生存逃走
―――
エジプトはカイロ。
レイラ・タァイルはDIOの前で正座し、手を前について頭を下げていた。
「それで……情けをかけられ戻ってきたのか」
「…………」
DIOの声が冷たい雨のように身に沁みる。
DIOの命令に従い、インドへ赴いたレイラは承太郎と白鳥を殺そうと彼らに襲いかかった。彼女の操る風のスタンド――ヌト女神を前にして、彼らはなす術がなかったようでレイラの勝利は目前だった。
しかし、土壇場でジョセフが介入してきて戦況はひっくり返った。レイラはジョセフの手でホテルに軟禁され、しかも子供でも解ける強さで体にロープを縛ったのだ。
――彼女が改心してどこか遠くへ逃げることを期待して。
「なにか言ったらどうなんだ、レイラ」
逃げてしまおうと何度も考えた。しかし、己を信じてインドに送り出したDIOのことを裏切れるわけがなかった。――はず、だったのに。
「レイラ」
明らかな怒りを露わにするDIOの声が恐ろしくて、レイラは顔を上げることも声を発することもできなかった。
それなりの覚悟を決めてここに戻ってきたのに、なんて情けないのだろう。DIO様が怒るのも当たり前だ。負けて、情けをかけられ、その状態で戻ってくるなんて相当図太くないとできない。レイラはいまさらながらそれに気付いて己を恥じていた。
「……まぁ。きさまに忠誠心が残っているからこそ私の下に帰ってきたのだと……そう解釈してやろう」
「え……」
しかし次いで出てきたDIOの言葉に、レイラは思わず顔を上げる。彼の顔はいつもの慈愛に満ちた微笑みを浮かべていて、気持ちが伝わったのだとほんの少しだけ安心した。
「あ、ありがとうございます。DIO様」
レイラがもう一度頭を下げるとDIOは彼女の前まで来て膝を折ってしゃがみ、その小さな体を抱き締める。
「ああ……すまなかったな、怖い思いをさせて。こんなに体を強張らせて……」
「いえ……悪いのはあたしなんです。失敗しちゃったから……」
トントンと背中を撫でられると体の力が抜ける。DIOはいつだって優しい。己を拾ってくれた時からずっと。
あたたかくて、いい匂いがして、いつもあたしの世界に彩りを与えてくれる。
「次は絶対、失敗しないから……見ててください、DIO様」
レイラはギュッとDIOを抱き締めてから離れる。
ジョースター一行はもうエジプトへ足を踏み入れている。ならば一番槍として己が特攻を仕掛けよう。
DIO様に喜んでもらえるなら、褒めてもらえるなら、なんだってする。
「ああ。ずっと見ているよ、レイラ」
DIOは離れていく小さな背中に優しく声をかけ、微笑みながら見送った。
「……ホル・ホース。そこにいるな?」
レイラの姿が見えなくなった後、DIOはすぐ脇にある柱の陰に視線を向ける。その人影はビクッと肩を揺らした後、観念したように姿を現した。
「……はい。DIO様」
ホル・ホース。タロットカードの"
彼もまたインドで承太郎たちと対峙した男だ。しかし、ホル・ホースは誰とも違う事情を抱えている。
『では、私たちのスパイになってください』
白鳥葵。
エンヤ婆の件で彼女に粗相を働き、許しを乞うた時にそれを条件として言い渡された。そしてそれを呑んでしまい、情報の一部も既に彼女に与えてしまった。
ホル・ホース個人の矜持として、彼女の要求に応えないわけにはいかない。なので彼独自にDIOとその周辺の詳しい情報を得るために奔走していた。
「話は聞いていたな?お前にひとつ頼みたいことがあるのだ」
「は……なんでしょう?」
DIOにバレることなく情報を集めるため、いままで上手く立ち回ってきたつもりだ。危ない橋を渡っている自覚はあるが、己は嘘は得意なのだ。だからこそ、肉の芽を埋めていないシラフの状態でもこうして彼からの信頼を得られているのだ。
だからなにを頼まれようと大丈――
「レイラを殺せ」
――ドクリ、と。
一瞬。
本当に一瞬。
空気がドッとマイナスまで下がったような。
「…………はい?」
思わず顔が引き攣り、情けないスカスカの声が漏れ出る。
「あの小娘を殺してこい。あれはもう使い物にならん。いまなら安心しきっていて殺すのは容易い。……お前ならできるだろう?ホル・ホース」
