さよなら、ヘイロー ~キングの母娘の物語~ 作:salierii
そして。娘について深く思い悩む暇もないほど、寒い冬の3ヶ月は慌ただしく過ぎ去って行き…。
3月29日の日曜日がやって来た。
「春さむの中京の空気の中に、GⅠファンファーレがいま、溶けていきます。」
実況アナウンサーの明るい声を合図に、お馴染みのファンファーレが軽快な音色を響かせて、スタンドを埋め尽くす大観衆の手拍子とどよめきが場内を震わせた。
「大歓声が起きました。さて、細江さん。ゲートの様子はどうですか?」
実況の呼びかけに、解説者の細江純子さんが落ち着いた早口でコメントを返している。注目を集めているのは、2枠4番の栗毛のウマ娘だった。去年のスプリンターズステークスの覇者であり、デビューから芝・ダートを問わず短距離だけを走り抜いてきた生え抜きのスプリンター。一番人気に推されるのも納得だ。
落ち着いてゲートインを待つ4番の横顔が大映しにされるターフビジョンを見つめながら、私の目は無意識にあの子の姿を探していた。しかし、あの子の枠順は13番の奇数だから、すでにゲートの中に納まっており、その姿が見つかるはずもなかった。
抽選でその枠順が決まったとき、私はやはり運命というものを感じずにはいられなかった。20年以上前に、私がこのレースに挑んだときと同じ7枠13番。ただし、人気は4番人気だった私よりも彼女の方が上だった。
中京レース場の本日のメインレース、高松宮記念。
3番人気のウマ娘の名は、ローリエゲリエール。
私の、愛弟子だ。
「さあ、プリンセスがゲートインするぞ。」
夫の声に促されて、私は力強い足取りでゲートに向かう我が子の雄姿を、チラッとだけ見やった。まさかの路線変更で巷の話題をさらった菊花賞ウマ娘は、短距離レース初挑戦にも関わらず2番人気に祭り上げられていた。
「秋春スプリント連覇か、それとも菊の姫君の新境地か。高松宮記念…ゲート開いてスタートしました。」
ゆったりとした実況とは対照的に、スターティングゲートを飛び出した18人のウマ娘たちは、いきなりの猛ダッシュで激しいポジション争いを始めていた。
これが短距離レース。電撃6ハロンの戦いは、スタート直後から熾烈を極める。
「ローリエゲリエール、やはり行きました。単独で先頭に立つ。続いて…。」
順番にウマ娘たちの名前が呼び上げられていく中、プリンセスヘイローの名は5番目に挙がった。ローリエさんの後を追う、先行集団の真っただ中。今回も先行策で行くつもりなら、なかなかの好位置だ。
「僕たちは、どちらを応援するべきなのかな。」
独白のような夫の呟きに、私はきっぱりとこう答えた。
「あなたはプリンセスを応援しなさい。でも、勝つのはローリエさんよ。」
「…さあ、早くも3~4コーナーの中間を過ぎて行きます。600標識通過が33秒1とややスローなペースになって、まだ前の方がぎっしり固まっている。ごった返す中で、これから4コーナーカーブを迎えていく。」
実況の表現どおり、18人全員がカメラのフレームに収まるほどの混戦具合だった。横一列でコーナーを曲がるウマ娘たち。その外端にくすんだピンク色の勝負服。そして、混戦集団から2バ身ほど先んじたトップを独走しているのが──。
「ローリエゲリエール、先頭をキープしている。そのまま最終直線に入る。」
1番人気である栗毛の4番が、ローリエさんのすぐ後ろを外から追走している。だが、コーナーを最内で回ったアドバンテージを活かしたローリエさんが、そのまま優位を保つ。作戦どおりの展開だ。トレーナーとしての誇らしさで、私の胸が満たされる。幾多の敗北を糧にして共に磨き上げてきた駆け引きの妙が、こうして実を結んだのだから。
そんな私の感慨を吹き飛ばすかのように、実況が叫んだ。
