さよなら、ヘイロー ~キングの母娘の物語~   作:salierii

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第6章:菊花賞

 「会場の皆さま、長らくお待たせいたしました! 本日のメインレース、第○○回菊花賞の開幕です!!」

 遠くの方で、場内アナウンスが木霊している。

 かすかに耳に届くGⅠファンファーレと共に、京都レース場に詰めかけた10万人を超す大観衆が打ち鳴らす拍手が、秋晴れの空と大地を揺るがす。

 私は、がらんと人気のないパドックの立ち見段に、独りで座り込んでいる。

 怖かった。怖くて、どうしても会場に入れない。

 「もうレースが始まるよ?」

 その声に顔を上げると、夫が目の前に立っていた。

 「そろそろ覚悟を決めて、行こう。」

 「むり。」

 どんな苦境に立たされても絶対に口にしなかったその弱音が、ごく自然にこぼれおちていた。

 「無理でも行くんだ。ここで逃げてしまったら、きみは一生後悔するよ。さあ、立て。」

 夫の力強い腕に無理やり引っ張り上げられて、私はずるずると立たされた。

 「走るぞ、キング。今こそ、向き合うときだ。」

 それだけ言うと、彼は私の手をしっかり握りしめたまま、自分から走り出した。

 無様によろめきながら、私も夫にひきずられるままに脚を動かしていた。

 

 

 すし詰めで熱気に満ち満ちたスタンドを横目に、私たちはURA関係者用の貴賓室へ急いだ。

 私だけ部屋に押し込むと、夫は「僕は仕事があるから。」と早口に言い残してどこかに行ってしまった。

 レースは既に、中盤に差し掛かっていた。

 置き去りにされた私は、心細さで両手を固く握り合わせながら、ターフを走る娘を探した。

 実に5ヶ月ぶりに目にする彼女の姿は、なんと先頭集団の中ごろで見つかった。

 「ああ、早い! ペースが早いわ!!」

 ヒステリックに、そう叫んでしまった。まるで先行策のような前のめりの位置取り。これでは、ダービーのときと同じ轍を踏む。

 ハナを進んでいるのは、またしても、ひとりの逃げウマ娘。ただし、皐月賞で粘り勝ちをした子とは別人だった。皐月賞やダービーにはいなかったニューフェイス。この夏にめきめきと力をつけた、いわゆる「夏の上がりウマ娘」なのだろう。

 その子の強気な逃げのせいで、かなりハイペースな流れになっているようだった。縦長に間伸びしたウマ娘たちの列が、それを如実に表していた。終始ハイペースで走らされる3,000ⅿ。その苦しさは、想像に余りある地獄行だ。

 「淀の坂」のある第3コーナーを過ぎても、プリンセスは頑としてその位置を譲ろうとしなかった。いったんペースを緩めて息を入れる最後のタイミングを、みずから放棄していた。私は、ますます見ていられなくなった。「どうか怪我だけはしませんように」と、せめてもの願いを念じ始めていた。

 「第4コーナーカーブ。」

 「ここからスパート! 一気にレースが動きます!!」

 淡々とした実況と興奮気味の解説が好対比を作るなか、プリンセスが大きく外に飛び出して敢然と仕掛けた。早い。あなたには、早仕掛けすぎる。最終コーナーで仕掛けるのが癖になっているのだろうか。私の胸に、彼女のトレーナーへの非難が渦巻いた。

 緩やかな美しい円弧を描いて最外を走る娘の姿を、私は沈痛な気持ちで見守っていた。大外強襲はたしかに差しウマ娘の華だが、いっぱいになってそれを敢行するのは、ただの自殺行為だ。

 「さあ、最後の直線に入った。最初に飛び込んで来たのは…。」

 期待のニューフェイスだった。強気の逃げは、ここまで崩れなかった。彼女が死守してきたリードは、実に4バ身半。見覚えのある、嫌な展開だった。「異次元の逃亡者」というフレーズが、頭によぎった。