そう言ってのけるDIOの目は恐ろしく冷たく、ゾッと背中に氷水を流されたかのような感覚に陥る。
さっきまでのDIOとレイラの会話はなんだったのだろう。あんなふうに優しさを振り撒いた後でこいつはこんな冷たい目ができる。
外道。まさしくそんな言葉が似合う。人の心がないのだろうか。
「あ……へ?た、確かにできないことはない……ですが」
ホル・ホースのスタンドは暗殺向きだ。油断しきっている相手ならまず撃ち漏らすことはない。
しかし相手は子供とはいえ女だ。女を殺すのはホル・ホースのポリシーに反する。そうでなくても己を心から慕ってくれている彼女に冷酷な目を向けることができる彼の態度が信じられない。
「なんだ?私の命令よりも大事なことなどあるか?ホル・ホース」
最近、冷や汗を流すことが多い。己を取り巻く環境が劇的に変わったからだろうか。
圧倒的な存在と、守るべき存在。その狭間で揺れるような感覚。まるで泥舟に乗ったまま沈む時を待っているような、言いようのない絶望感。
「……かしこまりました。DIO様」
己は本当に弱い。結局その場その場で流されているだけじゃあないか。いまだってこの場をどう乗り切ろうか、そのことしか考えていない。
ただ、ひとつ。確かに言えることは。
「……あんなの、人間じゃねェ」
ドス黒い悪意の塊。
ホル・ホースの目には、DIOは既に自分と同じ人間には見えていなかった。
―――
「おい、待て。レイラ」
ホル・ホースはやっとレイラを見つけるとその小さな後ろ姿に声を掛けた。
「……なに?ホル・ホース。あたしは忙しいの。DIO様のために、承太郎たちを殺しにいかないと」
館の玄関から差し込む夕陽が、振り向いたレイラの横顔をオレンジ色に染め上げる。まだ愚直にもあの男の言葉を真に受けて命令に従おうとする姿に、ホル・ホースはギュッと胸が締め付けられる心地になった。
「そんなことはもうしなくていい。俺と一緒に逃げるぞ」
「は?」
グッと力強く手首を握って彼女が館から出て行こうとするのを阻止すると、その表情はあからさまに不機嫌になる。
「……あんたなに言ってるの?」
「もうお前はDIO様にとっちゃどうでもいいただのガキだ!殺されるぞ!」
「意味わかんない!離してッ!」
レイラは握られた手首を振り払おうと抵抗するが成人男性であるホル・ホースに力で敵うはずがなく、加減なくさらに握り込まれて痛みで表情を歪める。
「ううッ…!痛い…!」
「こればっかりは痛がっても離すワケにいかねェ…!とにかく一緒に、」
――ドクリ。
そこで再び空気が冷えた。
いや、違う。正確には。
「あ……ッ!?」
ホル・ホースは振り向こうとしたがそれより先に体が動いた。レイラの身を引き寄せ己が腕に収めると転がる勢いで横へと滑り込む。
直後。
「ぐッ!!」
ガオンッ!と聞いたこともない音を伴って先ほどまでいた場所の床が抉れた。
「ま、まさか…!これは…ッ!!」
「あ…ッ、あ……!!」
ホル・ホースとレイラの表情が恐怖に染まる。
この攻撃の仕方。襲ってきた相手はあいつしかいない。
「ヴァニラ・アイス…!!」
はくはくと浅く繰り返す呼吸の中で紡がれたその名前。
それに反応したかのように目の前の空間からゆっくりとその姿が浮かび上がっていく。
「ど、どうして……あんたが……」
いつ見ても怪物のように恐ろしい姿のスタンド。その口の中から本体である男――ヴァニラ・アイスの顔がギラリと覗くのを、レイラは無意識にホル・ホースにしがみつきながら見つめた。
「きさまらを殺せと……DIO様が仰せだからだ」
ヴァニラは淡々と告げた後、再びスタンドの中に潜り込み姿を消す。
「まずいッ!!この場から離れるぞッ!!」
それを確認した後ホル・ホースは真っ先に立ち上がってレイラを抱えると、床を蹴りつけて館の中を全速力で駆け抜けた。
――一方。
「……アイスめ。派手にやるつもりだな」
DIOはベッドの上で本を流し読みながら館のあちこちから聞こえる破壊音に耳を傾ける。
「ホル・ホース……お前が私の周りを嗅ぎ回っていたこと、気付いていないとでも思ったか?」
ホル・ホースの動向の変化に気付いたのはエンヤ婆が再起不能になってから少し後のことだった。