「あっと、ここで大外からプリンセスヘイロー! 早くも飛び込んで来た! あっという間に先頭に並んだ!? ローリエゲリエール、苦しいけど粘っている!」
「行けっ!」
隣に立つ夫が、珍しく大声で叫んだ。
「プリンセスヘイロー、わずかに交わした! 残り400! さらに前に出るプリンセス! このまま差し切るかッ!?」
今度は、私が叫ぶ番だった。
「行けっ!!」
「いや、ローリエゲリエールも行った! 食らいつく! 並び返す! プリンセスか! ローリエか!」
ゴール板まで、あと200ⅿ。時間にして、わずか10秒足らずの死闘。現役時代の私は、この最後の200ⅿにこそ全身全霊を懸けていた。たとえ勝ち目が薄い苦境にあっても、最後の一瞬までけっして勝利を手放さなかった。
そんな私の教え子が、この土壇場で勝利を掴み取れないわけがない。
「ローリエだッ! ローリエゲリエールが差し返してゴォォォル!! ローリエゲリエールです! 不屈の逃げウマ娘が、菊の姫君を返り討ちにして、悲願のGⅠ初勝利を果たしました!!」
スタンドは異様な興奮に包まれて、大勢の観客が感嘆のため息を漏らしていた。最終直線で一度は差されたウマ娘が、ふたたび差し返すような逆転劇は、なかなか見られるものではない。それも、序盤からずっと先頭を走っていた逃げウマ娘がやって見せたのだ。
掲示板が点灯し、1着と2着との差が1/2バ身だったと示されると、会場のどよめきは何倍にも膨れ上がった。
「すごいな。きみの予想通りになるなんて。」
心の底から感服したと言いたげな夫へ、私はそっと首を横に振ってみせた。
「予想なんかしてなかったわ。私はただ…ローリエさんを信じていただけ。」
レースに絶対はない。そして、トレーナーといえども、所詮は神ならぬ人の子に過ぎない。
そんな私たちにできるのは、ひたすらに何かを信じることだけなのだ。
メインレースの後には、かならずウィニングライブがある。
その年の高松宮記念のウィニングライブも、歴たるGⅠレースの格に恥じない壮麗なステージとなった。
センターで踊るローリエさんは、実に堂々としていた。GⅠステージのセンターはたしかに初めてだが、彼女はウィニングライブのパフォーマーとしても場数を多く踏んでいる。それに、私は歌とダンスの指導にも手抜かりのないトレーナーなのだ。一流のウマ娘は、舞台でも一流であるべし。
それにしても、スポットライトを浴びるローリエさんの晴れ姿は本当に素敵だった。ショートカットの黒髪は艶めいた光沢を輝かせ、引き締まった細長い手脚を駆使するダンスにはキレが迸っていた。精悍な顔立ちと長く濃いまつげ。歌声はハスキーで甘い。"セクシーな王子様"という表現がぴったりで、客席からは絶え間なく黄色い歓声が上がっている。
ローリエさんがこんなにも魅力的であることを、不覚にも私は今の今まで気づかなかった。私にとっての彼女は、不遇に耐えて実直かつ前向きに、汗と泥にまみれながら努力を続けるアスリートだった。女の子、として見てあげる余裕がなかったのかもしれない。つまり、私はトレーナーとしてまだまだ未熟だったということだ。
さらに自分の不覚を告白させてもらうと、私の注意は担当ウマ娘が立つセンターとは別のポジションに逸れていた。
プリンセスがいるセカンドポジションだ。
レースで2着や3着に敗れたウマ娘が、ライブでも2番手や3番手の地位に甘んじてパフォーマンスをさせられるという慣習については、昔から批判も多い。なにせトゥインクル・シリーズでは「1着以外は等しく無価値」という厳しい価値観が強く根付いているのだから、センターに立てなかった子たちにとってウィニングライブは「恥の上塗り」となる罰ゲームに他ならないという考えだ。
でも、私はそう思わない。センターの左や右でパフォーマンスするという体験を、幾度も身をもって味わったこの私が、「それは違う」と断固主張する。
