さよなら、ヘイロー ~キングの母娘の物語~   作:salierii

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第1章:トレーナーであること

 「トレーナーの娘さん、デビューしたそうですね。」

 担当するウマ娘に突然そう言われて、私は一瞬だけ返す言葉を失ってしまった。

 「…ええ。あなた、学年が違うのによく知ってるわね。」

 「そりゃあもちろん、注目しちゃいますよ。見事、一着だったそうじゃないですか。おめでとうございます!」

 「ありがとう。」

 自分のことのように喜んでくれる相手の笑顔とは裏腹に、私は表情がこわばるのを自覚している。

 「さすがは、あのキングヘイローの娘さんってカンジですねー。同じ競技者として、やっぱ意識しちゃいます?」

 「大人をからかうんじゃありません、ローリエさん。まだデビュー戦を勝っただけよ。それに、もう現役時代のことなんかすっかり忘れたわ。トレーナーをやってる時期の方がずっと長いのよ? いまはあなたの次のレースのことで、頭がいっぱい。だからほら、ぐずぐずしてないで早くアップに入りなさい。」

 「はーい。」

 ウォーミングアップを丁寧に始める教え子の背中を見守りながら、私は感慨にふける。さっき口にした言葉に偽りはない。トレーナーとしてトレセン学園で働き出してから、あっという間に十数年が経ってしまった。現在は、すっかり中堅トレーナーのひとりだ。

 ウマ娘がトレーナー業をやるケースは、意外と稀だ。とくに私のように、トゥインクル・シリーズを走り抜いた競技者が、引退後に指導者として再びトレセン学園に舞い戻ることは、ほとんどない。どんな優駿だったとしてもだ。

 その理由は、少し現実的な想像力を働かせれば理解できると思う。他人事ではなく、自分が当事者だったら?と想像して考えてみてほしい。

 あなたがGⅠを何勝もした稀代の名ウマ娘だったとして、担当したウマ娘があなたほどの才能や勝負強さを持ち合わせていなかったら、どうなるだろう? あなただったら負けるはずのないレースに負け、あなたが競ったライバルたちに遠く及ばない相手にも勝てない教え子の苦悩に、どこまで親身になって寄り添い続けられるだろうか?

 逆に、それほどの戦績を残せずに引退したウマ娘がトレーナーとなった場合、教え子から真の敬意や信頼を得るのは難しいという厳しい現実が待っている。ウマ娘とは、その本能によって常に烈しく競い合おうとする生き物なのだ。トレセン学園に入学するような子は、ひとりの例外すらなく自らの手で頂点を掴む未来を最後までけっしてあきらめない。そんな強い自意識を持つ若きウマ娘が、夢半ばにしてターフやダートを去った先輩を、どこまで尊敬していられるだろうか?

 つまるところ、トレーナーは競技者ではなかった方が無難だ。そもそもウマ娘でない方がいい。まったく別の相手との方が、かえって上手により添え合えるものだ。それに、自分とは異なる存在と出会い、理解し合う経験こそ、若者をもっとも成長させるのだから。

 その点、私はトレーナーをやるには、ちょうど良い塩梅なのかもしれない。それなりに敬意を持たれるくらいの戦績を勝ち取ってはいるけれど、教え子が萎縮し切ってしまうほど偉大な存在ではないというわけ。

 もう少し自分を美化する気取ったセリフで言い換えるならば、私は勝利の栄光も敗北の苦悩も多く知っている。競技者だったウマ娘のくせに、あえてトレーナー業といういばらの道をいまだに突き進んでいるのは、私なりの自負があってのことなのだ。

 

 

「よーい…スタートっ!」

 私の合図と同時に、ローリエさんが鋭い瞬発力でトレーニング用の坂路を駆けて行く。

 ほっそりとしたその手脚を、私は厳しい視線で見守る。この子には素晴らしい才能がある。優れたスピードがあり、見た目に反して驚くべきパワーも秘めている。

 だが、どうしても勝ち切れていなかった。デビュー戦こそ一番人気の期待に応えて快勝したが、その後に思い切って出場した初GⅠの朝日杯フューチュリティステークスでは惜しくも2着、続くGⅢアーリントンカップでも2着。今度こそ初勝利を手にしようと挑んだ大舞台のNHKマイルカップでも、ゴールを目前にして交わされて2着に終わった。

 "善戦ガール"という、毀誉褒貶が定かでないレッテルを貼られても、はるか高みを目指す彼女の勇気はいささかの怯みも見せなかった。私も心からそれを信じた。だから、世代の頂点を決める「クラシックレース」の皐月賞と日本ダービーに挑戦したのだ。