最初こそまたコンビを組む相手を吟味しているのかと思っていた。己の部下はあまり他人を信用するような性格はしていないが、そんな中で彼だけは誰かと組んで真価を発揮する――所謂協調性を重視した戦いを見せる。そういった彼の資質は貴重だし、また彼の暗殺における才能もDIOは真っ当に評価していた。
しかし、最近の彼はどうも己のことが気になっているらしい。それがどういうことなのか――突き詰めるのは実に容易いことだった。
「白鳥葵……あの小娘に絆されたか。フン、忌々しい」
本に挟まっていた1枚の写真を摘み上げ、小賢しいとでもいうように鼻を鳴らす。
白鳥葵。ジョースター一行の旅に同行する少女。
最初は花京院にすら遅れをとるような弱い少女だった。だが旅を続けるうち、戦闘面でも精神面でも彼女は目を見張るような成長を遂げていった。
そして、その存在は主に空条承太郎にも大きな影響をもたらしていた。
「白鳥葵……フム。しかし、見れば見るほど覚えのある……」
DIOは写真に映る彼女を指先で撫でる。
どこかで彼女を見たような。記憶の片隅に彼女がいるかのような。
――まあ、良いか。
ぱたりと本を閉じ、館の音に耳を傾ける。
バタンッ!!
ホル・ホースとレイラは書庫に逃げ込むとすぐさま反対側の壁へと駆け寄った。
「こ……これでわかっただろ。DIO様は……お前を殺そうとしている。そして……俺のことも、だ」
ホル・ホースは肩で息をしながら隣で壁にもたれ掛かるレイラを見遣る。
きっと己が白鳥のためにDIOの情報を集めようとしていたことなんてとっくにバレていたのだ。こうなるとわかっていたのに白鳥の願いを聞き入れたのは他でもない自分だ。だからこうして命を狙われていることに対して納得はできる。――本当はしたくなかったけどな!仕方ねえ!
「…………ッ」
だが、隣で顔を青くしているレイラは事情が違う。
確かにレイラは任務に失敗してしまった。それをDIOが許してくれるとは思えない。
だがあんな甘い言葉を掛けておいてこの仕打ちとはどういうことだ。もう用済みだと言うのなら、自分の手で彼女を殺せば良いものを。それならばきっと彼女も素直に受け入れるだろうに。
わざわざ、あいつはレイラが絶望するやり方で始末しようとしている。そこにどういう意図があるのか。
(……そんなことは、俺では想像もつかねえ)
きっとあいつが人間じゃあないから。だからこんなことができるのだ。
彼女を拾ったのも気まぐれで、使いやすいから。ただそれだけ。彼女がヤツをどれだけ慕っていようと、"使い勝手がいい"――本当にそれだけなのだろう。
「……逃げようぜ、レイラ。俺はお前にひでェことなんてしない。それは俺のポリシーに反するからだ。俺は女を心から尊敬している。だから乱暴したり捨てたりなんてもってのほかだ」
このレイラ・タァイルのことも調べた。
彼女は両親に奴隷として売り飛ばされた子供だ。主人を転々とし、時には暴力を振るわれながらも必死で生き抜いてきたのだ。
そんな時に彼女はDIOと出会い、救われた。――はずだった。
「……でも、」
レイラの掠れた声が空気を震わせる。
「あんた、嘘はつくんでしょ。そんなこと言って……騙すつもりなんだ」
自分の肩を抱いて、彼女は震えていた。
ようやく灯った光は、自分の過ちによって消えてしまった。DIOに殺されるならむしろ本望だと思っていたのに、最後に彼は自分を騙して己の手を汚すことなく始末しようとしている。
――つまり、レイラ・タァイルはDIOにとって自分で殺すほどの価値もない人間ということなのだ。
結局、いままでの奴隷人生と同じことだった。自分が勝手に救われたと勘違いしただけで、DIOもこれまでの人間と同じだったのだ。
「……あたしはもう、誰も信じたくない……」
嗚咽で絞り出した声が悲痛なほどに突き刺さる。
刹那。
「ッ!!」
ガオンッ!!とまたあの音が響いたかと思うと正面にあった扉が壁ごと切り取られたかのように消え去った。
「来たぞッ!クソがッ!!」
ホル・ホースはエンペラーを繰り出すと素早く弾丸を発射して周りにある本棚を倒していく。すると、バラバラに飛び散った本の群れがたちまちに吸い込まれるように消えていき、それが透明になったヴァニラの通る軌跡としてヤツの位置を知る術となった。
