さよなら、ヘイロー ~キングの母娘の物語~ 作:salierii
昔の私は、子供を持とうとは思わなかった。
そもそも、結婚するつもりがなかった。
しかし、あまりに長くの時間と、多くの苦楽を1人の男性と共にした結果、いつのまにかそのヒトと一緒になるのがごく自然のことのようになってしまっていた。
そう、自分のトレーナーと結婚したの。つまり、私も例の"トレーニングセンター症候群"に嵌ってしまったというわけ。10代の頃は、担当トレーナーを異性として意識する同級生たちを「お子様ね」なんて結構バカにするタイプだっから、結婚式でそのことを持ち出されて、なかなかにバツが悪いをさせられたわ。
私が競技者を引退すると、夫は現場を退いて管理職的な仕事に携わるようになった。現在はURA理事長の秘書のひとりとして、渉外活動で各方面のお偉方と親しく付き合う日々を送っている。テーブルマナーもろくに知らず、ちょっとした晩餐会にも尻込みしていた彼の若き日の姿を想い返すと、ちょっと生意気な気がする。
「この子、カワカミさんに似てるわ。」
身ごもったとき、できれば男の子でありますようにと、ひそかに願った。
しかし、授かったのはウマ娘で、そのウマ耳のあるしわくちゃな顔をじっと見つめて、私はそう言った。
「カワカミさんって、きみの後輩だった子? ティアラ2冠の?」
夫が不思議そうに首をかしげている。
「ええ、カワカミプリンセスさん。ほら、目元がよく似ているじゃない?」
「そうかなぁ。…いや、普通にきみに似てるよ。そっくりだ。やはり母娘だね。」
夫のその言葉に、私は不安でいっぱいになった。
母親と上手くいかなかった娘が、良い母親になれるの?
"どうか、私ではなくカワカミさんに似ますように。"
後ろめたい母の祈りを託して、娘には「プリンセスヘイロー」という名が授けられた。
私が良い母親になる自信がなかったのは、言うまでもなくお母様のせいだ。
私と母は、目鼻立ちも、柔らかくて癖のある髪質も、体つきも瓜二つだとよく言われた。
けれど、競技者としての才能だけは違っていた。それが母のファンを失望させた。安定した先行策で堂々と勝ち切る横綱相撲を得意とした母とは正反対に、私は中団で足を溜めてから最終直線で一気に追い上げる差しウマ娘だった。もっとも、母のファンだった方たちを本当に失望させたのは、レーススタイルの違いではなく戦績の歴然とした差だ。
母は、GⅠだけでも実に7勝もしている。レースの歴史にその名を刻んだ優駿なのだ。
競技者としての輝かしい過去とは対照的に、家庭人としてはやや問題のある人だった。とくに母親にするには、難しさを多く孕んでいた。もちろん、クローゼットにワイヤーハンガーを見つけただけでひとり娘をひどく折檻するようなサイコパスではなかった。それどころか、私のために忙しい中、壊滅的な料理の腕を振るってお弁当を手作りするような、不器用な愛情を持っていたのは間違いない。
だけど、現役時代の私に対するあの数々の態度のせいで、良い母親だったとは絶対に思えない。
「ひめ☆パンチ!」
幼児特有の甲高い声をあげて、娘が小さな拳を私のお腹に叩き込む。
「ひめ☆パンチ! ひめ☆パ~ンチ!!」
彼女の世話と家事に追われてエプロンを脱ぐ暇もない私が相手をせずに無視してても、娘はひとりでさらにテンションを上げて、執拗に私の腹部への攻撃を続ける。
「やめなさい、プリンセス。いいかげん、ママ怒るわよ?」
「ぐえっ」という嗚咽をグッと堪えて、私は怖い顔を作ってそう窘める。まだ幼稚園児だというのに、あきれるほど力が強かった。ウマ娘の基準からしても、かなり筋力がある方に思われた。
この分なら脚の筋肉も相当に…と、ついトレーナー視点で考えてしまう自分がいた。強いパワーは優れた加速力を生み出し、それは差しや追い込みを得意とする競技者の何よりの武器になる…。
そこまで考えを弄んだとき、娘の「ひめ☆パンチ」とやらが私のみぞおちに食い込んで、息が詰まった。
「ああ、もう! そんな乱暴するなら、ひとりで遊びなさい! ママ、知らないから!!」
畳んだ洗濯物の束を抱えて、私は逃げるように娘の側を離れた。
