないらしい。むしろ、精神面では己より強いのかもしれない。
「アオイ」
ホル・ホースは立ち上がろうとしている白鳥に手を差し伸べる。
「俺もDIOについては知らねーことばかりだ。当たり前だが、ヤツは信頼している者にしか手の内を明かさない。だからこれは、俺が本当に忠誠を誓うに値する人物かどうかを精査するついでだ」
バレれば即死。だが、白鳥葵はきっと強い味方になってくれる。ホル・ホースにはそんな確信があった。
「それでいいです。お願いしますね、ホル・ホースさん」
白鳥はニッと笑いながら彼の手を取り立ち上がる。
「早速ですけど、今後襲ってくる可能性のあるスタンド使いを教えてもらっていいですか?」
スカートやタイツについた砂埃を払い、白鳥は再びホル・ホースと向き直る。意外とすぐにスパイとしての務めがまわってきて一瞬目を見張ったが、彼は咳払いをしてからざわつく心臓を落ち着かせるように深呼吸をする。
「本当に早速じゃあねぇか……そうだな、あと残っているのは"
不意に言葉を切るとすぐそこで気絶したまま目を覚まさないエンヤ婆に視線を向ける。
「"
「"
同じようにエンヤ婆に視線を向ける白鳥に、ホル・ホースは短く息を吐き首を横に振った。
「だから詳しくは知らねーんだよ、俺も。ただ、そのスタンドは戦闘力のない"最弱のスタンド"とも聞くし、逆に"最も恐ろしいスタンド"という噂も聞く。ここが最大の不気味ポイントだ」
ポケットに手を突っ込み、新しいタバコに火をつけて蒸しながら彼はホテルの玄関から外へ足を向ける。
「いまの俺に助言できることはそのくらいさ。あとは追々な。また会えるのを楽しみにしてるぜ、アオイ」
振り返ってはヒラヒラと彼女に向けて手を振り、ホル・ホースは一行の前から姿を消した。
「ホント〜〜に良かったのかァ?アレで……」
ホル・ホースが去った後、気絶したままのエンヤ婆を乗ってきたランドクルーザーの後部座席に乗せてポルナレフは運転席に座りながら不満げに声を上げる。
「だって、なんでもしてくれるって言いましたもん」
「だからってよォ、よりによってホル・ホースにあんなこと頼む奴があるかッ!なぁ、承太郎!?」
アンを乗せた時のように後部座席で膝の間に白鳥を座らせた承太郎を振り返る。
「さあな……こいつが決めたことだ。なにかあったらこいつが責任持つだろうよ」
承太郎がぼむぼむと雑に白鳥の頭を撫で叩くとすぐに下から「痛いです!」と声があがってきて彼は無意識なのか面白そうに口角をあげている。その様子を見てポルナレフは「ダメだこりゃ」とでも言いたげに肩をすくめていた。
「はいはい、相変わらず白鳥には甘ちゃんなんだからよォ〜ッ。もう出るからなッ」
ポルナレフはアクセルを踏んで町――だった、広大な墓地を走り抜ける。
エンヤ婆の霧のスタンドは人を操るだけでなく、町ひとつを忠実に再現してしまうほどの幻覚を作り出せる圧倒的なパワーを持ったスタンドだった。
それを承太郎は"スタンドの強靭な肺活量で霧を吸い込む"という荒技を使って倒したのだ。相変わらずスタープラチナは規格外のパワーを持つスタンドである。
エンヤ婆を連れていくことを決めたのはジョセフで、彼女の頭の中をテレビで念写してDIOのことを調べるつもりらしい。
(白鳥さんへの行為は僕も覚えがあるから、彼のことを責めきれなかったところはあるが……)
助手席で地図を広げる花京院はホル・ホースとのことを思い返す。
白鳥が気絶している間、ホル・ホースは彼女の体を弄ったことを彼らに対しても土下座で謝罪していた。そんな彼を最初に殴ったのは承太郎で、それに続くようにポルナレフとジョセフも一発ずつ殴りつけた。
『花京院、お前も殴れ!』
『えっ、僕もか!?』
ポルナレフに煽られた時、己とホル・ホースの姿が重なった。
ああ、きっと白鳥さんはこいつのことを許すんだろうな。
僕にそうしてくれたように。
そう思っていた。
(だけど、白鳥さんは……DIOと同じようにスッと心の隙間に入り込んでくるのに、なぜだかフワッとあたたかくなるんだよな……)
彼女からはあの凍てつくような甘さを感じない。彼女の強さはDIOのような圧倒的なものではないが、あの澄みきった空のような瞳を見ているとあたたかな希望が湧いてくるのを確かに感じるのだ。
それをホル・ホースも感じたからこそ、協力する気になったのだろう。
(まあ、彼は"僕ら"というより"白鳥さん"に協力するテイなんだろうけど)
終始ホル・ホースが白鳥にしか視線を合わせなかったことに対して苦笑いを零す。現に彼をすぐに信用するわけにはいかないからジョセフもエンヤ婆の記憶を念写してDIOを調査しようと踏み切ったのだろうし、明らかに彼にとってはアウェーな状況であることは確かである。
それでもホル・ホースは白鳥を信じているし、逆もまた然りなのだ。
(僕も……もっと強くならなきゃな)
花京院は腹の虫を抑えるようにそこに手を添える。後部座席では白鳥とジョセフがパキスタンのドネル・ケバブについての会話に花を咲かせていた。