さよなら、ヘイロー ~キングの母娘の物語~ 作:salierii
「…見に来ていたのね。」
感情がぐちゃぐちゃに乱れるあまり、私の第一声は自分でも意外なほど冷めていた。
「ええ。弥生賞から、ずっと見に来ていたわ。…孫娘ですもの。」
「私のときは一度も来てくれなかったのにッ!」
考える間もなく、私はそう叫んでいた。母のたったひと言が、私が積み重ねてきた20年近い年月を、あっけなく吹き飛ばしていた。
私の非難に、母は黙ってうつむき、顔を歪めた。
それは、娘に対する疚しさではなくて、自分自身を恥じている顔だった。
「…怖かったのよ。競技者になってしまった我が子と、正面から向き合うのが。」
「わかってるわよ、それくらい!!」
私は怒鳴り声を重ねた。今さら、という感じだった。
「自分とは似ても似つかない出来の悪い娘が、無様に敗けて苦しむのを見ていられなかったんでしょう!?」
「違うのよ、キング。あなたはしっかりと、わたくしの才能を受け継いでくれたわ。」
「はぁっ!?」
「もっと豊かな…より長い距離を走る才能をあげられなくて、ごめんなさい。」
「ふざけないでッ!!」
怒り心頭で、理性が真っ白に消し飛んでしまいそうだった。
「自分はGⅠを7勝もしておいて、それ嫌味!? ろくな結果を出せなかった私を、まだ貶めるつもり!?」
「いいえ!」
追い詰められた表情で、母がきっぱりとそう答えた。
後悔と決意がない交ぜになった凄惨な顔で、こんなことを言い出した。
「あなたは、最高のライバルたちに打ち勝った。わたくしにはできなかったことをやり遂げた。結局は、わたくしよりもあなたの方が強かったのよ。」
「…ヴィクトリーペインツさんと、プライベートフラッグさんに敗けたことを言ってるの?」
そのふたりのウマ娘は、母のライバルだった。スペシャルウィークさんのことも知らなかったプリンセスとは違って、私は母の現役時代について熟知している。
「泥まみれの死闘」と現在も讃えられる、1,800mのGⅠレース。当時、3強と並び称されていた母たちは、そこで初めて一堂に会した。それまでGI6勝を挙げていた母は、ライバルふたりと歴史的な激闘を繰り広げた末に、惜しくも3着に敗れたのだ。
そのレース映像を、私は数えきれないほど観ている。ちいさい頃から、誇りと感動で胸をいっぱいにして、何度も何度も。
「…わたくしね、あのレースではヴィッキーをやっつけることしか考えてなかったわ。」
遠い目をしながら、母が言った。
「以前に一度クビ差で勝っていたから、今度は1バ身以上の差をつけて、こちらが上だと思い知らせてやろうって。そんなことだけ考えながら、逃げるあの子の背中に食らいついていたのよ。そしたら…。」
最後の直線。残り3ハロンで、外から驚異的な末脚で上がって来たプライベートフラッグが、母とヴィクトリーペインツをまとめて撫で切った。
「彼女がわたくしのすぐ横を追い抜いていったときの感触を、今でも生々しく思い出すの。本当に…肩が触れそうなほど近かった。ぬかるみみたいな重バ場を、じりじりと加速していった。信じられなかった。ほんの数秒の出来事なのに、わたくしには永遠だった…。永遠の、苦痛だったの。」
まばたきもせずに追憶を語る、母の唇は震えていた。生まれて初めて聞かされる彼女の思い出話に、私もスペシャルウィークさんの恐るべき底力をまざまざと追体験していた。
そうか。だから母は、当時あんなにもスペシャルウィークさんの存在を意識していたんだ。
「プライベートフラッグさんの強さに打ちのめされたわたくしは、そのままヴィッキーにも追いつけず、惨めに敗北したのよ。」
母がそう話を締めくくった瞬間、私は激しくかぶりを振って力いっぱいに叫んだ。
「それが、なんだって言うのッ!? あれほどの名勝負を、お母様は立派に戦ってみせたんじゃない!? あれが、あなたのベストレースだったわ! いいや、私にとっても史上最高のレースなの! あのレースで、お母様は伝説のウマ娘のひとりになったのよ!!」
「ありがとう、キング。でも、わたくしにはそう呼ばれる資格なんてないの。」
「どうして!?」
「あの日以来、わたくしはライバルふたりとの対決を避けつづけたからよ。」
言葉を失った私の目をそっと見つめて、母の告白が始まった。