「レイラ!お前は俺を信じなくていいッ!だが……俺はお前を信じるぜッ!!」
透明になったヴァニラには攻撃は通らないし、触れば暗黒空間へ取り込まれて大惨事になる。しかし、あの状態のヤツはスタンドの中に潜り込んだ状態なので、周囲を見ることはできない。
「…………!!」
ホル・ホースは本でつくったヤツの軌跡を見据えたままエンペラーを構えて動かない。方向転換する時、ヤツは顔を出さなくてはならないのできっとその時を狙っているのだろう。
――あるいは、レイラがなにか機転を効かせるのを待っているのか。
「……!!」
突如、無風だった室内に僅かながら風が舞い込む。
ホル・ホースはそのことに気付いて視線を転じると、レイラの手にはスタンドの像である白いカラスが止まっていて、それを認識した瞬間ブワッ!と本を巻き上げながら強い風が室内を占拠した。
「くッ!一体なにを……うおおおッ!!」
たちまちに部屋中の窓ガラスがカーテンを巻き込んで割れ、レイラはホル・ホースの腕を掴むと白いカラスを巨大化させながら外へと飛び出していった。
「おおおおおッ!!すごい速さで上昇していくッ!!これならアイスヤローを撒けるぜッ!!」
ホル・ホースは思わず歓声をあげて小さくなっていくDIOの館を見下ろす。そんな中でカラスはピタリと止まると、その反動を使って2人を背に乗せた。
「おい!レイラ!やるじゃあねーかッ!さあどこまで行く!?」
「ぎゃッ!さ、触んないでッ!」
勢い余ってレイラをよしよしと抱き締めるがバタバタと暴れて拒否するので大人しく引き下がる。
「……承太郎たちを探す。あんた、伝えたいことがあるんじゃあないの?」
ホル・ホースが離れてから気を取り直すように咳払いし、レイラはカラスを再び進ませる。
DIOに用済み認定されたいま、ジョースター一行に手を貸すなんて悪手だとは思うのだが、彼がDIOから始末される理由なんてそれしか考えられない。
一応、レイラから見てもホル・ホースは女好きのちゃらんぽらんであること以外はDIOに資質を認められるほどの実力があるとは認識している。一度や二度の失敗で手放すには惜しい存在のはずだ。
ならば、始末される理由は"ジョースター一行と繋がっている"――それしかない。
「そうだな……アオイに報せなければならないことが山ほどある。ヴァニラ・アイスのことも……対峙したいまならその恐ろしさを鮮明に伝えることができるはずだ」
「……わかった。奴らの目的からすると猶予は2週間以内……それがベストね」
とはいえ、エジプトは広い。カイロを目指してくるのは間違いないとしても、行き違いになる可能性も高い。
「あたしは……あんたのことを信用できるかは正直わからないけど……形だけの協力ならできると思うから……」
いまのレイラに1人で生きていく自信なんてない。
だから、誰かに寄り掛かって生きるしかない。それが情けないことだとしても、死んだ方がマシだとしても。
「それでいい。……お前は、自分のために生きろ」
ぽん、と。ホル・ホースは一度だけ、小さな背中を優しく叩いてやった。
レイラ・タァイル(13歳)
生年月日、血液型共に不明。
両親に奴隷として売られた少女。
約2年ほど前に主人に暴行されていたところをDIOに救われ、それ以来彼に忠誠を誓っていた。
しかし、実際は彼女がスタンド使いであり子供のため刷り込みがしやすく都合が良かっただけのことであり、彼女に対して優しいフリをしていただけだった。
彼女自身の性格としては奴隷生活で心が歪んでしまった面もあり、子供ゆえの純粋さを持ちながらも一度信頼を置いた相手には心を開き過ぎてしまうところがある。
体には暴行で受けた生傷が残っているが、それを指摘されるのはものすごく苦手。
ヌト女神
破壊力:B スピード:A 射程距離:B 持続力:B 精密動作性:C 成長性:B
レイラ・タァイルのスタンド。白いカラスのような像で、大きさを自由に変えられるので移動手段にも使える。
風を操る能力を持ち、風の刃による斬撃や足元に風を起こして瞬間移動のように素早く体を動かすことも可能。