本当は、もっとちゃんと叱らなくてはならないことくらい、わかっている。だが、私は母親をやる自信がないのだ。
どう接していいのか、学べていない。それが苛立たしかった。
「ああ、それはプリファイだね。」
その夜、娘との一件を報告して苛立ちを夫にぶつけたところ、返ってきたのは謎の横文字だった。
「『プリンセス・ファイター』。アニメだよ。毎週日曜日の朝にやってる。ほら、例のきみの後輩だった子が、すごくハマってたヤツだ。」
「なんでカワカミさんが好きだったアニメを、いまだにやってるのよ!?」
「人気シリーズなんだよ。今のはたしか20代目とか、それくらいだったと思う。ウマ娘やヒトの女の子が、魔法の力でお姫様競技者戦士に変身して、悪者とレースしながら闘うんだ。最近だと、男の子の姫戦士なんかもいて…。」
「女児向けのアニメなのに、そんな暴力的だなんて。じゃあ、"ひめパンチ"というのは…。」
「ヒロインの必殺技だね。姫の愛と勇気のパワーをその手にこめた一撃だから、ひめパンチ。」
「ネーミングが安直すぎるわよ!!」
「まあ、ちいさい子向けだから…。というか、きみ知らなかったのか。幼い時分に観た記憶とかない?」
「うち、テレビ禁止だったから。」
「ああ…そっか。では、プリンセスにも禁止したいかい?」
「いいえ。私は、そんな真似しないわ。」
「よかった。」
母と同じ安直な手段だけは、どうしてもとりたくなかった。しかし、私なりの解決方法があるわけではない。誰に似たのだか、プリンセスにはだいぶわがままで聞き分けのない所がある。今回ばかりは、ひとりっ子だからと甘い顔をするわけにはいかない。娘はもうすぐ、小学校に上がるからだ。
夫とよく話し合った末、プリンセスは有名私立ではなく普通の公立校に通わせると決めてある。そこには、ウマ娘だけでなくヒトの子供たちも大勢いる。生まれ持った特別な身体能力のせいで、他者を傷つけることだけはけっしてしてはならないと教え込むのは、ウマ娘の親としての絶対的な義務なのだ。
翌日、娘があきもせず「ひめパンチ」を繰り出してきたとき、私は精いっぱい穏やかな声色で、こう諭した。
「プリンセス、お願いだからやめてちょうだい。ママは悪者じゃないでしょ? 悪者じゃない人に乱暴するのは、とってもいけないことなのよ?」
では、"悪者"には安易に暴力を振るって良いのか?という問題は、彼女がもう少し大きくなるまで保留にさせてほしい。
「ひめ☆パ~ンチ!!!」
まるで容赦のない正拳突きを脇腹に受けて、私はその痛みより激しい絶望を感じた。お説教が通じなかったどころか、そもそも私の話を全然聞いていなかった。まだほんの幼稚園児なのだから、はいて捨てるほどよくある事態だ。
だが、普通の母親ではない私は、鷹揚に受け止められなかった、
けっしてこの子のせいではない鬱積した苛立ちに捕らわれて、私は我を忘れて怒鳴った。
「やめなさいって言ってるじゃない! 痛いのよ!!」
怒声を浴びせてしまった直後、私は固く両目を閉じて、唇を噛みしめた。なんてことだろう。我が子に、やつ当たりをしたのだ。
娘の反応が怖ろしくて、目を開けられなかった。
「…ごめんなさい。」
小さなやさしい手が頬にさわる感触に、私はおずおずと目を開けた。
「いたかったね、ママ。わたし、わるいこだね。ごめんなさい。」
娘のモミジのような手のひらが、知らないうちに私が流してしまった涙を拭おうとしているのだと気づいたとき、私は安堵のあまり彼女を抱きしめていた。
ああ、よかった。この子はやはり、私なんかじゃなくて、カワカミさんに似ている。
強情で意固地な、私やお母様なんかとはまるで違っている。お転婆で考えなしな所があるけれど、実はとても繊細で、どこまでも素直な子なのだ。
「ママ? いたいのいたいの、とんでけ、する?」
うれし涙が止まらない私にそう尋ねる娘を、ふたたびしっかりとこの腕に抱いた。
「ううん、もう大丈夫よ。心配いらないわ、私のプリンセス。」
根っからの無信心な私が、このときだけは三女神さまに感謝をささげていた。
この子を授けてくれて、ありがとう。
この子ならば、私もちゃんと愛してあげられます。