さよなら、ヘイロー ~キングの母娘の物語~   作:salierii

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第3章:あなたはデビューした

 小学生になった娘が、将来は自分も競技者になってトゥインクル・シリーズを目指すとはっきり言い出すまで、あまり時間はかからなかった。

 「どうして競技者になりたいの?」と、私はまず尋ねた。もし私の背中を追うつもりなら、それだけはやめておきなさいと言い含めるつもりだった。競技者になるのは構わないけれど、母親ではなく別の目標を見つけなさいと。

 「だって、プリファイになりたいから!!」

 娘の無邪気な即答を聞いて、私は自分自身に苦笑してしまった。そうだ、この子はまだ小学生なのだ。忘れていた。

 とはいえ、娘が本格的にレースに打ち込み始めると、私は一定の距離を置いて、レース関係の世話はほとんど夫に任せた。理由は、元競技者のウマ娘がトレーナーをすべきではないのと同じだ。言うまでもなく夫はウマ娘ではないし、しかもプロのトレーナーだったのだから、安心して初等トレーニングを受ける娘のことを一任できた。

 その一方で、職業的な視線を成長する娘の身体や走りに注ぐのは、やめられなかった。たくましく、しなやかな脚。強靭な心肺能力。彼女は、中距離レースを走り抜く「脚質」を持っているかもしれない。もしかしたら、長距離も…?

 「脚質」とは、実に謎めいていて、やっかいな代物だ。文字通りの脚の特徴だけでなく、骨格のつくりや内臓機能に神経系なども含めた、レースを走るための先天的な身体的特質を表す。ウマ娘は生まれつき、どんなタイプのどんな距離のレースに向いた身体をしているのか、ある程度決まっていると考えられている。ドッグランの犬ではあるまいし、そんな優性遺伝学的な思想は認められないと反発する層も昔から少なからずいるが、ウマ娘自身を含めたレース関係者やファンのほとんどが、経験的にこの概念を当然の常識として受け入れている。

 ウマ娘の脚質をいちはやく正確に見極めるのは、全トレーナーにとっての見果てぬ夢だ。適性に合ったレースを選ぶのにしても、あえて不向きなレースに挑戦するにしても、まず脚質を正しく知っておくに越したことはない。だが、実際に見極めるとなると非常に難しい。

 たとえば、ダート向きだとばかり思われて砂のコースをちゃんと好走していた子が、試しに芝を走ってみたらそれまでとは桁違いの強さを発揮した事例が複数ある。基礎能力の高さと器用さのせいで、本当の脚質に気づけなかったパターンだ。

 もうひとつ別の例を挙げると、ジュニア級マイラーのチャンピオン決定戦「阪神ジュベナイルフィリーズ」(1,600ⅿ)で優勝したのを皮切りにずっとマイル路線だけを走っていたウマ娘が、翌々年にシニア級となった春に、なんとGI最長レースの天皇賞・春(3,200ⅿ)に出走して快勝してしまったこともある。こちらは、生まれつき決まっている才能といえど、それがいつ目に見えて開花するか誰にもわからないという難問の好例として、トレーナー教本にかならず載っている。

 脚質とはすなわち、生まれ落ちたときに天から定められた「運命」のようなものだ。神ならぬ人の身でその全容を予見するには限界があり、すべてが終わって振り返ったときにようやく「ああ、そうだったのか」と納得して感慨にふけることしか許されていない謎なのだ。

 そもそも、"もっとも向いている"という評価が、あくまで主観的なものに過ぎない。こうして、脚質について考えれば考えるほど、私たちは絶望の袋小路に入り込んでしまう。しかし、担当するウマ娘のために、我々トレーナーは考えることを断固として諦めるわけにはいかない。

 もし私が赤の他人で、競争ウマ娘のプリンセスヘイローを担当したとしたら、彼女の母親であるキングヘイローの現役時代について大喜びで調べ尽くすだろう。誰よりも近い遺伝形質を持つ近似サンプルが、実際に競技者として数年間を過ごしたのだから、これほど有益なデータは他にない。そして、貴重な科学的かつ客観的な判断材料をもとに、「プリンセスヘイローの脚質は、短距離レースにこそもっとも適性がある」という考えに大きく傾くはずだ。

 だけれど、私は他人ではない。我が子に、自分とは異なる将来を夢見ずにはいられない。加えて、自分がたどった過去にもまた、別な可能性があったのではないかと夢想してしまう。だってお母様は、中距離のレースだっていくつも勝利したのだから。

 …と、ここまで思索にふけってから、私は急にぞっとしてかぶりを振った。

 知らぬ間に、自分の果たせなかった夢を、ひとり娘に託そうとしてしまっている。これでは、星一徹を狂ったエゴイストよばわりする資格がないではないか。

 「プライベートでも、仕事と同じことをするなんて、うんざりじゃない?」

 夫にはそう言って、娘のレース関係の事柄には、一切タッチしないことにした。娘本人の反応だけが心配だったが、パパの面倒見の良さのお陰かママの無干渉はとくに気にしていない様子だった。そのぶん、レースとは関わりのない時間は、べったりと娘にまとわりついた。