 「残り400。依然リードはそのまま。」

 誰しもが、単身で先頭を突き進む彼女に目を奪われていた。「今年は逃げウマ娘の当たり年」という感慨を胸に、10万人の大観衆とテレビカメラがその逃げ切り勝ちの瞬間を待っていた、そのとき──

 プリンセスの末脚が、爆発した。

 外ラチの傍、スタンドの眼前を通り過ぎる、桃色をした一発の弾丸。

 閃光と言うにはあまりにも猛々しく、稲妻と呼ぶにはあまりにもパワフルな疾駆。

 その抜群の"手ごたえ"に、冷え切っていた私の血液が沸騰した。それは驚愕ゆえの興奮だった。私の娘は、母親の心配など遥かに超えて冷静だったのだ。ずっと脚を溜めに溜めて、このときをじっと待っていた。それを可能にする膨大なスタミナを、隠し持っていた。

 たった5ヶ月見ない間に、私の娘はステイヤーに変貌していたのだ。

 「プリンセスヘイローが突っ込んできた。グングンと差を詰める。並ぶか。」

 狂乱のごとき大観衆の喝采の中でも、実況の声は冷静さを保っていた。

 次の瞬間に、こう叫ぶまでは。

 「いや並ばないッ!? 並ばないッ!! 一気に交わしたッ!!! 差が開くッ!?」

 "奇跡"を見ているようだった。

 我が子であることも忘れて、純粋に心を震わさせられる光景は、奇跡という他ない。

 「勝ったのは、プリンセスヘイローォォォ!! 菊の舞台でっ、みごとっ、姫が王座に返り咲いたぁぁぁ!!!」

 実況が、とっさの名調子をがなり立てているのを聞きながら…。

 私は、へなへなと椅子の上に座り込んでいた。

 

 

 「いやあ、素晴らしい差し切り勝ちでしたね、プリンセスヘイローさん。」

 娘の勝利者インタビューを、私はモニターで眺めている。

 「早くからの前めの先行策は、初の試みだったと思われますが、まさしく作戦勝ちといったところでしょうか?」

 「いえいえ。わたしは、そーいう細かいコトは気にしない性格ですので(会場、笑い)、ただ先頭を走るあの子のペースについて行くことだけ考えました。」

 我が子の堂々とした(おバカ丸出しの)発言を聞いて、私は苦笑しながらも「なるほどね」と呟いた。逃げウマ娘への対策は、経験上バッチリだったというわけだ。

 トレーナーの間では古くから「逃げウマ娘の背中を追う子は大成する」という格言が言い伝えられている。親の欲目かもしれないが、プリンセスはそれを実証して見せたのかもしれない。

 「かなりハイペースな3,000ⅿという苦しいレースになりました。スタミナに不安はありませんでしたか?」

 「はい。わたしってスピードもパワーも一流でしたから(会場、笑い)、スタミナもつけたら完ぺきじゃないかって思って、この夏はずっとそれだけ鍛えてました。」

 娘のあっけらかんとした物言いに、私は頭が痛くなってきた。そんな単純なハナシで済めば、トレーナーはいらない。

 「あなたのお母様もGⅠウマ娘でしたが…。」

 別の記者がそう切り込んで来たのが聞こえて、私は反射的に耳を尖らす。

 「娘として、お母様の雪辱を晴らした今のお気持ちを、お聞かせ下さい。」

 「愚問ですね。」

 食い気味なプリンセスの即答に、私は耳だけでなく目つきも尖らせた。

 「だって、わたしは菊花賞ウマ娘のプリンセスヘイロー。これから、あの人が『プリンセスヘイローの母』って呼ばれるようになるんですもの。」

 啖呵のようなその名ゼリフに、私はたまらず噴き出していた。なんとまあ、調子に乗った放言だろうか。

 大昔に、同じくらい調子に乗ったおバカさんが、似たようなセリフを口にしてたっけ。

 くすぐったいような感傷にふけってしばらく笑っていると、ノックの音がして私は後ろを振り返った。

 「きみに会いたいという人を連れてきたよ。」

 いつのまにか戻ってきていた夫が、そう言って招き入れたのは…。

 そう。お母様だったの。

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