 結果は、両レースともに惨敗だった。さすがに最後のクラシックレースである菊花賞こそ断念したものの、それでも再起をはかって秋のマイル王決定であるマイルチャンピオンシップに出走し、そこで三度目の惨敗を喫してしまった。

 善戦、挑戦、惨敗、再挑戦、惨敗…。要するに、彼女がデビューしてから現在までの2年弱は、苦しみの連続だったのだ。気づけば、デビュー戦以来、一度もレースで優勝したことがなかった。トゥインクル新聞の勝ち星の欄に「メイクデビュー」と記載される存在になってしまっていた。

 「GⅠで二度も2着になった」という実績は、トゥインクル・シリーズという最高の舞台ではあまり意味を持たない。「唯一抜きん出て、並ぶ者無し」。トレセン学園のあのスクール・モットーは、「1着以外は、等しく無価値」という中央レースにおける冷徹な現実を雄弁に語っている。

 だけど、周囲の評価がなんだというのか。ファンや批評家や関係者たちがどう見なそうとも、私は彼女の才能をいまでも信じて疑っていない。「たしかに才能はあるかもしれないが、勝負根性が根本から欠けている」という指摘も、とんだお門違いだ。

 私のウマ娘、ローリエゲリエールには、類まれなガッツがある。何度敗れても、かならず輝かしい勝利にたどり着こうとする不屈の執念こそが、彼女の最高の素質なのだ。

 この私、キングヘイローがそう断言するのだから、誰にも反論する権利など与えない。

 「…ねぇ、トレーナー?」

 坂路トレーニングを終えてクールダウンをしていたローリエさんが、柄にもなく神妙な顔つきで語りかけてきた。

 「うん? なあに?」

 「トレーナーは…さ? 本当は、娘さんを指導したいんじゃないんですか?」

 「おバカね。それだけはない。」

 私は即答した。間髪入れずに全否定できた。

 もちろん諸説あるだろうが、プロのひとりとして私個人の率直な意見を言わせてもらうと……親みずからが我が子のトレーナーをやるなんて真似は、絶対にうまくいかない。

 トレセン学園が全寮制なのは、生徒たちを家庭から切り離すためだ。親子という特別な関係は、良くも悪くも距離があまりにも近すぎる。当人たちが望む望まないに関わらず、甘ったるくて、ときにドロドロとした結びつきでがんじがらめになってしまっている。まだ幼い子供ならともかく、これから一人前の競技者としてレースを走り抜くべく努力と成長を重ねるウマ娘にとっては、百害あって一利なしの危険因子でしかない。

 もっとも、母親が我が子のことを自分が果たせなかった夢を実現させるための道具としか考えていないエゴイストだとしたら、話はまた違ってくる。親だけが持つ絶対的な支配力を存分に振るって、娘に「GⅠレース養成ギブス」を無理やりつけさせて、一緒に「トゥインクルの星」でも目指せばいい。

 私は、そんな地獄みたいな茶番は、死んでもごめんだ。

 「なんでですか? 娘さんが心配じゃないんですか?」

 まったく納得してない教え子の問いかけに、私は正直に答えた。

 「心配よ。当然じゃない。だから、あの子が筋が良くて熱意のある新人くんを自分で見つけて、専属トレーナーになってもらったと聞いたときは、すごくほっとしたわ。」

 「でも、他人任せにするなんて…。もし、あたしがいなかったら!?」

 ローリエさんが思い詰めた表情で口にしたその言葉に、私は強く心を動かされていた。彼女は、自信を失いかけている。そうなって当たり前だ。いつも気丈に明るく振る舞っているが、私にさえ見せられない苦悩を、ひとりで抱え込んでいたのだ。トレーナーに見捨てられるかもしれないという恐怖は、多くのウマ娘が抱く共通の悪夢だ。

 私は、担当ウマ娘のほっそりとした身体を、ぎゅっと抱きしめたくなった。

 それと同時に、その小さなお尻を思いっきり蹴り飛ばしたくもなっていた。

 「雑念は捨てなさい、ローリエゲリエール。」

 私が断固とした強い口調でそう命じると、うつむいていたローリエさんがはっと顔を上げて私を見つめた。

 「あなたがどんなふうに考えてようと、私にとってのウマ娘はあなただけよ。」

 「!」

 「あなたも、次のレースのことだけ考えるの。いいわね? …ほら、返事は!?」

「はい、トレーナー!!」

 その週の日曜日。

 シニア級ウマ娘、ローリエゲリエールの勝ち星の欄に、「東京新聞杯(GⅢ)」という栄えある重賞レースの名が、記されることになる。

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