さよなら、ヘイロー ~キングの母娘の物語~ 作:salierii
「…さあ、いよいよ本日の主役を紹介しましょう! 一番人気はこの子、8枠18番プリンセスヘイロー!!」
会場アナウンスの高らかな呼び声を受けて、装いも新たなプリンセスが威風堂々と皐月賞のパドックに現れた。
初披露の勝負服は、シックな色合いに抑えたくすんだピンクを基調に、真っ白な縁取りをあしらった、ロココ調のドレス。ふんわりと軽やかな曲線で構成される優美なフォルムに、キリッとしたコントラストのある伊達なカラーコーディネートを組み合わせたそのいで立ちは、「三銃士の仲間に(無理やり?)加わった勝気なお姫様」といったところだろうか。
私個人の好みからすると少々凝りすぎてる感じがするが(私はもっと統一感があってシンプルな方が好ましい)、娘本人の希望によく沿ってデザインして頂いたそうだから、感謝こそすれ文句をつける筋合いはない。なにせ、世界的な勝負服デザイナーである母が、自分が勝手にデザインした勝負服を孫に押し付けてくる事態を想定して、ずいぶんと気を揉んだのだから。
もしそうなったら徹底的に拒絶する覚悟だったが、母は何も言ってこなかったばかりか、今のところは連絡ひとつ寄こしていない。夫によると、「GⅠに出走するウマ娘は、予備に加えてウィニングライブ用にもう一着の勝負服を用意しておかなければならない」という例の馬鹿らしい規則案を、URAに認めさせる活動にまだご執心だという。
その規則が万一通れば母のブランドは従来の1.5倍の勝負服を売りつけることができるわけで、したたかな経営者の顔を持つ母らしい欲深い横やりだと世間では思われているが、娘の私に言わせると彼女の動機はたぶん、もっと単純なものだ。
あの人はきっと、自分が創った作品が汚れているのを目にするのが、ただ単に嫌なのだろう。自分がせっかく手掛けてやった勝負服なのに、雨や泥にまみれたままでステージに上がってほしくない。そんな傲慢で幼稚なことを、いくつになっても平然と口にして押し通そうとするのが、母という人なのだ。なんて、ばかばかしい。そんなにご自慢のお洋服を汚されたくなかったら、ヒトのファッションモデルでも相手にしていれば良いのに。
「あの子にぴったりの、いい勝負服だね。」
隣に立つ夫にそう話しかけられて、母への恨みつらみに沈んでいた私の意識がふっと現実に引き戻された。
「ピンクをあんなに堂々と着こなすウマ娘は、そうそういないんじゃないかな?」
「当然よ。なんたって、あのカワカミさんにそっくりなんだもの。」
我が子の晴れ姿を眺めながら、その想いを新たにする。まっすくでピンと張りのある髪に、ぱっちりと大きなつり目。よく似すぎててデジャヴを起こしそうだ。少し気味が悪いくらい。
「もっとも、カワカミさんの勝負服みたいなどピンクにしたいと言い出してたら、さすがに全力で止めたでしょうけど。」
「そいつは同感だな。」
そう言いあって、しばらく苦笑いを共有してから、夫は少しだけ真面目な顔になって、こんなことを言い出した。
「本当は…緑の勝負服を着てほしかったんじゃないかい?」
ほんの数秒だけ目を細くして夫を見つめてから、私はフンと鼻を鳴らした。
「全然? 勝負服っていうのは、そういうものじゃないでしょ? あなただって理解してるはずよ。」
「……。」
納得しつつも、どこかやり切れない表情で黙り込んでしまった彼に向って、私はわざと尊大な顔をつくってこう言い添えた。
「それに。緑の勝負服を着こなすには、もっと大人っぽくて優雅な顔だちでなきゃ。この私みたくね!」
「さすがキング。」
夫の即妙な合いの手に、私は「ふふふ」と声を立てて笑った。
人ごみの中にいるのでなければ、盛大に高笑いしていたところだ。
皐月賞は、もっとも"はやい"ウマ娘が勝つと言われている。
この"はやい"という言葉には様々な意味あいがこめられていると思うが、私なりの考えを述べるならば「早熟」という解釈がしっくりとくる。
その点で、プリンセスはまだ幼すぎたのかもしれない。
「おおっとプリンセスヘイロー、やや出遅れたか!?」
実況にそう指摘されるまでもなく、娘がスタートに失敗したのは明らかだった。経験したことのない大観衆の熱気に当てられたのか、真新しい勝負服で心が浮ついたのか。
だが、私はあの子を叱責する気には少しもなれない。初めてではなくとも、GⅠレースとは怖ろしい物なのだ。まだジュニア級の私がホープフルステークスで失敗をしでかさなかったのは、単純に幸運のたまものでしかなかった。
最後方に取り残された娘だったが、第1コーナーあたりでは、もう後方集団に追いついていた。もともと大外枠スタートだったせいもあり、そのまま豪快に外を回って集団の先頭に躍り出た。見る者の胸がすくような挽回っぷりだったが、弥生賞を走ったときと同じ位置を強引にでも取り戻そうという未熟な必死さが感じられて、私は不安で胸が締め付けられた。
「どうか焦らないで。」
声にならない祈りを呟いているうちに、あっという間に運命の大けやきが私の視界を遮っていた。
「大けやきを越えて第4コーナーへ! ここから勝負が決まるぞ!!」