「それまでもそうだったけれど、周囲の期待を裏切るのが怖ろしくて、なんとしてでも負けられなくなっていたの。強い相手とレースで競うことから逃げるようになっていた。そして…GⅠの勝ち星をなんとか増やそうと焦っていたわ。GⅠ6冠と7冠の間には、大きな開きがあるのよ。7冠ウマ娘の名誉が欲しくて欲しくて、わたくしは……できるだけ強者が出ないGⅠを姑息に探しつづけた。」
「やめて。」
あえぐような私の制止の言葉を振り切って、母が告白を続けた。
「ヴィッキーとフラッグさんを、ひどく憎んだわ。どうして、あのふたりと同じ世代に生まれてしまったんだろう、あの子たちさえいなかったらこんなに苦しまずに済むのにって、彼女たちの不幸をひそかに願った。さあ、不調になれ、怪我をしろ、死んでしまえって!」
「やめてってば!!」
母がその場に泣き崩れたのは、私が悲鳴を上げたのと、ほぼ同時だった。
「わかったでしょう? わたくしの勝負服は、今でも泥まみれのままなのよ。」
泣きじゃくりながらも、そう語る母の口調ははっきりとしていた。
「着替える機会を、わたくし自身で手放してしまったの。」
「……。」
「ああ、ごめんなさい、キング。こんなに情けないママで、本当にごめんなさい。」
「……。」
足元にうずくまって涙を流しているかつての敵を見下ろしながら、私の感情は白々と冷めていた。
なんて。
なんて、か弱い人だったんだろう。
抱きしめてあげるべきだと思った。私がずっとずっと、そうして欲しかったように。
でも…。もう、遅すぎる。
「ばかな娘。」
「せいぜい勝ってみなさい。」
天皇賞・秋でスペシャルウィークさんとセイウンスカイさんにリベンジすると決意を告げたとき、お母様は私にそう言った。
あれは、どこまでもか弱いこの人が、必死に勇気を振り絞った末の言葉だったのだ。
いまさら理解しても、遅い。ばかな娘に、ばかな母親。
ああ、もっと早くに。
あなたのその弱さを、すべてさらけ出してくれていたら。
「お母様。」
仁王立ちのまま、私は足元の母へ結論を言い渡す。
「あなたに受けた仕打ちを、私はけっして許さない。どうしたって許せないわ。」
肩を震わせる彼女から視線をそらさず、私は次の言葉を投げつける。
「でも、今ならこれだけは言える。あなたみたいなへっぽこがお母様だったからこそ、私は強く…やさくしくなれたのよ。」
そうだ。
良いことも、悪いことも。
思い返せばすべてが、等しく必要な出来事だったと理解できる。
その悟りを胸に、私は過去を捨てて未来に進む決意を、この手に取り戻していた。
「さようなら、お母様。」
もはや泣いている以外に答える術を持たない母へ、私は静かに別れを告げた。
「いえ…。さようなら、ヘイローさん。私、そろそろ行くわ。大事な娘が待ってるから。」
「キング!」
追いすがろうとする母の老いた手を、私はやさしくほどいた。
「あなたにも、あなたが手掛ける勝負服を心待ちにしているウマ娘たちがいるでしょう?」
「……。」
「どうか、お元気で。」
…と、恰好つけてクールに貴賓室を後にしたのは良いけれど、捨て台詞どおりに愛娘のもとに飛んで行くかわりに、夕日を眺めながらぐずぐずと物思いにふけってしまう私がいた。
「なにを、ひとりで黄昏てるんだい?」
そう言って背後にぬっと現れたのは、もちろん夫だった。
「おう☆パンチ!」
振り向きざまに、愛と勇気の代わりにムカつきをこめた拳を、彼の脇腹に叩き込む。
「痛ッ!?」
「うるさい! おう☆パンチ!!」
2発目を放ってから、私は精いっぱい眉を吊り上げて怒鳴った。
「あなたってヒトは、ほんっと! 気性難のウマ娘の扱いがお上手ですこと!!」
「あ、あははは…。まあ? それほどのことは…あるかな。気難しいほど逆に可愛いんだ。逆にね。」
「おう☆パ~ンチッ!!」
「ぐえっ!? お、おい、待てキング! それ以上はシャレにならないって!!」
悲鳴をあげながらも、夫は果敢に私の一方的な暴行を受け止めてみせた。貧弱なヒト男にしては、なかなかの根性だ。
「あいたたたた…死ぬかと思った。きみもプリファイに入れるんじゃないか?」
「ふん。」
「おっと、おふざけはこれくらいにして…と。キングママは、どうしてプリンセスのところに行かないのかな?」
「いまや菊花賞ウマ娘さまだもの。一介の中堅トレーナーじゃ、畏れ多くて近寄れないわ。」