ウィニングライブは、融和と浄化の場なのだ。たしかに、惜敗の苦汁をなめてステージに上がるときは、憂鬱でやり切れない気分に捕らわれている。だけど、輝くステージで(バカみたいに)歌って踊って、オーディエンスの熱狂的な声援を浴びていると、自分でも不思議なほどあっさりと敗北の苦みを忘れていく。ステージを共有するライバルたちとの一体感に包まれ、自分だけでなく出走者全員を応援してくれたファンの皆さんへの感謝の気持ちで満たされるのだ。
私が綺麗ごとを言っていると疑う方は、どうぞご自分もレースを走ってこの舞台に実際に立ってみるといい。それで実感できるはずだ。ウィニングライブには、魔法があるということが。
2着に終わった私の娘も、ちゃんとその魔法にかけられていた。敗北の灰を被ったシンデレラが、可憐なお姫様になって優雅にダンスしていた。いや、優雅というのは言葉の綾だった。実際は、だいぶ調子に乗っていた。ノリノリで自分の個性をアピールしすぎて、センターであるローリエさんのパフォーマンスの邪魔にすらなっていた。
親として、後でビシッと叱っておかなければ。
…と、ライブ中は親の責任感を武器に強気になっていた私だったが、ライブ後にプリンセスの控室に赴く段になると、例の迷いと気おくれで脚がガクガクしていた。
そこで、今回は意地を張らずに夫を引き連れることにした。…いえ、正直に言うわ。夫の腕にしがみついて、連れて行ってもらったの。
「あ、ママとパパだ。ライブ、どうだった?」
「とっても素敵だったわ。」
娘が「えへへ」と嬉しそうに微笑んだ。…はい。叱るのはまた今度。
「いま、ちょっと話せるかい?」
「うん、イイよ。ちょうどさっきね、トレーナーさんが出てったトコだから。」
夫にそう説明する我が子の顔を、私はまじまじと見つめた。いまは明るい表情を見せているが、顔に残る涙の跡は隠しようがなかった。
自分のトレーナーには、素直に涙を見せられたのだろう。その事実に安心すると同時に、私たちにはこうして笑顔を装っていることに切なさと疚しさを感じてしまう。
しかたがない。夫はともかく、私はもはや彼女の敵なのだから。
「あのね、プリンセス。」
思い切ってそう口火を切ったものの、私は次の句が継げなくて、目が泳いでしまった。
「マ、ママはね? あなたのことを…。」
「ローリエ先輩って強いね。」
口ごもる私を遮って、プリンセスがずばりと言った。
「ありえないくらい強かった。びっくりしちゃった。」
「そう…ね。」
「わたし、絶対に勝ったって思ったんだよ? 今までみたく、ブッちぎってやったって。やっぱ、わたしから逃げられるウマ娘なんかいない、ヨユーじゃん?とか思ってたの。」
「あなたはそうやって、すぐ調子に乗るんだから。」
いつものクセでポロっと小言が出てしまい、私は内心「しまった」と臍をかんだ。今の私はプリンセスにとって敵だけれど、今日はライバル心を煽りに来たのではない。互いの健闘を讃え合うつもりだったのだ。
だが、お小言をぶつけられても、娘の反応はいたって穏やかだった。
「あはは、それ言っちゃう? でも、ママの言うとーりだね。わたし、油断したんだ。だから、最後の最後に差し返されちゃった。」
どう返せばいいのか、私は一瞬だけ迷った。
しかし、小知恵を働かせるべきときではないと、すぐに覚悟を固めていた。
「ローリエさんは、あなたが油断なんてしなくとも、差し返していたわ。」
背後に立つ夫が、息を飲む音が聞こえた。
それでも私は、ありのままで我が子にぶつかる。
「ローリエゲリエールは、あなたの何倍もの苦しみを乗り越えて来たの。まだ未熟なあなたでは、どうやったって勝てない。最後の瞬間まで、全力で勝負に食らいつく勝負根性が、あの子にはあるんだから。」
「…ママみたいに?」
「ふん。私の担当ウマ娘をナメないで。」