実況が決まり文句を叫ぶなか、プリンセスがみるみると加速を始めていた。固まってコーナーを曲がる中団のど真ん中に、そのまま突っ込んでいく。私の血圧が少なくとも50は上がり、逆に体温は3度くらい下がった。自分だったら絶対にあんな無茶はやらない。
しかし、しつこいようだが彼女は私とは違うのだ。
「内を突いてプリンセスヘイローも来た!? バ群を貫く豪脚! 現在、3番手!!」
その度胸と勝負強さに、私は母親という立場も忘れて見惚れていた。狭いわずかな隙間を強引にこじ開けるような追い抜き。あの子が憧れるウオッカさんもきっと賞賛してくれるだろう。それも、コーナーの途中という難しい状況のただ中でだ。
彼女にも勝負の刹那に時折かいま見える、一筋の道が見えたのだろうか。それとも、考えなしの力任せか。どちらにしても、そのコーナリングはマエストロ級の鮮やかさだった。「姫のお通りですわよ!」というカワカミさんの決めゼリフが、脳裏によぎった。
「いよいよ最後の直線! 中山の直線は短いぞ! 後ろの子たちは大丈夫かッ!?」
実況の言う「後ろの子たち」には、3番手に抜け出したプリンセスも入っている。巧みに逃げを打って先頭をキープし続けている1番手と、その背中に肉薄している2番手。鍔迫り合いをするふたりと娘との差は、大きく5バ身は離れているのだ。
「行けっ!!」と、私はたまらず叫んだ。
そうする以外に、この心臓に悪い展開を直視していられる術がなかった。最終直線での末脚で差し切る! それが王道の勝ち方!!…だなんて、常日頃から高言していた現役時代の自分を引っぱたいてやりたくなっていた。
娘の逞しい脚が、中山の坂を駆け登る。パワフルなピッチ走法が、新緑に色づくターフを踏み越えていく。エリザベス女王杯でのカワカミさんを思わせる必死の猛追走が、ぐんぐんと後続を突き放してゆく。
だが、先頭との差はなかなか縮まらない。
「……が、粘って粘ってゴール! 2着は──」
結局、最終直線でその位置が変わらないまま、1番手が逃げ切って、2番手がクビ差の2着という結果だった。私はつい、1着の逃げウマ娘をもう少しのところで捉えきれなかった2着の子に2、3秒ほど視線を注いでしまってから、はっと我に返って娘の姿を探した。
3着に終わったプリンセスは、遠目から見ても明らかなほど、がっくりと肩を落としてしょげ返っていた。
自然な感情として、私も悔しい想いでいっぱいになった。この季節の中山レース場にはつきものである例の「グリーンベルト」のせいで、大外枠出走の差しウマ娘である娘には不利なレースだった。その不平等さえなければ、あの出遅れたスタートもこれほど痛手にならなかったのにと、プロにあるまじき身勝手な憤りを覚えた。
続いて、せめて直線があと200ⅿ長かったらと、埒もないことをつい思った。100ⅿでもいい。あの子の底知れぬ末脚をもう少し発揮できる距離があったら、私の娘はきっと、きっと皐月賞を…!
そこまで考えて、私はやっと冷静さを取り戻して、自分の愚かしさに苦笑した。これが、世にいう親バカという奴なのだろう。皐月賞は芝2,000ⅿの中距離レース。あれほど娘がマイル以上の距離を走ることに不安を覚えていたというのに、いまは手のひらを返してより長い距離を望んでるなんて、我ながら呆れて物が言えない。
結論──。娘は、よくがんばった。中距離でも立派に走れることを証明した。
それが本当に誇らしくて、カワカミさんにいますぐ電話して自慢してやりたくなっていた。
その夜。寮の部屋を訪ねると、娘は自分のベッドの中で、毛布を頭まで被ってうずくまっていた。
実際に目の前にすると、ひどく傷ついている我が子と向かい合うのが、やはり怖くなった。デビュー戦に続いて重賞レースも制して、己の才能に揺るぎない自信を持ちかけていた若きウマ娘が、初めて敗北の辛酸を味わった直後なのだから、母親でなくともどう接していいのか迷いを持つのは当然だ。
だけど、私は怯む気持ちをなんとか抑え込んだ
私には、彼女にかけてあげられる言葉があったからだ。
「ごめん。もうちょっとだけ、ひとりにして、〇〇ちゃん。」
私が毛布ごしに肩に触れると、かぼそい涙声で娘がそう言った。私をルームメイトだと思っている。
普段は勝気でお転婆なくせに、小さい時から悲しいことやつらい目に遭うとこうして強がりもせず、ありのままの弱い姿を曝け出す子だった。その素直な繊細さを、私は何よりも愛してきた。
「いいえ、私はどこにもいかないわ。」
「えっ…その声、まさかママ!?」
「ええ、ママよ。観念して、ちょっとだけ顔を見せてくれないかしら?」
「ヤだっ! 出てって!!」
強烈に拒絶されて、私は思いのほかショックを受けていた。自分にも他者にもなにかと手厳しい性格の私に、お小言を言われると思ったのだろうか。私としては、ひとり娘を過剰なほど甘やかしてるダメなママくらいの自己認識だったから、我が子に「顔も見たくない」ときっぱり言われると、正直こっちも泣きたくなってくる。
「…あっ、あのね、プリンセス? ママは別に、あなたのことを叱りに来たわけじゃないのよ?」
つい猫なで声になってそう宥めても、娘は強情に毛布で顔を覆い続けたまま、全身で拒絶をあらわにした。こういうところは、私の子らしい。いつもの素直さはどこに行ったのだろう?