「おふざけはもうなしって言っただろ? まじめに。」
「…ねぇ、あなた覚えてる?」
夫の質問に答えずに、私は急に別の質問で切り返した。
「私が秋天に出ると伝えたときに、電話で母が言った言葉。」
「せいぜい勝ってみなさい。」
記憶を探るそぶりすら見せず、夫がそう即答した。
「あら。20年も昔のこと、よく覚えてるわね?」
「きみが忘れられないことを、僕が忘れるもんか。」
「へぇー…。でね? お母様のありがたいお言葉通りに私はちゃーんと勝ってみせたっていうのに、あの人、あれ以来いっさい電話を寄こさなくなったでしょ?」
「それをひとりで、思い出し怒りしてたのかい?」
「半分、正解。思い出してたけれど、怒ってたんじゃないの。なんというか、こう…しみじみと理解していたのよ。」
「ほう?」
「あの人はね、くやしかったのよ。自分が果たせなかったことを、私が成し遂げたから。嫉妬していたの。間違いないわ。」
「おや、ずいぶんと自信満々に言い切るね?」
「ええ。だって、今の私がおんなじ気持ちなんだから。」
菊の王冠を手にした娘の姿を目にしたとき、私が真っ先に感じたのは「なぜ、あの子ではなく私が、あの場にいないんだろう」という敗北感だった。
「同じ血が流れているのに、あの子だけ菊花賞を制する脚質を持ってただなんて、ずるくない?ってね。まず、そう思ってしまったの。…とんでもない母親でしょう?」
「ううん、自然なことだよ。」
「ええっ?」
「勝ちたい、という本能に逆らえるウマ娘はいない。常に、どんな相手に対しても競おうとする情熱が、きみたちウマ娘をなによりも美しくしているんだ。」
ひどくロマンティックな夫のスピーチに、私は苦々しく自嘲した。
「こんなオバさんになっても、まだウマ"娘"だなんてね。グロテスクだわ。」
「きみは、年を重ねるごとにどんどんキレイになってるけど?」
「おバカ。まじめにって言ったのは、誰だったかしら?」
「僕は本気なんだけどな…。じゃあ、まじめに言うとね? きみは、その正直な気持ちのままプリンセスに接したら良いんだよ。あの子はウマ娘なんだから、母親だってウマ娘らしくいるのが一番さ。」
「…なんだか、屁理屈っぽく聞こえるわね。レトリックを弄してるだけって感じがするんですけれど? 『ちょっとカッコいいコト、言ってやりましたー』みたいな?」
「真剣に言ったのに、ひどいなぁ。なら、もっと気取らずに言うよ? きみもプリンセスのライバルになってあげるんだ。」
「はい? ますます意味不明じゃない。」
「強敵の存在こそが、なによりも競技者を成長させる。そして、競い合うライバルってのは、多ければ多いほど良い。トレーナーだってのに、こんな基本的なことも知らないのかね、キングヘイローくん?」
「……。」
夫の先輩面は気にくわなかったけれど、彼の主張は一理ある。
プリンセスはもう、ただの子供ではない。トゥインクル・シリーズという過酷な戦場を走る、一人前の競技者だ。
現在の彼女が必要としているのは、娘を甘やかす母親ではなく、倒すに値する手強い敵なのかもしれない。
私はひそかに、夫の思慮深さに感謝した。彼の度量の広さにも。面と向かってはなかなか言えないが、私は10代の時から今に至るまでずっと彼に支えられてきた。
お母様も、彼のようなトレーナーがいてくれたら、少しは救われたのだろうか。
「…そうね。」
私はようやく夕日を眺めるのをやめて、向かうべき先へと足を踏み出す。
「あの子、菊花賞に勝ったくらいで、ずいぶんと調子に乗った口を利いてくれてたから、大先輩としてちょっとヘコませてやろうかしら?」
「そりゃ、いい。さっそく行こう!」
昔から盛り上げ上手な夫が、手を叩いて私の後に続く。
「あ、そうだ、キング。ちなみにね…。」
「うん?」
歩きながら彼の方を向いた私に、夫が容易ならないことを言った。
「きみのお母さんは、あの後も電話をくれたよ。僕に。」
「ふうん…。なんて言ってた?」
「『あの子はライバルにも、トレーナーさんにも恵まれたんですね』って。『これからもご迷惑をおかけしますが、あの子のことをよろしくお願いします』とも。」
私は、なにもかもが急に馬鹿らしくなってきて、大声で笑った。
なによ、あの人。
おバカな母親なくせして、いちばん肝心なことは、よーくわかってたんじゃない。