ついに「ナメるな」と言ってやった。想像していた以上に痛快だ。
「ローリエさんの底力は、私なんて比べ物にもならないわ。」
「ふーん…。」
心底面白くなさそうな顔で、プリンセスがそっぽを向いた。そんな可愛くない態度すらも、母親である私の目には愛おしく映った。
そんな愛情を、押さえ込むのではなく握りしめながら、私は最後通牒を突きつける。
「スプリンターズステークスには、当然ローリエさんも出走します。そして、かならず春秋スプリント覇者になる。あなたの勝ち目は、万に一つもないわ。」
「……。」
「いい加減に短距離は諦めて、別のレースを目指しなさい。」
私がそう言い終わった途端、プリンセスが弾かれるように椅子から立ち上がった。
パイプ椅子が床に倒れるけたたましい物音とともに、彼女は拳を握りしめて私に詰め寄ると、こう言い放った。
「あきらめないわ! 絶対に!!」
「くくっ。」
場違いな笑い声。
「…ッ!?」
険しい顔を突き合わせていた私たち母娘は、笑い声がした方へ仲良くバッと振り向いた。
こんな緊迫した状況だというのに、夫がなぜか失笑していた。
「なに笑ってるのよ、このおバカぁぁぁ!?」
「ここ笑うトコじゃないでしょ、パパーッ!?」
「いや、ごめん! ほんっと、すまない。だけど…このタイミングで、プリンセスがママの昔の口癖を言うなんて、不意を突かれすぎてさ? 倒置法なところまで同じなもんで、可笑しくなっちゃったんだよ。」
「へっ?」
「あっ…。」
きょとんとする娘の隣で、私は思わず顔を赤くしていた。
たしかに、現役時代によく言っていた。事あるごとに。倒置法で。
しかも、自分的にはかなり気に入っていたから、口にするときは常にドヤ顔だった。
しかし、10代をすぎた頃には、きっちり封印して2度と口にすることはなかった…つもりだったのに。
「えっー? ママって、こんなカッコいいセリフが口癖だったのぉ? ほとんど決めゼリフじゃん、これ? キメキメじゃん?」
「うっ、うるさいわね! ママの恥かしい過去はどうでもいいのよ、そっとしておいて!!」
しまった。自分で「恥かしい」と認めてしまった。
私は羞恥心をかなぐり捨てると、こぼれ散った威厳を必死でかき集めてから、せいいっぱい声を張り上げた。
「とにかく! スプリンターズステークスだけは回避することね! 私は警告したわよ!? それでも挑むというのなら、ほえ面かかせてやるんだから!!」
我ながら「悪役の捨て台詞みたいだな」と自覚しながらも、私は足音も荒く控室を出た。
乱暴に閉めたドアの向こう側から「諦めないわ、絶対に!」と叫ぶプリンセスの声が聞こえて、横にいた夫がまた「くっ」と笑ったので、反射的に脇腹へ肘鉄を食らわせてしまった。
「あ゛あ゛あ゛~、もう~! ぜんぜん締まらなかったじゃない、あなたのせいで!!」
東京へ戻る新幹線の中で、私はプリンセスとのやりとりを思い出して、頭を抱えていた。
「あなたなんか、連れて行くんじゃなかったわ!」
「いやあ、おかげて面白いものを見せてもらったよ。」
キッ!と私が睨みつけると、夫は頬杖をついて窓の外を眺めていた。
「ちょっと? 私がこんなに怒ってるのに、なにひとりでセンチメンタルになってるの?」
「あの子が産まれた日のことを思い出してね。なんだかんだいって、結局は僕が思ったとおりになったな。」
「…何の話?」
「ほら。生まれたてのプリンセスの顔を見ながら、僕はこう言ったじゃないか。この子はきみに似てる、そっくりだって。」
「……。」
私はシートに深く身体を埋めて、長い長い息を吐いた。
つくづくと想う。
切っても切れない、親子の縁。
それは、私たちに与えられた祝福なのか。
それとも、私たちに課せられた呪いなのか。
おそらくは、どちらでもあるのだろう。
良いことも悪いことも、すべて等しく必要なのだから。