 そんな親子関係を維持しているうちに、年月はあっという間に過ぎ去っていき、1年で急に12cmも背が伸びた成長盛りの真っただ中に、娘はトレセン学園に入学した。

 毎日無数に目にしている制服を、我が子が着ている姿はいつまでたっても慣れないな…とぼんやり思っていると、プリンセスはいつのまにか自分でトレーナーを見つけてきて、いつのまにかデビュー戦を勝利で飾っていたというわけだ。

 

 

 「デビュー戦1着、おめでとう。」

 担当ウマ娘のトレーニングを終えた夜、寮の前に呼び出した娘へ、私はまずお祝いの言葉をかけた。

 ぷいっ!

という擬音が聞こえてきそうな勢いで、娘はそっぽを向いた。完全に拗ねている。

 「応援に行けなくて、本当にごめんなさい。」

 私は素直に謝った。プリンセスのデビュー戦は阪神レース場での開催で、東京新聞杯を間近に控えているローリエさんの追い切りトレーニングで1日でも惜しい私は、迷った末に兵庫行きを諦めたのだ。

 日ごろから気の強い私が珍しく平謝りしたとあって、娘はあっけなく態度を軟化させた。そこですかさず、次の言葉を口にする。

 「でも、ビデオで何回も見たわ。すごい走りだったわね。」

 私が心からそう言うと、プリンセスはたちまち嬉しそうにニッコリと笑った。その素直すぎる笑顔が、瑞々しい制服姿と相まって、夜中なのに目が眩むほど輝いて見えた。

 その日の阪神レース場は稍重バ場で、レース経験がほとんどないポニー(ひよっこ)たちにはちょっとした試練だったと思う。9番人気というレース前の評価も、私に似て自尊心の強い娘には(悪い所だけは似ているのだ)屈辱的だったかもしれない。

 もっとも、私としては娘がさほど注目を集めていないことに安堵していた。キングヘイローの娘として騒がれてしまうという懸念は、自尊心過剰な私の取り越し苦労だったのだ。学園内の噂によると、私の娘というより、理事長秘書のタカノさんの娘としての方が有名だとか。(それはそれで少し癪だ。)

 そんな前評判と符合するかのように、スターティングゲートが開くと、3枠5番プリンセスヘイローの体操服にブルマを履いた姿は、すぐに中団のバ群に埋もれて見えなくなった。

 内に潜み、レースの流れに身を任せてじっとスタミナを温存する。私自身も何度かやった作戦だが、見守る立場としては気が気ではなかった。メイクデビューは1,600ⅿのマイル戦なのだ。ぐずぐずと手をこまねいていたら、すぐに最終コーナーと直線が来てしまう。「もう少し前へ…せめて外に出て!」と画面に向かって口を出さずにはいられなかった。

 娘が仕掛けたのは、最終コーナーを回った直後だった。

 「5番プリンセスヘイロー、捲って上がってくる!」

 実況がそう叫んでようやく、先頭集団ばかり追っていたカメラが、彼女の雄姿を映し出した。観客席の最前列にいた夫が語ってくれた話によると、最終コーナー手前で強引に外へ飛び出したプリンセスは、そのまま大外をぶん回って、まるでその遠心力を勢いに変えたかのように、一気に加速したという。

 「すごいごぼう抜きを見せるプリンセスヘイロー! はやい! もう誰にも止められないッ! そのまま差し切ってゴール! 勝ったのは5番プリンセスヘイローォ!!」

 掲示板が、2着との差が1バ身に達していと告げていた。

 「着差以上の見事な勝利でした。次のレースが今から楽しみです。」

 実況のその賛美は、誇張ではなかった。肉親ではなくプロの目から見ても、その実力は抜きんでていた。さらに、ウィニングランで軽やかに手を振る彼女の様子から、マイルを走り切ってなお、余力を残しているように察せられた。

 次はもっと長い距離も、いけるかもしれない。

 娘のトレーナーさんは、本当によくやってくれている。あちらの立場を慮って、直接お会いするのはずっと控えているが、夫のヒトを見る目に狂いはなかった。

 「ママ、次はぜったい応援に行くから。どんなにお仕事が忙しくても、ぜったいよ。約束するわ。」

 こみ上げる嬉しさにまかせて、我が子に少しきわどい約束までしてしまっている私がいた。

 「ホント!? わたしね、次はトライアル・レースに出るの!」

 私は誇らしげに「うん、うん」と頷いた。デビュー戦とはいえあのレース内容であれば、春にGⅠレースに挑む資格は十分にある。その前哨戦であるトライアルで実力を確認するのは、定跡どおり。