「ちょっ、ちょっと、暴れないで! お願いだから、少しだけ話を…。」
「出てってってば! いくらトレーナーさんだからって、勝手に学生寮に入っちゃいけないんだよ!? 寮長に見つかったら、どーするのッ!?」
「あら、それは大丈夫。そのために、わざわざ昔の制服を引っ張り出してきて、ちゃーんと生徒に成りすまして来たんだもの。」
「はぁーっ!?」
思わず飛び起きて、母親の恰好をその目で確かめるプリンセス。
まんまと我が術中にはまった娘に対して、普段どおりのジャージにトレーナーキャップ姿の私がニンマリと笑いかける。
「うっ…ウソつき! オトナって汚い!!」
「そうね。ママは大人なうえにトレーナーだから、ウマ娘をだますのは得意なの。」
「最ッ低ー! あっち行って!!」
「いいえ。あなたが話を聞いてくれるまで、一歩も動かない。」
静かな口調に断固たる意志をこめて、私はそう答えた。
今夜、私は我が子を叱りに来たわけではないが、ただ甘やかしに来たのでもないのだ。
「……。」
多くのじゃじゃウマ娘を黙らせてきた私の気迫に、娘もさすがに口を閉じた。代わりに、ベッドの上でそっぽを向いて壁を見つめ出す。
その丸めた背中にそっと身を寄せて、私はしみじみと語り始めた。
「…あなたを見てるうちにね。ママ、昔のライバルのことを思い出したの。」
「……。」
「あなたと同じ差しウマ娘の、スペシャルウィークさんよ。」
「えっ、誰?」
今日で2回目のショックが、私を襲った。競技者でありながら、あのスペシャルウィークの名を知らないだなんて、映画ファンなのに『タイタニック』の頃のレオナルド・ディカプリオを知らないくらい、ありえない。本当に、私の現役時代については興味がないらしい。
あ然とする気をなんとか取り直して、私は話をつづけた。
「デビュー戦を圧勝して、そのまま弥生賞も1着。なのに、本番の皐月賞では3着に敗れた。」
「やめてよ、聞きたくない。わたしは…!」
「あなたじゃない。スペシャルウィークさんの話をしているの。」
自分とそっくりの戦績をたどったウマ娘がいたことに、現代っ子なプリンセスも興味を覚えたようだった。そんな気配とは裏腹に、なおも背を向けたままそっけない声を出す。
「…ふーん。じゃ、ママにも負けてるじゃん。」
あら。私が皐月賞で2着だった事実は、さすがに知っていたようだ。
「ママにも、ってどういう意味よ?」
「あ…ごめん。」
「急に、素直に謝らないで。余計に傷つくじゃない。」
「ママも傷つくこと、あるんだ。」
「あるわよ、そりゃ。あなたとおんなじよ。」
「……。」
また、プリンセスが黙った。
その沈黙を、私はゆっくりと共有した。
「その、スペシャルなんとかって人…強かったの?」
長い思案の後、娘がぽつりとそう尋ねてきた。
私には、その質問が来ることがあらかじめわかっていた。ウマ娘であれば、自分とつながりのある相手の強さを、知ろうとせずにはいられない。
「ええ。」と、万感の想いを胸に即答する。
「なんてったって、ダービーウマ娘だったんだもの。」
娘が息を飲んだのが、はっきりと伝わってきた。
熱い、熱い想いが彼女の胸に灯るのを感じて、私は我が子の背中を思うままに抱きしめたくなった。
だけど、若きウマ娘を導く者としての使命感が、私を立ち上がらせた。
「あなたも、次こそは頑張りなさい。」
それだけ言い残すと、私は静かに娘の部屋を出たのだ。
そんな、私の切なる想いに反して…。
日本ダービーに出走したプリンセスヘイローには、10着の大敗という運命が待っていた。