 「じゃあ、ママ。3月に中山でね。」

 「えっ?」

 最初は、聞き間違いだと思った。チューリップ賞やフィリーズレビューは、阪神レース場での開催だ。

 「あなた…弥生賞に出るつもりなの?」

 「へ? 当たり前でしょ。まずは皐月賞を狙うんだもん。」

 まずは…。

 「でもね、本番はダービー! もちろん、菊花賞にも行っちゃうんだから。クラシック路線、殴り込みよー! うわああ、ホントに三冠ウマ娘になっちゃったら、わたしどーしよー!?」

 「ダメよッ!!」

という悲鳴を、私は寸でのところで抑え込んだ。

 自分の勝手な思い込みに、我ながら眩暈がしていた。その名前のせいか、カワカミさんにそっくりだという信仰のせいか、プリンセスはてっきりティアラ路線に進むと思い込んでしまっていた。とりあえずティアラ路線の初戦は、距離がマイルのままの桜花賞だという安心も、一因にあったのかもしれない。

 「……。」

 「あれ? どうしたの、ママ?」

 握りこぶしを口元に当てて、悲痛な言葉が飛び出してしまうのを必死に堪えた。

 “クラシックは、世代最強の実力者が集うのよ!? そこで潰されたらどうするの!?”

 “あなたにクラシックレースは、距離が長すぎる! 才能がないと絶望してからじゃ遅いわ!!”

 “私と同じ苦しみを味わってほしくないの! 絶対に許さないから!!”

 そして不意に──

 その言葉の数々が、かつて私が母に投げつけられた冷淡な決めつけと、ほとんど同じであることを悟って愕然とする。

 私は、奥歯を強く噛みしめた。

 負けない、と思った。

 あなたなんかと、絶対に同じになってやるもんですか。

 「ねぇ、ママー?」

 「…トレーナーさんとは、ちゃんと話し合ったの?」

 「うん。なんかね、いろいろ言ってたけど、わたしの意志を尊重するって。」

 「そう……。あのね、プリンセス。これだけは聞かせてちょうだい。どうしてクラシック路線に行こうと決めたのかしら?」

 「だって、日本ダービーがあるから! わたし、ウオッカさんみたいな強くてカッコいいウマ娘になりたいの。えっとぉ…差しバやってる身としちゃあ、ウオッカの姉御に惚れちまうのはトーゼンのなりゆきだぜ!!」

 憧れのスターの真似っこを楽しそうにやってみせる娘の姿に、私の気持ちもふわっと和んだ。

 少なくとも、私を意識してのことではない。

 「はいはい。それじゃ、一生懸命にやりなさい。ママもしっかり応援するわ。」

 「はーい。」

 話が済むと、私は「消灯時間に遅れると大変だから」と急かして、娘を部屋へ帰した。彼女は「ママが急に呼び出したくせに」と文句を言いながらも、「バイバイ」と上機嫌に手を振りながら寮の玄関の奥へ消えていった。

 ひとりになった途端に、私はその場にへたり込んだ。

 震える自分の手を見つめながら、わななく脚が言うことを聞くようになるまで、しばらく暗がりの中でじっとしていた。

 

 

 私がデビューを勝利で飾ったときも、母は来てくれなかった。

 ただ電話1本を寄こして、こんなことを次々と言い放った。

 「なぜ、このタイミングでデビューしたの? 実力者ぞろいの世代で潰されるに違いないわ。」

 「恥をかく前に帰ってきなさい。」

 「才能がないと、絶望してからじゃ遅いのよ。」

 当時は無論のこと、こうしてあのときの母と同じ年代と立場になった上で思い直しても、改めて激しい怒りが沸き上がってくる。

 まずは、褒めてあげればいい。努力を労い、ともに喜んであげたってバチは当たらない。

 先のことが心配ならば、あんな脅し上げる言い方ではなく、「いつでも帰って来ていいのよ」とやさしく言ってやればいい。

 どんなに意見が食い違っていても、大事なひとり娘なのだから。

 「娘の将来を案じるが故の、厳しい物言いだった」とか「あくまで娘のためだった」なんて言い草は、断固として認めない。プリンセスにクラシック路線宣言をされた、今の私にはよくわかる。

 あの人は、たぶん怖かったのだ。自分の娘が厳しい現実に敗北し、そのために苦しむ姿をその目で見るのが怖かった。だから、我が子を遠ざけた。

 競技者となった私と正面から向き合うことから、ひたすら逃げたのだ。

 「臆病者!」と罵りたい。我が身の可愛さのために、娘を突き放した臆病者。

 だけど、いまとなっては、むしろありがたかったと言えなくもない。

 母の態度が卑劣だったおかげで、私は「ダメよ!!」という悲鳴を飲み込むことができた。

 私は、逃げ出さずにすんだのだから。

 そして、その年の3月。

 プリンセスは、私が観客席で見守る中、弥生賞をみごとに勝ってみせた。

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